2009マルコの福音書第9講
おまえの名は何か
御言葉:マルコの福音書4:35-5:20
要節:マルコの福音書5:9それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
先週、私たちは私たちのうちに蒔かれた御言葉の種が芽生え、育ち、実を結ぶようになること、始めはからし種のように小さくても常に発展し、成長して行くことを学びました。確かに、私たちが自分に与えられた御言葉を保ち、信仰から離れないなら、そうこうしているうちに成長し、豊かな実を結ぶ人生を生きるようになります。ところが、私たちはいつも温室のように保護された所で生きているのではありません。山あり谷ありの人生の中でさまざまなことに出会います。長い人生の中で突発する突風に出会う時もあるでしょう。それだけではありません。険しい世の中で自分を失い、悪霊につかれてしまう時さえあります。目に見えないけれども、人々の中に働いている悪霊の影響も受けているのです。では、このような現実の中でも、平和を失うことなく、悪霊に支配されることもなく、喜びと幸せの人生を生きることができるでしょうか。
この時間、御言葉を通してその秘訣を学びたいと思います。突風の中でも安眠しておられたイエス様の平和、大勢の悪霊から救われた新しい人生の喜びを自分のものにしたいのです。どうか、イエス様の御言葉に耳を傾け、イエス様の御声を聞くことが出来るように祈ります。
?.突風を静められるイエス様(4:35-41)
35、36節をご覧ください。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」とあります。その日とは、イエス様がおびただしい数の群衆のために湖の舟に乗り、たとえによって多くのことを教えられた日です。夕方になってイエス様のお体も疲れてきたでしょうか。イエス様は弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われました。そこで彼らは群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエス様をお連れしました。弟子たちはお疲れのイエス様のことを配慮してできるだけ静かに漕ぎ出して行こうとしたことでしょう。ところが、そんな彼らにどんなことが起こりましたか。
37節をご覧ください。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」とあります。激しい突風が起こりました。ガリラヤ湖には、周囲の地勢の関係で、時々にわかに突風が起こったそうですが、その日にも激しい突風が起こったのです。その時、弟子たちの心はどうだったでしょうか。その心は風の吹くままに揺れ動く海の波のように揺れ動いていたでしょう。舟が水でいっぱいになると、この湖に溺れて死ぬかも知れない恐れと不安に襲われたのではないでしょうか。ところが、イエス様だけは、とものほうで、枕をして眠っておられました。その平安はどこから来たのでしょうか。
それは父なる神様に対する信仰から来のではないでしょうか。「きっと神様が助けてくださる」という信仰です。おそらく、イエス様は詩篇46篇の御言葉を覚えておられたと思います。詩篇46:1-5節を開いて見ましょう。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、たとい、その水が立ち騒ぎ、あわ立っても、その水かさが増して山々が揺れ動いても、セラ 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とあります。イエス様は御言葉に基づいて「神は夜明け前にこれを助けられる。」と信じていたからこそ、激しい突風の中でも平安に眠っておられたのです。
このように、今日も、ここの中に御言葉があり、神様への信仰がある人は、人生の中で突風が起こっても平安に生きることができます。信仰があれば人生のうみのあらしにも恐れることなく、平安に生きることができるのです。しかし、信仰がなければどうなりますか。
38b節をご覧ください。「弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」」とあります。彼らにはイエス様のような平安がありません。むしろ、イエス様に不満をもらしています。彼らはイエス様に『先生が向こう岸へ渡ろう』とおっしゃったのではないですか」とも言いたかったでしょう。このように、不信仰の人は突風のような試練にあると、つぶやき、何でもかんでも人のせいにします。突風が起こると、その突風の中でも働いておられるイエス様を考え、イエス様の助けを求めるより、自分の事情だけを見てつぶやいてしまうのです。しかし、イエス様はどんな方ですか。
39節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」イエス様は突風をお叱りになり、静められました。すると、風はやみ、大なぎになりました。やはり、イエス様の御言葉には権威がありました。その権威は初めに天と地を創造された神様の御言葉の権威です。神様が、「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができたのですが、その権威がイエス様の御言葉にもあったのです。事実、イエス様は天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるお方です。ですから、弟子たちにイエス様に対する信仰があったなら、あれほど恐がる必要がなかったのです。ただ、信仰によって神様の助けを待つか、同じ舟に乗っておられるイエス様にお願いすれば良かったのです。ところが、弟子たちにはそういう信仰がありませんでした。そこで、イエス様は弟子たちに何と言われましたか。
40節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」この言葉に弟子たちに対する理解と愛が込められています。
ある点で人間が突風に会った時にこわがるのは仕方がないのではないでしょうか。あのガリラヤ湖で激しい突風が起こった時、私だったらどうしただろうかと思う時、弟子たちを非難することができません。私だってイエス様につぶやき、顧みてくださらないイエス様に不平をもらしたはずです。皆さんはどうでしょうか。「私なら恐がらない。突風が起こってもつぶやかない。」と言えるでしょうか。もし、ほんとうにそう言えるなら、素晴らしい信仰です。でも、多くの人たちは全く予期しなかった突風が起こると、弟子たちのように恐がるのではないかと思います。
そういうわけで、イエス様は彼らの不信仰を問われる前に、起き上がって、風をしかりつけてくださいました。湖が黙り、静まるようにしてくださったのです。何とあわれみ深く、愛の豊かなお方でしょうか。自分たちの力では何もできない突風の前で恐れている弟子たちの事情を理解し、彼らのつぶやきにもかかわらず、湖が黙り、静まるようにしてくださったのです。
しかしながら、イエス様は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と言われました。ここで、イエス様は弟子たちの事情を理解しながらも、彼らに信仰を求めていられるイエス様の切実な御心を学ぶことが出来ます。イエス様は弟子たちに信仰がなかった時、罰を与えたり、見捨てたりしませんでした。しかし、いつまでも不信仰のまま生きることは望まれませんでした。突風のことを通して信仰がないのはどうしたことかを知り、信仰の人になることを望まれたのです。それで、湖が静けさを取り戻した時、イエス様は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と言われたのです。つまり、これからは突風があっても、今回の経験を無駄にしないで信仰によって生きるように助けてくださったのです。
41節をご覧ください。彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言いました、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」結局、弟子たちは不信仰を悔い改め、イエス様は「風や湖までが言うことをきく」お方であると堅く信じるようになったでしょう。弟子たちは突風の試練を通してイエス様についてもっと深く知り、イエス様が自然界を支配する創造主であることを信じるようになったのです。
人生というのはいつも穏やかとは限りません。イエス様は言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)。人生には患難がありますが、イエス様と共に歩む者はすでに世に勝ったのです。だからイエス様を信じてイエス様とともに歩める日々は幸せです。
?.おまえの名は何か(5:1-20)
5章1-2節をご覧ください。「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。」とあります。イエス様の一行は湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着きました。ゲラサという所は、当時ローマ第14軍団が駐屯している軍事都市でした。イエス様が都市に行かれたことを見ると、今度は、東京のような都市の人々にも福音を伝えようとされたようです。ところが、イエス様が舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエス様を迎えました。当時の墓場は町の中心にもある東京の墓場とは違います。丘や岩間に切り込めた穴が墓になっていました(画面)。だから、この人は自分の家から離れている墓場、しかも、人里から離れている墓場に住み着いていたのです。なぜ、彼はこんな所に住み着いていたでしょうか。
3,4節をご覧ください。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を抑えるだけの力がなかったのである。」とあります。人々は彼を抑えて家族と一緒に暮らすように助けようとしたようです。しかし、だれによっても、彼を抑えることはできませんでした。人の力では汚れて霊につかれている人を抑えることができなかったのです。そういうわけで、彼は愛する家族からも、離れて町の外にある墓場に住み着いていたのです。彼もひとりの人間として心の奥底から愛する家族と一緒に過ごし、正常な生活をしたかったでしょう。しかし、彼を支配し、コントロールしている汚れた霊がそれを許しませんでした。悪霊は彼を汚れたところ、暗いところに誘惑し、結局、墓場に連れて行きました。そこで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。人間らしい生活ができず、獣のようになっていたのです。ほんとうに惨めな姿です。そんな彼に愛の主、イエス様が訪ねて行かれました。
6-8節をご覧ください。「彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。」とあります。ゲラサ人がイエス様を遠くから見つけ、駆け寄って来たのを見ると、彼の本来の自我はイエス様と人格的な関係性を結ぶことを願っていることがわかります。しかし、彼のうちに働いている汚れた霊のために、イエス様と関係性を結ぶことができないでいました。かわいそうな姿でしょうか。心の中では良いことをしたいですが、それができず、したくないことばかりしてしまうのです。ところが、それはこの人だけではありません。ローマ人への手紙7:15-17でパウロは言いました。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」とあります。そして同じ7章24節に「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とあります。
皆さんはどうでしょうか。このパウロの告白は、私自身の心のうちと同じことだと思われないでしょうか。だれでも常に良いことをしようと願っているのです。しかし、せっかく良いことをしようとして話し合いを始めたのに、ほんの些細なことから口論となり、あげくの果て大声を張り上げ、喧嘩してしまいます。このように心とは全く反対のことも起こるのです。それも私たちの現実の姿でしょう。では、イエス様の所に来たその人はどのようにして救われますか。
9節をご一緒に読んでみましょう。「それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。」イエス様は彼の名前を尋ねられました。名前はその人の人格と存在を現わします。人の名前には、彼の人格が、彼の人生が現われるのです。そこで、イエス様は「おまえの名は何か」と尋ねられました。自分の正体を言い表わすことによって救われるためです。?ヨハネ1:9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。
創世記32:27-29節を見ると神様はヤコブに「あなたの名は何というのか。」と尋ねられました。すると、彼は「ヤコブです。」と答えましたが、それは「欺きし者、私は欺くものだ」という意味です。ヤコブは罪深い自分の本性を告白したのです。その時、神様はヤコブに新しい名前を与えられました。「イスラエル」という名前です。それは「神と闘った」ことから与えられた名前です。悲しみと苦しみに打ちひしがれるその現実の只中にあって、神様の試練に打ち勝ったということを意味する名前です。つまり、ヤコブが自分の名を「ヤコブ、欺きし者」と告白して自分の正体を現わした時、彼は救われて新しい人生を生きるようになったのです。
このように、私たちも自分の名前を告白すると、救われて新しい人生を生きるチャンスを与えられます。イエス様の御前に罪深い自分の本性を告白することによってその罪が赦され、すべての悪からきよめられるのです。そこで、イエス様は彼に「おまえの名は何というのか。」と尋ねられました。すると、彼は「私の名はレギオンです。」と告白しました。この告白の中に彼の人生がよく現われています。レギオンというのは6,000人で構成されたローマの軍団のことです。彼の人生は6千人で構成されたローマ軍団のように強く、大勢の悪霊に支配されていたのです。様々な悪霊が彼の中に入り、彼の考えや感情や意志を支配していました。彼はそのことを真実に告白して「私の名はレギオンです。」と答えました。すると、もはや汚れた霊はその人の中にとどまることができなくなりました。悪霊どもはそれを知り、自分達をこの地方から追い出さないでくださいと懇願しました。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってありました。彼らはイエス様に願って言いました。「私達を豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエス様がお許しになると、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移りました。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまいました。そうして、悪霊につかれていた人は正気に返りました。何と素晴らしい光景でしょうか。墓場に住み着いて叫ばなければならないほど苦しい人生を生きていた人が救われて新しい人生を始めるようになったのです。ところが、町の人々の反応はどうでしたか。
16、17節をご覧ください。「見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。」とあります。町の人々は悪霊につかれた人に起こったことだけでなく、「豚のこと」をつぶさに話して聞かせました。すると、彼らの頭には、豚を失ったショックの方が大きかったようです。彼らはイエス様に、この地方から離れてくださるよう願いました。
時々、私たちも、自分が得たものよりも、失ったことに目を向けやすいものです。しかし、私たちは失われた豚より、一人の人が救われたことに目を向けるべきはないでしょうか。このひとりの人を感謝するほうが大事なのです。
宣教師や牧者たちは多く時間と物質を投資して伝道活動をしています。世の価値観から見ると、財産である豚を失っているのです。しかし、豚を失ってもひとりの人が救われて新しい人生を生きるようになるなら、何と素晴らしいことでしょう。もちろん、いのちが救われ、大きく祝福されるためには、2000匹の豚を失うような犠牲もしなければなりません。私ひとりが救われるためにも、イエス様のいのちが失われる犠牲がありました。聖書に「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(?ペテロ2:23?24)
私たちは毎年夏修養会のためには多くの経費を払います。しかし、それによってゲラサ人のように墓場に住み着いているような人がひとりでも救われるなら、何と素晴らしいことでしょうか。今年も修養会を通して多くの人が救われることに期待し、信じて喜び、感謝しましょう。
18節をご覧ください。イエス様が舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエス様に願いました。彼はイエス様の愛に感動され、いつまでもイエス様とともにいたいと願いました。しかし、イエス様はお許しにならないで、彼に使命を与えてくださいました。
19節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」イエス様は彼に自分の家、自分の家族のところに帰るように命じられました。大分UBFのツカサ・グロンディン宣教師は大分出身で旧名は魚返司ですが、カナダでイエス様に出会い、救われて宣教師になって来ました。私たちにもそういう使命が与えられています。もちろん、すべての人に自分の家、自分の家族に帰って伝道するように命じているのではありません。多くの人々には生まれ故郷から出て行くように命じられています。しかし、伝える内容は同じです。それは主が私に、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせることです。
皆さんの中には自分の力では何もできない、人から助けられることもできない事情があるかも知れません。でも、天と地を造られたお方、自然界も、霊的世界も完全に支配しておられるイエス様が今ここにおられます。すべてをイエス様に知らせましょう。まだ、信仰のない方はイエス様につぶやいても、イエス様をその声を聞いてくださいます。突風を静めてくださるのです。また、自分の名前を告白すると、その悪霊の支配、罪の支配から救い出して新しい人生を生きるようにしてくださいます。私たちの祈り、私たちの告白がくださって、主は私たちを救い出し、ご自分の愛の証し人として用いてくださいます。どうか、1人1人その主の愛に生きますように祈ります。
そこで、一人の宣教師の証しを読んで終わりにしたいと思います。パトリック・マケリゴットというイギリス人宣教師です。この証しは現在の先生の顔から想像出来ないことですが、でも事実です(画面)。こういう証しです。
(前略)「私たち8人家族はロンドンの労働者、地域の市営住宅に住んでいました。その市営住宅は犯罪の多い地域にあって子供たちを育てるのには大変環境の悪いところでした。その結果、私も兄弟も不良少年になりました。私が11才からタバコを吸い、12才で酒を飲み、13才の時に万引きで捕まえられ、15才まで年寄りの部屋に忍び込んで年金を盗むようになりました。 自分自身が嫌になって止めたかったのに、止める力さえ無かったのです。16才になって私は中学校を卒業して就職しましたが、得たお金は賭けごとなどで無駄使いをしてしまいました。私は何1つ見込みのない青年となりました。これが少年時代から青年時代にかけてのことでした。」
やがて、スポーツの好きな彼はスポーツ青年団に関係し、その団体を教会がやっていたことから、卓球仲間の1人の人と付き合うこととなりました。その彼とある夜、遅くまで話し合ったことが書かれています。
「朝の3時頃になった時、彼は聖書を閉じて話しを止めました。私が帰ろうとした時、彼はもう1つの話しだけを聞いてくださいと言って、この話をしました。
2人の仲の良い友達が連れ立って道を歩いていたとします。1人は道の向こう側にある店に入るために道を渡ろうとしました。そして、道の真ん中を通っているうちに、1台のダンプカーが猛スピードで走って来て彼とぶつかりそうになったのに、彼自身は全然気着いていない。
しかし、安全な場所に立っている友人が『危ない。』と叫んで、友人を助けるために道の真ん中まで駆け寄って、彼を向こう側に突き飛ばしました。でも、彼自身はダンプカーにはねられて即死してしまいました。突き飛ばされた友人は傷1つ負わず無事でした。
この話しをした私の卓球仲間は次のような質問をしました。『もしも、あなたが助かった人だったらどうしますか。』私はどうするかというよりも、賢い答えは何だろうかと思いこう答えました。
『もしも私がその助かった人であったら、私のために死んでくださった人のご両親のところに行って、息子さんが私のために死んでくださったことを感謝するだけではなく、そのお父さんとお母さんに、私のために死んでくださった息子さんの代わりに、私を息子としてください。私はあなたたちの言う通りの人生を生きます、と言うでしょう。』と答えました。
私の答えを聞いた友人は、もう1度聖書を開きこの言葉を読んでくれました。『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5章6?8節)
この言葉によって私は、この私にさえ真の神に愛されているという確信を持つことが出来ました。その結果、私は判断をする事はやめて聖書の言葉に耳を傾けました。暫く経って彼はこの次の言葉を聞かせてくれました。『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(?ヨハネの手紙1章9節)
結局、私は彼の台所の床にひざまずいて悔い改めの祈りをしました。その時から私は真の神の愛を体験して、喜びのゆえ、過去からの罪を赦されて、盗んだお金や、全てのものを全部返して新しい人生を踏み出しました。40年後の今も、神と、神の愛に生かされて、喜んで生活をしております。神の大きな愛によって私は変えられました。」
とあります。正に、マケリゴット先生のあの過去は身体に染み付いた罪の姿でしょうか。でもその先生が変えられて、まともな人間であるだけでなく、神の愛を伝えに遠い日本にまで来て、宣教師として何十年もの間、仕えているのです。愛の人の姿がそこにあります。
今日も主は私たちに愛の手を差し伸べてくださっています。人生の航路で突風に会っている方がいらっしゃらないでしょうか。自分の力では何もできない、人から助けられることもできない事情があるかも知れません。でも、天と地を造られたお方、自然界も、霊的世界も完全に支配しておられるイエス様が今ここにおられます。すべてをイエス様に知らせましょう。まだ、信仰のない方はイエス様につぶやいても、イエス様をその声を聞いてくださいます。突風を静めてくださるのです。また、自分の名前を告白すると、その悪霊の支配、罪の支配から救い出して新しい人生を生きるようにしてくださいます。私たちの祈り、私たちの告白がくださって、主は私たちを救い出し、ご自分の愛の証し人として用いてくださいます。どうか、1人1人その主の愛に行きますように祈ります。