1998年 サマーバイブルキャンプ

主題?講(寺崎 アブラハム)

御言葉:ヨハネ21:1―25

あなたは、わたしを愛しますか

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。

『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』

ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じす。』

イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」(15)

私達は、昨日の主題講義3講の御言葉を通して、私達の罪のために十字架につけられて死なれたイエス様の愛について学びました。イエス様は死なれてから三日目に死の力を打ち破り、よみがえられました。

本文は、よみがえられたイエス様がテベリヤの湖畔に現われて、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」と質問して壊れた愛の関係を回復されるできごとです。そればかりか、資格のない彼を再び羊の群れの牧者として立ててくださいました。この時間、私達も、テベリヤの湖畔に行ってイエス様の愛の声を聞き、真実に愛の告白をすることによって、主との愛の関係を回復することができるように祈ります。また、資格のない私達を最後まで望みを置かれ、この時代の羊の群れの牧者として立てて下さる主の御言葉を聞くことができるように祈ります。

?.さあ来て、朝の食事をしなさい。(1-14)

第一に、失敗を挽回させて下さったイエス様(1-6)

1節をご覧ください。「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。」「この後」とは20章で、イエス様がよみがえられた後、多くの人々にご自分を表わされた後のことです。よみがえられたイエス様は、一番最初に、悲しみに伏していたマリヤに現われ、マリヤを慰めて下さいました。それから、宗教指導者たちを恐れ、部屋の中にじっと閉じこもっていた弟子たちに現われて、彼らに平安と聖霊をプレゼントして下さいました。また、疑い深いトマスには、手の釘の跡、槍に刺されたわきの跡を見せて下さることによって、復活信仰を植えてくださいました。この後、イエス様は、もう一度、弟子たちの前に現われました。

2,3節をご覧ください。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子たちがテベリヤの湖畔にいました。彼らは、これから自分たちがどうなるのかという将来の問題を抱えていました。イエス様から任された世界宣教の使命も大切ですが、まずその日の食物をどのようにして得ようかと考えていました。イエス様が十字架につけられる前は、弟子たちはどこに行っても人々から食事の招待を受けることができました。マリヤ達の作る料理を食べて満腹し、舌鼓を打っていました。弟子たちはいつも食欲旺盛でしたが、少なくとも食べることに関しては心配する必要がありませんでした。しかしイエス様が十字架につけられて死なれた時、多くの人々がイエス様から離れて行きました。弟子たちは、まず食べる問題から解決しようと集まりました。その時、シモン・ペテロが彼らに言いました。「おら、漁に行くだ。」すると他の弟子たちも、「おらたちも、いっしょに行くべ。」と言ってついて行きました。しかしその夜は何もとることができませんでした。夜が明け、日が昇り、あたりは明るくなって行きました。あたりが明るくなるにつれて、弟子たちは、ひどく疲れを感じました。その時、弟子たちは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」というイエス様の御言葉を思い出しました。

ちょうど三年前、イエス様はここで弟子たちを招かれました。その日もペテロは一匹の魚もとることができませんでした。彼は力なく網を洗っていました。疲れだけが残っていて、早く家に帰って温かいみそ汁を食べて寝ようと考えていました。その時、イエス様はペテロに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」ペテロがイエス様の言葉を信じて言われた通りに網を下ろした時、おびただしい魚をとることができました。ペテロはイエス様の御言葉の力を体験し、全てのものを捨ててイエス様について行きました。当時イスラエルはローマの植民地でしたが、イエス様がイスラエルをローマから独立させ、地上メシヤ王国を建設し、ペテロはその大臣になることを信じて疑いませんでした。悪霊を追い出し、病気の者を癒し、自然界をも支配したイエス様のしるしを見ながら、ペテロはその夢が実現することを信じてやみませんでした。エルサレムに上って行った時、群衆も熱烈にイエス様を歓迎しました。しかしイスカリオテのユダの裏切りによって、無力にもイエス様は宗教指導者たちによって逮捕されました。イエス様が逮捕されたその日の晩、弟子たちはちりぢりになってイエス様から離れて行きました。ペテロ自身もイエス様を三度も知らないと言って、イエス様から離れて行きました。十字架の上で、力なく死んでいくイエス様を見ながら、多くの群衆はイエス様をののしりました。イエス様の弟子として失敗したペテロは、今、漁師として、人生をやり直そうとしましたが、それにも失敗しました。弟子たちが気を落し、挫折した時、彼らをじっと見守る人がいました。

4節をご覧ください。イエス様は岸辺に立ってじっと弟子たちのことを見守って下さいました。イエス様は、弟子たちが使命を捨てて魚を捕っている姿を見て、弟子たちをとがめることもできました。また、イエス様を裏切り逃げて行った弟子たちを罰することもできました。しかしイエス様は弟子たちを愛のまなざしで見守って下さったのです。ところが弟子たちはイエス様だとは気づきませんでした。

5節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」弟子たちは力なく答えました。「はい。ありません。」すると、イエス様は弟子たちに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」弟子たちは疲れ切っていました。また、朝、魚を捕ることは容易なことではありません。何よりも漁師であり、魚のいる場所を知っている弟子たちにとって、イエス様の御言葉には理解することができませんでした。しかし弟子たちはイエス様の御言葉に聞き従いました。すると、驚くべきことが起こりました。弟子たちが網をおろすと、おびただしい魚のために、網を引き上げることができませんでした。後で、数えてみると、153匹ありました。イエス様は、弟子たちの失敗を挽回させて下さいました。ペテロはイエス様の弟子としても、漁師としても失敗しました。しかし、イエス様は、ペテロの失敗を挽回させ、新しい人生を出発するように助けて下さいました。このイエス様の中では決して失敗がありません。使徒パウロは言いました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ8:28)それで、私たちはいつもこのイエス様を信じ、より頼むことができるのです。

第二に、弟子たちと愛の関係性を回復させて下さったイエス様(7-14)

7節をご覧ください。使徒ヨハネはおびただしい魚を見て、岸辺に立っている人がイエス様であることに、気づきました。それで、シモン・ペテロに「主です。」と言いました。それを聞いたペテロは、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込みました。ペテロは、いつもイエス様を尊敬し、慕っていました。それで無意識のうちに、このような行動を起こしたのです。他の弟子たちも、小舟でその後を追いかけて来ました。弟子たちが陸地に上がった時、イエス様に叱られると思っていたでしょう。イエス様の顔をしっかりと見ることができませんでした。しかし、弟子たちは、そこに、炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見ました。イエス様は弟子たちのために朝食を用意して下さったのです。そして弟子たちに言われました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」イエス様は、温かく弟子たちを迎え入れて下さいました。赤く燃える炭火は濡れた弟子たちの体を乾かし、冷え切った体を温めました。イエス様の準備された朝食は、弟子たちの空腹を満たし、弟子たちを力づけました。弟子たちは感動のあまり、涙を流し、鼻水をすすりました。イエス様は、弟子たちの罪ととがをおおい尽くして下さいました。イエス様は、弟子たちがどんな姿であってもありのままの姿で受け入れて下さいました。イエス様は、弟子たちの心を理解して下さり、謙遜に、彼らに仕えて下さいました。政治も、人間も、知識も、流行も、絶えず変わっていきます。しかし永遠に変わることのないものがあります。それはイエス様の愛です。イエス様は、昨日も、今日も、永遠に変わらず、私達を愛して下さいます。どんな患難も迫害も飢えも危険も剣も私達のキリスト・イエスにある神の愛から、私達を切り離すことはできません(ロマ8:39)イエス様の永遠に変わらない愛を賛美します。

このイエス様は私にも変わらない愛を示して下さいました。私は87年から6年間韓国に行き、韓国の大学で歴史を勉強しました。大学時代、神様は、現在ラトビアを開拓しているジョセフィン・ファン宣教師を通して、私をマンツーマン聖書勉強に招いて下さいました。聖書勉強を通して、私は、イエス様に出会い、罪と死の問題が解決されました。また、神様は、私に韓国語と専攻を征服する力を下さいました。しかし英語の成績が悪く、私は毎年英語をとらなければなりませんでした。卒業を迎えましたが、最後まで英語は私を苦しめました。ちょうど最後の期末試験の前日、ラトビアを開拓していたジョセフィン・ファン宣教師は、私が神様に誓願の祈りをするように助けてくれました。「もし、神様が今年大学を卒業することができるように導いて下さるなら、私は主と福音のために自分の生涯を捧げます。もう一度、韓国に戻り、宣教訓練を受けた後、東京でイエス様を証しします。」神様は私の祈りを聞いて下さり、93年に、大学を卒業するように導いて下さいました。

しかし、大学を卒業してから、将来に対する不安から、使命を捨てて、魚をとる人生を過すようになりました。しかし、ものごとがうまくいきませんでした。私は使命人として生きることに対しても失敗し、就職や大学院進学にも失敗しました。しかしイエス様はこのような私を憐れんでくださいました。私は韓国にいるある牧者に手紙を書くために聖書を開きました。その時、エレミヤ書29章12、13節の御言葉が目に入って来ました。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」私は、この御言葉を堅くつかむ中で、神様が責任をもって、私を導いて下さることを確信するようになりました。それで、全てのことを神様にゆだね、まず韓国に行きました。私は、韓国で聖書を勉強し、所感を書きながら、自分の祖国に対する牧者の心情を持つようになりました。すると、神様は、私が日本だけではなく、世界の人々を抱く牧者になるように名前をアブラハムにして下さいました。私は、大きなビジョンの中で東京に向かいました。

5年間の東京での牧者生活を振り返って見るとき、私はイエス様の大きな愛と恵みを体験するようになりました。最初の三年はフルタイム牧者として、残りは平信徒として、早稲田大学文学部キャンパスの開拓に仕えました。私が平信徒として仕えようとした時、私には就職に対する敗北感がありました。しかし神様は今の職場に就職できるように導いて下さいました。また、去年の4月には、多くの人々の祝福の中で、美しいマリヤ宣教師と結婚させて下さいました。神様は、私の失敗を挽回させて下さり、日本のアブラハムとして生きるようにして下さいました。罪深い私に変わらない愛で仕えて下さるイエス様に感謝します。

?.あなたは、わたしを愛しますか。(15-25)

15a節をご覧ください。弟子たちが食事を済ませた時、イエス様はシモン・ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」イエス様は「あなたは、わたしを愛しますか。」と質問されずに、「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」と質問されました。では、なぜイエス様は、ペテロにこのような質問をされたのでしょうか。

第一に、イエス様はペテロと人格的な愛の関係を結ぶことを望まれました。イエス様が、ペテロに「あなたは、わたしを愛しますか。」と質問された時、ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。ペテロはイエス様を愛していました。しかしはっきりと「はい、愛します。」と答えることができませんでした。それはペテロが、イエス様が逮捕された日の晩のことを思い出したからです。その時、ペテロは自信たっぷりに答えました。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています。」ところがイエス様が逮捕された時、ペテロは鶏が鳴くまでに、三度もイエス様を知らないと言ってしまいました。鶏が鳴くたびに、ペテロはその日のことを思い出して、自分の弱さに絶望し、悲しんだことでしょう。ペテロが失敗したのは、彼の愛が感情や意志や人間的な忠誠心に基づいたものだからです。

イエス様は、三度もペテロに「あなたは、わたしを愛しますか。」と質問をされました。なぜ同じ質問を繰り返して三度もされたのでしょうか。ペテロを責めるためでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろイエス様は、イエス様に対する愛の告白を通して彼の傷口に手を置いて癒すためでした。今まで断絶された愛の関係性を結ぶためでした。イエス様との愛の関係性は何よりも大切なことです。イエス様との愛の関係性が結ばれている時、信仰生活は幸せです。サタンが植え付ける全ての疑いや不信仰や絶望に打ち勝ち、勝利の信仰生活をすることができます。それで、イエス様は失敗して意気消沈しているペテロに訪ねて来られ、彼との愛の関係を結ぼうとされたのです。

第二に、イエス様はペテロに真実の愛を求めました。イエス様が、三度「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と質問された時、ペテロは心を痛めました。この質問で、イエス様は、ペテロがイエス様だけを愛することを望んでいることが分かります。この質問は自分の野心と夢を愛して失敗したペテロにとっては非常に負担になる質問です。しかし、人間に対する神様とイエス様の絶対的な愛を信じる時、負担ではなく、その意味を深く理解することができます。神様は、罪人を愛し、救うために、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様は、十字架につけられ尊いご自分のいのちを捨てるほど私達を愛して下さいました。イエス様の十字架の愛は、罪人に対する変わらない愛、アガパオの愛です。ローマ人への手紙5:8節は次のように言っています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」また、失敗したペテロを訪ねて来られ、赦してくださった変わらない愛も主の絶対的な愛です。イエス様は、ペテロがこの愛を悟って世の何よりもイエス様を絶対的に愛すること、を望まれました。実際ペテロはイエス様を愛していました。しかしその愛は絶対的なものではありませんでした。ペテロは、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています。」と言いましたが、すぐ、イエス様を知らないと言ってしまいました。彼はイエス様を絶対的に愛したかったのですが、そのようにはできませんでした。なぜならペテロには、イエス様が王になると、自分は総理大臣になりたいという自分なりの夢を持っていたからでした。それでペテロはイエス様を絶対的に愛することもできず、イエス様に従いながら失敗するしかありませんでした。私たちも同じです。イエス様は私達を絶対的に愛しておられますが、私達はイエス様より他のものを愛することがあります。イエス様より同労者や羊や親をもっと愛しやすいです。また、自分の野心や夢、世の名誉や栄光、お金や職場をもっと愛しやすいです。しかしイエス様は、純粋にイエス様だけを愛することを望まれます。私達がイエス様を愛していると言いながら、他のものを愛するとどのようになるでしょうか。

イスカリオテのユダは、能力がある弟子だったようです。そのため、宣教事業部の部長を任されていました。しかしイエス様について行く生活をしながら、ユダはイエス様よりもお金を愛するようになりました。イエス様から受けた恵みを忘れ、銀貨30枚でイエス様を宗教指導者達に売ってしまったのです。彼は最後までお金も愛しました。イエス様が逮捕され十字架につけられた時、初めて彼は、自分の罪を悟るようになりました。しかし、イエス様の愛を信じることができず、結局自殺してしまいました。イスカリオテのユダの最後は悲惨でした。このように私もイエス様を愛しながら、他のものを愛する時、絶えず両方をはかりにかけ、自分が損をするようであれば、イエス様から離れやすいのです。私たちは、二人の主人に同時に仕えることができません。まるで水と油が性質が違ってお互いにまざらないように、イエス様と自分の夢や野心などもまた性質が違うからです。それで、私たちは、イエス様か他のものか、選択する必要があります。イエス様は、私達が、ただ純粋にイエス様をだけを愛し、真実な愛の告白をすることを望まれます。イエス様の私たちに向けられた愛はこの世のどんな物にも代え難い、かけがえのないものです。

しかし、愛の告白は、一度だけやって、終わるのではありません。私達は日々イエス様の前で愛の告白する中で、お互いに愛を確認する必要があります。絶えず、愛の告白をする中で、イエス様に対する愛がより強く、また確かなものになるからです。私は去年の4月にマリヤ宣教師と結婚をし、今日まで、心を合わせて早稲田大学文学部キャンパス開拓の御業に仕えています。結婚式の時、私はマリヤ宣教師に愛の告白をし、同労するようになりました。ところで、結婚式の時に、一度愛の告白をしたからいいや、と考え、愛の告白をしなかったらどのようになるのでしょうか。お互いの愛を疑うのではないでしょうか。いくら自分が相手のことを愛していると思っていても、愛の告白をしなければ、相手にそれが伝わりません。お互いに誤解が生じ、その愛は次第に冷え切ってしまいます。すると、関係が崩れ、空気が重くのしかかります。しかし、一言、「I love you.」と愛の告白をする時、また、関係は回復されます。お互いの誤解が解けるからです。

クリスチャンは、一般的に、キリストの花嫁と言われます。それは、イエス様と愛の関係を結んでいるからです。十年信仰生活をしても、二十年信仰生活をしても、イエス様に愛の告白をしない限り、イエス様と愛の関係を結んでいるとは言えません。私達は、キリストの花嫁として、日々の生活の中で、イエス様に愛の告白をする必要があります。そうした時、イエス様の私達に向けられた愛を確認することができます。私たちがイエス様に愛の告白をする時、毎日が喜びと望みで充ちるようになります。寝ても覚めてもいつもイエス様だけを考えます。イエス様だけが、私たちの心を満たして下さるからです。イエス様は、決して私たちを失望させたりはしません。イエス様を知れば知るほど、イエス様の素晴らしい人格にただ驚かされるばかりです。

この時間、イエス様は私に質問されます。「あなたは、この人達以上に、私を愛するか。」

「はい。主よ。私があなたを愛することはあなたがご存じです。」

第三に、イエス様は、ペテロを神様の羊を飼う牧者として立てようとされました。イエス様は三度もペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」と質問されました。ペテロがイエス様に愛の告白をするたびに、イエス様はペテロに、「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。かつてペテロはイエス様の羊でした。イエス様はペテロの牧者として多くの愛を施して下さいました。イエス様は、ペテロのとがと短所をカバーして下さいました。そしてペテロを愛するがゆえに、イエス様はご自分の尊いいのちを捨ててまでもペテロを守って下さいました。イエス様はペテロにご自分の愛を示されることで、ペテロも同じようにイエス様の羊に仕える牧者として立てようとされました。人々は「愛」という言葉を好み、よく使います。しかし「愛」ということばほど、抽象的な単語はありません。そのために、「愛」には必ず証拠が伴います。それで人々は、愛する人が一体何を望んでいるのかを考えます。また自分にとって一番大切なものをプレゼントしようとします。また愛している人が困っていれば、その人を助けることに全力を注ぎます。そのことによって自分がどれだけその人を愛しているのかをアピールします。神様は私達人間を愛されたので、ひとり御子イエス様をこの世にお遣わしになりました。そしてイエス様の十字架を通して私達の罪ととがを贖って下さったのです。私達はイエス様の十字架の恵みによって、神様が私達を愛して下さることを実感することができます。イエス様は、罪によって滅びるしかない羊たちのために心を痛めておられます。何とかして一人も滅びずに、イエス様のもとに羊たちを集めようとされます。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられただけではなく、イエス様を知らない羊たちのためにも十字架につけられたのです。イエス様を知らない多くの人々がイエス様のことを知り、イエス様を受け入れることによって、罪の赦しを受け、救いを受けることを望まれるのです。イエス様は、この大切な使命を私たちにも任せようとされます。私たちが、心から愛するイエス様のために、喜びながら、その役目を担うことを望まれるです。イエス様は、私たちがイエス様の羊を飼う生活を、ご覧になって、私たちの愛を、認識することができるのです。

18節以下には、イエス様の弟子たちがどのような人生を過すべきかが記されています。イエス様は、ペテロに言われました。「わたしに従いなさい。」(19,22)これから、ペテロはイエス様の弟子としてイエス様に従う人生を過すようになります。イエス様に従う人生は、イエス様を学ぶ人生です。ペテロが小羊だった時、イエス様はいのちを捨ててまでもペテロを愛し、ペテロに仕えて下さいました。イエス様は、ペテロが同じように、イエス様の羊を命がけで愛することを考えます。イエス様が絶えずペテロのことを考えて仕えて下さったように、ペテロも絶えず羊たちのことを考え、仕えなければなりません。イエス様に従う生活は、イエス様の価値観、イエス様の人生観、イエス様の歴史観を学ぶ生活です。何よりもイエス様の人格を学ぶ生活です。イエス様は、私たちがイエス様の人格を学ぶ中で、イエス様の羊であるキャンパスの兄弟姉妹たちに仕えることを、望まれます。ところが私達がイエス様の羊に仕える生活をする時、さまざまな自由を失い、痛みと犠牲が伴います。しかしその痛みと犠牲はどんなものにも代えがたい、尊く美しいものです。私達がキャンパスの兄弟姉妹達のために、持っている若さや物質、時間、才能などを捧げる時、イエス様の愛を学び、神様に尊く用いられるようになるからです。私達が1tのマンツーマンに仕える時、一人のたましいを生かすことができます。他の人がどうであっても、イエス様は、私たちがイエス様に従うことを望まれます。

結論的に、イエス様は、この時間、皆さんに質問されます。「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」皆さんも、イエス様に愛の告白をしましょう。また、イエス様は言われます。「わたしの小羊を飼いなさい。」これから、使命の地に出て行きます。皆さん、一人一人が、キャンパスにいるイエス様の羊たちを飼う中で、多くの命が生かされる御業が起こりますように祈ります。