1998年ヨハネの福音書?部10講

 

目を上げて畑を見なさい

 

御言葉:ヨハネの福音書4:27ー54 

要 節:ヨハネの福音書4:35

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヵ月ある。』と言ってはいませんか。

さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。

色づいて、刈り入れるばかりになっています。」

 

 私達は先週のメッセージを通して神様の賜物であるイエス様について学びました。イエス様は渇いていたサマリヤの女と話し合い、彼女に渇くことのない永遠のいのちへの水を与えてくださいました。イエス様は旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられましたが、彼女を救うことを通して霊的な力を得られました。そしてサマリヤのひとりの女の変化を通して色づいて刈り入れるばかりになっているビジョンに燃えるようになりました。イエス様は現実の問題に縛られている弟子達に言われました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」今日の御言葉を通してイエス様の食物とビジョンを私の食物とビジョンにすることができるように祈ります。

 

?。イエス様の食物(27ー34)

 

 イエス様がサマリヤの女と話しておられる時、食物を買いに行っていた弟子達が帰って来ました。彼らはイエス様が一人の女の人と話しておられるのを不思議に思いました。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言いませんでした。弟子達が不思議に思っている時、女の人は、自分の水がめを置いて町へ走って行き、人々にこう言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」彼女は自分を新しく変えてくださったキリストを、町の人達に伝えました。サマリヤの人々が彼女を見ると彼女の顔は生き生きと輝いていました。以前のように人々を恐れ、人々を避ける彼女ではありませんでした。彼女はイエス・キリストによって積極的な人生に変えられました。彼女は、キリストのすばらしさを知った時、それを自分ひとりで心の中にしまっておくことができませんでした。これがキリストによって新しく造られた者の姿です。聖書は次のように言っています。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(?コリント5:17)。人々はこのような彼女をみて驚いたでしょう。彼らは「淫らな女だと言われていた彼女をあれほど変化させた人はいったい誰なんだ。」と思い、町を出て、イエス様のほうへやって来ました。

それほど彼女のあかしは人々の心を動かす力がありました。彼女は聖書に詳しい律法学者や社会的な地位があるパリサイ人のような人でもありませでした。彼女はキャリアが多い罪人に過ぎませんでした。また女の人の証は非常に単純でした。ところが彼女の証が人々の心を動かす力があったのはなぜでしょうか。それは彼女がイエス様に人格的に出会って生まれ変わったからです。女の人の変わった姿が生命力ある証となりました。人々をイエス様に導くのに必要なものは何でしょうか。優れた知識でしょうか。話しが上手なことでしょうか。ハンサムな顔でしょうか。いいえ。何よりも大切なことはイエス様に人格的に出会い、新しく生まれることです。ニコデモは知識と権力と名誉、富を所有したその時代に影響力がある人でした。しかし彼はイエス様に人格的に出会ってなかったので一人もキリストに導くことができませんでした。しかしサマリヤの女は持っているものは罪しかありませんでしたがイエス様に出会い、新しく生まれたので多くの人々をキリストに導く偉大なことができました。

xx姉妹はイエス様に出会った喜びと恵みを伝え、バイブルアカデミーに2人を招きました。そして福井姉妹と1:1聖書勉強を始めました。小田広兄弟は過去人々を避けて暗い部屋から何日間も外に出ない人でした。しかし、イエス様に出会って新しく生まれた彼は今は一人でキャンパスに出かけて行って、イエス・キリストをあかしする人と変わりました。私たちが毎日イエス様に人格的に出会い、サマリヤの女のように喜びと感激を持って人々にイエス・キリストを紹介することができるように祈ります。

 31節をご覧ください。そのころ、弟子達はイエス様に、「先生。召し上がってください。」と町から買って来た焼肉弁当を勧めました。ところが、イエス様は弟子達が買って来たお弁当には関心がありませんでした。なぜでしょうか。32節をご覧ください。イエス様は彼らに言われました。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子達は互いに言いました。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」確かに弟子達が食物を買いに、町へ出かける時にはイエス様も旅の疲れで井戸のかたわらに腰をおろしておられました。しかし、今のイエス様には全く疲れている様子が見えませんでした。むしろイエス様の姿は力と喜びで満たされて元気いっぱいになっていました。弟子達が「イエス様は何を召し上がったのかな」と不思議に思っている時、イエス様は彼らに言われました。34節をご覧ください。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

 イエス様の食物は神様のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることだったのです。イエス様を本当に生かし、そのたましいの活力源となっていたものは、神様の御心を行うことでした。では神様のみこころとは何でしょうか。ヨハネの福音書6:39、40節でイエス様はこう言われました。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人達をひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」神様の御心とは、この地上で果たさなければならない救い主としての使命を果たすことでした。イエス様は罪人を救うためにこの世に来られました。イエス様はそのために夜遅くまでニコデモに新しく生まれる秘訣を教えて下さいました。また、厳しい暑さの中で渇いているサマリヤの女に永遠に渇くことのない生ける水について教えて下さいました。イエス様は朝早くから夜遅くまで多くの人々に真理の御言葉を教え、病人を癒して下さいました。イエス様の一生は罪によって病んでいる人々を救う一生でした。イエス様は神様のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げるために多くの苦しみを受けられました。そして最後に十字架につけられ死なれることによって完全に神様の御心を行ない、そのみわざを成し遂げられました。

 人々は食物を食べて力付けられ、満足と喜びを得ます。それで人々は食べることを喜びます。それで普段の祈りの時にはアーメンの声が小さい人でも食事の前の祈りの時にはアーメンの声が大きくなります。イエス様にとって神様のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることは食事の時間のように喜びの時間でした。イエス様は疲れておられましたがサマリヤの女との1:1聖書勉強を通して新しい力と魂の満足と休みを得ることができました。私達も神様のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることによって力付けられ、喜びと満足を得ることができます。キャンパスで熱心に福音を伝えた時、私達の中には力が生じ、真の喜びと満足が与えられます。もし1:1約束でもできたら帰る時の足はほんとうに軽くなります。一人の人が罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることを見ると喜びに満たされます。ほんとうに生き生きとした信仰生活をしている方は誰でしょうか。時間がたくさんあってよく食べたり休んだりすることができる人でしょうか。いつも喜びながら生き生きとした信仰生活をしている人は熱心に主のみこころ行い、そのみわざを成し遂げている人です。私達がイエス様のように神様の御心を行い、そのみわざを成し遂げることを通して生き生きとした信仰生活ができるように祈ります。

 

?。イエス様のビジョン(35ー42)

 

 一人のサマリヤの女の変化を通して、イエス様はどんなビジョンをご覧になりましたか。35節をご覧ください。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヵ月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」刈り入れるまでは種を蒔いてから一定の期間が必要です。しかし霊的な刈り入れはそれと違います。イエス様は御言葉の種を蒔いてからすぐ刈り入れるばかりになっていると言われました。イエス様は一人のサマリヤの女の変化を通して、色づいて刈り入れるばかりになっているサマリヤをご覧になり、刈り入れるビジョンに燃えられました。

 しかし弟子達はサマリヤに対する偏見と民族的な感情のためにビジョンを見ることが出来ませんでした。彼らはサマリヤに福音を宣べ伝えようとも考えず、また伝えたくもありませんでした。また伝えても受け入れないだろうという不信がありました。彼らにとってサマリヤは種を蒔いても刈り入れが不可能な荒地のようなところでした。また、彼らの主な関心事は買って来た焼肉弁当を冷める前に食べることでした。彼らは現実の問題に縛られていて自己中心的になり、心が狭くなっていました。このように現実の問題に縛られると刈り入れるばかりになっている霊的な畑を見ることができません。

 イエス様は現実の問題に縛られて目を下に向けている弟子達に言われました。「目を上げて、畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。」NIV英語聖書には「Open your eyes」すなわち目をあけなさいと言っています。狭い自分の世界に閉じこもっていないで目をあけて広い神様の世界を見なさいということです。私達が目を上げて神様の世界を見る時、心が開かれビジョンに燃えるようになります。また目を上げて世界を見るとき、考えることや計画することが大きくなります。

 William Careyは「クック船長の航海」という本を読んで世界宣教のビジョンを見ました。その後彼は部屋に世界地図を貼っておいていつもそのために祈りました。そして具体的に靴を直す仕事をしながら語学を勉強しました。彼は燃える世界宣教のビジョンの中で神様のために偉大なことを試み、神様から偉大なことを期待しました。彼は自分の狭い世界に留まらず、神様のビジョンを受け入れ、その中で考えその中で計画しその中で行動しました。神様はこのような彼を大きく用いてくださいました。

 日本の宣教は難しいと言われています。それである人は刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヶ月あると言うかも知れません。しかし私達はパイオニアチームの牧者たちやヨハネチームの兄弟姉妹達の変化を見てこの国の畑が色づいて刈り入れるばかりになっているビジョンを見ることができます。林リベカ宣教師は毎日キャンパスに行って祈り、福音を宣べ伝えました。そして毎日一人ずつ神様が用意された兄弟姉妹達に出会い、1:1聖書勉強をしたり、祈っている兄弟姉妹達が10人以上います。

 イエス様は弟子達にビジョンを植え付けることで留まらず、彼らが刈り入れの働き人として用いられることを願われました。イエス様は弟子達を永遠のいのちに入れられる実を集める者とされました(36)。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。刈る者は実を集めるから喜びがあります。しかし蒔く者は苦労しながら蒔いたのに自分で刈ることができない時、無駄な働きをしたのではないかと考えてしまいがちです。キャンパスで福音を宣べ伝えてもなかなか受け入れようとせず、むしろ反発したり、怒ったりする人々に出会うと自分が無駄なことをしているのではないかと思います。それで帰る時には心が重くなります。しかし蒔かれた種は決して無駄にはならずいつか誰かによって実を集めるようになります。ですから私達は今すぐ実を集めることができなくても確信を持って御言葉の種を蒔かなければなりません。37、38節をご覧ください。「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」この御言葉を見ると御言葉を蒔く者と刈る者が必ず一致するのではないことがわかります。私達はひとりで蒔き全部刈り取ろうとする欲を捨てなければなりません。私達が今日実を集めることができるのはこの国に血を流した多くの殉教者達と御言葉を伝えた多くの人々がいたからです。ですから私達は私達の子孫が実を集めることができるように熱心に種を蒔かなければなりません。また刈り取る人は自分の努力で実を集めることができたという高慢な考えを捨てて謙遜な心をもつべきです。今、霊的な畑は、色づいて、刈り入れるばかりになっています。今、刈り入れなければ、それは、ほかのもの、悪魔に食われてしまいます。刈り入れを待っている霊的な畑を見ることのできる目は幸いです。

 39節をご覧ください。初めにサマリヤ人達はサマリヤの女の証を聞いてイエス様を信じるようになりました。しかし彼らはそれで満足せずイエス様のところに来たとき、自分達のところに滞在してくださるようにお願いしました。そこでイエス様は二日間そこに滞在されました。そして、さらに多くの人々が、イエス様のことばによって信じました。そして彼らはその女に言いました。「もう私達は、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(42)。彼らがそう言っても彼らを導いた牧者はサマリヤの女であることは間違いありません。最初は伝道者が必要です。それからイエス様に直接の出会いが必要です。本当の信仰は、イエス・キリストにお会いし、確かにこの方は救い主であると信じることが必要です。どんなにキリストについての人間のあかしを聞いても、キリストにお会いしなければ、本当の信仰は生まれません。イエス様はユダヤ人の救い主だけではなく蔑視されていたサマリヤの人々の救い主となられました。イエス様は人種、身分、国籍を越えて世のすべての人々の救い主です。世界宣教報告大会では6カ国の人々がそれぞれ自分の国の言葉で所感発表をしました。彼らはみな国も言葉も顔色も違いましたが、同じ救い主イエス・キリストによって救われました。このイエス・キリストこそ世界の救い主です。

 

?。イエス様の二番目のしるし(43ー54)

 

 さて、二日の後、イエス様はここを去って、ガリラヤへ行かれながら「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言されました。弟子達は故郷の人々からは大歓迎されると期待していたと思います。しかしイエス様は彼らの偏見と先入観のために歓迎を受けることができないことをご存じでした。イエス様がガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエス様を歓迎しました。彼らはイエス様がエルサレムでなさったしるしを見てイエス様を歓迎しました。イエス様は彼らの歓迎がうわべだけの歓迎ではあって、本当の意味での歓迎ではないことをご存じでした。

 イエス様はどこに行かれましたか。46節をご覧ください。イエス様は再びガリラヤのカナに行かれました。そこは、かつて水を葡萄酒にされた所です。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいました。この人は、イエス様がユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエス様のところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるようにお願いしました。息子が死にかかっていたからです。カペナウムからカナまでは34キロの遠い距離でしたが彼は愛する息子のために走って来たでしょう。そしてイエス様に自分の息子を癒してくださるように切にお願いしました。しかし彼の信仰はイエス様が息子のところに来て下さらなければ、息子の病気は直らないといったものでした。百人隊長のように、イエス様の御言葉の権威に対する信仰は、まだ持っていませんでした。このような彼にイエス様は言われました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」それでも役人は「主よ。どうか私の子供が死なないうちに下って来てください。」とお願いしました。彼はイエス様が死人をよみがえらせる力を持っておられることは信じていませんでした。こんな王室の役人にイエス様は何と言われましたか。50a節をご覧ください。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」なぜイエス様は彼と一緒に行こうとはぜずに、御言葉だけお与えになったのでしょうか。それはしるしに基づいた信仰を正しく直し、御言葉に基づいた信仰を植え付けるためでした。しるしに基づいた信仰を持つ人は根がない信仰を持つ人です。イエス様が願われる信仰は御言葉に基づいた信仰です。御言葉に基づいた信仰は御言葉に根をおろして育ちます。このような信仰を持つ人は、水路のそばに植わった木のように時が来ると実がなり、その葉は枯れません。その人は何をしても栄えます(詩1:3)。

 しかし王室の役人がイエス様の御言葉に聞き従うのは難しいことだったでしょう。彼は切なる問題を持って遠いところから来たのにイエス様はとても簡単に言われました。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」彼はそんなに切に願ったのに一緒に来てくださらないイエス様の愛を疑いやすいでした。またイエス様が遠いところで言われただけで自分の息子が本当に直るか疑いやすいでした。しかし彼はイエス様が言われた言葉を信じて、帰途につきました(50b)。彼は最初は弱い信仰でしたが、主の御言葉に従うことによって本物の信仰に成長して行くようになりました。

 彼が御言葉を信じて帰る途中でどんな知らせを聞きましたか。51節をご覧ください。彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げました。彼はその知らせを聞いてどんなに喜んだでしょうか。しかし彼はイエス様に関心を持ちました。52節をご覧ください。彼は子供がよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言いました。それで父親は、イエス様が「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知りました。この時、彼の信仰は大きく飛躍しました。そして彼自身と彼の家の者がみな信じました。彼はイエス様の御言葉の力を体験しイエス様と深い人格的な関係性を結ぶようになりました。本当の信仰に至るためには、どうしても信仰による体験が必要です。信仰による体験を持たない人は、いつまでたっても、ちょっとしたことにつまずき、疑います。しかし、御言葉を体験した人の信仰は違います。たえず御言葉に従い、御言葉の真実性を体験していく時、確かな不動の信仰に至ることができます。

 54節をご覧ください。イエス様はユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのです。第二のしるしはイエス様の御言葉の力を現します。イエス様は時間空間を超越して死んで行く子供を直して下さいました。イエス様の御言葉には不可能を可能にし、人を生かす力があります。

 結論:イエス様は現実の問題に縛られてこころが狭くなり、目を下に向けている人々に言われます。「目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。」この世は色づいて刈り入れるばかりになっている畑です。世界は働き者を求めています。世界は立派な1:1聖書先生を待っています。世界は自分のこころを捨てて主のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げる働き者を待っています。