2015年使徒の働き13講

心を信仰によってきよめてくださる神様

御言葉:使徒の働き15:1-16:5
要 節:使徒の働き15:8、9「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」

先週、私たちはイースター修養会を通してイエス・キリストの復活、イエス・キリストの愛、イエス・キリストから与えられた使命を確認することができました。
今日は「心を信仰によってきよめてくださる神様、すなわち、信仰によって救われ、きよめられる」という真理を確認したいと思います。そのためにまず、イースターの前週に学んだことを思いだしたいと思います。パウロとバルナバは、第1次宣教旅行を終えてから彼らを派遣したアンテオケ教会に戻り、宣教報告をしました。そこで彼らは神様が宣教を行なった使徒たちと共にいて、彼らのわざを助けてくださったこと、神様が異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告しました。それから、母教会であるアンテオケ教会でかなり長い期間を弟子たちと過ごしました。ところがその時に大変な問題が起きました。

1節をご覧ください。「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。」とあります。ユダヤから下って来たある人々は割礼を受けているクリスチャンです。つまりユダヤ教からキリスト教に改宗したクリスチャンです。彼らが異邦人出身の多いアンテオケ教会に来て割礼も受けなければ救われないと教えていました。それはアンテオケ教会に混乱と動揺をもたらしました。今までパウロとバルナバから異邦人がユダヤ人になる必要はない、だれでもイエス・キリストを信じるなら救われると教えられていたからです。結局、教会でパウロやバルナバとユダヤから来た人々との間に激しい対立と論争が生じました。同じ教会の中でパウロとバルナバは福音を守るために戦いました。ユダヤ人は、ユダヤ人のプライドを守るために戦いました。
教会の中でこのように戦うことは良くないと思われます。教会だけではなく、学校でも、会社でも内輪もめすることは良くないでしょう。それで、「意見の対立が予想される時は事前に根回しをしろ。」と言われます。実際に、根回しをしておかないと会議にやたらと時間がかかったり、何度も何度も同じ議題で会議を開かないといけなかったりします。だから事前にキーパーソンに根回しをして結論が出やすい環境を整えておく必要もあると思います。しかし、会議の時間を短くするために根回しをし、妥協して福音真理を曲げるようなことをしてはいけません。アンテオケ教会のように激しく対立と論争が生じても戦うべきです。それで、時には教会でも激しい対立と論争のような戦いもあります。パウロとバルナバはこの福音の真理を守るために少しも妥協したり、譲ったりしませんでした。もし彼らがユダヤから来た人々と妥協したなら、一時的に教会は平穏になってもキリスト教はユダヤ教の一派となってしまったことでしょう。またユダヤ人と異邦人との差別問題も生じたはずですし、世界宣教において致命的な打撃を受けたと思われます。では、アンテオケ教会はその問題をどのように解決しようとしましたか。
2b節をご覧ください。パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになりました。アンテオケ教会は生まれたばかりの開拓教会だったので使徒たちや長老たちがいるエルサレム教会からの判断をいただくために代表たちを送ったのです。それでパウロたちは教会の人々に見送られました。フェニキヤとサマリヤを通る道々では、異邦人の改宗のことを詳しく話しました。すると、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらしました。ところが、彼らがエルサレムに着いた時にはどういうことが起きましたか。
4節をご覧ください。「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。」とあります。彼らはアンテオケ教会で第一次宣教報告をした時にように「アーメン。アーメン。ハレルヤ!」とうなずきながら神様を賛美するだろうと期待したでしょう。ところが、エルサレム教会の雰囲気は違いました。彼らの熱い宣教報告に水をかけるような人々がいました。「パリサイ派の者で信者になった人々」です。彼らは空気が読めないというか、頑固というか、ともかく面倒な人々です。彼らが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言いました。彼らは異邦人が救われるには、ユダヤ人にならなければならないというようなことを主張したのです。もちろん、割礼も、さまざまな戒めも、それ自体はとても良いものです。パウロもローマ人への手紙で「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、またよいものです(7:12)」と言いました。しかし、律法も、戒めも救いの必要条件ではありません。
聖書によると、律法には律法の役割があります。ガラテヤ3:24を見ると「こうして、律法は私達をキリストへ導くための私達の養育係となりました。私達が信仰によって義と認められるためなのです。」とあります。当時、養育係には子供を無事に学校へ送り届けて、教師に子供を任せる役割がありました。そのように律法の役割は、人をキリストに導くことです。私たちが律法を通して自分の罪を悟ることができ、悔い改めることもできます。しかし、イエス・キリストを受け入れ、キリストを信じて救われると、神様の子どもとなります。その後には神様が聖霊を通して私たちを導いてくださいます。今度は律法ではなくて、キリストを信じる信仰によって神様の赦しをいただき、神様の恵みによって生きるようになります。救われてからも、ただ信仰によって生きるようになります。
ところが、パリサイ派のクリスチャン達は長い間良いものとして持ち続けていた律法に対する未練があったようです。彼らはイエス様を信じることも、聖霊を受けることもいいですが、律法を守り、割礼を受けなければならないと主張したのです。しかし律法を優先するユダヤ教と福音の真理を優先するキリスト教は両立できません。ですから福音と律法が衝突することは避けられないことです。この問題が解決されなければ、教会に激しい対立と論争が続くようになるでしょう。それではエルサレム教会はこの問題をどのように解決しましたか。
6、7a節をご覧ください。使徒と長老達は、この問題を検討するために集まりました。すると使徒と長老達の間で、激しい論争がありました。当時エルサレム教会にはユダヤ人が大部分でした。ですからパリサイ派のキリスト教の影響力が大きかったのでしょう。彼らの中には高い社会的な地位や学問がある人々もいたでしょう。彼らはとても合理的で説得力ある主張をしたでしょう。彼らは「アブラハムも、モーセも、イエス様も割礼を受けました。そして、ここに集まっている使徒達と長老達もみな割礼を受けました。ですから異邦人が割礼を受けるのは言うまでもありません。」と主張する時には本当に彼らの話が正しく聞こえました。このような激しい論争があって後、ペテロは自分の体験を通して、神様がどんな方であることを証しましたか。
7b節をご覧ください。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。」ペテロはコルネリオのことを思い起こし、神様が異邦人に福音を宣べ伝えさせるために自分を選んだことを証しました。彼はコルネリオの出来事に現れた客観的な聖霊のみわざを根拠にして異邦人を何の条件なしに受け入れるべき理由を言いました。
8、9節をご一緒に読んでみましょう。「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」ここで、ペテロは、コルネリオの救いに関連して大切な原則を表明します。救いは徹底的に信仰によるという原則です。人間の行いによるのではありません。律法を守り、割礼を受けているユダヤ人から見ると、数千年も神様の教えもなく、犬のように卑しんでいた異邦人の行ないは気に入りなかったでしょう。しかし、神様は心をご覧になるお方です。異邦人でも心から悔い改めてキリストを信じるなら救われます。神様はキリストを信じる者を生まれ変わらせ、神様の子どもとしての尊い特権を授けられます。また、信仰によって彼らの心をきよめられるようにしてくださいます。もし行ないをご覧になるならユダヤ人は律法を持っているから有利になるわけです。しかし、神様は心にある信仰をご覧になるのです。だからユダヤ人と異邦人の区別をなさいません。9節に「私たちと彼らとに何の差別もつけず」とあります。また、神様は人のうわべではなく心の中心をご覧になる方です。この神様は異邦人も神様を恐れ敬い、福音を信じるならその人を受け入れ、その証拠として聖霊を与えてくださいました。ですから神様の前では割礼者も無割礼者も、ユダヤ人も異邦人も差別がありません。
10節をご覧ください。「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」とあります。ペテロはユダヤ人の矛盾についても話しています。彼らが割礼を主張することは彼らの先祖も、自分たちも負い切れなかったくびきを異邦人のクリスチャンに負わせるのは神様を信じないで試みる罪なのだと言い切ったのです。彼の言う通りに律法は誰も負いきれないくびきです。パウロ自身も負い切れませんでした。彼は何とか律法を守ろうとしましたが、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆息するしかありませんでした(ローマ7:24)。だから、ユダヤ人が負いきれなかったくびきを再び異邦人の首に掛けようとするのは、神様を試みることであり、福音の中から来る自由と喜びが奪われることです。私たちはただイエス・キリストを信じる信仰によって救われているからです。
11節をご覧ください。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」とあります。ペテロも私たちも主イエスの恵みによって救われたことを信じているのです。それなのに、別のものをさらに他の条件をつけてはいけません。後に、パウロも「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と宣言しました。
私たちは神様が遣わされたイエス・キリストの十字架の恵みを信じることによって救われるのです。イエス様は、負い切れない律法のために苦しんでいる私たち人間のために十字架につけられ死なれました。十字架の死によって私たちの負うべき律法の代価を払ってくださいました。そして三日目に死者の中からよみがえられてイエス様が私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。私たちはこのイエス様の十字架と復活を通して私たちを救ってくださる神様の恵みを信じる信仰によって救われたのです。
それなのに、もし救われた人でも、律法の行いによっては救いが取り消されるなら、どうなるでしょうか。私たちは日々の行ないに不安な生活をしなければならなくなります。しかし、神様はそんな方ではありません。私達はただイエス・キリストを信じたその瞬間から救われました。神様の子どもとなりました。そして、永遠のいのちが与えられたのです。だから、今は神様の子どもとして救いの恵みに感謝し、その感謝んのゆえに神様の御言葉に従おうとするのです。この恵みによって喜び、感謝し、この恵みによって与えられる力といのちにあふれて神様を愛し、隣人を愛する生活をします。神様が与えられた使命を担って行きます。
ところが、私たちは、ただ主の恵みによって生きているでしょうか。言うのは簡単ですが、実生活の中で恵みによって生きることはやさしくないようです。それは私たちが因果応報的な考えに支配されて来たからだと思います。何がうまくできないと、自分は霊的闘争が足りないからしようがないと思います。なかなか変えられない自分の良くない習慣のために自分は祝福される価値がないと思います。その時に、サタンは「おまえはそれでもクリスチャンであると言えるか、それでも宣教師なのか。」とささやきます。そこで、すると、心が弱くなり、自分のクリスチャン生活に絶望します。一方、何もかもうまくできると、どう思いますか。日頃の行ないが良いからだと思います。「ぼくは偉い、偉大な人なのだ。」と思い、高ぶって自己義に陥ります。このようなことを考えてみると私達が主の恵みを知り、主の恵みによって生きるというのはそれほど簡単なことではないことがわかります。
ですから私達はイエス様の恵みの世界をより深く広く知るために祈ることが必要です。使徒ペテロは「私達の主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ペテロ第二3:18)と言いました。私達がイエス・キリストの恵みと知識においてますます成長することができるように祈ります。ほんとうに祈りによって神様と交わりができると、恵みの上に、さらに恵みを受ける生活ができます。大きな失敗をし、罪を犯したとしてもキリストの十字架の恵みのゆえに赦されて平安に生きることができます。どんなに大きな事をした時も神様の恵み、神様の祝福によるものだから謙遜になって感謝することができます。それで、日々の生活の中で神様の栄光を見ることができるし、恵みの上に、さらに恵みを受ける生活ができるのです。これがクリスチャンライフです。どうか、私たちがすべての律法的な考え、因果応報的な考えから離れてイエス・キリストの恵みによって生きる信仰生活ができるように祈ります。
12節をご覧ください。ペテロの話を聞いた全会衆は沈黙してしまいました。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神様が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けました。ふたりが話し終えると、最後にヤコブがこう言いました。ヤコブはイエス様の弟であるヤコブで、この会議の議長でした。彼はアモス9:11,12の御言葉を引用してコルネリオ事件やパウロとバルナバによる異邦人宣教はすべて神様がすでに予言されたことが成就されたことを確証しました。そしてこれらの事実に基づいて結論を下しました。エルサレム総会は結局この問題に対してどんな結論を下しましたか。
28,29節をご覧ください。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
使徒と長老達はこの決定が聖霊と私達の決定だと言いました。それは聖霊が願われることであり、聖霊の導きであることを確信していました。ただ、保守的な考えで生きているユダヤ人クリスチャンへの配慮も提案します。それは、異邦人クリスチャンであっても「偶像に供えた汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けること」をお願いすることでした。これは、必要条件とか、妥協案ではありません。ユダヤ人から救われた人も、異邦人から救われた人も、心を一つにして愛し合うための配慮です。この結果の手紙を手渡したとき、聖徒たちの反応はどうでしたか。
31節をご覧ください。エルサレム総会での決定をを読んだ人々は、その励ましによって喜びました。彼らは律法主義者達による重荷を捨てて主の恵みと喜びに満たされるようになりました。
結論としてもう一度8,9節をご一緒に読んでみましょう。「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」
神様は私たちの深い部分、人に知られないところで考えていること、私たちの心を全部ご存知です。それは私たちを裁くためではなく、赦し、きよめる為です。人間の中にはユダヤ人もいるし、異邦人もいます。この教会にもいろいろな人がいます。まじめな性格的の人もいます。いい加減な人もいます。人生いろいろです。確かなことは、神様がすべての人を愛し、同じ条件で救ってくださるということです。私たちはただ信仰によって、ただイエス・キリストの恵みによって救われるのです。どうか、聖霊の助けによってこの信仰の世界、イエス・キリストの恵みの世界に深く入ることができるように祈ります。