2014年マタイの福音書第13講

一番偉大な者

御言葉:マタイの福音書23:1-39
要 節:マタイの福音書23:11「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」

みなさんは、演劇『泥かぶら』(真山美保作・演出)をご存知ですか? 私は、まだその演劇を見ていません。先週、ある本を読みながらその存在を知って調べてみました。この作品は1952(昭和27)年の初演から国内外に7,000回以上も上演されており、一千万人以上の人が観ました。そこで、私は、そのストーリーを読みました。皆さんに紹介します。昔、ある村に顔の醜い少女がいました。孤児で、家もなく、森の落葉の中にもぐり、橋の下に寝る生活をしていました。子どもたちから「泥かぶら」と呼ばれていました。石を投げつけられ、唾を吐きかけられ、いじめられていました。ある日、彼女が「美しくなりたい!」と叫んでいるところへ旅のおじいさんが三つのことを教えてくださいます。「自分の顔を恥じないこと、いつもにっこりと笑っていること、人の身になって思うこと」です。彼女は、激しく心を動かされました。と言うのも、それらは、今までの自分と全く正反対の生き方だったからです。でも、おじいさんの言葉を信じた彼女はその通りに生き方を始めます。自分の顔を恥じないでニコニコしながら人のために働きました。しかし、急に態度が変わった泥かぶらを見て、村人は不審に思うばかりか、あざけり、ののしりました。ある時は友達の罪を着せられて何度も何度も鞭で叩かれ、ひどい言葉を浴びせられました。それでも泥かぶらは最後まで耐え忍びました。村人のために笑顔で献身的に働きました。次第に村人にとってかけがえのない存在になっていました。ところが、そんなある日、貧しさゆえに一人の少女が人買いに買われていく事件が起こりました。「泥かぶら」は身寄りのない自分が身代わりになることを申し出ました。そして村人やその少女の家族の止めるのもきかず、人買いに連れられて村を出て行きました。こうして、売られて行く泥かぶらと人買いとの都への旅が始まります。そんな時でも泥かぶらは、あのおじいさんの三つの言葉を忘れませんでした。ですから、旅の途中、毎日毎日、何を見ても素晴らしい、何を食べても美味しいと喜びました。どんな人に会っても、その人を楽しませようとします。そんな泥かぶらの姿に人買いは激しく心を揺さぶられます。ああ、自分のこれまでの生き様は何だったのか…。月の美しい夜でした。人買いは森の木に書き置きを残して消えて行きました。「私はなんてひどい仕事をしていたのだろう。お前のおかげで、私の体の中にあった仏の心が目覚めた。ありがとう。仏のように美しい子よ」とありました。泥かぶらはその時初めて、あのおじいさんが自分に示してくれた言葉の意味を悟り、涙するのです。山中の月の光の中でしみじみと語る「泥かぶら」の顔が美しく輝いていました。…というお話です。何があの泥かぶらをそんなに素晴らしく美しい人に変えたでしょうか。それは教えられた言葉を自分と闘って実行したからです。
今日の御言葉でイエス様は「教えるだけで、実行しない者」は偽善者(3)であることを教えておられます。さらに、イエス様は偽善者の罪を指摘され、「わざわいだ」と厳しく責めておられます。説教者にとって大変厳しいメッセージです。でも、避けられません。皆さんと共に主の教えを受け入れ、実行する人に変えられて行きたいと思います。私たち一人一人が本文の御言葉を通して一歩でも二歩でも一番偉大な者に近づいて行くことができるように祈ります。
1-3節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」とあります。律法学者、パリサイ人たちはモーセの座を占めていました。つまり、彼らはモーセを通して与えられた旧約聖書の律法をよく教えていました。教えの内容は正しかったのです。しかし、イエス様がご覧になると、彼らは自分たちの教えを実行していませんでした。彼らは建前では立派な聖書先生として聖書を教えていながら、実際の生活でそれとは違う行ないをしていたのです。だから、弟子たちは彼らの行ないをまねてはいけません。では、具体的に彼らのどのような点をまねてはいけませんか。
4-10節をご覧ください。彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしませんでした。実行することよりも見せることのために励んでいました。たとえば、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうでした。経札は、革製の小さな箱で、その中に申命記6:4-9などの聖句を書いた紙切れを入れたものです。本来は、このような経札を作り、身につけることによって経札を見るたびに御言葉を思い起こし、それを行なうためでした。ところが、彼らはそれを広くし、衣のふさを長くして人に見せるためのものにしていたのです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで先生と呼ばれることが好きでした。彼らは上座に座り、先生と呼ばれる人が偉いと思っていました。だから、彼らは偉いことはしないくせに偉そうにしていました。
それで、モーセの座を占めている彼らの教えが民たちに受け入れられませんでした。偉くもないのに、偉そうにしている人が何かを教えると、人々の反応はどうなるでしょうか。その教えさえも受け入れたくありません。むしろ「自分は守らないくせに何を教えていますか。」と言い返したくなるでしょう。でも、イエス様の弟子たちは教えている人の態度が良くなくても、その教えを受け入れなければなりません。彼らの言うことはみな、行ない、守らなければなりません。そのために本当に、謙遜な人にならなければなりません。謙遜になると、教える人の態度に関係なく、御言葉を受け入れることができます。そこで、イエス様は言われます。
11、12節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」とあります。偉大な人は多くのことを知っていて教える人ではなく、仕える人だということです。本当に偉大な人は経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりして偉そうにして高ぶる人ではなく、自分を低くする人です。そのようにへりくだっている人は、たとえ高ぶって教える人がいてもその人の行ないをまねることなく、その教えを行ない、守ります。先ほどの「泥かぶら」と呼ばれていた少女のように、旅のおじいさんからの教えであっても実行しようとします。高慢な人を見てつまずく人は、牧師や伝道者の欠点を少しでも発見すると、もはやその人の説教は聞こえなくなるでしょう。人の行ないを見ているので説教者を軽んじて聞こうとはしなくなるのです。学校でも、先生が嫌だからあの科目は好きじゃないという生徒がいます。そういう生徒は自分が損します。そうすると成長しなくなるでしょう。偉大な人になることはできません。しかし、仕える人、自分を低くしている人は誰からでも学びます。自分と闘いながら素晴らしい教えを実行して行きます。特にいのちの御言葉を心に刻み、牧師や先輩のクリスチャンの行ないにつまずきません。謙遜に教えられた御言葉を実行します。それによって成長します。一番偉大な人に成長して行きます。
イエス様は神様ですが、少年の時代から謙遜に学んでおられました。ルカ2章46,47節を見ると「イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるの見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」とあります。イエス様は同時の教師たちの行ないを見て判断するのではなく、その話を聞いたり質問したりしながら謙遜に学んだのです。また2章の51節には「両親に仕えられた」ことが記されてあります。イエス様は少年時代から両親に仕え、人々に仕える生涯を過ごされました。するとイエス様はますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神様と人とに愛されました(ルカ2:52)。使徒パウロが記しているとおりに、イエス様は「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:7-9)」イエス様はご自分を低くする謙遜と仕える生活を通して最も偉大な人生を過ごされたのです。ですから、私たちもへりくだって人に仕える模範を示してくださったイエス様のように生きる生活が求められています。イエス様のように、自分を低くして人々に仕える生活をしなければならないのです。そうする時に私たちは成長して偉大な人生を生きることができます。
しかし、立派なことを教えても自分はその教えを行ない、守ることがなければどうなりますか。リーダーには自分の行ないに対する責任がもっと重いでしょう。そこでイエス様は当時の宗教指導者であった律法学者やパリサイ人たち」に向かって厳しく言われました。何度も「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」と言って彼らを警告して言われました。
13‐36節では、イエス様が何度も繰り返して「わざわいだ。」と責めておられます。その理由は何でしょうか。
第一に、彼らは天の御国をさえぎっていたからです。律法学者、パリサイ人たちは人々を天の御国に導く責任を持っている人々です。ところが、彼らは御国に自分もはいらず、はいろうとしている人々をも入らせませんでした。それは彼らが自分たちも行わない律法を人に押し付けていたからです。
第二に、彼らは哀れなやもめの家を食いつぶしていたからです。そうしながらも見えのために長い祈りをしていました。そうして、哀れな人の献金をむさぼっていました。こういう偽善のために彼らは人一倍ひどい罰を受けます。
第三に、彼らは熱心に異邦人に伝道しましたが、それは改宗者を自分より倍も悪いゲヘナの子にしていたからです。改宗者は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのです。
第四に、彼らは神殿より黄金を、祭壇より供え物を尊んでいたからです。イエス様は黄金より神殿を、供え物より祭壇を尊ばれるお方です。何よりもイエス様は、神様ご自身を尊ばれました。神様ご自身を忘れるなら、神殿も祭壇も、まして黄金も供え物も、その意味を全く失うことになるからです。そこでイエス様はお金を愛している彼らを「愚かで、目の見えぬ人たち」だと言われました。
第五に、彼らは律法の精神を捨てたからです。十分の一のささげ物は、地の産物や家畜の十分の一を聖別して神様にささげる制度です。神殿で奉仕する祭司やレビ人の生活を支え、貧しい人々に施すために用いられました。パリサイ人たちも、モーセの律法が命じていない「はっか、いのんど、クミンなど」の庭の草類まで、その十分の一をささげるように教えていました。それによって、律法をよく守っていることを誇りました。しかし、彼らは律法の目的であるはるかに重要なものを忘れていました。つまり、正義もあわれみも、誠実もおろそかにしていたのです。それはちょうど、「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいる」ようなものです(24)。ぶよは汚れた虫で、それが体内に入らないように、彼らは布でこしてぶどう酒を飲みました。形式的にはきよい心に汚れが満ちていたのです。
第六に、彼らの外側と内側が違っていたからです。彼らは人の評判を気にしていたから表面的にはよく信仰生活をしているように見えました。しかし、内側はお金と権力と名誉に対する貪欲と淫乱な考えでいっぱいでした。このように、外側と内側が違い、建前と本音が違う生活からさまざまな問題が生じていました。
第七に、彼らは外側では正しいと見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいになっていたからです。彼らは内側がきたないので、それだけ外側をきれいに見せようとしたのです。
第八に、彼らは神様が遣わされた人々を迫害していたからです。彼らは「預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言っていました。しかし、彼らの心も先祖と同じように反逆に満ちていました。その証拠に、彼らは今、預言者たちが預言した通りに神様が遣わされたメシヤを拒否し、殺そうとしています。そうさせたのは、まさに彼らの偽善の罪でした。こうして彼らは先祖の罪の目盛りの不足分を満たしていました(32)。

以上を通してみると、偽善の罪が何度も指摘されています。それは、神様を無視していることの現われだからです。偽善の罪は、神様を神様として信じない態度です。ゲヘナの刑罰を逃れることができません。だからイエス様は、「わざわいが来ますぞ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と繰り返し言われたのです。それにかかわらず彼らが悔い改めなければどうなりますか。
33-36節をご覧ください。イエス様は、彼らに対する審判を告げられます。彼らは先祖と同じく迫害の罪を犯し、ゲヘナの刑罰を逃れることができなくなります。こうして旧約聖書の初めから終わりまでの「地上で流されるすべての正しい血の報復」が彼らの上に臨むのです(35)。最初から最後まで義人を迫害したイスラエルの歴史は、その罪の目盛りがこの時代に満たされ、エルサレム滅亡の悲劇的結末を見ます。これらのことを思われるイエス様のお心はどうだったのでしょうか。
37-39節をご覧ください。イエス様は「ああ、エルサレム、エルサレム」と、涙の叫びを発せられます。イエス様はエルサレムを見捨てることなく、めんどりがひなを翼の下に集めるように、幾たびも集めようとされました。イエス様は深い愛を持って最後の最後までエルサレムの人々を守ろうとされたのです。

結論的にイエス様は律法学者、パリサイ人たちの偽善を咎められました。それほど、神様は真実に生きることを願っておられるということでしょう。神様は真実に、謙遜に御言葉を実行することを望んでおられます。もし、自分も知らずに偽善者になっているなら、真実に自分の罪を悔い改めることを願われます。私たちが謙遜になって自分の罪を悔い改めることによって心をきよめることができるように祈ります。律法学者やパリサイ人のような宗教指導者たちの行ないの良し悪しを問う前に、御言葉を聞いて行なう生活ができるように祈ります。マザーテレサが言われました。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかも知れないが、この一滴なしに大海は成り立たないのですよ。」さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つ一つに、大きな愛をこめることはできます。」どうか私たちがイエス様の教えを謙遜に受け入れ、小さなことの一つでも実行して仕える生活に励むことができるように祈ります。そうしているうちに一番偉大な人に成長し、キリストの御姿にまで変えられて行きますように祈ります。