2013年マルコの福音書第14講
みなに仕える者となりなさい
御言葉:マルコ9:30〜50
要 節:マルコ9:35イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
先週、私たちは「信じる者にはどんなことでもできる。」と言うことを学びました。本当にイエス・キリストを信じる者は祈りによって癒しも、力あるわざも体験するようになります。ただ、一度、癒しと力を体験できたら、あとは自動的にそれを体験して行くというものではありません。継続的に信じ、継続的に祈ることがなければなりません。先週、素晴らしい演奏をしてくださったヴァイオリニストのxx牧者はミソ宣教師と一緒に30回以上練習したと聞きました。一度技術を習得しても日々の練習を怠ければ、力を発揮できなくなってしまうからでしょう。霊の世界、信仰の世界でも同じです。信仰も祈りも、日々の継続と、へりくだって神様の助けを求めることがなければ力ある信仰生活はできなくなってしまいます。へりくだって神様の助けを求めることはとても大切です。
今日の御言葉では私たちクリスチャンが常にへりくだっていなければならないことを学ことができます。具体的に皆に仕える者になることです。イエス様は弟子たちに「みんなに仕える者」が一番偉い人であることを教えてくださいます。ここで私たちはイエス・キリストの弟子として生きる者の生き方を学ぶことができます。
イエス様はみんなに仕える者の生き方を教える前にご自分の受難と復活を打ち明けました。
30-32節をご覧ください。「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とあります。ここで、弟子たちはイエス様が十字架の受難と復活を話しておられても、「この言葉が理解できなかった」と記されています。それはイエス様が弟子たちに十字架の受難と復活の言葉を理解していてほしいと願っておられたということです。
弟子たちは都合の良いことだけではなく、イエス・キリストの十字架と復活の御言葉が理解できなければなりませんでした。信仰と祈りによって癒しと奇跡を体験することだけではなく、十字架と復活を理解しければなりません。だから、イエス様はご自分歩まなければならない十字架の受難と復活の道を打ち明けられました。イエス様はエルサレムに行かなければならず、そこで人々の手に引き渡され、苦しみを受け、殺されなければなりません。しかし、死で終わるのではなく、三日目によみがえられるのです。イエス様がこれを予告されるのは、それがイエス様の天命であるばかりか、イエス様の後からイエス様に従うはずの弟子たちの道でもあるからです。ところが弟子たちはそれを理解することも、ましてや受け入れることもできませんでした。それでも、イエス様は弟子たちをあきらめることなく、弟子の道を教えておられます。では弟子はどのような生き方で生きるべきでしょうか。
第一にキリストの弟子はみなのしんがりとなり、みなに仕える者です。
35節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」イエス様は弟子たちに人の先頭に立つ秘訣を教えてくださいました。それは、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となることです。
がんばって、がんばってこそ、人の先に立つのではありません。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者」こそ、偉い人です。ここで、「しんがり」とは退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐことが任された部隊を意味します。軍隊の経験がある方は分かるでしょうが、このしんがりは大変重要な役割が任されています。退却する軍列だから後ろから追撃して来る敵を防ぐことができなければ全体のいのちが危なくなります。しんがりには全体のいのちを守る大役が与えられているのです。それで漢字で書くと「殿」になります。皆に仕えるリーダーの心がなければその役を果たすことができないでしょう。だから偉大な将軍は退却する軍列の一番後ろからみんなに仕えます。そのように、皆のしんがりとなり、みんなに仕える人が一番偉い人なのです。
一般的に私たち人間は人々の先に立ち、人々の上に君臨して支配することを好みます。特にリーダーは一番目立つ所に立って行かなければならないと思います。実際に、優れた知恵と正しい判断力を持つリーダーが先頭に立って行くなら、そういうリーダーに従う人は幸いでしょう。ただ、従うことだけでも守られるからです。しかし、イエス様の弟子たちにはしんがりとなり、みんなに仕えるサーヴァントリーダーシップが求められるのです。
事実、私たちの主イエス様は全人類のしんがりとなり、すべての人々に仕える者としての生涯を過ごされました。パウロはこう言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:6−9)」
イエス様は、まさにどん底の低さまでへりくだって人々に仕えました。弟子たちのしもべの身分にまでなって、彼らの足を洗われたほどに謙遜に仕えました。そして十字架の死にいたるまですべての人々に仕えてくださったのです。それゆえ、イエス様は高く上げられたのです。私たちが自分のいのちを価値あるものとし、真に偉大な人生を生きようとするなら自分で自分を高めようと励むことによってはできません。低いところに下って、人々に仕えていくことこそが、実は、神様に造られたいのちを最も価値あるものとし、偉大なものとする道なのです。しかも、それは偉い人々に仕えるということはありません。幼子のひとりのような人々に仕えることです。
第二に、イエスの名のゆえに幼子たちのひとりを受け入れることです。
36−37節をご覧ください。「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」」とあります。このイエス様の御言葉を正しく理解するためには、当時、幼子がどのように評価されていたかを知る必要があります。現代の私たちには、幼子は可愛いもの、無邪気なものという感覚でとらえます。幼子のヒョンス君、ハジンちゃんなどを見ると本当に可愛いです。でも、当時は違いました。本文の御言葉を見ると、イエス様はひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせました。人々は子どもを連れて来ないし、大人たちの真ん中に立たせるようなことをしませんでした。ものの数にはいらないもの、無価値なもの、邪魔者の代表が幼子だったのです。
マタイの福音書25章33節から40節を見ると、空腹の人、渇いている人、旅人、裸の人、病気をしている人、牢にいる人たちのことが記されてあります。そういう人が幼子のように小さな存在になっていたのです。ところが、イエス様は彼らにしたことがイエス様ご自身にしたことだと言われました。だから、イエス様の弟子は弱くて疲れている人、問題だらけの人、貧しい人たちを受け入れて助け、仕えなければならないのです。
ところが、私たちの本性では幼子のような人を受け入れることがとても難しいです。問題が救いない自分の家族でさえ受け入れることが難しい時があります。問題だらけの人、自分勝手な人を受け入れることはどんなに難しいでしょうか。赤ちゃんみたいに自分勝手な人を受け入れることは本当に難しいです。しかし、イエス・キリストを信じる人々はイエス様の教えに従い、イエス様を見習わなければなりません。特に、自分のように自分勝手な者、利己的な者、不敬虔な者を受け入れてくださったイエス様を覚えなければなりません。
イエス様は全世界の人々を救うためにこの地に来られました。でも、幼子のひとりのように最も小さい人を受け入れてあわれまれ、仕えてくださいました。イエス様は人々から無視され、捨てられた傷だらけのサマリヤの女性を受け入れ、彼女に仕えました。皆から嫌われている収税人、罪人、らい病の人、中風の人たちを受け入れ、彼らに仕えてくださいました。すると、彼らがイエス・キリストの愛によって癒され、救われ、変えられて行きました。偉大なキリストの弟子、使徒となって行きました。
何よりもイエス様は異邦人であり、不敬虔な私たちにも仕えておられます。幼子のように自分勝手な道に歩んでいく私たちを受け入れて愛し、仕えていてくださいます。パウロはこう言いました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6-8)」
どうか、私たちひとりひとりが、自分のような者でも受け入れ、愛し続けておられるイエス様の愛を覚えてイエス様のような幼子のような人を受け入れ、愛する生活ができるように祈ります。
第三に、反対しない者は味方として認めることです。
38節をご覧ください。「ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」」とあります。ヨハネの仲間意識は高かったようです。それも超熱かったのです。熱いのはいいのですが、熱過ぎると問題が生じます。仲間意識の低い者を攻撃するようになるからです。それに対してイエス様は何と言われましたか。
39,40節をご覧ください。「しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」とあります。イエス様はヨハネのように排他的な心を持っておられませんでした。イエス様はご自分の名前を使うからと言ってローヤルティも求めるようなこともなさいませんでした。イエス様は私たちに反対しない者は私たちの味方だと言いました。これがイエス様の仲間意識です。
私たち人間には本質的な罪があります。高慢であり、プライドであり、自己主張であり、わがままであります。相手を受け入れない心もあり、相手を非難する心もあります。相手の失敗を喜ぶ心もあります。クリスチャンにも、こういう罪があります。ルターはこう言いました。「クリスチャンは聖人にして同時に罪人である。」ですから、ルターはクリスチャンに、夜寝る前に、その日一日の罪を赦してくださるように、神様にお願いしなさいと教えました。これが宗教改革の発端となった95箇条の提題の第1条です。ですから、私たちは強すぎる仲間意識を悔い改め、イエス様のようにならなければなりません(382番歌う)。
真に偉大な人は心の広い人です。自分のグループだけに執着するのではなく、自分と違うグループの人も認める人です。自分の仲間ではないから、自分の教会のメンバーではないからと言って人を無視してはいけません。自分とは違うグループからバカにしてつまずきを与えるようなことをしてはいけないのです。自分を無視し、憎んでいる人でさえ、受け入れて仕える人が偉大な人です。自分の仲間ではないから人を無視してつまずきを与えるようなことをしてはいけません。イエス様はそれに対して警告なさいました。
41-42節をご覧ください。「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」とあります。
第四にイエス・キリストの弟子としての塩気を保つことです。
43節をご覧ください。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て、もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て、もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。」とあります。私たちがこの御言葉を文字通りに実践するなら、私たちの体はどうなるでしょうか。おそらく、手も、足も、目も残らないでしょう。それにも関わらず、イエス様がこのように厳しく言われた理由は何でしょうか。イエス様を受け入れた者らしく生きるためにはそれほど罪を遠ざけて聖なる生活のために励まなければならないからです。私たちが自分の罪に対しては徹底的にならなければ幼子のひとりのような人受け入れることはできないでしょう。また、自分は手も、足も、目も罪を楽しみながら信仰の弱い人に敬虔な生活を教えるなら、つまずきを与えるようなことになってしまいます。
ですから、私たちは神様の御前できよく正しく生きるために励まなければなりません。罪を犯した時、汚れてしまった時はすぐに悔い改めて聖められた状態を保たなければなりません。私たちが悔い改めるなら、イエス様が十字架にかかって流された血のゆえに私たちの罪は赦され、きよめられます。しかし、手足がつまずきとなり、目がつまずきを引き起こしても悔い改めないなら、ゲヘナに投げ込まれます。そこでは、彼らの食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(48、49)。そういうわけで私たちはどのように生きるべきでしょうか。
最後に50節をご一緒に読んでみましょう。「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」この御言葉に今日の教えがまとめられています。それはクリスチャンらしく生きなさいということでしょう。
韓国人ですが、趙徳三(1867〜1919)という方を紹介したいと思います。今から110年前にあの趙さんと家のしもべの李自益さんがL.B.Tate宣教師を通してイエス・キリストを信じて救われました。しもべは15歳も年下の人でした。二人は信仰生活を続け、教会も成長して長老を選ぶ選挙が行われました。主人の趙さんは落ちてしもべの李さん長老に選ばれました。当時の長老は教会の責任者であり、説教もしました。だから、100前の韓国封建社会で普通では許せないようなことが起こったのです。ところが、あの趙さんは自分の教会の聖徒たちが偉いと称賛し、長老として受け入れ仕えました。それだけではなく、自費を払って神学校にも行かせました。卒業すると、自分の教会に迎え入れて牧師として仕えました。自分だけではなくその子孫も教会に仕え続けているそうです。その子孫の一人が国会議員をし、駐日大使になった趙セヒョン長老だったのです。自分の奴隷のような人でも心から受け入れて仕える人こそ偉大な弟子なのです。どうか、私たちひとりひとりがイエス・キリストの弟子として皆に仕える生活ができるように祈ります。