土の器の中にある宝

 

御言葉:コリント人への手紙第二4:1?18

要 節:コリント人への手紙第二4:7

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が

神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

 

 私達は去年第3講のメッセージを通して私達はどうやって新しい契約に仕える者となり、また、新しい契約に仕える務めがどれほど栄光あるものであるかを学びました。私達が新しい契約に仕える者となったのは神様の恵みによってです。ですから私達は恐れかしこんで神様に喜ばれる生活をしなければなりません。

 今日の本文は使徒パウロが新しい契約に仕える者にして下さった恵みによってどのように働いたかを言っています。神様の恵みを受けることも大切なことですが、その恵みを受けてからどんな生活をするのかはもっと大切なことです。この時間、御言葉を通して神様の恵みを受けた私達がどんな生活をしなければならないかを学ぶことができるように祈ります。

 

?.光の務め(1?6)

 

 1?6節で使徒パウロはどんな姿勢を持って新しい契約に仕える務めを担ったのかを言っています。

 第一に、パウロは新しい契約に仕える務めを担いながら勇気を失いませんでした。1節をご覧下さい。「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく」使徒パウロはイエス様の名を運ぶために多くの苦しみを受けました。彼は行く先々にユダヤ人に妨害され、迫害を受けました。使徒23:21を見ると、四十人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしない、と誓い合って、彼を待ち伏せしているほどでした。彼は人々を惑わす異端のかしらだと非難され、訴えられました。このような苦しみを受ける時、彼は勇気を失いやすいでした。しかし、彼は勇気を失いませんでした。なぜなら彼はそのような時に主を見上げ、主に頼ったからです。彼は信仰によって絶望的な状況を乗り越えていつも力ある生活をしました。 

 私達が善を行いながら苦しみに会うと、勇気を失いやすいです。「なぜ善を行なっているのにこんな苦しみに会うのか」と思い、神様の愛を疑いやすいです。担い切れない出来事が続けて起こると自分の限界を感じて落胆してしまいやすいです。人々からむやみに非難されたり、誤解されたり、迫害されたりすると落胆しやすいです。また、目に見える実が見えない時、落胆しやすいです。そのような時には「いつまでこんな生活をしなければならないのか。羊を養わなければならないのか。もっと楽な信仰生活をするのがいいのではないか。」とも思います。しかし私達が勇気を失わず、続けて主と福音のために働く時、時が来ると、神様が実を結ばせてくださいます。使徒パウロはガラテヤの聖徒達に次のように勧めています。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9)。

 第二に、恥ずべき隠された事を捨てました。すなわち、二重生活をしないで光のうちに歩みました。彼は恥じることのない働き人として、自分を神様にささげるよう、努め励みました。彼は純粋な動機を持って神様の栄光のために働きました。

 第三に、パウロは真理に従い、真理を明らかにしました(2b?4)。彼の働きのポイントは真理がないこの世に真理を明らかにすることでした。そのために彼は真理に従って生活しました。彼はコリント第二13:8節で次のように言いました。「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」イエス様は尋問するピラトの前で次のように証されました。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」人々は真理に従って生きるのもいいすが、この世の中で真理に従って生きると、損するばかりだと思って真理に従うことをためらう場合があります。もちろん私達がこの世と調子を合わせず、真理に従って生きると損することもあり、いろいろな不利益を受けることもあるでしょう。しかし、一時的に損することがあっても、結局神様の助けによって勝利するようになります。私達クリスチャンは真理に属した者としてどんな損害を受けても不利益があっても真理に従って真理を明らかにしなければなりません。

 使徒パウロは真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦していると言いました(2)。これは非常に大切な意味を持っています。私達が神様の前で恥じることがなければいいと考え、人々の良心を無視することは人々によくない影響を及ぼすようになります。反面、人々の良心だけに気が捕われて神様の御前で生活しなければその人はヒューマニストや道徳主義者となってしまいます。私達は神様の御前だけではなく人々の前でも恥じることのない働き人として、自分を神様にささげるよう、努め励まなければなりません。使徒パウロは新しい契約に仕える務めが栄光あるものであるからこそ彼の生活もその務めにふさわしくなるために励みました。

 使徒パウロが真理を明らかにする生活をしたのにも関わらず、福音を受け入れない人々がいました。それはパウロの責任ではなく福音を受け入れない人々の責任です(3)。もし私達が福音を宣べ伝えるのに励まなければ私達の責任ですが、最善を尽くして福音を宣べ伝えたのにも関わらず、福音を受け入れない人々がいればそれは福音を受け入れない人々に責任があるのです。福音を受け入れないとそれで終わるのではありません。人々が福音を受け入れると、聖霊がその人の心に働き、すべての暗闇の勢力が消え去り、いのちと平安に満たされるようになります。しかし、人々が福音を受け入れないと、この世の神、すなわち、サタンが不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしてしまいます。思いをくらませるとは霊的な盲人にならせることです。人々は世の知識やお金に対する欲望、肉の情欲に捕われると霊的な目が暗くなります。霊的な盲人になると、霊的なことが愚かに見えます。福音がどれほど大切なものであるかを悟ることができません。

 使徒パウロは、福音は「神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光」だと言いました。福音は神の御子イエス・キリストに関することです。福音はイエス様がこの世に来られ私達の罪のために十字架につけられ死なれ、死者の中から三日目に神様の力によってよみがえられたことを言います。イエス様が人となられ、この世に来られた時、イエス様がどんな方であるかを知る人は誰もいませんでした。それで人々はイエス様を無視し、排斥しました。しかし、福音の光を受け入れた人はイエス様がこの世に来られた神様の御子であることがわかりました。使徒ヨハネは福音の光を受けて霊的な目が開かれ、その栄光を見て感激して叫びました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)。使徒ヨハネだけではなく誰でもこの福音の光を受けた人々は彼のように感激して叫ぶようになります。私達がよく知っている奴隷の船長、ジョン・ニュートンは高慢と情欲とお金に対する欲望によって霊的な目が閉じられている人でした。しかし、彼が悔い改めて福音の光を受けた時、霊的な目が開かれて感激の歌を歌いました。それがあの有名なAmazing graceです。「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れるわれに。」

 第四に、パウロは主なるキリスト・イエスを宣べ伝えました(5、6)。5節をご覧下さい。パウロは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えました。イエス様が主であることを宣べ伝えることは大切なことです。なぜなら、それは私達の救いとかかわる問題だからです。ローマ10:9節を見ると、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」と言っています。ここで「イエスを主と告白する」ことは信仰告白です。これはイエス様がこの世に来られた神様として私を罪と死から救う救い主であり、私の心や生活を愛と平和によって治める王であり、私を永遠の神の国に導くいのちの主であると告白することです。使徒の働きを見ると、使徒達が宣べ伝えたメッセージのポイントは「主なるキリスト・イエス」でした。これは神様が長い間預言者達を通して約束し、また、すべての人々が待ち望んでいたメシヤがイエス様だということです。人々は誰でも心の奥底から自分を罪と死から救い出し、愛と平和によって治めてくれるメシヤを待ち望んでいます。ところが人々はメシヤが誰であるかを知らずさ迷っています。アウグスチヌスはイエス様に出会う前までは心に真の安息がなかったと告白しました。アウグスチヌスの告白のようにイエス様を自分の主として告白するまでは誰も心に真の平和と魂の安息を得ることができません。

 6節の御言葉はパウロがどのようにしてイエス様が主であることを知り、これを宣べ伝えることができたのかを言っています。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」初めに神様が天と地を創造される前の地は形がなく、何もありませんでした。やみの世界でした。その時、神様は「光よ。あれ。」と仰せられました。すると、暗闇の世界は光り輝くようになりました。天地創造は光の創造から始まりました。このように光を造られた神様は同じく私達の心にいのちの光を照らし、すべての暗闇を退け、主なるイエス・キリストを信じる者に新しい創造のみわざをなさいます。使徒パウロに輝かしいイエス・キリストの光が照らされた時、イエス様を迫害していた彼はイエス様を宣べ伝える新しく造られた者となりました。

 

?.土の器の中にある宝(7?18)

 

 第一に、土の器と宝(7?15)

 7?15節でパウロは自分が体験した福音による苦難と栄光について語っています。7節をご覧下さい。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」パウロは福音を宝に、福音を預かっている私達を土の器にたとえています。このたとえは福音と人間の本質が何かをよく現わしています。宝は世の中に数が少なくてきわめて大切な品物です。また、宝は強くてよく壊れないし、どんな状況の中でも変わらず、その価値は永遠に続きます。人々は金やダイアモンドのような宝を尊く思います。反面、土の器はよく壊れるもので、みすぼらしいものです。人々は土の器はあまり尊く思わないので壊れてもそれほど悲しく思いません。

 このように私達人間は土の器のように弱いものであり、いつかは壊れてしまう存在です。しかし、イエス様は宝のように尊くて永遠なる方です。コロサイ2:3節を見ると、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」と言っています。福音書を見ると、宝であるイエス様の姿が様々な様子で現れています。イエス様はいのちの主です(ヨハネ1:4)。イエス様は乾いた人生に永遠のいのちへの水を与える方です(ヨハネ4:14)。飢えている人にいのちのパンである方です(ヨハネ6:35)。イエス様は盲人に光となる方です(ヨハネ9:5)。死の力に苦しんでいる人々によみがえりであり、いのちである方です(ヨハネ11:25)。イエス様には暗闇がなく運命がなく悲しみもなく死もありません。イエス様にはいのちと喜びと平和が満ちています。この宝であるイエス様を信じる人は宝のような人生を過ごすことができます。私達がいのちに溢れた人生、喜びにあふれた人生、平和にあふれた人生を過ごすためにはこの宝であるイエス様を受け入れなければなりません。

 宝は宝箱の中に入れたほうがもっと価値があるように見えます。宝を土の器の中に入れるのは合わないように見えます。それではそのようにした意味は何でしょうか。使徒パウロはこの宝を土の器の中に入れた意味は宝が持っている測り知れない力が神のものであって、私達から出たものでないことが明らかにされるためだと言っています。ローマ1:16には福音の力について書いてあります。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ある人は言いました。「らい病人が癒されるのは奇跡だ。ところが、それよりもっと大きな奇跡はらい病人のような罪人が悔い改めてイエス様を信じて新しい人になることだ。」福音はこのように奇跡の中の奇跡をなす力があります。使徒パウロがいつもいのちに溢れた人生、感謝と恵みに満たされた人生、勝利の人生を送ることができた秘訣も自分の力にあったのではなく、宝であるイエス・キリストを自分の中に入れていたからです。

 私達の中にある宝のゆえに土の器のような私達も尊いものです。ただ覚えなければならないことは、自分は土の器のような存在として宝であるイエス・キリストを証しする道具に過ぎないということです。すなわち、バプテスマのヨハネのような姿勢が必要です。ヨハネがバプテスマを授けると、ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところに行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けました。バプテスマのヨハネの人気は段々高くなって人々の中には彼がキリストではないかと思うほどでした。その時、エルサレムからヨハネのもとに調査団を遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせました。ヨハネはただ黙っていても人々から人気を集めることができました。しかし、彼は「私はキリストではありません。」とはっきりと答えました。また、続けて質問する彼らに「そうではありません。」「違います。」と強く自分を否認しました。そして、自分は荒野で叫んでいる者の声に過ぎないと言いました。彼は主の道をまっすぐにする使命を忠実に果たしました。彼はイエス様は宝であり、自分は土の器に過ぎないことを知っていたので「私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言いました。神様はこのようなヨハネを尊く用いられました。

 8?15節でパウロは、この務めを担うために多くの苦しみを受けましたが、そのような中でも、宝であるイエス様によって勝利の人生を過ごしたことを証ししています。8?12節を読んでみましょう。ここで私達はどんな絶望的な状況の中でも落胆せず、不死鳥のように勝利するパウロを見ることができます。彼がこのように勝利の人生を送ることができたのは復活信仰があったからです。何よりもイエス様の十字架の苦難に参加することによって復活の力を受けたからです。彼はピリピの聖徒達に次のように言いました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10、11)。多くの人々が力ある人生、福音のみわざに力強く仕える人生を過ごしたいと思いますが、時代の環境が難しいと言います。特にこの国の宣教は難しいと言います。しかし、そのように難しければ難しいほど福音の力を受けなければなりません。問題は時代の環境が難しいことではなく福音の力を受けてないことが問題です。私達が福音の力を受ける時、難しい環境は新しいみわざを創造することができる環境として変わります。1:1、弟子養成も福音の力によってできます。神様は生きておられます。天地を創造し、死者を生き返らせる全能なる方です。神様には不可能がありません。信じる者には、どんなことでもできるのです。主が私達に信仰を与えてくださり、環境を乗り越えて新しいみわざを創造することができるように祈ります。

 第二に、内なる人と外なる人(16?18)

 16?18節でパウロは苦難の中でも勇気を失わない理由を言っています。

 それはまず、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。私達の体はいくらよいものを食べて、運動をしても歳を取るにつれて衰えて行きます。白髪が増えて目も悪くなります。歯も抜けて入れ歯が必要となります。しかし、信仰によって生きる人は外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます。どのようにしてそれが可能ですか。それは復活のいのちが与えられる時に可能です。復活のいのちを受けるためにはイエス様の十字架を愛しなければなりません。何よりも聖書を熱心に学ばなければなりません。御言葉が私の考えと心を支配し私を取り囲む時、力ある人生を過ごすことができます。ところが、信仰生活が長くなればなるほど外なる人も衰え、内なる人も衰える人もいます。最初に持っていた感激や恵みがなくなり、ビジョンも段々薄れて行きます。開拓精神も男らしい迫力も消え去り、古い皮袋のようになります。生活人になり、何の問題意識もなく生活をします。私達の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて行く人にならなければなりません。そのような信仰生活をする時、幸せになります。その人は信仰生活をすればするほど霊的に成長して行きます。主が私達に十字架を愛する心を与えて、復活信仰によって日々新たにされて行くように祈ります。

 もう一つ、パウロが苦難の中でも勇気を失わない理由は神の国に対する生ける望みのためでした。彼は現在受けている苦難は一時的であり、軽いものですが、将来受ける栄光は重く永遠のものであることを知っていました。神の国に対する生ける望みがある時、私達は現実の問題に縛られず、この世で自信感を持って主と福音のために苦しみに預かることができます。

 結論、私達の肉体は土の器のようによく壊れて、結局死んで土に戻ります。しかし、イエス様は永遠の宝です。私達がこの宝をうちに持っていることによって復活の生命力に満ちた人生を送ることができるように祈ります。