2001年マタイの福音書第14講
わたしがあなたがたを休ませてあげます
御言葉:マタイの福音書11:20?30
要 節:マタイの福音書11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
今の時代は過去のどんな時代よりも物質的に豊かな時代であり、様々なレクリエーションやスポーツなどによる楽しさが溢れている時代です。それにも関わらず人々の心には安らぎがなくむしろストレスがたまって精神病にかかる人々が増えています。激しい競争社会の中でいつも緊張した生活をしているので心には不安と恐れがいっぱいです。今の時代は一言で言えば真の休みがない時代だと言えるでしょう。このような時代に生きている私達はどうすれば真の休みを得ることができるでしょうか。イエス様は疲れた人、重荷を負っている人々を招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この時間、私達を招いておられるイエス様のところに出て行き、心の安らぎを得ることができるように祈ります。
?.ああコラジン(20-24)
20節をご覧ください。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」イエス様はガリラヤの町々で多くの奇蹟を行なわれました。らい病人をきよめられました。中風の人を癒されました。盲人の目を開き、死んだ人を生き返らせました。これは死の陰に座っていたガリラヤの町々に施された特別な恵みでした。このような数々の力あるわざを見たガリラヤの町々は神様の御前に恐れ、悔い改めなければなりませんでした。ところが、その町々は、悔い改めませんでした。イエス様が行われた数々の力あるわざは人々がイエス様を信じる良い機会になります。しかし、奇蹟を見たからと言って自然に信仰を持つわけではありません。奇蹟を見てイエス様に対する信仰を持つためには必ず悔い改めなければなりません。それでイエス様も福音を宣べ伝え始めた時に「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました(マルコ1:15)。悔い改めは「考え直す」「考え直して道を変える」という意味です。それは神様とイエス様に対する考えや自分の罪に対する考えを変えることです。すなわち、イエス様を立派な先生としか考えていなかった人が、力あるわざを行われたイエス様こそ神様の御子であることを悟り、イエス様に対して考え直してイエス様を救い主として信じることです。ここには必然的に自分の罪を悔い改めることが伴います。さらに自己中心から神様中心に人生の方向を変えることが伴います。ペテロはイエス様の御言葉に聞き従うことによって多くの魚を取る奇蹟を体験しました。その体験をした彼はイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました(ルカ5:8)。それから彼はイエス様について行く弟子になりました。イザヤも聖なる神様に出会い、悔い改めて預言者として召されました。神様が私達に願われるのは、悔い改めることです。悔い改めると神様はすべての罪を赦してくださいます。アッシリアの首都ニネベの人々は罪を犯したので神様は彼らを滅ぼそうとしました。しかし、彼らは預言者ヨナの審判のメッセージを聞いて王から始めすべての人々が断食しながら悔い改めました。神様は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされませんでした(ヨナ3:6-10)。詩篇35:18節は「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」と言っています。ですから、悔い改めは祝福される条件です。
イエス様は力あるわざを多く行なったガリラヤの町々が悔い改めることを期待しておられました。彼らがイエス様を信じて救われるのを願われました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。そのような彼らに向かってイエス様は何と言われますか。21,22節をご覧ください。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」ここで「ああ」とは、怒りというよりもむしろ悲痛さを表わしており、イエス様の嘆きです。コラジンはカペナウムから近い町です。ベツサイダはピリピの故郷であり、ペテロとアンデレの生まれたところです。ツロとシドンはフェニキヤの商業都市で、栄華と快楽の町、高慢と偶像礼拝の町でした(イザヤ23、エレミヤ25:22、47:4)。イエス様はこのような町ですらコラジンとベツサイダで行われた力あるわざが行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろうと言われます。荒布をまとい、灰をかぶることは激しい嘆き、悲しみ、悔い改めを現わしています。「罰が軽いのだ」は、福音を拒む罪がいかに重いものであるかを言っています。多くの特権と機会が与えられながら、悔い改めない者が、よりきびしいさばきに会うことを言っています。
カペナウムはどうですか。23,24節をご覧ください。「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、お前達に言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」カペナウムは地中海とダマスコを結ぶ要所として繁栄して大商業都市になり、自らを天に上げる思いで高慢と自己満足に陥っていました。ソドムは罪の代名詞でした。このような罪の町ソドムですら、イエス様がカペナウムでなさった力あるわざを経験したら、悔い改めて、今日まで残ることができたでしょう。イエス様は福音を聞くことに対する驚くべき責任を警告しています。イエス様は受け入れる者には救いの岩、拒否する者にはさばきとなります。
ここで私達は高慢がどれほど恐ろしい罪であるかを学びます。私達が御言葉を聞いても高慢な心を持って悔い改めないと神様の恐ろしい裁きを招くことになります。それでは人々はなぜ高慢になりますか。カペナウムが繁栄した時に高慢と自己満足に陥ったように人々は繁栄した時に高慢になりやすいです。貧しい時には謙遜に神様に頼りますが、神様の祝福を受けて豊かになると祝福してくださった神様を忘れて高慢と自己満足に陥ってしまうのです。知識が多い人も高慢になりやすいです。自分が知識的に足りないと思う人は謙遜に学ぶ心がありますが、自分は知識が多いと思う人は高慢と自己満足に陥ってしまい、悔い改めようとしません。イスラエル人は神様から選ばれたアブラハムの子孫であることを誇りました。彼らは高慢になり、イエス様のメッセージを聞いても悔い改めませんでした。そして、救い主イエス・キリストを十字架につけて殺す罪を犯してしまいました。結局紀元70年にローマのテトス将軍によってエルサレムは完全に滅ぼされ、イスラエル人は国々に散らされました。このように高慢は恐ろしい結果をもたらします。神様は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えてくださいます(?ペテロ5:5)。高慢な心を悔い改めて謙遜な心を持つ時に福音を信じることができます。その人が神様からの祝福と恵みをいただくことができます。悔い改める時に信仰の世界に入ることができます。ですから、私達は高慢な心を悔い改めなければなりません。今年のSBCが悔い改めて天の御国を所有するSBCとなるように祈ります。悔い改めて罪の赦しと祝福を受けるSBCとなるように祈ります。
?.わたしのところに来なさい(25-30)
イエス様は高慢な人々のために心を痛められましたが、何によって感謝されましたか。25,26節をご覧ください。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子達に現わしてくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」ここで「賢い者や知恵のある者」はすべてのことを知っていると誇る高慢な人です。このような人々は学ぼうとしません。ですから、このような人々には福音の奥義が隠されています。福音の奥義は、人間的な知恵と知識を誇りにしてメシヤを拒否する者からは隠されます。「幼子達」は自分の足りなさを知っているので謙遜に学ぼうとする人です。神様は幼子たちのように単純で心開いた者達に福音を現わしてくださいます。イエス様の弟子達は幼子達のような人々でした。イエス様は賢い者や知恵のある者には福音の奥義を隠して、幼子達に現わしてくださる神様の御心に全面的に同意されました。「そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」
27節をご覧ください。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに満たされています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」すべてのものは御国の福音の啓示いっさいを意味します。それが御子イエス様に全面的に任せられていました。神様を知ることは非常に大切なことです。それは人間に与えられた最大の特権であり、祝福です。ヨハネの福音書17:3節は次のように言っています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」神様を知ること、それが永遠のいのちです。神様を知る時、永遠のいのちを得ることができます。人間の不幸は神様を離れて神様を知らない霊的な無知から始まりました。人間は神様を知らないままいくら豊かな生活をしても真の幸せも真の休みも得ることができません。神様とイエス・キリストを知らない人は人生の意味や目的を知ることができず、自分がどこから来てどこに行くのかを知りません。私達が真に幸せな人生、魂の安らぎを得るためには私達を創造された神様を知らなければなりません。ところが、神様を知ることは人間の知識や知恵によってできるものではありません。それはただ神様を知るための知恵と啓示の御霊によって知ることができます(エペソ1:18)。知恵と啓示の御霊は謙遜な人に与えられます。
28節をご覧ください。イエス様は、神様を知らず疲れた人、重荷を負っている人を招かれますか。ご一緒に読ませていただきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ここで「疲れた」は喜びがなく苦労し続けながら生きていることです。「重荷を負う」は重荷を負い続けることを意味します。アダムが罪を犯した後人は一生苦労し続ける者、重荷を負い続ける者になりました。人々は一日三食食べて生きるためにどれほど多くの苦労をしているでしょうか。仕事が終わって帰りの電車に乗っている人々を見ると疲れた様子がはっきり見えます。多くの人々は居眠りしています。そして、疲れがたまったまま次の日、再び満員電車に乗らなければなりません。それでも仕事がある人は幸いです。そのような仕事さえなくて食べるにも苦労する人々がいるからです。人々は一生苦労ばかりしても結局は死んで土に帰ります。罪を犯したアダムに神様が言われたとおりです。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」
人々は重荷を負っています。学生に学生なりに、家族を養う家長は家長なりに、重荷を負っています。重荷を担いきれず自殺する人もいるほどです。人はそれぞれ重荷を負っていますが、一番大きな重荷は罪の重荷です。罪を犯すと心の平安を失い、恐ろしい罪意識にさいなまれます。罪を犯すと神様との不和状態から来る不安とサタンの訴えにさいなまれます。カインは神様に対する反抗心と弟アベルに対する妬みに燃えて弟を殺してしまいました。そのため彼は神様から呪われ地上をさまよい歩くさすらい人となりました。彼は神様に「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」と申し上げました(創4:13)。カインは自分に出会う者が自分を殺すのではないかという恐れにさいなまれました。彼は罪の重荷を負ってさまようさすらい人となりました。これが現代人の姿です。ダビデはウリヤの妻を犯してそれを隠すためにウリヤを激戦地に送って死なせる罪を犯しました。彼はその罪を隠そうとしましたが、罪意識は消え去ることなく彼を苦しめました。ダビデは詩篇38:3,4で罪の重荷がどれほど重いかを次のように告白しました。「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」それで彼はそむきを赦され、罪をおおわれた人は幸いであると歌いました(詩篇32:1)。
人々は自分が一番疲れた人、重荷を負っている人だと思っています。しかし、すべての人が疲れた人であり、重荷を負っている人です。それではどうすればこのような疲れた人生、重荷を負っている人生から解放されるでしょうか。
もう一度28節を一緒に読ませていただきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」これは父なる神様を知るためにイエス様のもとに来なさいという恵みに満ちた招きです。私達があるがままイエス様の御前に出て行けばイエス様は私達を休ませてくださいます。イエス様は私達を暖かく迎え入れてくださり、病んでいるたましいを癒してくださいます。イエス様は私達から罪の重荷を下ろさせてくださいます。イエス様は私達に生きる意味と目的を与えてくださいます。聖アウグスチヌスは心の平安を得るために苦行をしたり、多くの勉強をしたりしましたが、心には苦悩だけが積もるだけでした。しかし、彼がイエス様に出会った時、長いさ迷いに終止符を打ってあの有名なことばを残しました。「われわれ人間は神様に出会うまでには真の安息を得ることができない。」使徒パウロは正しく生きるために励みましたが、罪の重荷を負って次のように嘆息しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか。」このような彼がイエス様に出会ってからは次のように言葉が変りました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)。このようにイエス様の招きを聞いてイエス様の御前に出て行く者は真の休みを得ることができます。イザヤ40:31節は次のように言っています。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」疲れた人、重荷を負っている人を招かれ、休ませてくださる主イエスをほめたたえます。
29,30節をご覧ください。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」この御言葉は、私達が安らぎを得る二つの知恵を教えてくださいます。第一に、イエス様のくびきを負うことです。イエス様は心優しく、へりくだっておられます。ここで心優しくとは柔和の意味です。イエス様は柔和で、謙遜な方ですから誰でも近づくことができる方です。イエス様はご自分のところに来るどんな人も受け入れてくださいます。ご自分を低くされたイエス様は、人の重荷を知っておられます(ピリピ2:6ー8)。くびきは人が牛や馬を従わせるのに用いるものです。それは気ままに歩むものにとっては束縛、邪魔物となりますが、主人の心に従うものには必要なもの、願わしいものです。これは、イエス様の主権を全面的に認め、その交わりの関係に入ることです。このようなイエス様との関係に入ることが、真の平安への道です。イエス様に従う時に不安、罪悪感、欲求不満など人を極度の緊張、焦りに追いやるものから解放されます。イエス様は私達のわずらいを身に引き受けられた方です。イエス様は私達を罪の重荷から解放するために私達の代わりに罪の重荷を背負って十字架につけられました。
イエス様のくびきは負いやすく、イエス様の荷は軽いです。「負いやすく」は、よくからだに合って快適なことを表わします。イエス様とともに歩む時には重荷も軽くされます。実際にイエス様は大工として一番軽く負いやすいくびきを作られたそうです。イエス様は創造主として私をよく知っておられるので、私に一番負いやすく、軽いくびきを負わせてくださいます。イエス様のくびきはイエス様の御言葉と使命の十字架を意味します。イエス様の御言葉は私達に力といのちを与えます。人生の意味と目的を知らせ、行くべき道を示してくれます。イエス様の御言葉は私達のいのちを豊かにし、私達に生ける望みを与えてくれます。また、使命の十字架は私達が実を結ぶようにしてくれます。イエス様の御言葉に従いイエス様から与えられた使命人の人生は軽いくびきです。同じくびきでも義務感や律法的な考えによって負うと重いくびきになりますが、恵みによって負うと軽いくびきとなります。イエス様は私達が負うべきすべての重荷を代わりに背負ってくださいます。私達を罪と死の苦しみから解放してくださいました。そして、この恵みに基づいてイエス様のくびきを負うようにします。このくびきは私達の幸せのために与える恵みのくびきです。また、イエス様のくびきは私達だけが負うくびきではなく、イエス様がともに負うくびきなので、軽いのです。私達はただイエス様の導きに従えばいいのです。ところが、重荷をイエス様に下ろそうとせず、自分が負って行こうとするから疲れてしまいます。私達は自分の荷をイエス様にゆだねる信仰を学ばなければなりません。
第二に、イエス様から学ぶべきです。イエス様は私達より先にくびきを負って行かれました。私達が行くべき道を教えてくださいました。イエス様が与える使命のくびきを負い、イエス様から学ぶ時に安らぎを得ることができます。私達は使命の十字架が重荷となり、使命の十字架がない信仰生活を考えます。しかし、イエス様が与える使命の十字架は重荷ではなく、イエス様をよく学ぶことができるものです。高慢な人、不従順な人、利己的な人、安逸を愛する人、自分勝手な道を歩みたいと思う人、世を愛する人にとって使命の十字架は重荷になります。使命の十字架を負われたイエス様の柔和と謙遜、犠牲と愛、従順を学ぶ時にたましいに安らぎがあります。
私達が神様の御言葉によって、からだの行ないを殺し、使命の十字架を負い、イエス様を学ぶことができるように祈ります。イエス様は心優しく、へりくだっている方です。イエス様は神の御子ですが、私達と同じ姿を取ってこの世に来られ、罪人に仕えてくださいました。私達のすべての重荷を背負って十字架につけられ死なれました。このイエス様はすべて疲れた人、重荷を負っている人々を招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」私達がイエス様のところに出て行き、すべての重荷を下ろし、たましいに安らぎを得ることができるように祈ります。