2013年ローマ人への手紙第10講                

聖霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

御言葉:ローマ人への手紙8:1−17
要 節:ローマ人への手紙 8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」 

先週、私たちは7章の御言葉を学びました。パウロは人間の弱さ、罪深さを明らかにしました。私たちは善人になろう、正しく生きようと決心してもなかなか実行できない自分を知っています。ここに私たちの悲しみと嘆きがあります。そこで、パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫んだのです。ところが、その直後に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と歓喜の叫びを発しました。私たちの無力も、罪も、弱さも、ただ私たちの主キリストの恵みによって希望と歓喜とに変わってしまうからです。私たちはただイエス・キリストの恵みによって救われるのです。
今日から学ぶ8章の御言葉には救われた者たちが所有する恵みが記されてあります。罪に定められない赦しの恵み、限りない愛と圧倒的な勝利があります。ブライアン・J・ベイリーという方は「ローマ人への手紙」の説教集の副題を「圧倒的な勝利者」にしていました。それはこの8章からの引用です。聖書の中の聖書がローマ人への手紙だとも言われますが、その中でも8章はとても素晴らしい個所なのです。もちろん、聖書全体が神様の御言葉であって各章別に、比較することは無意味なことかも知れません。ただ、ローマ人への手紙8章はそれほど恵みにあふれている内容だということです。
私自身もこの8章の御言葉をとても親しんでいますし、大好きな個所です。何度も何度も大きな恵みを受けてきました。聖書全体が私の人生に大きな影響を与えていますが、章別に比較するなら他の章とは比べられないほどに大きな影響を与えてくれました。私の人生の中で神様の愛、聖霊の働きが疑わしくなった時も、信仰が揺れる時もありました。なかなか理解できない試練に会う時もありました。とても孤独な時、苦しく悲しい時もありました。そのような時にこの8章の御言葉が私を癒し、励まし、生かしてくれました。そういう意味で皆さんにもこの8章の御言葉を暗記し、親しむことを勧めます。そうすれば、間違いなく、御言葉が皆さんを癒し、生かし、救い出してくださるはずです。御言葉を通して神様の愛を悟り、確信するようになると信じます。
この素晴らしいローマ人への手紙8章の中から、今日は前半部を学びます。ここで、私たちはイエス・キリストの恵みによって私たちのうちに住んでおられる聖霊、聖霊に導かれる人生き方を学びます。

第一に罪に定められない。
1節をご覧下さい。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」これは偉大な自由宣言です。先週私たちが学んだようにパウロは「私は、ほんとうに惨めな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫びました。心から善をしようとしても、かえって悪をなしてしまう自分、なんと情けない自分であるかと叫んだのです。ところが、聖霊の助けによってただ主キリスト・イエスによって自分は生きることができると言うことが分かりました。パウロの生きる希望と力はキリストによる以外はないということが分かったのです。だから、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはないのです。誰も私を罪に定めることができないし、神様も私たちを罪に定められないのです。
私たちの人生の大きな問題の一つは「罪責感、罪意識」です。私たち人間には「私は赦されているのだろうか」という漠然として不安があります。また、人を赦せない心のために自分自身が苦しんでいます。赦せない心から精神的な患いだけではなく、肉体的に病気にかかっている人も多くいます。つまり、人は自分が罪に定められていることのために恐れ、苦しみ、自分自身も人を赦せないことのために苦しんでいるのです。ところが、キリスト・イエスにある者がすべての罪が赦されて罪に定められることは決してないのです。自分自身が赦されているから人を罪に定めることもできません。どんな人でも赦せるようになります。すると、その人の心に平安といのちがあふれるようになります。どうやってこういう素晴らしい恵みを受けるようになったのでしょうか。
2,3節をご覧ください。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。パウロは私たちが罪に定められない理由を説明しています。イエス様が私たちと同じ肉体をとって人として来てくださいました。私たちの身代わりとなって、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。私たちが受けるべき処罰を受けてくださったのです。それゆえ、私たちは、キリストにあって、いつも赦しの恵みの中に生きることができるようになりました。それだけではありません。今はキリストとおもに復活した者として、復活のいのちに生かされています。

第二に聖霊が私たちのうちに住んでくださいます。
私たち人間は肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神様はしてくださいました。御子イエス・キリストの贖いによって私たちを赦してくださったのです。それは一方的な神様の恵みです。人というのは罪深い者です。三歩歩けば神様の恵みを忘れてしまうような弱い存在です。しかし、それでも、神様は、私たちのすべての罪を赦してくださっているのです。さらに、神様ご自身であられる聖霊が私たちのうちに住んでいてくださいます。
8章では「御霊」、「神の御霊」、「キリストの御霊」という言葉が出てきます。それは聖霊が神の御霊であり、同時にキリストの御霊であられるということです。同時に、キリスト自身にもなるということです。これは三位一体の真理で私たちが理解することも説明することもやさしくありません。神様の位格を表わすことですが、私たちの理解を超えた神秘な領域であるからです。従って、私たちは御言葉の権威を信頼し、聖書に書かれた通りに信じることが大切です。
マタイの福音書1章23節によるとイエス様の誕生に対して「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言が成就したと書かれています。「インマヌエル」とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。神様が私たちと共にいてくださるようになったということなのです。そして、この世で33年間の生涯を過ごされ、十字架につけられ、死んで、葬られ、復活して、天に昇られました。その後はキリストを信じる一人一人に聖霊、つまり、神の霊であり、キリストの霊である方が注がれます。それによって、イエス様は、そして、父なる神様は、いつも一人一人と共にいてくださるのです。イエス様は天に昇られる前に、弟子たちに約束なさいました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」と。その約束は、信じる一人一人に聖霊が注がれることによって成就したのです。
ですから、私たちは聖霊が私たちのうちに住んでおられることを信じ、自分の主人として生きなければなりません。「住む」と言う言葉を英語では resident と言います、聖霊が住まれるだけでなく、President(社長、大統領)になった時、私たちは聖霊に満たされたというのです。私たちの内側には肉と聖霊とが共に住んでいて壮絶な葛藤を繰り広げています。
5−8節をご覧ください。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。にある者は神を喜ばせることができません。」とあります。肉の思いは神様の敵です。神様に従わないので神様の敵にならざるを得ません。肉的なことを考える人は自己中心的であり、世的価値観を持っています。教会に通いながらも霊的な恵みを受けていない方は恐らくその肉の思いから離れていないからでしょう。
皆さんは毎日何を考えているでしょうか。考えの中心が自分にあるでしょうか。この世の快楽や物質などにあるでしょうか。もし、それだけなら恐ろしいことです。何を考えて生きるかはとても大切です。何を考えているかによって態度や行動が変わります。そして、その人の態度と行ないによって人生が決まります。考えがそれほど大切なのです。
数年前ですが、私が中学校1年生の担任をしていた時、遠足で東武動物公園に行ったことがあります。そこで、初代園長だった故西山登志雄さんのお話を聞いて非常に感銘を受けましたが顔がカバに似ていました。もっぱらカバを考えたことで東大の博士たちにも教えるカバ専門家になりましたが顔までも変わっていたのです。
ところが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。どうすれば神様を喜ばせるか、どうすれば神様の御心に従うかを考えます。主人を喜ばせるためです。ピリピ4:8節は言います。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」とあります。御霊に属することは「真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと」など霊的なことを言っています。つまり、ほんとうに神様に認められたい、神様に愛されたいと素晴らしい考えで生きることなのです。すると、結局は神様を喜ばせることになります。その結果はどうなりますか。御霊に支配される生活、聖霊に導かれる生活ができます。するとは平安になり、生かされる生活ができます。
10、11節を読んでみましょう。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」聖霊は私たちの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。聖霊と交わる生活をしている人は経験していることですが、イエス様は私たちに癒しを与えてくださいます。死ぬべきからだを生かすことのできる方なのですから、神様に大胆に癒しを祈ると、主が御手をもって病の中にある一人一人に触れてくださいます。私は何度も経験して来ました。職場生活の中で傷つけられたり、落胆したりする時も聖霊は私を生かし、元気つけてくださいます。どうか、私たちが私たちを生かしてくださる聖霊の働きを期待し、祈っていきましょう。
パウロはすべてを自分のうちに住んでおられる聖霊にお任せして聖霊に従う生活をしました。だから、彼は『私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです(ピリピ4:13)』と言えました。これはパウロだけが経験することではありませんキリストを信じるすべての人が経験できることです。キリストは今生きておられます。では、聖霊を主人とし、聖霊に従って歩む者たちにはどんな祝福が与えられますか。
12、13節をご覧ください。「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。私たちがクリスチャンになったとしても神様に任せないで、肉に従って生きるなら、自分が責任を取らなければなりません。自分がやったから自分で責任を取るのは当たり前だと思うかもしれません。その結果は恐ろしいものです。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがは死ぬのです。」とあります。しかし、もし御霊によってからだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。ですから、私たちにとって大切なのは、肉の思い、からだの行ないを殺して神様の御言葉に従って生きることです。

第三に聖霊が導いてくださいます。
14−16節を読んでみましょう。「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」自分が罪人であることを認めて救い主イエス・キリストを信じた時、聖霊が私のうちに臨まれ、神様を「アバ、父。」と呼べるようにしてくださいました。それで、神の御霊に導かれる人は子どもとして「パパ」と親しさを込めて親を呼ぶことができる関係を持てるようにしてくださいました。私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。険しい世の中でも全知全能の神様が味方してくださる神様の子ども、神様の相続人であるから、大胆に、たくましく生きることができます。結局、圧倒的な勝利者の人生を生きるようになるのです。

 結論、キリスト・イエスにある私たちが罪に定められることはありません。私たちの身代わりになって十字架にかかって貴い血を流されてイエス様の恵みによってすべての罪は赦されました。私たちは神様の子どもとなり、聖霊が私たちのうちに住んでいてくださいます。従って私たちは自分のうちにresidentしておられる聖霊をPresidentとして受け入れ、信じて従わなければなりません。どうか、ひたすら自分のうちに住んでおられる御霊に属することを考えましょう。すると、私たちの人生が変わります。いのちと平安があり、勝利の人生を生きるようになります。
最近、○○さんは霊的な目が開かれていると思われます。1:1聖書勉強先生である金ヨハネ宣教師から聞いた話ですが、御言葉が聞こえたそうです。ギャンブルもネットゲームもやめたそうです。素晴らしいことです。それは聖書勉強をしているうちに御霊に属することを考えるようになったからでしょう。これからイエス様に似ていくことでしょう。どうか、私たち皆が日々私たちのうちに住まわれ、私たちを導いてくださる聖霊に導かれる生活ができるように祈ります。