2009マルコの福音書第10講
お着物にさわることでもできれば
御言葉:マルコの福音書5:21?43
要節:マルコの福音書5:28、29“ 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。”
先週、イエス様が自然界も、霊的世界も支配しておられることを学びました。その中で弟子たちに信仰の人であってほしいと願っておられるイエス様の御心学びました。突風が起こった時、弟子たちは「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」とつぶやきました。そんな彼らのために突風を静められたイエス様は、「「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。ところが、今日の御言葉には病気のために死にそうになっている一人の女性が信仰によって癒されたことが記されてあります。さらに、ただ、信じることによって死んでしまった娘を生き返らせていただいた会堂管理者ヤイロのことも記されています。ここで、私たちは、もう一度、イエス様が私たちにどんなに信仰を求めておられるかを学ぶことが出来ます。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と信じる信仰、「ただ、恐れない信じる信仰」です。どうか、聖霊の助けによって、私たちも信仰の人として成長していきますように祈ります。
21-22節をご覧ください。先週の御言葉でイエス様一行はガリラヤ湖を渡ってゲラサに行かれましたが、また向こう岸へ渡られました。おびただしい群衆にたとえで話された所に戻られたのです。そこにまたと大ぜいの人の群れがみもとに集まったのですが、その大ぜいの人の群れのために町の中に入ることができなかったようです。イエス様は岸べにとどまっておられました。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来ました。会堂管理者とは言葉のとおりに会堂を管理している人ですが、マンションの管理人とは違います。会堂はユダヤ教社会の中心です。それは信仰生活のための施設であるだけでなく、裁判所であり、学校であり、役所でありました。その会堂の運営を担当する「会堂管理者」という地位は、地域社会で尊敬される名誉ある地位でした。それで、会堂管理者は、地域社会の模範的人物でした。ヤイロもそのような会堂管理者の一人として、立派な信仰生活を送っており、人々から尊敬されている人格者であっただろうと思われます。ところが、そんな彼にも人生の突風が襲って来ていました。人間の力では何もできない、しかし、急いで解決しなければならない深刻な問題があったのです。ヤイロはその問題をどのように解決しようとしましたか。人生に突風が起こって自分の力では何もできない深刻な問題、しかも切迫した問題が発生した時、彼はどうしましたか。彼はイエス様に来て、見て、その足もとにひれ伏しました。会堂管理者としての自尊心も、体面も捨ててイエス様の足もとにひれ伏したのです。それから、イエス様にお願いしています。
このヤイロの心を考えながら、できれば、その気になって23節の御言葉ご一緒に読んでみましょう。「いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」何としても娘を助けたい父親の心がよく現われています。自分の幼い娘が今にも死にそうな状況においては、名誉も、地位も、体面も意味がありませんでした。彼は捨て身になってイエス様の助けを求めています。イエス様は彼のこのような切なる願いに応えて、彼の娘を助けるために、彼といっしょに出かけれました。ところが、多くの群衆がイエス様について来て、イエス様に押し迫りました。その途上でどんな事が起こりましたか。
25、26節をご覧ください。「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。多くの群衆の中に哀れな一人の女性がいました。彼女は十二年の間長血をわずらっていました。十二年間も出血が止まらない婦人病をわずらっていたのです。レビ記(15:19-31)によれば、出血のある女性を「汚れた」ものとしています。彼女に触れた人も、彼女が使ったものも、「汚れた」ものになります。その上に、イスラエルの民は「汚れた」ものに触れないように厳しく求められていました。だから、この女性は十二年間もの長い間、人々の交わりから締め出されていました。ずいぶん辛い思いをして来たことでしょう。これは病気による身体の苦痛よりも辛いことであったと思われます。
だから、彼女も、この辛い苦痛から救われるためにあらゆることを試みました。良い医者がいると聞けば、すぐに、そこに行きました。どのように高額の謝礼を求められても出向いていきました。藁にもすがる思いで次々にかかりました。でも多くの医者からひどいめに会わされました。医者も彼女の出血が分かった時は「汚れた」ものなので遠ざかり、お金だけを要求したでしょう。自分が汚れたものになっても、この哀れな女性を治療してあげようとする医者はいませんでした。結局、彼女は自分の持ち物を使い果たしてしまいましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でありました。
このように哀れな女性がイエス様のことを耳にしました。どんな病でも癒してくださるイエス様のことを聞いた時、どんなに嬉しかったでしょうか。でも、彼女は会堂管理者のような立場ではありませんでした。イエス様の御前に進み出ることはできませんでした。彼女は自分が「汚れたもの」であり、人に触れることは許されていないことは知っていました。彼女は立派な会堂管理者のように公の場でひれ伏してお願いする立場ではありませんでした。むしろ、彼女は自分の存在が知らされることを恐れなければなりませんでした。何も希望を持つことができない状況に置かれていたのです。こうなると、何もかもあきらめたくなるでしょう。彼女は失望せざるを得ない状態になっていたのです。しかし、彼女はどうしましたか。
27、28節をごいっしょに読んでみましょう。「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」彼女は群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエス様の着物にさわりました。「イエス様の着物にさわった」ことはイエス様にお願いしたことです。うちの娘を見ると、しばしば、自分の母の着物をつかんでお願いします。触るくらいではなく、それをつかみつけてしつこくお願いするのです。「ママ、これを助けてよ。」と言います。しかし、彼女は自分のお母さんの着物に触ったのでもありません。医者の着物に触ったのではありません。金持ちの着物に触ったのでもありません。イエス様の着物にさわりました。イエス様にお願いしたのです。それは「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからです。「考えていた」というのは、偶然的にイエス様の着物にさわったのではないこと、瞬間的にさわったのではないことを示しています。彼女は「お着物にさわることでもできれば、お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る。」と考えていたのです。その考えは信仰の考えでした。イエス様が彼女の考えを信仰として認めておられます(34節)。ここで、私たちは「考えていること」の重要性を学ぶことが出来ます。皆さんは今、何を考えているでしょうか。多くの人々が厳しい現実を見て否定的な考えをしています。この女性のような人は「この病気は誰にも言えない。このまま死ぬしかない。もう財産もなくなった。」と考えます。「会堂管理者の娘はいいね。うちの父もそういう人だったらいいのに・・・、うちの旦那が会堂管理者のようだったら、自分の人生も変わったのに・・・」と考えています。このように、否定的な考え、不信仰的な考えに縛られている人が多いのです。人生を当たり前のように悲観的に考え、ネガティブな方に何でも考えているのです。しかし、このような否定的な考え、不信仰の考えは自然的なものではありません。それはサタンが私たちの心に植えつけていることです。よく祈っている人はなかなか否定的な話をしません。
皆さんがご存知のように、金ヨハネ宣教師は毎日教会に来て祈っています。私はヨハネ宣教師と知り合って30年近く同じ教会で生活していますし、また同じ職場で勤めて20年です。ところが、ヨハネ宣教師からはほとんど否定的な話、悲観的な話を聞いていません。それはいつも祈っているヨハネ宣教師にサタンの働きができなかったことでしょう。
また、私はインターネットを通して知るようになった牧師先生の中でアメリカのレイックウッド教会のジョエル・オスティーンのメッセージを時々聞いていますが彼はこういうことを言っています。「私たちにとって一番恐ろしい敵、つまり、サタンが狙っているターゲットは私たちの考えです。サタンは嘘で私たちをだまして自己憐憫と心配、無力感、妬みを抱かせます。過ぎ去ったことなのに、それを思い出させて憎しみ、恨むようにします。しかし、過去は過去のまま葬り去って前向きの人生を歩まなければなりません。テレビのチャネルを変えることはだれでもできるでしょう。リモコンを押すだけでできます。否定的な考えができたら、すばやくチャネルをプラス思考に変えなさい。過去の失敗、崩れてしまった心のチャネルは完全に削除しなさい。」と言うことです。「あなたはできる」ジョエル・オスティーン著/早野 依子 訳 参考」。
そのとおりでしょう。この女性は過ぎ去った12年間の失敗、落胆し続けた考えを削除しました。イエス様のことを耳にしてから、12年間も形成された否定的な考えを捨てたのです。その代わりにイエス様のことを考えました。「お着物にさわることでもできれば。きっと直る」と考えました。そのうち、彼女の心からは会堂管理者の娘をうらやましく思うような妬み、嫉妬心、悲しい心も消えていきました。そこで、彼女は自分の方からイエス様のほうに出てきました。信仰の考えを行動に移したのです。12年間も出血があったので、病弱な身体になっていましたが、それでも信仰によって出て来てイエス様の着物にさわったのです。その時、どんな事が起こりましたか。
29節をご覧ください。「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」とあります。彼女がイエス様のお着物にさわると、イエス様の力が彼女の身体に伝えられたでしょう。すぐに、血の源がかれてしまいました。彼女は信仰の考え、信仰の行動を通してひどい痛みが直ったことを、からだに感じたのです。彼女は信仰によってイエス様の力あるわざ、不思議なわざを体験しました。彼女は病気が癒され、救われて新しい人生を生きるようになったのです。
このような体験の証言は現在でも数多くあります。今でも、長血をわずらっていた女性のように人には言えない苦痛を持って苦しんでいる人たちがいます。でもイエス様に出て来てイエス様にタッチすることによって癒されているのです。
事実、ほとんどの人は誰にも言えない痛みを持っています。家庭の痛み、病の問題、子どもの問題、恥ずかしくて言えない罪の問題、人間関係問題、心の中での激しい葛藤があります。そのような問題を公開的に言うことは難しいでしょう。そういう場合はうしろから隠密にイエス様の着物をさわってよいです。祈りを通して、所感を書くことを通してイエス様のお着物にさわるなら、イエス様に触れられて癒されます。イエス様は公でイエス様の助けを求めるヤイロのような人も助けてくださいますが、この女性のように隠密にイエス様に触れることを願っている人の祈りにもすみやかに応えてくださいます。
30節をご覧ください。「イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。」とあります。多くの人々は会堂管理者のように地位があり、力のある人の言葉を優先的に聞いてあげます。私は職場生活の中で、庶民よりも、社会的な身分の高い人、貧しい人よりも、金持ちの要求に優先的に動いている人々の姿、自分自身も権力ある人の要求には、すばやく行動している姿を見て悩まされる時があります。世の中は弱い人の味方が少ないのです。しかし、イエス様は会堂管理者の家に向かっている途中でしたが、この女性を助けようとなさいました。何の力もなく、だれも相手にしてくれないようなひとりの女性、しかも汚れたものにされている女性の小さな行動に大きな関心を示されたのです。いや、死にかけている会堂管理者の娘よりも、名もないこの女性を優先的に癒してくださったのです。それだけではありませんイエス様は彼女に肉体的な癒しだけではなく、霊的な祝福も与えるために群集の中を振り向いて彼女を探されたのです。ところが、弟子たちの反応はどうでしたか。
31-34をご覧ください。弟子たちは思わず、「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」と問い返しています。でも、イエス様は、それをした人を知ろうとして、見回しておられました。すると、彼女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエス様の前に出てひれ伏しました。そして、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。そこで、イエス様は彼女にこう言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
ここで、私たちはイエス様との触れあいを通して神様の力を体験することは、どのような性質のことであるのかを学ぶことが出来ます。手でイエス様の身体やお着物に触った人は少なくなかったでしょう。しかし、目でイエス様の姿を見たり、耳で声を聞いたり、着物に触ったり、あるいは抱きしめたりするだけでは、イエス様に触れたと言えません。この時も、弟子たちが言っているとおりに、イエス様に押し迫っている人の中では数多くの人がイエス様に触ったでしょう。しかし、真にイエス様に触れたのはこの女性だけでした。この女性だけが信仰によってイエス様に自分を投げかけていたからです。だから、何をしても信仰によってするかどうかが問われるのです。今でも信仰によってよみがえられたイエス・キリストの御名を呼び求め、イエス様に触ろうとしているならば、その人はイエス様との触れ合いができます。イエス様との触れあいを通して力あるわざと不思議を経験して行くことができます。12年間もわずらっているような病気が癒され、さまざまな人生の問題がイエス様によって解決されることを経験して行くことができるのです。
私たちは、ただ、信仰によって救われます。そして、私たちを救ってくださるイエス様の愛と助けのゆえに、安心して健やかに生きることができます。イエス様は私たちも安心して病気にかからず、健やかにいることを願っておられるからです。
35、36節をご覧ください。イエス様が、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」。会堂管理者はどんなに落胆し、悲嘆にくれていたことでしょうか。ところが、イエス様は、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。人間の力ではもはやどうすることもできない死という現実の前で、人間はただ嘆き悲しみ、絶望するだけです。しかし、イエス様の中にある生命はそれを超える力を知っています。信仰は死という現実を超えて、恐れることなく、神様がなしてくださることを待ち望むことです。イエス様はヤイロが信仰を持つように助けてからペテロ、ヤコブ、ヨハネのほかは誰も連れず、会堂管理者の家に向かわれました。到着すると、子どもの死を嘆いて、人々がひどく叫んだり、泣いたり、騒いだりしていました。それをご覧になってイエス様は、中にはいって、彼らにこう言われました。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」この言葉を聞いた人々はイエス様をあざ笑いました。現に死んでしまった者を「眠っている」というのは、人間の目には真に愚かなことだからです。しかし、イエス様はみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれました。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われました。「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われたのです。すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。そこにいる人々はたちまち非常な驚きに包まれました。そこで、イエス様は、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われました。少女に食事をさせるように言われたのは、この出来事は一時的な幻ではなく、現実に身体を持ってする生活に戻ったことを確実にしたことでしょう。イエス様ご自身がよみがえられた時も、弟子たちに現われ、彼らといっしょに食事をしましたが、それによって復活がただの幻ではなく現実であること示しておられます。
結論的にイエス様は信仰の人を祝福してくださいます。信仰の人の娘も祝福してくださいます。そして、 神様は信仰の人、愛の人を用いられます。いつも、肯定的に考え、信仰の考えを持ち、ただ信じる信仰の人として生きるように祈ります。