2013年ローマ人への手紙第12講
事はあわれんでくださる神様による
御言葉:ローマ人への手紙9:1−33
要 節:ローマ人への手紙 9:16 「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
先週、私たちは8章の御言葉を通してすべてのことを働かせて益としてくださる神様を学びました。神様の働きによって私たちは圧倒的な勝利者の人生を生きています。では神様の働きの根拠、その動機は何でしょうか。
パウロは9章の御言葉で私たちに対する神様のすべての事はただ神様のあわれみによることを教えてくれます。イスラエルの中で残された者がいることも、救われる資格のなかった異邦人が救われる恵みに預かったことも、すべて神様の憐れみによることです。どうか、御言葉を通して大いなるあわれみによる神様の働きを深く悟り、学ぶことが出来るように祈ります。
?.同胞に対するパウロの心(1−3)
1∼3節を読んでみましょう。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」
「血は水より濃い」という諺があります。血の繋がった血縁者の絆は、どんなに深い他人との関係よりも深く強いものであるというたとえです。私は6人兄弟の中で長男ですが小さい時は兄弟関係がそれほど深く強い関係であると思いませんでした。クリスチャンになってからは霊的家族関係がもっと大切であると教えられてきました。だから、今でも霊的家族は職場の同僚や友人よりも深く強い関係になっています。でも、私の弟たちや妹との関係より深く強いものであるとは言えません。本当に血の繋がる兄弟関係は深く強いものです。
ところが、使徒パウロも「血は水より濃い」という常識を超えることはできなかったようです。やはり彼も血の繋がった血縁者の絆を無視することはできませんでした。生まれ故郷を離れ、「異邦人の使徒」として世界宣教のために熱心に働いていましたが、いつも彼の心には同族イスラエル人たちがいました。神様の救いをあずかった人として自分の同胞が同じ救いにあずかることを願わずにはいられませんでした。彼には大きな悲しみがあり、彼の心には絶えず痛みがありました。では私たちはどうでしょうか。
私が救われてから長い間悩んだことは「私だけ救われていいのか。」と言うことでした。私は救われてから多くの恵みを受けていましたが、家族が救われていなかったからです。それで何度も泣きながら祈りました。すると、神様のあわれみによって兄弟も多くの親戚も救われて来ました。特に両親の救いのために激しく泣きながら祈る時も多くありましたが神様のあわれみによって父も母も人生の最後にイエス・キリストを信じて救われてから天に召されて行きました。ところが、その後、私は残されている兄弟の救いのために祈ることを怠けて来ました。ところが、今回、もう一度神様の御前で「私だけ救われていいのか。」と言われるような気がします。神様は私たちに「私たちだけ救われていいのか」と聞いておられるのです。特に神様は宣教師として遣わされている私に「この国の救いのためにどれだけ悲しみ、心を痛めているのか。」と言っておられるのです。私たちが家族、親せき、同胞、宣教地の人々の救いのためにどれだけ悲しみ、心を痛めているでしょうか。どうか、私たちにも救いのために涙を流す心が与えられますように祈ります。
パウロの同胞であるイスラエル人は神様によって特別に選ばれた民でした。
4,5節をご覧ください。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」とあります。パウロの同胞であるイスラエル人には神様から多くの特権が与えられていました。彼らは神様の子とされました。つまり、神様はイスラエルに神の御子イエス・キリストに与えられた権威を与えられました。イエス・キリストとともに、神の御国を治め、統治する養子とされていたのです。それから、栄光も、契約も、律法も、礼拝も、約束も彼らのものです。そしてキリストも血縁関係によるとイスラエルから出られました。にもかかわらず、彼らはキリストを受け入れず、退けていました。そのことでパウロは夜も眠れないほど悲しみ、心を痛めていました。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」と言ったほどに心を痛めていたのです。
そのうちに、一つの疑問が湧いてきました。それは、神様がイスラエルを選んだという神様の御言葉は無効になったのかと言うことです。どうでしょうか。パウロはこの問題を持って悩み深く考えた結果、答えを見つけました。それは神様のことばが無効になることはないということです。そんなことはありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではないからです。つまり霊的イスラエルをご自身の民として選ぶためであったのです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。パウロはその確かさを、パウロは6−13節を通して説明しています。
イスラエルの先祖アブラハムには子どもがひとりだけではありませんでした。しかし、「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のです。それはイサクの子どもであるエサウとヤコブの場合も同じです。神様はご自分の主権によって弟ヤコブを選ばれたのです。なぜでしょうか。パウロはその驚くべき理由を発見しました。
?.神様のあわれみと主権的な選択(11-33)
11、12節をご一緒に読んでみましょう。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。」とあります。神様がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが人間的に優れていたとか、何か良いことを行ったとかということからではありませんでした。神様の選びのご計画によるものであったということです。
私たちは何事も因果応報的に考えてしまいがちです。たとえば、ある人が最難関と言う大学に合格するとこの人がどうして合格したのかを考え、彼が一生懸命に勉強したので合格したとか、今年の受験者が少なかったからあの成績でも合格したと分析するわけです。あるいは逆に失敗したりすると、「あの人は神様に対して罪を犯したから失敗したんだ」とか、「私たちの知らない大きな罪があったからあんなふうになったんだ」と考えるのです。多くの災難で苦しむヨブに、その友人たちが取った態度はまさにこうでした。しかし、聖書にはすべてがそういうわけではないと言っています。特に、私たちが救われたのは私たちの性格が良いからとか、日ごろの行ないがいい人間だからではなく、それはただ神様の一方的な恵みでしかないのです。
まさにエサウとヤコブの例は、この事実を物語っています。人間的に見たらどうしてエサウが憎まれ、ヤコブが救われたのかわかりません。しかし、神様はずっと前からそのように選んでおられました。神様がこのようにくどくどと説明しているのは、そのことが私たちの行為以前にすでに決められていたことを示すためです。エペソ人への手紙の中でパウロは、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3〜5)と言っています。多くの人はあらかじめ定めておられたこの選びの教理を語ると、「最初から救われる人と救われない人がいるなんて不公平ではないか」と言います。この選びの教理を受け入れられないばかりか、こうしたみことばにつまずいてしまうことも少なくありません。しかし、聖書は私たちの救いが一方的な神様の選びによると教えているのです。それではどういうことになるのでしょうか。
神様は不公平な方だということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
14-16節までをご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」ここに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」とあります。神様が自分のあわれむ者をあわれみ、いつくしむ者をいつくしんだからと言って、いったいだれが不公平だと言えるでしょうか。それは公平か不公平かということではありません。
ローマ人への手紙3章23節によると、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・」とあります。すべての人間は罪によって全く死ぬしかなかった存在なのです。にもかかわらず神様は、選んで救ってくださいました。ですから、神様に捨てられて救われない人間が、「なぜ自分を救ってくれないんですか」と抗議するような問題なのではないのです。ただ、全く救われる価値のない者が神様からの栄誉を受け、救われたことに対する感動と感激、感謝しかないのです。神様はなぜ私たちを救ってくださったのでしょうか。なぜこんなに惨めな私を愛してくださったのでしょうか。それはわかりません。愛したいから愛したのであって、救いたいから救ってくださったのであって、私たちに愛されるための何か特別な理由があったからではないのです。それは全く神様のあわれみによるのです。
しばしば、私は、自分に対してこういう質問をしています。まずどうして私が救われたか。です。私は何だから小学校3年生の頃から教会に通い始めましたが、それが祖母に知らされた時、私をとても可愛がってくれる祖母はよく言いました。あなたが生まれて間もない時、頭だけが大きく、子どもなのに体は痩せて行ったので死んでしまうかと思っていたがお寺に行って供養し始めると良くなって来たということです。仏様のお蔭で命拾いしたのだから教会に行くなと言うことなのです。それでも私は教会を通い、救われました。本当に不思議です。祖母によると、寒い冬でも冷たい水で体を洗い、お寺に通い、多くの献金をして育てたのに御坊さんではなく、キリスト教の宣教師、牧師になったのです。しかも、私より能力があり、きよく正しく生きている人がどんなに多くいるでしょうか。私が世の仕事だけでも力量の足りなさのために絶望する時が多いものです。本当に惨めな者です。なのに、どうして神様はこんな私に教師、牧師、宣教師の務めを与えてくださったのでしょうか。時にはこの十字架があまりにも重くてどうして私なのですかと聞きます。時にはこんな者でも用いてくださる恵み、私に注がれた恵みがあまりにも大きくて「どうして私なのか。私は何者なのか」と聞くのです。その時ごとに神様の答えは一つです。「あなたは、神に愛されている人だからだ。」です。先週、ダニエルの学習と祈りを学ぶ時にも言いましたが、御使いガブリエルがダニエルに言った言葉です。どうして私なのか分かりませんが、私は神様に愛されている者です。しかも、私の努力や願いによるのではなく、一方的な神様のあわれみによって愛されているのです。そこで、私はダニエルのように、信仰を守り、ダニエルのように、この世の教師の仕事も、宣教師の仕事も忠実に担って行こうと心を改めて行きます。
皆さんはどうでしょうか。この時間、自問自答してみましょう。「神様!いったい私は何者なのでしょうか。どうして私が救われたのですか。どうしてこんなに愛されているのですか。」と。神様は「あなたが好きだから。ただ私があなたを愛しているからだ。」と答えてくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださいます。この神様のお言葉に感動してひざまずき、涙を流す人こそ恵みを知っている人です。
パウロはコリント人へ手紙で言いました。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(?コリント1:26-28)」
神様は一方的に私たちを哀れまれ、愛してくださり無に等しいものを神様の子どもとして選ばれたのです。この恵みを悟ると感激せずにはいられません。賛美せずにはいられません。一緒に賛美しましょう。新聖歌357番です。「何ゆえ御神は かかる身をも/神の子とせしか 知るを得ねど/わがより頼む主は委ねたる身と魂を守り得給うと 確信するなり…」
日本には、神様が信じられないという方がたくさんおられます。中には神様は信じているけどイエス様が信じられないという方もおられます。「信じたいのですが、信じられないのです。」という人もいます。何が問題なのでしょうか。すんなり信じられる人とそうでない人がいる理由は何でしょうか。
16節をもう一度読んでみましょう。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」私が救われたのは私の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神様によってです。皆さんが救われたのも神様のあわれみによってです。○○さんが教会に来て救われたのは○○牧者の祈り、涙の祈りがあったからだと思います。でも、本質的には神様のあわれみによるものです。それは私のように惨めな人、この世の愚かな者、取るに足りない者たちだけではありません。この世で偉い人たちも神様のあわれみによって救われます。
先日、私は東京大学の入学式の式辞を読んだのですが、濱田総長は歴代の総長のうちに沢山の素晴らしい方々がいたと認めた上で、戦後の東京大学の制度の基盤を作ると同時に精神的な基盤を作られた総長としての南原総長とともに矢内原総長の式辞を引用していました。私がこの二人を紹介するのは、ふたりともクリスチャンであり、内村鑑三の弟子ですが、神様のあわれみによって知識人も救われるという事実を伝えるためです。また、内村鑑三と新渡戸稲造が救われたのはウィリアム・スミス・クラーク宣教師が30年間も祈り求めた神様のあわれみによると言うことです。
どうしたら日本の47都道府県にキャンパス牧者たちが立てられるでしょうか。それは人間の願いや努力によるのではありません。あわれんでくださる神様によるのです。日本が聖なる国民、祭司の王国になることは全く神の主権、神様のあわれみによるのです。ですから、だれかが信じて、だれかが信じないからといって、それで高慢になったり、あるいは落ち込んだりする必要はありません。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神様によるからです。
20、21節をご覧ください。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」とあります。結局、どのような用途の器を造るのか、それは陶器師の心一つです。同様に、神様の絶対的主権によって、しかもあわれみによって選ばれ、救われています。だからこそ、私たちの救いが完全なのです。もし、私の願いや努力に基づいているなら、揺れ動くでしょう。しかし、私たちの救いも、神様の子とされていることも神様の選択、あわれみによるのです。一方的なあわれみによって私たちを救ってくださった神様の恵みを心から感謝します。