2015年使徒の働き第3講
イエス様によって与えられた信仰
御言葉:使徒の働き3:1-26
要 節:使徒の働き3:16そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
先週、私たちは聖霊の臨在によって形成された最初の教会について学びました。聖徒たちは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そのような素晴らしい教会だったので主も毎日救われる人々に加えてくださいました。それだけではありません。この教会は使徒たちによってナザレ人イエス様が行なわれた力あるわざと不思議としるし、つまり奇跡が行なわれるようになります。
今日はその一つの奇跡を学びます。聖霊によって私たちの間に住まわれるイエス様は使徒たちを通して奇跡を行なわれました。足のなえた人を立たせ、歩かせました。40年間も歩けなかった人が立って歩けるようになったのです。どのようにしてそういういのちのみわざが起こったでしょうか。御言葉を通してイエス・キリストの御名の力、イエス・キリストによって与えられる信仰の力を学びたいと思います。そしてその御名によって癒され、救われた人の人生がどうなるかも学びたいと思います。どうか、主が御言葉を通して私たちの信仰を新たにしてくださいますように。私たちもあの使徒たちのように主が聖霊によってなさる力あるわざと不思議なわざに用いられますように祈ります。
?. ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(3:1ー11)
1-3節をご覧ください。ある日の午後、ペテロとヨハネは宮に上って行きました。午後三時の祈りをするためです。ユダヤ人には朝の9時とお昼の正午、そして午後3時と、一日に三回祈りをしていました。ペテロとヨハネは、この定まった時間に祈りをしていたことが分かります。毎日、朝に祈ることは難しくありません。毎日夜祈ることもそれほど難しくありません。毎晩寝る前に祈ることができます。しかし、毎日午後3時に祈ることは難しいです。私は正午12時に祈ろうと決断して闘争したことがあります。ところがなかなかできませんでした。特に決まった場所で祈ることはほんとうに難しいと思います。特にペテロとヨハネは、一度に三千人の人たちが救われてかなり忙しかったと思います。それでも彼らは祈りの時間に、祈りの場所に行って祈っていたのです。どんなに忙しくても祈りを第一にしていたことが分かります。ダニエル書を見ると、ダニエルはいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していました(6:10)。私たちも一日一度でも祈りの時間、祈りの場所を決めてそれを守ることができるように祈ります。
祈りをするために宮に上って行ったペテロとヨハネは、もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました。この男はいつも、宮の「美しの門」のそばに置いてもらい、宮に入る人たちから施しを受けていたのです。ふたりが前を通り過ぎようとすると男は、「だんなさま。どうぞお恵みを」と施しを求めました。ペテロとヨハネはこのような足のきかない人をどのように助けましたか。
4節をご覧ください。ペテロは、ヨハネは立ち止まり、男をじっと見つめました。それは彼に何が一番必要なのかを知るためだったでしょう。彼らは何も考えずに10円、100円を投げて行くのではなく、足のなえた人を憐れむ心から彼を正しく助けようとしたのです。そこで、ペテロとヨハネは彼に「私たちを見なさい。」と言いました。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。ところが、ペテロは全く意外なことを言いました。
6節をご一緒に読んでみましょう。「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って」とあります。ペテロはそういって彼の右手を取って立たせました。すると男は、驚いたことに足も、くるぶしもたちまち強くなり、しっかりと立ち上がったのです。そして、すたすた歩き始めました。ペテロとヨハネが宮に入ると、彼は跳んだり、はねたりして、神様を賛美しながらついて来ました。
ここで私たちは、人を助ける方法とイエス・キリストの御名の力について学ぶことができると思います。私たちクリスチャンはキリストの愛のゆえに人を助ける生活をしなければなりません。特に、牧者や宣教師は聖書勉強を通して人を助けます。親も子どもを助けなければなりません。だれかを助けることはほんとうに素晴らしいと思います。私は牧者として、宣教師として、職場では教師として何とか人を助けようと考えて来ました。4人の父親としてもどのように助けようかと考えて来ました。そのうちに、ほんとうに生きがいを感じる時が多くあります。私はちょっとだけ助けたので助けたかも忘れているのに、「ほんとうにその時は助かりました。」と言われる時はほんとうに嬉しいです。ところが、人を助けることはやさしくありません。助ける側は善良な心を持って助けますが、相手は誤解して受け入れる場合もあります。自分の子どもでさえ、助ける親の心を誤解してしまう場合があるでしょう。誠意を尽くしてアドバイスをしたつもりなのに「あなたのせいでもっと悪くなったよ。」と言われる場合もあるでしょう。では正しく助けることがどうすることでしょうか。それは助けようとする人の状態を知って共感し、同情することです。足なえの人に必要なのは金銀でした。表面的に見ると、誰が見てもそのように見えたことでしょう。ペテロは彼をじっと見つめているうちに、彼の状態を把握しました。もし、自分に金銀があって100円でも、1000円でもあげたら、一時的には助かるでしょう。でも、明日も、明後日も、しあさっても物乞いをしなければなりません。それを思うと、ペテロははらわたが痛むほど深く同情しました。彼はイエス様が38年間も病気だった人を見て深く同情して「よくなりたいか。」と言われたことを思いだしたかも知れません。そして、イエス様はなら、この人をもっと深く同情し、助けてくださると信じたでしょう。そこで、彼はイエス様によって与えられた信仰によってイエス・キリストの御名を信じるように助けたのです。これこそ、人を正しく根本的に助ける方法です。人の痛み、悩みに共感し、深く同情してイエス様を信じるように助けることです。イエス・キリストの御名によって生きるように助けるのです。それこそが永遠に残る助けです。天国に行けば、イエス・キリストの御名によって生きるように助けた人々が一番輝いていることでしょう。そして、この助け方はクリスチャンなら誰でもできます。クリスチャンなら、イエス・キリストの御名によって救われているし、イエス・来リスの御名によってささげる祈りの体験をしているからです。もちろん、私たちが経済的に精神的に助けることも素晴らしいことです。ただ、それはイエス・キリストの御名に生きる人生につながらないなら一時的なものにすぎないでしょう。ペテロには金銀はありませんでした。しかし、彼にあるものがありました。それはイエス・キリストの名です。彼はナザレのイエス・キリストの御名によって彼に信仰を植え付け、信仰によって歩くように助けました。どうか、私たちも私たちにあるもの、イエス・キリストの御名によって人々を助けて行くことができるように祈ります。
二つ目はイエス・キリストの御名の力について学ぶことができます。第一に、イエス・キリストの御名には人を癒す力があります。ペテロが「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。ところが、ペテロは彼に一円もあげませんでした。実際には彼には金銀だけではなくお金もなかったかも知れません。しかし、ペテロにはイエス・キリストの御名を信じる信仰がありました。そこで彼は「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足もくるぶしも強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。40年間一度も立ったことがない人が立つことだけでも奇跡なのに、膝を伸ばして飛び上がったのです。これは紛れもない奇跡的な癒しです。ペテロは16節で「完全なからだにした」と言っています。イエス・キリストの御名には肉体の癒し、それも完全な癒しがあるのです。私はこのイエス・キリストの御名による癒しの力を信じています。ヤコブ5章14,15節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあります。ほんとうにその通りです。私自身が体験して来ました。これからはオリーブ油も備えていて病気の人に塗って祈ることもしたいと思っています。でも、大事なのは信仰による祈りです。私たちがイエス・キリストの御名によって、信じて祈ると、神様が働いてくださいます。
第二に、イエス・キリストの御名には人を救う力があります。8,9節を見ると癒された男は神様を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行きました。人々はみな、彼が歩きながら、神様を賛美しているのを見ました。彼のたましいが救われていたのです。おそらく、40歳になっていた男の人は美し門の前にすわっていて多くの人々から助けられていたと思います。慰めの言葉も聞いていたでしょう。しかし、そうした彼らの施しと慰めが彼を救うことはできませんでした。ただ、イエス・キリストの御名が、この男の人を救うことができたのです。ペテロは人を救う力の源がイエス・キリストの名にあることの確認ができたでしょう。
ほんとうに、イエス・キリストこそ、神様が私たち人類に与えてくださった最も素晴らしい賜物です。なぜなら、このイエス・キリストによって私たちは救われて永遠のいのちを持つことができるからです。今あるすべてを失っても、イエス・キリストの御名を信じているなら、私たちはほんとうの満足を得ることができます。険しい世の中で私たちは傷つけられ、病気にかかって悩み、苦しむ時もあります。その状態から救えるのは、金銀でも、お金でも、政治でもありません。この世のいかなる組織や団体でもありません。ただ、イエス・キリストの御名によって救われます。私たち自身がイエス・キリストの御名によって救われていますし、イエス・キリストの御名によって祈りながら救いを体験し続けています。そして、私たちに与えられている使命とは、このイエス・キリストの御名によって人々を救いに導いて行くことです。ペテロとヨハネのように、人々にイエス・キリストを伝え、イエス・キリストの御名によって救われるように助けることです。そうしてイエス・キリストの御名によって生まれつき足なえが癒され、救われる素晴らしいみわざを体験して行くことです。ペテロの信仰によってペテロだけではなく、そこにいる人々も素晴らしい奇跡を体験することができました。足のきかない男が歩きがなら、神様を賛美しているのを見た人々はみな非常に驚いて、ソロモンの廊という回廊に、やって来ました。ペテロはその時に何をしましたか。彼はこの機会を利用して自分の栄光を現わすこともできました。しかし彼は、集まって来た民達の関心を誰に向かせましたか。
12-15節をご覧ください。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」ペテロは集まって来た民達の関心をイエス様に向かせました。
16節をご一緒に読んでみましょう。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」信仰が単なる知識にとどまってしまい、実際の生活の上で力になっていないことが多くあります。イエス・キリストの名によって、歩くとき、今まで味わうことも見ることもできなかった神様の福音によって、躍り上がって喜び賛美する生活へと変えられて行くのです。イエス様の名を信じる信仰がなければ、イエス様の名も私達の内に力を発揮しません。私達が人に頼り、金銭に頼っている間は、イエス様が来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできません。私達が、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きて行く時、祝福にあずかる生活に生きる者となります。私たちがナザレのイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生、力ある主のしもべとしての人生を送ることができるように祈ります。
19節をご覧ください。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」ペテロのメッセージを聞いて男だけ五千人が悔い改めてイエス様を信じました(4:4)。彼がナザレのイエス・キリストの御名の力に頼って大胆に悔い改めのメッセージを伝えた時、多くの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることが出来ました。しかし、イエス・キリストの御名を信じず、悔い改めなければどうなりますか。
22、23節をご覧ください。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」とあります。これは申命記18章15節からの引用です。モーセのような預言者というのは、モーセのように神様と親しい特別な関係にある預言者ということです。この預言者がイエス・キリストです。申命記で預言しゃれていたメシヤ的預言は、イエス・キリストのよって成就したのです。ですから、イエス・キリストに聞き従わない者はだれでも、民の中から滅び絶やされるのです。では、イエス・キリストを受け入れ、信じる人々の生活はどうなりますか。
結論として25、26節をご覧ください。「あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」とあります。ペテロは自分の民たちに「あなたがたはほんとうに祝福された民です。あなたがたは預言者たちの子孫です。アブラハムの子孫です。モーセとダビデとアブラハムにすべての約束がまさにあなたがたのものなのです」と言っています。
神様はアブラハムに「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束してくださいました。この祝福がイエス・キリストによって私たちにも与えられるのです。アブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」と約束されたことがそのまま私にも適用されます。誰かが私を祝福するなら、彼も祝福されます。しかし、だれかが私を呪うなら彼は呪われます。私が祝福の源になるのです。実際に、創世記を見るとアブラハムはあらゆる面で祝福されました。彼の子どもイサクも祝福されました。彼が井戸を掘ると、掘る度に水が多く出ました。日本ではどこを掘っても水が出る、お湯が出ると言われますが、パレスチナ地域はそうではなかったのです。だから、その地域の人々はイサクが掘った井戸を奪いました。ところがイサクが掘ると水が出たのです。イサクは行く所々で祝福されました。
私たちもイエス・キリストによって与えられる信仰によって生きるなら、そう言う祝福を受けるのです。しかし、イエス・キリストを拒んだユダヤ人のように、イエス・キリストを信じない、悔い改めない生活を続けるなら民の中から滅ぼされるのです。どうか、私たちが心を新たにし、イエス・キリストの御名を信じる信仰をますます確実にして行きますように祈ります。