2008ルカの福音書第3講 

わたしの心だ。きよくなれ。

御言葉:ルカ5:12?26
要  節:ルカ5:13

 先週、私たちは人間をとる漁師として召されたペテロたちのことを学びました。彼らがイエス様のおことばに従って深みに漕ぎ出して網をおろしてみたところ、意外にも大漁の魚をとるようになりました。それによって彼らはイエス様が神であられることを認識し、自分が罪深い人間であることも悟りました。すると、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われた時は何もかも捨ててイエス様に従いました。このような従順を通して彼らは人間をとる漁師としての偉大な人生を生きるようになりました。謙遜の伴う信仰と従順によってイエス様を体験し、イエス様のように生きるキリストの立派な弟子になったのです。
 今日はイエス・キリストによって癒された、ツァラアトの人、中風の人に関する御言葉です。ここで、私は皆さんとともにイエス・キリストの心、イエス様に対して私たちが持つべき心の姿について深く学びたいと思います。

12節をご覧ください。「 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」」とあります。ツァラアトと言うのは、「らい病」と訳されていました。新共同訳では「重い皮膚病」と約されてあります。しかし、私たちが使っている新改訳聖書第3版では旧約聖書の言語に基づいて「ツァラアト」そのまま約しました。なぜなら、厳密に言うなら「ツァラアト」と言うのは、らい病でも、重い皮膚病でもないからです。「らい」を「ツァラアト」に変えるように要請した長島曙教会の大島得雄牧師先生によると、「ツァラアト」は人間の皮膚、衣服、動物の皮、家の壁にも生じ、表面が損なわれた状態を指します。「ツァラアト」は主に祭儀的なものであって、神の前にけがれたものだとされています。人間は隔離され、衣服、動物の皮は焼かれ、壁は外に捨てられます。ですから、「らい病」とか「重い皮膚病」ではその意味を十分に表すことができないので、「ツァラアト」に訳したのです。このようなツァラアトの人は汚れているとされていました。汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければなりませんでした(レビ記13:45、46)。病気の悲しさだけではなく、愛する家族や友人からも離れていなければならないつらさのために苦しまなければなりませんでした。人間的な希望はまったくない状態になったのです。
しかし、人間的に希望が一つもない時でも、イエス様を見ると希望があります。どんな時でもイエス様を仰ぎ見なるなら、希望が見えてくるのです。この人もイエス様を見ると、希望が見えてきました。彼はひれ伏して、お願いしました。先ほど話したようにツァラアトの人は健康な人のところへ近づいて行ってはなりません。うっかりすると殺されます。ですから、彼は死んでも良いという心でひれ伏しているのです。そして、彼は「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。ここで私たちは彼がすべてをイエス様にゆだねていることが分かります。同時に、イエス様の癒しを信じています。彼が「主よ」と呼んでいるところにも彼の信仰が表れています。イエス様はすべてのすべてであられ、大いなる主であると信じる信仰です。彼はすべてをイエス様にゆだね、イエス様には自分を癒してくださる力があると信じたのです。ではこのような彼の態度に対してイエス・キリストはどうなさいましたか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」イエス様にはただ一言だけでも癒す力があります。マタイ8章を8節を見ると「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」とあります。そして8章13節に「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」とあります。このようにイエス様には一言だけでも癒す力があるのです。ところが、このあわれな人には、手を伸ばして、腐れただれた汚れた体に触れました。これはイエス様の愛とあわれみの特別の表現です。同じ出来事が記されてあるマルコ1:41には「深くあわれみ」と書かれています。
今まで健康な人が彼に触れることはなかったでしょう。家族さえ彼に触れることなく、町の外に追い出しました。しかし、イエス様は彼に手を伸ばして、触れられたのです。それはイエス様が彼のつらさ、その悩みと苦しみを決して他人事のように考えることができなかったからでしょう。彼のつらい心も、きよくなりたいという切実心も、イエス様の心になりました。そこで、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ。」と言っておられます。「わたしの心も、あなたが清くなることだ」と宣言してくださったのです。すると、すぐに、そのツァラアトが消えました。人の痛みを深くあわれむイエス様のお心は彼に伝わり、彼の病は消えたのです。
 律法では、汚れている人に触れると、その人も汚れた者とされます。イエス様はそのことをよく知っておられました。ですから、イエス様はツァラアトの人の代わりに汚れた者とされる覚悟の上で触れられたのです。そしてその汚れのためにイエス様は自ら十字架にかけられます。汚れをきよめるためにご自分の血を流されるのです。イエス様が人の病を負って十字架にかかって死なれるためにこの地上に来られたからです。
そして今もイエス様は私たちにも、このツァラアトの人に触れられたように、触れようとしておられます。私たちの病をご自分が負い、私たちを癒してくださるためです。そのために、イエス様は私たちがどのような時でも近づいてくださいます。マタイ28:20節を見ると「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。約束のとおりに、私たちとともにおられる主は私たちに触れようとしておられます。皆さん、イエス様に触れられましょう。イエス様にすがりついて触れるなら、心も、体も癒されます。
今、病のために苦しんでいる方はいないでしょうか。罪に汚れている自分の姿のために悩み、苦しんでいる方はいないでしょうか。このにぎやかな東京に住んでいても、町の外に出されているような寂しさを感じる時はないでしょうか。教会に来てもツァラアトの人のような寂しさ、悲しさ、つらさを感じている方がいるかも知れません。実は自分ひとりだけではありません。神様の御前で、私たち人間はみな霊的なツァラアトで苦しんでいることを認めざるを得ません。罪は、私たち全員がかかっている命取りの病気です。それは私たちの体質の中に染みこんでいます。いつも喜び、すべての事において感謝しながら幸せに生きることを望んでいますが、心の中では悩み、苦しみ、悲しみ、さびしさなどが消えないのです。それは心も、良心も、理性も、意志も、アダムから始まったすべてが罪のために病んでいるからです。私たちの肉体は健康であっても、。私たちの魂は生まれながらに罪過と罪との中に死んでいて苦しむのです。パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)と嘆きました。誰も霊的なツァラアトから私たちを救い出すことはできません。しかし、神様に感謝すべきことに、イエス様にはそれがおできになります。パウロは嘆きの後に言いました。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです(ローマ7:25?8:2)。このイエス様に救いがあります。イエス様はご自分が十字架の上で流された血によって私たちをすべての汚れから洗い清めてくださいます。私たちの心も、たましいもをきよめてくださいます。どんな病もを癒して健やかにしてくださいます。イエス様は私たちにいのちを与え、ご自分の御霊によって新しく生きるようにしてくださいます。ですから、イエス様の御前では私たちがいかに汚れていたとしても問題になりません。イエス様にひれ伏してお願いすると、イエス様がご自分の血潮によって私たちをきよめ、癒してくださるからです。イエス様は私たちをきよめ、癒してくださることだけではなく、社会生活も助けてくださいます。
14節をご覧ください。「イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」」とあります。イエス様は彼にまず「だれにも話してはいけない。」と言われました。なぜ、こんなことを言われたのでしょうか。おそらく、ツァラアトの人は誰にでも話したかったでしょう。「もう、私の病は治りました!」と一秒でも早く話したかったでしょう。また、それによってイエス様はますます有名になります。人々はそうなることは願います。しかし、イエス様は「誰にも話してはいけない。」と言われたのです。その理由は15節から分かります。「しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。」とあります。「しかし」とあるようにイエス様はご自分のうわさがますます広まり、多くの人の群れが話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来ることを望まれませんでした。もちろん、イエス様は人々の病気を直してくださいますが、この世に来られた目的はそれではなく、貧しい人々に福音を伝えるために来られたからです。イエス様は病気を癒してもらいに集まって来る人々のために、最も大切な伝道ができなくなってしまうことを望まれなかったのです。
ただ、イエス様は一度助け始めた人を最後まで助けてくださいます。イエス様はツァラアトの人が祭司のところに行って自分を見せるように言われました。それは彼の社会生活を助けるためです。レビ記14章によると、ツァラアトから癒された人は祭司のとこへ行って自分を見せることになっています。そこで、きよめの供え物をして神様との関係を回復しただけでなく、祭司から「きよい」と宣言してもらうことになっています。それによって、ツァラアトの人はきよめられたことが皆に知らされて正常な社会生活ができるようになります。だれにも近づくことができない生活ではなく、誰にでも近づくことができるだけでなく触れ合うこともできるようになるのです。これがイエス様のお心です。私たちがきよめられ、癒されて健康になり、人々と触れ合いながら健康な社会生活ができること、それがイエス様のお心なのです。それで、イエス様は彼をきよめ、癒すことだけではなく、彼が触れ合いの中で正常な社会生活ができるようにガイドしてくださいました。
サタンは私たち人間が触れ合うことを嫌がります。最近増え続けている引きこもり、不登校、神経症障害、対人関係障害、性格障害、強迫神経症などにはさまざまな原因があるでしょうが、霊的に考えてみると、サタンの働きが強い証拠です。サタンは神様と人間が触れ合うこと、人と人が触れ合うことを嫌がります。「性格が合わない、気が合わない、育ちが違う、考え方が違う」などの理由を挙げて触れ合いができないようにします。それによって人間関係が崩れるように、夫婦関係も、親子関係も崩れるようにします。隔離された自分の世界を作って行くように働いています。コンピュータ、ゲームセンターなどを通して隔離された世界を作って行くようにしているのです。教会の礼拝さえ触れ合うことができないようにインターネット礼拝に誘っています。この間、長老である韓国の李明博大統領が警護問題と忙しさのためにインターネット礼拝をささげていることが報道されました。それに対して彼が大統領になるように大きく協力した牧師先生は「礼拝がテレビゲームなのか。」と指摘していました。なんでも自分の都合に合わせて行くことはイエス様のお心ではありません。イエス様のお心は私たちの病んでいる心が癒されて、互いに触れ合うことです。互いに愛し合いながら健康な社会生活を営むことがイエス様のお心です。初代教会には触れ合い、愛し合う生活がありました。毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれていたのです(使徒2:46,47)。そういう素晴らしい教会生活、社会生活ができるように、イエス様はツァラアトを冒されていた人を助けられました。
私たち人間はツァラアトのような病を持って悩み、苦しむ時、それを人のせいにしたり、環境や状況のせいにします。自分が腐っていくことは知らないでいるのです。しかし、私たちはどんな問題があっても人のせいにしたり、他人事のように思ったりしないでイエス様にひれ伏してお願いしなければなりません。イエス様は近くにおられます。私たちに触れようとしておられます。どうか、私たちがイエス様にひれ伏してお願いし、イエス様に触れられてきよめられ、癒されますように祈ります。きよめられ、癒された心で人々と触れ合い、体も、心も健康な社会生活ができるように祈ります。
イエス様はツァラアトの人に「誰にも話してはいけない」命じたにもかかわらず、イエス様のうわさがますます広まり、多くの人の群れが、話を聞き、また、病気を直してもらいに集まって来ました。イエス様はご自分が目的にしている福音伝道が計画通りにできなくなってしまいました。しかし、イエス様はその環境を人のせいにしませんでした。また、人々の要求に振り回されて働くこともなさいませんでした。イエス様ご自身はよく祈ることによって神様の御心に従うことを最優先にしておられたのです。
現代はほんとうに忙しい時代です。あれもしなければならない、これもしなければならない、という思いが先立って祈りがなかなかできなくなっていることを感じます。しかし、イエス様は、多くの人が話を聞き、また、病気を直しに来ていたような時でもよく祈っておられました。私たちも忙しければ忙しいほど神様との交わりを大切にし、イエス様のように祈る習慣を身につけていくように祈ります。それもイエス様のお心だからです。
 17節からは、中風を患っている人の癒しに関して記されています。17?19節をご覧ください。ある日のことです。イエス様が教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていました。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。そこで、イエス様は、主の御力をもって、病気を直しておられました。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来ました。そして、何とかして家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしていました。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つかりませんでした。普通だったら、どうにもならないような状況の中で失望せざるを得ませんでした。あきらめて家に帰るか、あるいは列に並んで待つしかありませんでした。彼らは幼稚園の時からそのようにするように教えられてきたでしょう。何度も何度も「邪魔しないで・・・、迷惑だよ。ちゃんと並ぶんだよ。」と言われて来たからです。しかし、せっかくここまで連れて来たのだから、ぜひ癒していただけなければならないと思ったでしょうか。彼らは非常手段をとりました。すなわち、「屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした」のです。何と乱暴な行動でしょうか。なんか特殊部隊が浸透しているような気がします。ひれ伏してお願いしたツァラアトの人とは全く違う行動です。決しては紳士的な行動ではありませんでした。しかし、イエス様がご覧になると、それは信仰的な行動でした(20節)。中風の人自身もぜひ癒していただきたいとの切なる願いを持っていたと思いますが、それも信仰でした。彼を連れて来た人々もぜひ癒してやっていただきたいとの深い愛を持っていたでしょうが、それも信仰でした。イエス様はそのような心も高く評価してくださいました。イエス様は彼らの愛と信仰が普通の人が思う常識を超えていると評価してくださったのです。事実、愛と信仰がすべての障害を取り除き、激しく攻めるようにしてイエス様に近づくようにしました。それゆえ、イエス様は彼らの信仰を見て罪を赦し、癒されたのです。
マタイ11:12b節を見るとイエス様は「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われました。「激しく攻める」と言うのは一見乱暴ですが、実は率直かつ熱烈な信仰の行動です。私たちはやさしさだけが信仰の行動であるかのように思いますが、イエス様は激しく攻めるような信仰の行ないも喜ばれます。生ける信仰と切なる願いの前には、非常識も、無礼も、遠慮なき行動も、いっさい忘れてしまいます。志が堅ければ、道は必ず開かれるものです。生ける信仰はいっさいの障害を突き破って進みます。実際に信仰の勇士たちは特殊部隊もはいることができない国々にはいって宣教活動をしています。今も激しく攻めるような信仰によって働く多くの宣教師たちによって世界宣教は広がっています。私たちも自分のため、また人のために、このような熱烈さを持って主に近付きたいと思います。自分の問題が解決されるまで、人の問題が解決されるまでは激しく攻め続ける心を持って主の癒しと恵みを求めて行きましょう。特に、今は霊的に中風の人のようなニート、引きこもりの若者たちが増え続けていると言われています。彼らに対する愛情、どんな人でもイエス様のところに連れて来るなら、イエス様が癒してくださるという信仰を持ってフィッシングと1:1聖書勉強に励むことができるように祈ります。
 20節をもう一度ご覧ください。「彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」とあります。イエス様は彼らが病の癒しを願って来たことをご存知だったと思いますが、まず罪の赦しを宣言なさいました。それは単なる肉体の癒しよりも、罪の赦しが大切であったからでしょう。確かに肉体の癒しは必要です。イエス様もいろいろな病を患っている人々を癒してくださいました。しかし、それよりも重要なのは神様との関係性を正しくするために罪が赦されなければなりません。すべての病の原因は罪のあるとは言えませんが、病がこの世にはいったのは、罪の結果であることも事実です。申命記28章を見ると主の御声に従わないなら呪われますがその呪いとして病があります(28:15、21、22、27)。個人的には病人に必ず罪があると言えませんが、その人の罪の結果である場合もあるのです。ですから、病気にかかっと時には、まずへりくだって自分を省み、罪を示されたなら、まずそれを悔い改めなければなりません。まず罪を赦していただくのです。イエス様は私たちの罪を贖うために、罪の呪いを受けて十字架にかかって御血を流し、死なれました。イエス様はツァラアトの人のきよめを確かにし、中風の人の赦しを確かにするために十字架にかかって死なれました。私たちの汚れと罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。イエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。それほどに私たちが赦されること、きよめられて癒されることを願っておられたからです。ですから、イエス様を信じる者は、イエス様が十字架上で流された御血によってすべての罪が赦されます。たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります(イザヤ1:18)。イエス様には罪を赦す権威があるからです。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めました。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」しかし、イエス様の言葉には病気を直す力も、罪を赦す力も、そのいずれの力も持っておられます。そこで、イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。するとどうなりましたか。
25、26節をご覧ください。「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。」とあります。結局、イエス様には病気を癒す力も、罪を赦す権威もあることが明らかにされました。
この時間も、イエス様は私たちのところに来てくださって、私たちがイエス様に触れること、きよめられ、癒されることを望んでおられます。イエス様の心は私たちが信仰によって生きること、私たちの罪が赦され、病が癒されて健康に生きることなのです。