2014年マタイの福音書第14講 

大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様

御言葉:マタイの福音書24章1-51  
要 節:24章30そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

先週、私たちはイエス様が偽善の律法学者、パリサイ人の罪に対して警告し、彼らの罪のゆえに滅亡するエルサレムのことで「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたことを学びました。ところが、イエス様の弟子たちは、あのエルサレムにある宮を見てその表面的な素晴らしさに感嘆しました。イエス様は内側、目に見えないところをご覧になりましたが、弟子たちは外側だけを見たからです。そこで、イエス様はそのような宮も崩れてしまうと言われました。それから、イエス様が終末と再臨に関する説教をしてくださいました。「オリーブ山の説教」と呼ばれていますが共観福音書の中で一番長い説教です。ここで、私たちは私たちクリスチャンが持つべき生き方について学ぶことができます。

1節をご覧ください。「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」とあります。マルコの記録によると、弟子のひとりがイエス様に「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう(13:1)。」と言いました。事実、この宮に使われていたみごとな石は、高さ2メートル、幅3メートル、長さ20メートルもある巨大な石でした。また、そのような石でつくられた宮の建物は金箔でも覆われていてまさに素晴らしい建物でした。ところが、イエス様は何と言われましたか。
2節をご覧ください。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とあります。イエス様は断固として、宮が破壊されることを予告されました。事実、エルサレムの宮だけではなく、目に見える地上のものは朽ちるものであり、消えて行くものです。人々は弟子たちのように目に見えるものに執着し、「目に見えるもの」に惚れてしまいますが、永遠に残るのは「見えないもの」なのです。
天の御国、父なる神様、主イエス・キリスト、永遠の栄光、信仰、愛、望みなどのように最も大切なものは見えないものです。親子関係、夫婦関係、師弟関係など人間関係も目に見えないですがとても大切です。何よりも、私たちクリスチャンにとって大切なのは神様との親密な関係です。私たちはそういうものにこそ、目を留め、それらを大切にする価値観を持たなければなりません。?コリント4章18節を見ると、使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言いました。ところが、イエス様の弟子たちは、まだ、霊的価値観がはっきりしていなかったようです。イエス様が偽善の律法学者、パリサイ人たちを叱責し、「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたにもかかわらず、宮の美しさだけに目をみはっていたからです。彼らにとって宮の破壊を予告されたイエス様の言葉はなかなか理解できませんでした。そこで、弟子たちは、イエス様がオリーブ山ですわっておられると、ひそかに「お話ください。いつ、そのようなことが起こるでしょうか。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と質問しました。それに対してイエス様は答えて言われました。それが「オリーブ山の説教」と呼ばれている本文の御言葉です。この時間、その説教を三つのポイントに分けて皆さんと分かち合いたいと思います。

第一に人に惑わされないように気をつけることです。
4,5節をご覧ください。「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。世界には「私こそキリストだ」と名乗る人々が多くいます。日本の新宗教の教祖が数多くいますが、その信者人口は何と3542万人もいます(別冊宝島2130)。宗教的混乱が起こっているのです。
恥かしいことですが、先週、私はある宗教団体の人の話に惑わされてしまいました。韓国の歴史講演会のために来たと言いながら著者が30年間も資料を集め、研究し続けて書いた歴史の本だから、韓国ではよく知られていますが海外同胞にも知らせるために来たといました。それから、この貴重な本を無料で寄付しますので図書館に置いてくださいと頼みました。私は韓国のルーツを教えるためにいい本だと思って受け取りました。でも、彼らの話があまりにもうまかったので韓国から来たばかりの先生たちに確認してみました。全然知らないと言われました。そのうちに、「ズンサンドウ」という宗教団体のものであることがわかりました。私は瞬間的に惑わされていたのです。幸いに彼らの正体が分かったのでその本を生徒たちに配らずに捨てることができました。私たちはこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。

第二に、戦争や自然災害、苦しみがあっても最後まで耐え忍ぶことです。
6,7節をご覧ください。「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」とあります。戦争のことや、戦争のうわさは毎日のように聞こえています。特に韓国は休戦中なので戦争の話を聞いてあわてている人も多くいます。ところが、2013年12月現在で、世界に広がる紛争の数は40以上あると言われました。その紛争地域に暮らす人々の数はなんと23億人を超えると言われています。これは世界の三分の一の人々がなんらかの紛争の影響下に暮らしていることを意味しています。世界の飢餓人口は8億500万人で9人に1人が飢餓に苦しんでいます(国連食糧農業機関(FAO))。「地震」のような自然災害は私たちも身近に経験しています。今年も日本では御嶽山噴火がありました。死者数も雲仙・普賢岳の43人を超え、戦後最悪の57人となりました。ところが、自然災害の中で活火山だけでも世界中に1500ほどあります。日本だけでも110か所があって47か所には監視・観測体制ができているほどです。この地球は、後どれだけ私たちが住むことができるでしょうか。本当に心配される状況です。このような状況の中で私たち人間が直面するのは苦しみです。
8、9節をご覧ください。「 しかし、そのようなことはみな、生みの苦しみの始めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」 とあります。キリストの弟子たちは苦しみに会うことだけではなく、殺されることもあると言うことです。こういう迫害が日本でもありましたし、今もイスラム教の国々では多くの宣教師たちが苦しみに会い、殺されています。そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。人は互いに愛し合う存在なのに互いに裏切り、憎み合います。にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人々の愛は冷たくなります。このような時に、クリスチャンが持つべき態度は何でしょうか。
12、13節をご一緒に読んでみましょう。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。/しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」。互いに愛し合っているところでは愛することがそれほど難しくありませんが、人たちの愛が冷たくなっている所でキリストの愛を実践することは難しいです。人間関係において愛が冷たくなっている現実はとても辛いしょう。しかも、キリストの愛を証しすればするほど、かえって憎まれることになるとどんなに辛くなるでしょうか。聖書を教えながら愛し続けても分かってくれないし、むしろそれが誤解されて傷付けられるときはほんとうに悲しくなります。さらに、自分のことえもうまく行かないような時には本当に苦しくなります。何もかも放棄したくなるかも知れません。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。「最後まで」と言われているということは、「最後がある」ということです。迫害は終わりがあります。苦しみにも必ず最後があります。だから「耐え忍ぶこと」もできます。(隣の方と挨拶しましょう。最後まで耐え忍ぶ者は救われます。)。では私たちが最後まで耐え忍びながら励むべきことは何でしょうか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」ここで、私たちは終わりの日が来るまで励むべきことが何かを学ぶことができます。それは言うまでもなく全世界に福音を宣べ伝えることです。終わりの日まで励むべきことは全世界に福音を宣べ伝える世界宣教なのです。キリストが再臨されてからは福音を宣べ伝えなくてもいいです。ただ、その日までは全世界に福音を宣べ伝えて行きます。それから、イエス・キリストが再び来られる勝利の日、喜びと感激の日を待ち望むのです。その日の望みがあるからこそ、福音を宣べ伝える伝道、1:1聖書勉強に励むことができます。

第三に、イエス・キリストの再臨を待ち望むことです。
15節をご覧ください。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」とあります。このダニエルの預言はルカの福音書にもっと分かりやすく「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら(21:20)」と言い換えています。そして歴史的にローマ軍の包囲によって実現しました。イエス様はその時には「山へ逃げなさい。」と言われましたがそれを知っていたクリスチャンたちはその通りにしたので助かりました。しかし、歴史家ヨセフォスによると、一人の偽預言者が「神殿に上れば助かる」と言ったことを聞いて惑わされた人々は山に逃げなかったために皆死んだそうです。ですから、私たちはイエス様の御言葉をよく覚えていて惑わされないように気をつけなければなりません。終末に現われるにせ預言者達は大きなしるしや不思議なことをして見せるので惑わされやすいです。しかし、そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。なぜでしょうか。イエス様はすべての人が分かるように来られるからです。
27〜29節をご覧ください。イエス・キリストが来られる時は、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来られます。太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。だから、「キリストがここにいる」「そこにいる」と言われなくてもその日はキリストの再臨が分かるのです。
30節をご一緒に読んで見ましょう。「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」再び来られるイエス様は輝かしい栄光の姿で来られます。その時、なぜ「地上のあらゆる種族は、悲しみながら」キリストを仰ぎ見るのでしょうか。それは再臨の時には、あらゆる人々が神の子であるイエス・キリストを十字架につけて死なせた罪深さを知るからです。その時、キリストが救い主であることが全世界に明らかにされます。神様の主権が全地に表わされます。そのとき、主は、神様を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです(?テサロニケ1:8,9)。しかし、クリスチャンにとってその日は勝利の日であり、喜びと感激の日です。
31節をご覧ください。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使い達は、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。その時、いのちの書に名前が記されている人々の名前が呼ばれます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私達が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。これは主にお会いする大きな祝福です。
今、私たちは鏡にうつすようにぼんやり映るものを見ていますが、その時には、顔と顔を合わせて見ることになります(?コリント13:12)。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります(?テサロニケ4:17)。 現在、私たちは主との親しい交わりに日々あずかっています。夜明けの祈りの時間から主との交わりを始め、生活の中で主と交わりができることは大きな祝福です。しかし、私たちの肉のゆえに、主との交わりに限界があります。けれども、その時には、本当に親しく交わることができるのです。それだけではありません。私たちは私たちより先に召された方々にお会いするのです。どのような状況であるかは分かりません。ただ、その時、私たちに天上のからだが与えられ、誰であるかがわかるようにされて、なつかしい方々との再会ができるのです。また、その時、私たちはキリストに似た者に変えられます(?ヨハネ3:2、3)。パウロは、それを「天上のからだ」「栄光のからだ」と呼んでいます(?コリント15:51-53)。
ですから、選びの民であるキリスト者にとって、イエス様の再臨は、究極的な救いが実現する待望の時であり、喜びの時であり、勝利の時です。この望みは私たちを失望させることがありません。この望みがある時、私たちはどんな苦難の中でも失望することがありません。
従って私たちはその日を待ち望みながら生活をしなければなりません。特に今はいろいろな前兆を通してその日が近づいて来たことが分かります。
32,33節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とあります。この御言葉はイエス様が今まで教えられた終末の前兆を見たら、終末が近づいていると知るべきだということです。ところが、私たちはイエス様の預言の御言葉が一言も間違いなく成就されることを経験しているのです。だからこそイエス様の再臨も確かなものです。
35節をご覧ください。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあります。イエス様は終末の預言が御言葉のとおりに成就することを強調されました。私たちは確かにキリストが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。従ってどのように生きるべきでしょうか。
42〜44節をご覧ください。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。
ここで、大切なことは「目を覚ましていなさい。」「用心していなさい。」と言うことです。事実、私たちが目を覚ましていなければ惑わされてしまいます。最後まで耐え忍ぶこともできなくなってしまいます。キリストの再臨を待ち望むこともできなくなってしまうでしょう。従って、私たちはいつでも主を迎えることができるように目を覚ましていなければなりません。それでは目を覚ましているということはどのようにすることでしょうか。
45〜51節をご覧ください。忠実な思慮深いしもべにならなければなりません。忠実な思慮深いしもべは主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えます。主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。このしもべの立場はすべてのキリスト者に当てはまります。すべてのキリスト者は、主からの賜物を与えられて、その管理を任されているからです。私たちは忠実な思慮深いしもべとして、主から任された努めを全うする生活に励まなければなりません。主は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と誉めて下さるでしょう。私達が忠実な思慮深いしもべたちになるように祈ります。

 結論、神様は歴史の主管者です。神様が旧約聖書に示してくださったすべての預言、約束の御言葉は新約時代に実現されています。さらに、聖書に預言されたとおりにメシアとして来られたイエス様の御言葉も実現されて来ました。キリストの預言のとおりにこの時代には多くの終末の前兆が起こっています。それほどイエス様が再び来られる時が近づいていることになります。こういう時だからこそ、霊的な価値観、キリストの再臨への望みを新たにして行きますように祈ります。もし、今の苦しみが大変であっても最後まで耐え忍び、主のわざに忠実な思慮深い者として生きるように祈ります。