2013マルコの福音書第7講

悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様

御言葉:マルコの福音書5:1-5:20
要 節:マルコの福音書5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

神様が2013年UBF国際修養会を大きく祝福してくださり感謝します。修養会に97か国から約3,000名が参加し、230名が新しくイエス・キリストを救い主として受け入れ、信仰告白しました。また、大学生たちの250名が宣教師として生きることを決断しました。私たちが続けてイエス・キリストの愛に留まり、互いに愛し合う生活を通して豊かな実を結んで行きますように祈ります。
今日は、皆さんと共に、悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様を学びます。イエス様は汚れた霊につかれて墓場に住みている人を癒してくださいました。彼に自分の家、自分の家族に主のみわざ、主のあわれみを知らせる使命を与えられました。どうか、御言葉を通して私たちを支配する汚れた霊から解放され、イエス様の価値観を受け入れることができるように祈ります。特に御言葉を通して私たちのうちにも大きなことをし、あわれんでくださるイエス様の救いの力とあわれみを信じて今年夏修養会に臨むことができるように祈ります。

1,2節をご覧ください。イエス様の一行は湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着きました。イエス様が舟から上がられると、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエス様を迎えました。墓場とは今日東京で見られる墓場とは違いました。人里から離れていて丘や岩間に切り込めた穴が墓になっていました。古くなっている墓は死体もなくなっていたのでホームレスのような人たちが住むのには適していました。そこに汚れた霊につかれた人が住み着いていたのです。では、どうして彼は人里から離れた墓場に住み着いていたでしょうか。
3,4節をご覧ください。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を抑えるだけの力がなかったのである。」とあります。この御言葉から人々は彼を鎖につないでおこうとしたことが分かります。なんとかして家に居させるために足かせや鎖をつなぐこともできました。しかし、長く続きませんでした。この人は鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。そんな彼を押さえる力は誰にもありませんでした。結局、汚れた霊は彼を墓場に連れて行きました。そこで彼は夜昼となく、叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。人間らしい生活ができず、獣のようになっていたのです。誰も彼に霊的知識があるとは思えません。ところが、彼はイエス様を遠くから見つけてどうしましたか。 
6-8節をご覧ください。「彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」とあります。この人はイエス様を知っていました。獣のようになっていましたが、実はイエス様と神様のことを知っていたのです。いと高き神の子イエス・キリストに対する知識を持っていました。ただ、力強い汚れた霊に支配されていたために神様と交わることはできませんでした。神の形に造られた自分の本当の姿を失っていたからです。そんな彼に、イエス様は何と言われましたか。
9節をご一緒に読んでみましょう。「それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。」名前はその人の人格と存在を現わします。つまり、イエス様は彼が自分の人格と存在を表わすように名前を聞かれたのです。それは現在の自分の正体を言い表わすことによって自分の状態を認め、救われるようにするためです。神様は私たちが自分の罪深い状態、悪霊に支配されている状態を認めて告白するなら、その罪を赦し、救ってくださいます。そして、神の形に造られた本来の姿を回復して新しい人生を生きるようにしてくださいます。
創世記32:27-29節を見ると神様はヤコブに「あなたの名は何というのか。」と尋ねられました。すると、彼は「ヤコブです。」と答えました。それは「押しのける、かかとをつかむ、私は欺くものだ」という意味です。つまり、ヤコブは自分の兄のかかとをつかんで生まれ、父をも欺いていた罪深い自分の姿を認めて告白したのです。すると、神様は彼に「イスラエル」という新しい名前を与えられました。イスラエルというのは「神と格闘した者」という意味と同時に「神の皇太子」という意味です。神様はヤコブがヤコブ(私は欺く者)だと告白した時、彼を救われ、イスラエル(神様の皇太子)として新しい人生を始めるようにしてくださったのです。
このように、私たちも自分の名前を知り、告白すると、救われて新しい人生を生きるチャンスを与えられます。レギオンのような悪霊に支配されている自分、罪と情欲の奴隷になっている自分の罪深さを告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そして私たちが神様の皇太子として生きるように助けてくださいます。ではイエス様の質問にゲラサ人は何と答えましたか。
彼は「私の名はレギオンです。」と告白しました。レギオンというのは6,000人で構成されたローマの軍団のことです。つまり、ゲラサ人は、自分がローマ軍団のように強く、大勢の悪霊に支配されていることを告白したのです。すると、もはや汚れた霊はその人の中にとどまることができなくなりました。もはや、彼は神様の皇太子として生きるようになったからです。そこで、悪霊どもはそれを知り、自分達をこの地方から追い出さないでくださいと懇願しました。また、そこの山腹に、豚の大群が飼ってありましたが、彼らは「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」とイエス様にお願いしました。イエス様がお許しになると、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移りました。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまいました。そうして、悪霊につかれていた人は正気に返りました。彼がイエス様に出会う前はだれも悪霊につかれている彼を癒すことができませんでした。墓場に行かないように押さえる力さえなかったのです。ところが、イエス様は、このような、人の力ではどうすることもできないような罪人をも救ってくださいました。新しい心を与えて新しい人生を生きるようにしてくださいました。彼は癒されて正常な人に回復されたのです。何と素晴らしい光景でしょうか。悪霊の奴隷になっていた人が神様の皇太子としてアイデンティティを回復し、とても価値ある人生を生きるようになりました。
したがって町の人々は彼の救いを感謝し、喜ぶべきでした。できれば彼を招いて「悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様」という人生所感を聞いたら良かったでしょう。ところが、彼らの反応はどうでしたか。
16、17節をご覧ください。「見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。」とあります。町の人々の関心は人の救いよりも豚にありました。2千匹の豚を失ってしまうことばかり心配しました。それで彼らはイエス様に、この地方から離れてくださるよう願いました。彼らは悪霊につかれた人を癒してくださるイエス様を受け入れることよりも豚を守ること、自分たちの財産を守る道を選んだのです。ここで汚れている人々の価値観を見ることができます。いわゆる世的価値観です。世の人々はひとりの人の魂の価値よりも豚、豚肉や牛肉などの食べ物、あるいは着物や住まいなどに関心があります。彼らは宣教師や牧者たちが多く時間と物質を投資して伝道活動に励むことを理解することができません。彼らは、ただ四日間の国際修養会に参加するために何十万円もを使うことを理解することができません。しかし、イエス様の優先順位は人間です。私たちはイエス様のような価値観を持っていなければなりません。イエス様は「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。(マルコ8:36)」と言われました。全世界よりも価値あるひとりが救われるためなら2000匹の豚を犠牲にしてもいいということです。そして、いのちが救われるためには、犠牲も伴われることも学ぶことができます。神様は多くの人々が悪霊から解放されて新しい人生を出発する救いのみわざに人の犠牲も用いてくださいます。
先週、行われたUBF国際修養会では経済的に自立が難しいアフリカや南米などの牧者たちを招く費用だけでも3万5千ドルがかかったと聞きました。世界中から集まった3000人の経費を全部合わせるといくらになるでしょうか。莫大な金額になると思います。世の価値観から見ると豚を何千匹も失ったことになるでしょう。でも、神様はそういう犠牲を用いてくださいました。先ほど報告したように今回の修養会を通して新しく信仰告白して救われた人が230人もいました。天の御国ではこの救いを祝うために盛大な宴会が開かれたと思われます。
今回の修養会にメッセージを伝え、人生所感を発表した講師たちは救われて本当に素晴らしい人生を生きていました。彼らがメッセージを伝え、所感を発表する時に幸せに生きている彼らの家族写真もスクリーンに紹介されましたがとても幸せに見えました。でも、そんな彼らもイエス・キリストに出会って救われる前はとても暗くて辛い人生を生きていました。その中でひとりを紹介します。
メキシコのChristian Rico牧者はアルコール依存症だった両親の虐待を受けていました。殴られて血が流される時も頻繁にありました。傷のために数日間もベッドの上で横になっていたりしました。ところが、自分も高校生になると喫煙者になり、アルコールを飲むようになりました。人間の愛を探していた彼は彼女と姦淫に落ちて妊娠すると妊娠中絶をしました。その後、罪悪感が彼を苦しめました。別の学校に転校しても孤独と不安は消え去らず、うつ病にかかってしました。自殺願望を持って死にたいと思っていました。ところが、大学のベンチで泣いていた時に聖書勉強に招かれて「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」という御言葉を学び、父なる神様に出会いました。毎日聖書を学びたくなって聖書を学んでいくうちに姦淫と同性愛の罪を告白して神様の赦しを受け入れました。その後、彼は羞恥心、劣等感、罪責感から解放されて新しい人生を生きるようになりました。今は主日礼拝でバイオリンを演奏し、福音を宣べ伝えることのために励んでいます。主にあってクリスチャンホームを築き上げ、今はハンサムな息子と一緒に幸せに生きています。特に彼は運命主義、肉の欲望の奴隷になっている若者たちに対する牧者の心を持ち、神様が彼らを救うために自分の人生と家族を用いてくださるように祈っていると告白しました。このような素晴らしい救いのみわざの背後には2000匹の豚が犠牲されるような犠牲があります。
ナイジェリアのジェイムス牧者はメッセージの中で自分たちが救われ、ナイジェリアの多くの学生たちが救われているのは宣教師たちの犠牲によるものであることを証しました。Peter Park宣教師は学生たちと共に暮らすために安全なマンションもついている大使館の仕事をやめて15人から20人ほどの学生たちと共同生活をしました。三度も武器を持った強盗たちに襲われ、貴重なものも奪われました。それでも彼は国に帰らず、自分の持ち物をささげて御言葉に留まり、ナイジェリアに留まりました。そういう犠牲が神様に用いられて120名のメンバーと五つの家庭を築き上げることができました。
よくよく考えてみると、神様は私ひとりを救うためにご自分のひとり子さえを惜しまずにお与えになりました。私一人を救うために私の想像を超えた犠牲を払われたのです。罪深い私、悪霊に支配されていた私を救うためにイエス様のいのちが失われる犠牲がありました。聖書に「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(?ペテロ2:23〜24)
私たちは2000匹の豚が犠牲されるようなことだけではなく、測り知れないイエス様ご自身の犠牲によって救われているのです。イエス・キリストの犠牲は人知をはるかに超えています。そして、今も私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストに見習って自分と自分の家族を犠牲にしながら福音のみわざに仕えている神のしもべたちによって救いのみわざが起こっています。
今回の日本UBF修養会のためにも多くの方たちが時間と物質を犠牲しながら仕えていることを心から感謝します。韓国からも時間と物質を犠牲しながら日本の救いのみわざに仕えるために来られます。それは修養会を通して多くの魂が救われて新しい人生を生きるようになるからです。修養会を通してゲラサ人のような人が救われて新しい人生を始めるのです。
先週、国際修養会に参加した東京チームが訪問したカナダのNorthYorkUBFのPaul Lee宣教師は新宿の歌舞伎町のようなところに住み着いてゲラサ人のような生活をしていました。売春婦たちを描き、世の暗い所を絵で表現する画家になるためでしたが、そのうちに、自分の人生が暗くなってしまいました。タバコとアルコール依存症のために廃人になっていました。ところが、1981年夏修養会の時にイエス様に出会って救われて新しい人生が始まりました。そのとき、2万ボルトの電気が自分の体を通るような聖霊の力を体験したそうです。金ヨハネ宣教師も1986年の夏修養会を通してイエス様に出会った時はずっと泣いていたそうです。その後、ハンサムでやさしい金ヨハネ宣教師を恋していたすべての女性との縁を切り、聖なる牧者になりました。その光景を目撃したPaul Lee宣教師が証してくださいました。今は本当に素晴らしい幸せな家庭を築き上げ、10代から70代までカバする聖書先生として救いのみわざに尊く用いられています。今年の日本UBFの夏修養会にもPaul Lee宣教師、金ヨハネ宣教師などが体験した聖霊の働き、救いのみわざが起こることを期待し、信じて感謝します。
18節をご覧ください。イエス様が舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエス様に願いました。彼はイエス様の愛に感動され、いつまでもイエス様とともにいたいと願いました。しかし、イエス様はお許しにならないで、彼に使命を与えてくださいました。
19、20節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」イエス様は彼に自分の家、自分の家族のところに帰るように命じられました。この間、勉強しましたがペテロたちには「わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、この人には「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と命じられました。なぜ、このように、違っているでしょうか。その理由はよく分かりません。ただ、この人には、まず家族関係を回復し、家族福音化のために励む方向を与えられたということです。恐らく、この人は家族関係が破壊され、家族と離れて墓場に住み着いていたのでまず、家族の絆を回復する必要があったと思われます。
事実、イエス様は家族の絆をとても大切にする方です。ペテロのしゅうとめを癒されたことからも分かるように主に従う者たちの家族までも大切に思い、助けてくださいました。イエス様ご自身の家族も大切に思い、公の生涯を出発する30歳になる前は家族と一緒に暮らしておられました。ご自分が十字架にかかって死なれる時にも母マリヤのことを愛弟子ヨハネに頼んでおられます。ヨハネ19:27節に「それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」とあります。と言うはイエス様が人生の最後まで母に仕え、その後は弟子に頼んだということでしょう。
初代教会においても、家族はとても大切であることが聖書の記事のなかで取り上げられています。ピリピの教会の土台となった、紫布の商人、ルデヤや牢屋番にしても、家族がみな一緒に救われています。使徒16:31はキーワードです。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」このみ言葉によって、これまで多くの家族が救われてきました。

イエス様は私たち人間を悪霊の支配から解放し、救ってくださることだけではなく、家族の絆を大切にして生きることが願っておられます。自分だけではなく、家族も救われ、同族も救われること、さらに世界が唯一の父なる神様の家族として絆を大切にして行くことを望んでおられます。どうか、神様の御前で現状の自分の名前を告白してイエス様の癒しと救いを経験して行きますように祈ります。自分の家族を大切に思って愛し合い、自分が経験するイエス・キリストの救い、大きなわざを分かち合う生活ができるように祈ります。特に今週、金曜日から始まる夏修養会を通して日本UBFが霊的家族の絆をますます深めて行くことができるように祈ります。