2009年 箴言 第1講

主を恐れることは知識の初めである

御言葉:箴言1:1?3:35
要 節:箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」

今日から箴言を学ぶようにしてくださり感謝します。この書物は最後の30章、31章のほかは、イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言です。ソロモンはイスラエルの王の中で最も偉大な王であるダビデの子どもです。彼は父の影響を受けてどの時代よりも平和な時代に、だれよりも豊かな人生を生きることができました。その中で父ダビデの信仰と祈りを学び、自分も祈りの力を体験していたようです。彼はまだ若い時に王とってこれからの統治をどのようにすればよいか不安だった時、神様に祈っています。「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。・・・」と祈ったのです。すると、主はその願いを聞かれ、彼に非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられました(?列王記4:29)。その知恵によって代表的な知恵の文学と言われるこの箴言を書き残しました。また、彼は父ダビデの失敗を通しても大きな教訓を学んだようです。ダビデには何人か妻があり、多くの子どもたちがいました。長男はアムノンと言いますが、彼は腹違いの妹であるタマルに恋心を抱き、一方的に彼女を犯しました。それだけではなく、その妹を捨ててしまいました。すると、タマルと同腹のアブシャロムは家来に命じてアムノンを殺してしまいました。また、アブシャロムは父ダビデに反乱を起こしました。その反乱は失敗に終わりましたが、ダビデに大きな苦悩と悲しみを与えました。ダビデは愛する息子に裏切られた苦しみ、その息子が自分の部下によって殺される悲しみを経験したのです。このように、ダビデは子どもたちに恵まれず、子どもが苦悩と悲しみの種になっていました。ダビデは子ども教育に失敗したのです。そこで、この箴言には「わが子よ。」と呼びかけているところが何箇所もあります。ソロモンは自分の子どもたちは自分の兄弟のようになってはならないと思ったでしょう。
つまり、ソロモンは子どもたち、次の世代を受け継ぐ若者たちが、父ダビデのように神様を恐れる人であってほしい、また、両親に従う者であってほしいと切実に思ってこの箴言を書き残したと思われるのです。ですから、箴言は子どもの教育のためにはとても素晴らしい本です。それだけではなく、大人たちも箴言を通して日常生活に関する知恵と教訓を得ることができます。それらを実践していくなら、私たちは長寿と平安が増し加えられる人生、神様と人との前に好意と聡明を得て健康に、豊かに祝福される人生を生きるようになります。
私たちはイエス・キリストを信じることによって皆が同じく霊的には救われます。だれでも永遠のいのちを得ることができます。霊的には皆が同じく祝福されるのです。しかし、現実的な祝福は私たちの生き方によって違います。私たちの行く所どこにおいても、主を認める人の人生と、自分を知恵のある者と思う人の人生は違うのです。もし、ソロモンのように、心を尽くして主により頼み、知恵を求めて生きるなら、神様はソロモンに与えられた知恵の心と判断する心、富とほまれ、長寿を私たちにも与えてくださす。しかし、生き方に変化がなく、いつまでも自分の感情、自分の習慣のとおりに生きるなら、自分の理解を超えた神様の祝福を得ることはできないでしょう。どうか、私たちが箴言の学びを通して知恵と知識を求め、真に知恵ある人として生きるように祈ります。神様を第一にして神様を恐れる生活を通して現実的にもソロモンのように祝福されますように祈ります。

今日は「主を恐れることは知識の初め」であるということを学びたいと思います。大きく三つに分けましたが、箴言の目的と知識の初め、知恵を受けた者の有益、そして知恵を持つ者の祝福と幸福です。

一つ目は箴言の目的と知識の初めに関してです(1章)
1節?4節を読んでみましょう。「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。」ここに、ソロモンが箴言を残した目的があります。それは知恵と訓戒とを学び、理解し、体得することです。ここで、「体得」というのは「体験を通して知ること、理解して自分のものすること」です。ソロモンは自分が体験を通して知った知恵と訓戒を自分の子どもを初め、すべての人々も学び、理解し、体得するために、この箴言を書いたのです。では知恵、知識とはどんなものでしょうか。
 7節をご一緒に読んでみましょう。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」ここの「初め」は、「第一」「最優先事項」と訳すことができることばです。世の中にはいろいろな知識がありますが、主を恐れることこそ、すべての知識の第一であり、最優先事項なのです。
数学、英語、経営、情報通信などの知識を積み重ねていく目的は何でしょうか。それは知識によってもっと豊かな人生、素晴らしい人生を生きるためでしょう。聖書は「主を恐れること」がそういう知識の初めであると言っています。ところが、「愚かな者は知恵と訓戒を蔑む」とあります。?列王記12章をみると、レハブアム王は、父ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退けました。「民のしもべとなって彼らに仕えるように勧めた助言」をを捨ててしまったのです。結局、イスラエルはレハブアムの時に滅亡し、二つの国に分かれてしまいました。レハブアムに多くの助言者たちがいて多くの知識を得ることができましたが主を恐れず、知恵と訓戒を蔑んだ時に滅んでしまったのです。ですから、私たちの人生において第一の知識、最優先事項は主を恐れることでなければなりません。第二の知識は両親に従うことです。
 8、9節もご一緒に読んでみましょう。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。」神様が両親を神様の代理人として立ててくださっています。父と母には主を恐れ、主を愛することを見せながら、主の訓戒と教えによって子どもを育てる使命が与えられています。子どもにはその父の訓戒に聞き従い、母の教えに従わなければならないことが命じられています。「父の訓戒」と「母の教え」、そして子どもたちの従順がある家庭はなんと幸せなことでしょう。日頃の生活のことは、お母さんの教えに聞き従います。小言のように聞こえても母の言いつけに聞き従います。そして、生活の全体的な方針、善悪の価値観、対人関係などは父の訓戒に従います。これは親子が共に主を恐れる生活をする時に可能なことでもあります。両親が主を恐れることなく、子どもたちに訓戒することは難しくなるでしょうし、子どもも、信仰がなければ両親の言いつけに従うことが難しいでしょう。特に親が主を恐れることなく、いつも感情的になって叱るばかりなら、父に従うことがますます難しくなるでしょう。ですから、親も子どももまず第一に主を恐れる生活に励むことが大切です。
自分のことで恐縮ですが、一つ証させていただきたいと思います。私は毎朝、教会に来て日ごとの糧の御言葉を黙想し、祈ってから家に戻って子どもたちと一緒に聖書を読んで祈ります。私の祈りがちょっと長くても子どもたちの祈りは短いからおよそ10分位で終わります。それでも私は感動する時があります。聖書を読みながら心が潤され、胸が熱くなる時もあります。子どもたちも前よりもっと素直になっているような気がします。それで、皆さんにも家族が一緒に聖書を読んで祈る時間を持つことを勧めたいと思います。特に、子どもたちが小学校の高学年、中学生になっていくと、箴言の御言葉を読むことを勧めます。私は長男が生まれる前から子ども教育に関する本を読んできましたが箴言ほど役立つ本はありません。今年の夏に31日間毎日1章ずつ読んだのですが、とても恵まれました。それで毎年一ヶ月は子どもたちと一緒に箴言を読みたいと願っているところです。そうして親子共に主を恐れるためです。
ところが、世の中に罪人たちは私たちを惑わします。娯楽・快楽などを楽しんでいる人々からの誘いです。ゲームやインターネットなどの誘いもあります。自分の心で聖書ばかり読んでいると、ノンクリスチャンの友たちとのつき合いがうまくできないのではないかという心配も生じます。それらに対してソロモンは何と言っていますか。
10-19節をご覧ください。罪人たちが私たちを惑わしても、彼らに従ってはなりません。ここで「わが子よ」と呼びかけています。子どもたちは自分がいつも一緒にいる仲間が、自分をどう見ているかをいつも気にしています。だから、悪いことをいっしょにしようと誘われたら、それを断るのには勇気が要ります。やさしくありません。でも、罪人たちといっしょに道を歩いてはなりません。自分の足を彼らの通り道に踏み入れてはなりません。彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからです。
20-33節は知恵の叱責に悔い改めるべきこと、それを拒む者は災い受けることを記しています。知恵が生きた人間のように叫んでいますが、それは比喩です。知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言います。つまり、知恵は私たちが家にいる時でも、学校の教室にいる時でも、ラッシュアワーの電車の中にいる時でも、私たちに語り掛けてくださいます。私たちが耳を澄ましていれば知恵の声は聞こえます。自分の目の前にいる人が語っている言葉が実は主が語らせておられるかも知れません。時には、子どもを通して、妻を通して主が語られます。日ごとの糧の御言葉、主日礼拝のメッセージを通しても主が語られます。そのような時、叱責に心を留めることが大切です。すると、主の霊が注がれます。聖書に「今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ。」とあります。叱責を受けて悔い改める人に聖霊を注いでくださるのです。すると、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。その心に生ける水の川、平和の川が流れ出るようになります。聖霊に満たされると、不思議にも喜びが満ちあふれるようになります。不安だった人が平安になります。未来に対する不安、健康に対する不安、子どもに対する不安、人間関係に対する不安が消え去り、その心に平安と希望に満たされるようになります。否定的に考えていた人が肯定的に考えるようになります。言葉遣いも変わります。口癖も変わります。「そうだ。できる。よくなる。直る。」いうことを言うのです。聖霊の力が宿り、元気と勇気とやる気で生きるようになります。階段の上り下りもできなかった人でも元気になって歩き始めるようになります。しかし、忠告を無視し、知恵の叱責を受け入れないなら、どうなりますか。その人に災いが襲ってきます。恐怖が嵐のように、災難がつむじ風のように、彼らを襲い、苦難と苦悩が彼らの上に下ります。その時になって叫んでも、主が答えてくださいません。知識を憎み、主を恐れることを選ばず、知恵の忠告を好まず、知恵の叱責を、ことごとく侮ったからです。どうか、私たちが謙遜に神様の愛の声、知恵に耳を傾けて悔い改め、聖霊を受けて平安と力のある生活をしますように祈ります。

 二つ目は知恵を受けた者の有益です(2章)
2章1-6節をご覧ください。ここには知恵の言葉を受け入れ、自ら捜し求めるなら、神の知識を見出すことができると約束されてあります。ヤコブの手紙に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(1:5)」とありますが、そのとおりです。この間、私が職場の同僚に「今日も素敵ですね。顔色もいいですし、着物もお似合いですね。」と言いますと、その人は「頭だけは悪いです。」と言われました。知恵の欠けている自分のことを謙遜に言ったのです。ところが、私たちの間でもそういう言葉をよく聞きます。「もう、私はできない。ダメだなあ。」と反省する声も聞こえます。反省することは良いことでしょう。しかし、いつまでも反省するばかりで主を見上げて求めないならそれは不信仰です。主は不信仰な者を叱られます。私たちは信仰によって知恵と知識を祈り求めなければなりません。自分の過去を探って「あれもこれダメだ」と言うのではなく、主を見上げるのです。そうして、私たちが「銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、私たちは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだす」でしょう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからです。このようにして知恵を受けた者にはどんな有益がありますか。
第一に、悪と誘惑の道から救い出されます。11-15節をご覧ください。「思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。彼らはまっすぐな道を捨て、やみの道に歩み、悪を行なうことを喜び、悪いねじれごとを楽しむ。彼らの道は曲がり、その道筋は曲がりくねっている。」とあります。私たちの周りには悪の道が広がっています。詐欺犯罪だけでもいろいろあります。振る込め詐欺、恋愛詐欺・結婚詐欺、リフォーム詐欺、霊感商法・催眠商法などの詐欺被害も年々巧妙化しており、増えています。私たちが気をつけていなければすぐにその中に入っていくことでしょう。けれども、知恵は私たちをそういう悪の道から救い出してくださいます。
第二に、誘惑から護られ救われます。16-19節をご覧ください。「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。彼女は若いころの連れ合いを捨て、その神との契約を忘れている。彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。」とあります。最近、結婚詐欺で逮捕された無職女の周囲で相次ぐ6人男性が不審死している事件がありました。まさにこの御言葉のとおりです。「彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。」とあるとおりのことが起こったのです。知恵を受けた者はこのような誘惑から護られ救われます。創世記39章を見ると、ヨセフはポティファルの妻の誘惑を受けましたが、その悪の罠に陥りませんでした。それは彼が神様を恐れる知恵から離れない生活をしていたからです。ダニエルもバビロンの捕虜として偶像崇拝の誘惑を受けましたがそれに陥ることなく、信仰の中心を守り通したのは知恵を求め、神様から知恵を受けていたからです。
第三に、最後の勝利者となります。20-22節をご覧ください。「だから、あなたは良い人々の道に歩み、正しい人々の道を守るがよい。正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。しかし、悪者どもは地から絶やされ、裏切り者は地から根こぎにされる。」とあります。危機の時にも地から掘り出されることなく、住み着いている祝福を受けます。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようです。さばきに耐えることなく、滅んでしまいます。もちろん、知恵を受けている人にも苦難があります。しかし、今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りません。世の終わりまでいつもともにいてくださるイエス・キリストによって圧倒的な勝利者になるのです。

三つ目は知恵を受けた者の祝福と幸福です(3章)
3章には知恵の道に歩む者が受ける祝福と幸福が記されています。まず祝福です。
第一に長寿と平安が与えられます。1,2節を見ると、父の教えを忘れないで父の命令を心に留める者に長い日と、いのちの年と平安が増し加えられると約束されてあります。
第二に、好意と聡明が与えられます。4-6節をご一緒に読んでみましょう。「神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。自分に頼るのではなく、主に頼り、すべての事において主を認めるなら、主がその道をまっすぐにされます。人々はどの会社に就職すればよいのか、あの人と結婚するのは御心なのかどうかなどで心配します。でも、私たちは自分のやっていることのあらゆるところで主を認めなければなりません。私たちが主を認め、主に委ねるなら、主がまっすぐにしてくださいます。それで神様の前でだけではなく、人の前にも好意と聡明を得るようになります。
第三に健康と元気が与えられ、財産も豊かに満たされます。7-12節をご覧ください。「自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」とあります。聖書を見ると、信仰の先祖であるアブラハムはあらゆる面で祝福されました。彼は自分の知恵に頼らず、ただ主を恐れて悪から離れていたからです。
 13?35節には知恵を持つ者の幸福が記されてあります。知恵を持つ人の右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがあります。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安です。安らかに自分の道を歩み、足はつまずきません。横たわるとき、恐れがなく、休むとき、眠りは、ここちよいものです。このような幸福の中で注意すべきことは高慢です。自分に財産があるとき、隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう。」と言ってはなりません。悪者の家には、主ののろいがあります。正しい人の住まいは、主が祝福されます。あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授けます。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得ます。

結論的に、私たちは何よりも知恵を求め、知恵に従って生きて行かなければなりません。どうか、私たちが日々、神様を恐れ、両親に従う生活ができるように祈ります。