1998年使徒の働き第10講
エルサレム総会
御言葉:使徒の働き15:1?35
要 節:使徒の働き15:28「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」
使徒パウロによって福音がユダヤから異邦人にまで伝えられると今まで考えてなかった問題が生じました。それは福音と律法の間の葛藤でした。当時アンテオケ教会を中心に異邦人宣教が活発に起こると一部のパリサイ派出身のクリスチャンが異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張しました。それによって教会は教理問題で争い、異邦人のクリスチャン達は大きな困難に陥るようになりました。これはキリスト教がユダヤ教から離れて世界の宗教になるか、それともユダヤ教の一派として残るかの深刻な問題でした。ところが、この問題を解決してただ信仰によって救われるという福音の真理を確証したのがエルサレム総会でした。エルサレム総会での決定は「異邦人のための宗教の自由憲章」と言われています。それではエルサレム総会の重要性とその歴史的な意味は何でしょうか。本文の御言葉を通してそれを学び、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音の真理を深く悟ることができるように祈ります。
?。福音の真理を保護するパウロとバルナバ(1?5)
1節をご覧ください。さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていました。彼らはただイエス様を信じるなら救われるという真理を否認しました。救われるためにはイエス様を信じるだけでは足りないので割礼も受けなければならないと主張しました。しかし彼らの主張はイエス・キリストの十字架を無駄にすることです。イエス様は私達を罪から救うために十字架につけられ死なれました。神様イエス様の十字架の血によって、私達が大胆に神様の御前に出て行く新しい道が開いてくださいました。ですから私達は救われるために何かを行わなければならないことはありません。ユダヤ人でも異邦人でもただ自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるなら救われます。これが福音です。誰でもこの福音を受け入れる時、神様の罪の赦しを受け、罪と律法から解放されて救いの恵みと喜びに満たされるようになります。それだけではなく福音の力によって段々神様の子供らしくなり、神様を心から愛し、仕えるようになります。
ところが私達がこれらの福音の恵みと力を知らなければ彼らの主張に巻き込まれるようになります。もし私達が彼らの主張に従って割礼を受けるとどんな問題が生じるでしょうか。そうすると私達は律法の奴隷となって福音による恵みと喜びを失うようになります。律法による義を求めて頑張らなければなりません。ところが、結果が良ければ高慢になり、他人を判断し、思う通りにできなければ劣等感に陥ったり、絶望するようになります。結局イエス・キリストから離れてしまいます。アンテオケ教会の人々は律法主義者達によって大きな混乱に陥るようになりました。彼らは以前イエス様を信じるだけで罪が赦され、救われるという確信を持って喜びに満たされていました。ところがこれから割礼を受けなければ救われないと言うので信仰が根本から揺れていました。心の中には律法的な考えが生じて顔が堅くなりました。ある気が短い人は割礼を受けなければ大変だと思い、割礼を受けました。
それではパウロとバルナバは彼らの主張に対してどれだけ深刻に反応しましたか。2a節をご覧ください。パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じました。パウロとバルナバは福音を守るために戦いました。教会の中でこのように戦うことはキリスト者らしくないと思われますが、パウロとバルナバはなぜこれほど激しく対立し、論争したのでしょうか。それは福音の真理を守るためです。福音の真理は決して選んだり、比べたりできる相対的なものではありません。「福音もいいですが、律法を加えるともっといいよ。福音もいいですが、割礼や敬虔な律法、思想を加えるともっとよくなる。」福音はこのようなものではありません。キリストの福音は唯一であり、絶対的なものです。この福音は神様が私達の救いのために用意された完全で、完璧なものです。ですから福音プラスアルファのように加えることができません。もしこの福音に何かを加えたり、差し替えたりすることは絶対的な福音を相対化する大きな罪を犯すことです。たとえば統一教会は聖書以外に原理講論という本を加えています。エホバの証人は聖書にものみの塔のような本を加えています。また、彼らは聖書の中でイエス・キリストを信じる信仰による救いをすべて引き替えた新世界訳の聖書を作りました。エホバの証人は自分の救いに対する確信がありません。ただ神の愛を受けるにふさわしい人になろうと努力しているのです。彼らは行いと働きが救いの条件だと思って熱心に伝道しています。このようにする時、福音はそのいのちと力を失うようになります。今日ヨーロッパのキリスト教がいのちを失い、教会の聖徒たちはだんだん少なくなっているのは様々な理論と思想、神学によって福音を相対化させたからです。
パウロとバルナバはこの福音の真理を守るために少しも妥協したり、譲ったりしませんでした。もし彼らの主張を黙認したとすれば、キリスト教はユダヤ教の一派となってしまったことでしょう。福音の真理はユダヤ教の律法と形式の中で葬られてしまったでしょう。また異邦人宣教において致命的な打撃を受けたことでしょう。割礼を救いの条件としたなら異邦人は福音を受け入れることが難しくなるしかありません。自由奔放なアフリカの人々はこの割礼のために福音を受け入れることができなかったでしょう。そういうわけでパウロは他のものはすべて譲っても福音の真理だけは決して譲ることができませんでした。パウロが彼らに一時も譲らなかったのは福音の真理がアンテオケ教会の聖徒たちの間に常に保たれるためでした(ガラテヤ2:4,5)。
ところがアンテオケ教会のキリスト者たちの間にはすでに不信仰が植えられてしまいました。また、割礼派のユダヤ人達は続けて様々な理論や言葉で攻撃して来ました。その結果段々問題が深刻になって行きました。それではアンテオケ教会はこの問題をどのように解決しようとしましたか。2b節をご覧ください。パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになりました。
4節をご覧ください。エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告しました。しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言いました。彼らは律法の役割についてよく知りませんでした。ガラテヤ3:24は次のように言っています。「こうして、律法は私達をキリストへ導くための私達の養育係となりました。私達が信仰によって義と認められるためなのです。」ここで養育係は、子供を毎日学校へ送り迎えするという務めがありました。彼は子供の実際上の教育には全く関与しませんでしたが、子供を無事に学校へ送り届けて、教師に子供を任せる責任があったのです。それは律法の役割と似ています。律法は、人をキリストへ導いたけれども、キリストの前に連れて行くことはできません。律法の役割は、人に自分自身で律法を守るのは全く不可能であること示して、人をキリストに導くことです。しかし、誰でもひとたびキリストのもとに到達すると、もはや律法を必要としなくなります。私達が律法を通して自分の罪を悟り、キリストを受け入れた後には律法はもはやいらなくなります。律法の役割は私達が罪を悟り、キリストに出て行くようにすることです。それで終わりです。今度は律法ではなくて、恵みに頼っているからです。ところが私達が信仰の世界に入ってからもこの律法の世界にとどまっているならそれは私達の信仰の成長を妨げるものとなります。パリサイ派のクリスチャン達は長い間良いものとして持ち続けていた律法に対する未練があって福音と律法を調和させる道を考えたかも知れません。しかし律法を優先するユダヤ教と福音の真理を優先するキリスト教は両立できません。もしユダヤ教で割礼と律法を取り除くとユダヤ教は根本から枯れてしまいます。一方キリスト教に律法を加えると福音のいのちは失われ、キリスト教は形式的になります。ですから福音と律法が衝突することは避けられないことです。それではエルサレム教会はこの問題をどのように解決しましたか。
?。エルサレム総会(6?35)
6、7a節をご覧ください。使徒と長老達は、この問題を検討するために集まりました。すると使徒と長老達の間で、激しい論争がありました。当時エルサレム教会にはユダヤ人が大部分でした。ですからパリサイ派のキリスト教の影響力が大きかったのでしょう。彼らの中には高い社会的な地位や学問がある人々もいたでしょう。彼らはとても合理的で説得力ある主張をしたでしょう。彼らは「アブラハムも、モーセも、イエス様も割礼を受けました。そして、ここに集まっている使徒達と長老達もみな割礼を受けました。ですから異邦人が割礼を受けるのは言うまでもありません。」と主張する時には本当に彼らの話が正しく聞こえました。
このような激しい論争があって後、ペテロは自分の体験を通して、神様がどんな方であることを証しましたか。7b節をご覧ください。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。」ペテロはコルネリオのことを思い起こし、神様が異邦人に福音を宣べ伝えさせるために自分を選んだことを証しました。彼はコルネリオの出来事に現れた客観的な聖霊のみわざを根拠にして異邦人を何の条件なしに受け入れるべき二つの理由を言いました。第一に、人の心を知っておられる神様は、ユダヤ人と同じように異邦人にも聖霊を与えてくださったことです(8)。第二に、神様はユダヤ人と異邦人に何の差別もつけず、信仰によって異邦人をきよめてくださったことです。それを見ると神様はユダヤ人だけの神様ではなく異邦人の神様にもなられる方です。また、神様は人のうわべではなく心の中心をご覧になる方です。この神様は異邦人も神様を恐れ敬い、福音を信じるならその人を受け入れ、その証拠として聖霊を与えてくださいました。ですから神様の前では割礼者も無割礼者も、ユダヤ人も異邦人も差別がありません。
これに基づいてペテロは割礼を主張する人々の過ちを指摘しています。10節をご覧ください。「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」ペテロは異邦人が割礼を受けなければならないと主張することは神様を試みることだと言いました。神様はイエス・キリストの十字架の犠牲によって福音を完成されました。この福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神様の力です(ローマ1:16)。ところが割礼を主張することは神様を信じないで試みる罪です。また、ペテロは割礼と律法を指して私達の先祖も私達も負いきれなかったくびきだと言いました。彼の言う通りに律法は誰も負いきれないくびきです。パウロは誰よりもこの律法のくびきを負って救いを得ようと努力した人でした。しかし彼は「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆息するしかありませんでした(ローマ7:24)。律法のくびきを負おうとする人は律法ののろいの下にいます。ところが自分も負いきれなかったくびきを再び異邦人の首に掛けようとしています。それは矛盾した行動であり、異邦人を律法の奴隷にさせることです。牛舎の子牛のように福音の恵みの中ではね回っている人々に重いくびきを掛けることです。そうすると福音の中から来る自由と喜びが奪われます。しかし、イエス様がくださるくびきは負いやすいです(マタイ11)。
それではペテロの結論は何ですか。11節をご覧ください。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」ペテロは救いを得るのに他の条件がいらないことを断固に宣言しました。割礼を受けたユダヤ人や割礼を受けてない異邦人も同じくただ信仰によって、イエス様の恵みによって救われたことを信じると言いました。救いは決して律法による行いや割礼によって得るものではありません。イエス様を信じてから多くの羊達を養い、日毎の糧を7回食べるから救われるのではありません。それらは救いの恵みによる結果であり、それは救いの条件ではありません。それらか救いと何の関係もありません。それらをよく行うから救われるのではありません。救いはただ私達の罪のために十字架につけられ死なれ、また、葬られ、三日目に死者の中からよみがえられたイエス様を信じる信仰によって与えられるのです。神様はこの救いの恵みを何の条件をつけずただ信じるならプレゼントとして与えてくださいます。それで使徒ヨハネはヨハネの福音書3:16でこの事実を感激的に記録しています。「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ですから私達がひっきり知らなければならないことは初めは信仰によって救われますが、後には自分のよい行いによって救われるのではなく最初から最後まで信仰によって救われるということです。私達の救いが後にキャンセルされることはありません。もし信仰によって救われた私達の行いがよくないと言って神様から取り消されると思ったらどんなに不安な信仰生活をしなければならないでしょうか。しかし、神様はそんな方ではありません。私達はただイエス・キリストを信じたその瞬間から救われ、永遠のいのちが与えられたのです。私達の信仰生活の基礎はこの救いの恵みです。この恵みによって喜び、感謝し、この恵みによって与えられる力といのちにあふれて主に仕え、使命を担うことが信仰生活です。
ところが「ただ主の恵みによって生きる」と言うのは簡単ですが、実生活の中で恵みによって生きることはやさしくないようです。私達の今までの生活が頑張ってよい結果が出たら認められ、そうでなかったら叱られる生活をしてきたからです。それで努力が律法のようになり、信仰生活をしてからもそのような考え方に縛られることがあります。私達は十字架の恵みを悟り、罪の赦しの確信が与えられたらそれで主の恵みをすべて知るようになったと思う傾向があります。そして恵みを受けたからこれから私が主のために何かをしなければならないと思います。「これから毎週所感をよく書きます。熱心に伝道します。」そして主の恵みを思うよりこれらのことがうまくできない自分自身に失望します。常に罪の勢力に負けてしまう自分のことを考えながら落ち込んでしまいます。自分をいじめたり、絶望しながら「ああ、ぼくはUBFの体質ではない」と聖書にも出てない体質論を言い出します。そのような人をサタンは「おまえはそれでもクリスチャンであると言えるか、それでも牧者なのか。」とささやきます。反面主の恵みによって思った通りにうまくできたら「ぼくは偉大な人だ。」と思い、高ぶって自己義に陥ります。このようなことを考えてみると私達が主の恵みを知り、主の恵みによって生きるというのはそれほど簡単なことではないことがわかります。ですから私達はイエス様の恵みの世界をより深く広く知るために祈ることが必要です。使徒ペテロは「私達の主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ペテロ第二3:18)と言いました。私達がイエス・キリストの恵みと知識においてますます成長することができるように祈ります。すべての律法的な考え、因果応報的な考えから離れてイエス・キリストの恵みによって生きる信仰生活ができるように祈ります。
12節をご覧ください。ペテロの話を聞いた全会衆は沈黙してしまいました。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神様が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けました。ふたりが話し終えると、最後にヤコブがこう言いました。ヤコブはイエス様の弟であるヤコブで、この会議の議長でした。彼はアモス9:11,12の御言葉を引用してコルネリオ事件やパウロとバルナバによる異邦人宣教はすべて神様がすでに予言されたことが成就されたことを確証しました。そしてこれらの事実に基づいて結論を下しました。19,20節をご覧ください。「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。」ヤコブは神様に立ち返る異邦人にすべての律法から自由から解放するべきだと言いました。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと言いました。それを避けるように言ったのは諸地方にいるユダヤ人達との交わりを妨げないためでした。ヤコブは信仰による義を公式的に認めました。すべての異邦人を律法から自由になるようにした言葉です。
エルサレム総会は結局この問題に対してどんな結論を下しましたか。28,29節をご覧ください。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
使徒と長老達はこの決定が聖霊と私達の決定だと言いました。彼らはエルサレム総会の決定が聖霊が願われることであり、聖霊の導きであることを確信していました。このようなエルサレム総会での決定によってキリスト教はユダヤ教の陰から離れて世界の人々の宗教となる基礎が据えられました。どんな人で主イエス・キリストを信じれば救われる福音の真理が世界に向かって宣べ伝えられるようになりました。民族、文化、伝統、割礼、無割礼などすべての障害物を乗り越えて全人類がイエス・キリストの中で一つの兄弟となる道が開かれました。
手紙を読んだ異邦人の聖徒たちの反応はどうでしたか。30,31節をご覧ください。31節をご覧ください。エルサレム総会での決定をを読んだ人々は、その励ましによって喜びました。彼らは律法主義者達による重荷を捨てて主の恵みと喜びに満たされるようになりました。
結論、パウロとバルナバは福音信仰を保護するために戦いました。また、聖霊はエルサレム総会を通して福音の真理を確証してくださいました。エルサレム総会の決定を通してキリスト教は世界宣教のための教理的な基礎を整えることができました。私達は今日の御言葉を通してただ信仰によって、ただイエス・キリストの恵みによって救われる真理がどれほど大切なものであるかを学びました。私達も偽りの真理がはびこるこの時代この福音の真理を守ることができるように祈ります。また、ますますイエス・キリストの恵みの世界に深く入ることができるように祈ります。