2001年マタイの福音書第26講
エルサレムに入城されたイエス様
御言葉:マタイの福音書21:1?22
要 節:マタイの福音書21:5「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
マタイの福音書21章からいよいよメシヤの生涯の最後の週に入ります。時は過越の祭りで、エルサレムは群衆でひしめき合っていました。エルサレムの周辺約三十キロに住む成人男性はこの祭りに参加する定めになっていたし、また遠く各地にちらばっていた者たちも集まって来たからです。このきわめて劇的な時に、人類史上最も劇的なことがこれから起こります。しかもそれは人類歴史の転換点となります。今日の御言葉はイエス様がエルサレムに入城される内容です。その時、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ろばの子に乗って入城されるイエス様はどんな方でしょうか。この時間、私たちの王として来られたイエス様を心の中に迎え入れることができるように祈ります。
?.ろばの子に乗って入城されたイエス様(1-11)
第一に、主がお入用なのです。1節をご覧ください。イエス様と弟子たちはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来ました。その時、イエス様は弟子をふたり使いに出して、言われました。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」(2,3)。イエス様は弟子たちが理解しにくいことをさせました。イエス様はお金も払わないで他人のろばを連れて来るように言われたのです。しかし、彼らはイエス様から言われたとおりにしてろばを連れて来る事ができました。これを通して、イエス様は弟子たちに、ご自分が万物の主人であることを表わされました。ヨハネの福音書1:1-3は次のように言っています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」イエス様は天地万物をお造りになった創造主です。また、私たちにいのちを与えてくださった方です。ですから、「主がお入用なのです」は、イエス様がろばの主人よりも真の意味でその持ち主であることを表わします。無名のろばの子は主に用いられるようになりました。このろばの子は歴史上一番祝福されたろばとなりました。なぜなら、メシヤを背に乗せることができたからです。ろばの子と同じく主が私たちを選び分けられ、用いてくださるのは大きな祝福であり、恵みです。人々はもっと貴く用いられたい願いを持って熱心に勉強したり、働いたりしています。しかし、どんなところで用いられるとしても天地万物を創造された神様に用いられることより栄光あることはないでしょう。よい職場が与えられ、大切な仕事が与えられたとしてもそれは野の草や花のようにしおれる時が来るからです。私が働いている学校の校長の奥さんは韓国で大学教授をやっていました。大学教授になるまでどれほど苦労しながら勉強したことでしょうか。ところが、去年から急に小脳が小さくなる病気にかかりました。段々症状が表われ、歩くことさえも難しくなりました。仕方なく仕事を休んで日本に来て診察をしてみたら、それは現代医学では直らない病気だと言われました。それで今度はアメリカの病院に行って診察をしましたが、やはり同じ診断結果が出ました。これからもまだまだ働ける歳なのに、このような不治の病にかかってしまったのです。このように人はいつまでも働けるのではありません。神様は私たちにいのちを与え、また、いのちを取られる方です。この方が私を用いられると言われます。どれほど栄光あることでしょうか。何の資格もない者に「主がお入用なのです。」と言われるのです。自分は日本に来て苦労ばかりしたと思う人もいるかも知れません。しかし、そうではありません。よく考えてみると、何の資格のない者を主が選ばれ、用いてくださったことを深く感謝しなければなりません。そして「主がお入用なのです」と言われた時、「主よ。感謝します。」と喜んで主に従うべきです。本文に出るろばの主人はどうでしたか。ろぼの主人は、万物を所有し支配される方の要求に従いました。彼は自分が育てたろばの子が主に用いられる恵みを受けました。
第二に、イエス様は謙遜の王、平和の王です。弟子たちはろばとろばの子を連れて来ました。これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのです(4)。5、6節をご覧ください。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。どんな王がろばの子に乗るでしょうか。一般的に王は多くの兵士達に囲まれて何匹もの白馬が引く黄金の馬車に乗るでしょう。今なら専用飛行機に乗って空港に着き、防弾ガラスで出来たリムジンに乗るでしょう。ところが、王の王であるイエス様はろばに、それもろばの子に乗って入城されました。旧約聖書で預言者ゼカリヤはこのイエス様について次のように預言しました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(9:9)。イエス様は謙遜の王です。ろばは平和を象徴します。ですから、イエス様は平和の王です。イエス様は王の王ですが、愛と平和によって人々の心を治められます。このイエス様を自分の王として受け入れる時、心に平安が臨まれます。イエス様に治められる人はどんな人でも新しく生まれ変わります。ヤクザもイエス様を親分として受け入れると生まれ変わり牧師になれます。ですから、イエス様を自分の王として心に迎え入れる人は幸いな人です。謙遜の王、平和の王として来られたイエス様を私の王として心に迎え入れることができるように祈ります。
第三に、ホサナ。弟子たちは行って、イエス様が命じられたとおりにろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けました。イエス様はそれに乗られました。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷きました。群衆はイエス様を熱烈に歓迎しました。上着を道に敷いたのは、王を迎えることを意味しました。したがって、群衆はイエス様を王と認めたのです。このイエス様のゆえに群衆は大声で賛美しました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(9)。「ホサナ」というアラム語は、「今お救いください」の意味です。群衆はイエス様に大きな期待をかけていました。彼らはイエス様が自分たちをローマの圧制から救ってくださることを叫んでいました。彼らは政治的なメシヤが現われてイスラエルを回復する時を待ちに待っていました。彼らはイエス様が王となって彼らの涙を拭い取ってくれることを願いました。イエス様は彼らが待ち望んだ英雄であり、理想の解放者でした。しかし彼らは、二、三日するとイエス様が逮捕されたことに失望し、イエス様を「十字架につけろ」と叫ぶほどに変わりました。
イエス様がこの世に来られた目的はローマから解放するためではなく、罪と死から解放するために来られました。罪のゆえに滅びるしかない者を救い出し、神様の子どもとし、神の国を相続させるために来られました。誰が私たちを罪と死から救うことができるでしょうか。イエス様は私たちを苦しめる罪と死から救うことのできる唯一の救い主です。十字架につけられたイエス様はサタンの頭を踏み砕き、人類の救いの御業を完成されました。イエス様は罪と死とサタンに支配されている人々を救う救いの王です。「ホサナ」「今お救いください」これは私たちの叫びであり、すべての人々の叫びです。主はその叫び声を聞いて私たちを救うためにこの世に来られた救い主です。
?.宮をきよめられたイエス様(12-22)
イエス様は、エルサレムに入られた後、最初にどこに行かれましたか。12節をご覧ください。「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」メシヤとして入城されたイエス様は、メシヤとして宮きよめをされます。「宮」とは「異邦人の庭」のことで、ここには異邦人も入れました。そこでは二種類の商売が行われていました。一つは「両替」です。イスラエルの成人男子に定められた半シェケルの宮の納入金は、イスラエルの半シェケル貨幣でなければなりませんでした。そこで、ローマ帝国の各地から来る者たちはおのおの貨幣を両替しなければならず、両替するには、十分の一から六分の一もの手数料を取られました。もう一つは、「鳩を売る」ことに代表される、供え物の動物の売買でした。いけにえに捧げられる動物は傷のないものでなければならず、その検査はめんどうなものでした。そこで巡礼者たちは、宮の売店で検査済みの動物を買いました。この売店はアンナスの売店と呼ばれ、大祭司アンナスの家族の所有で、悪質な利益の場となりました。イエス様の宮きよめは、このように聖なる名による悪らつな搾取に対する怒りでした。13節をご覧ください。そして彼らに言われました。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イザヤが預言したように、神の家は、祈りの家、真の礼拝の場所でなければなりません。神の家は神様に出会う場所です。ところが、いけにえさえささげればよいとして不当な利益をむさぼる彼らは、まさに神の家を強盗の巣にする者たちでした。祈りの家となるべき宮はまるで市場のようになっていました。彼らは熱心にいけにえを捧げていたので、神様によく仕えているように見えました。しかし、彼らの心は強盗の巣のようでした。どんなにすばらしい神殿ができても、そこで本当の礼拝が守られなかったら意味がありません。一人の一人の中に本当の信仰の宮が建てられなければ意味がありません。私たちは生ける神の宮です。ですから、自分をきよめなければなりません。
14節をご覧ください。宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエス様は彼らをいやされました。神の慈愛のわざこそ神に喜ばれる礼拝であることを、イエス様はこれによって示されました。ところが、祭司長と律法学者たちは、イエス様のなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てました。「イエスのなさった驚くべきいろいろのこと」は、イエス様のいやしの奇蹟はもちろんのこと、宮きよめのことなどを表わしています。彼らはイエス様に言いました。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエス様は言われました。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」イエス様は、子どもたちの賛美を快く受け入れられます。ルカ19:40には「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と言っています。神様は石から、あるいは乳飲み子からさえも、賛美をお受けになる方です。
イエス様は彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられました。ベタニヤには、イエス様の愛されたラザロとその姉妹たちの家がありました。翌朝、イエス様は都に帰る途中、空腹を覚えられました。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれました。それで、イエス様はその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われました。すると、たちまちいちじくの木は枯れました。これは実りのないイスラエルに対する神のさばきを表わします。この見せかけだけのいちじくの木を枯らすことによって、イエス様は、実を結ぶことを忘れたユダヤ教に対するさばきを象徴的に表われました。祈りの家となるべき宮が強盗の巣になっていたのは、実のないいちじくの木のようなイスラエルの状態を表わしたものでした。このように実のないイスラエルはローマによって滅びました。
20節をご覧ください。弟子たちは、これを見て、驚いて言いました。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエス様は何と答えて言われましたか。21,22節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」信仰による祈りは力があります。山は大きな問題、障害を意味します。信じて祈ることによってのみ、実を結ぶことを妨げる障害の山を動かすことができます。信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。信じて祈り求めると主は道を作ってくださいます。山のように大きく見える問題も動かしてくださいます。これは弟子たちの信仰と祈りの励ましであるとともに警告でもあります。もしそれらが欠けるなら、彼らも「実のないいちじく」、すなわち形式的な信仰者となってしまいます。
私たちはろばの子に乗って入城されたイエス様の姿と当時の宮の姿、そしてイスラエルの姿を通してどんな人生を送るべきかについて学ぶことができます。イエス様は王の王であり、創造主です。ですから、地上のどんな王よりも栄光ある姿で入城するべきでした。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。イエス様はこの世にお生まれになるときにも馬小屋でお生まれになりました。イエス様は、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありません。イエス様はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人となりました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかったのです(イザヤ53:2,3)。
しかし、イエス様はどんな方でしょうか。イエス様によって盲人が見えるようになり、中風の人が起きて歩くようになりました。らい病人が癒され、死んだ者が生き返りました。イエス様の前では突風が静められました。悪霊につかれたゲラサ人から悪霊を追い出してくださいました。イエス様によって多くの人々が生かされ、癒されました。イエス様によって多くの人々がいのちを得ました。イエス様によって多くの人々が新しく生まれ変わりました。イエス様はよみがえりであり、いのちです。イエス様は天と地のいっさいの権威を持っておられる方です。使徒パウロはこのイエス様を次のように紹介しました。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:5-11)。イエス様は地に落ちて死ぬ一粒の麦となれ、多くの実を結ばれました。
ところが、イスラエルは葉の茂ったいちじくの木のようでした。遠くから見ると格好よく見えますが、内側は腐っていました。彼らはよく手を洗い、体を洗いましたが、心はあらゆる悪に満ちていました。彼らは白く塗った墓のようなものでした。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのような彼らは紀元70年には完全に滅び、その後世界をさまよう悲しい民族になりました。
葉は実を結ぶと地に落ちてしまいます。地に落ちると掃除する人は集めて燃やしてしまいます。しかし、実は美しいものです。実は再び多くの新しいいのちを誕生させます。本文の御言葉は私たちが葉の茂った者ではなく実を結ぶ者でなければならないことを教えてくれます。私たちは愛の実を結ばなければなりません。信仰の実を結ばなければなりません。私たちの主に対する愛も信仰も成長していかなければなりません。いつまでも葉だけ茂った者でいてはなりません。イエス様の謙遜、柔和、忍耐、聖なる生活、犠牲を学び、私たちもイエス様のように実を結ぶ人生とならなければなりません。私たちが何を食べるか、どんな家で住むか、会社でどんな地位に昇進するか、などよりもっと大切なことは私たちの人生においてどんな実を結ぶかのことです。私たちがろばの子に乗って入城されたイエス様を自分の王として迎え入れ、豊かな実を結ぶ人生となるように祈ります。