2013年マルコの福音書第20講
偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様
御言葉:マルコの福音書13:1−37
要 節:マルコの福音書13:26,27「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
12月になりました。今日からアドベント(待降節:クリスマスを待つ期間)です。クリスマスシーズンです。街を歩けばイルミネーションやクリスマスツリーが華やいだ気分を盛り上げてくれます。でも、私たちクリスチャンは気分だけではなく、心から幼子イエス・キリストに出会い、ひれ伏して拝むクリスマスを迎えたいです。そのために、私たちは先週から洗礼式と聖餐式を行ない、クリスマス礼拝の準備も始めました。
今日は、私たちのためにお生まれになった救い主イエス・キリストが再び来られることについて学びます。2013年前、お生まれになったイエス・キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれました。三日目によみがえられてから、40日の間、使徒たちに現れて、神の国のことを語りました。数多くの確かな証拠を持って、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました。それから、イエス様は弟子たちが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなりました。その時、白い衣を着た人がふたり、弟子たちのそばに立っていてこう言いました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」その約束の通りに、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。イエス様は地上での最後の教え、告別説教としてご自身が再び来られることについて教えてくださいました。
今日の御言葉を通して偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様を待ち望んでいる私たちが励むべきことは何であり、どのような価値観を持って生きるべきかを学ぶことができるように祈ります。
1節をご覧ください。イエス様が宮を出て、いつもの通りベタニヤに帰ろうとされた時です。弟子のひとりが「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と言いました。彼は「宮」を出て宮の外観を見た時、それがあまりにもみごとで素晴らしく見えたようです。彼は思わずイエス様に「何とみごとな石でしょう。何と素晴らしい建物でしょう。」と言ったのです。それもそうでしょう。この宮は、ヘロデ大王によって46年(ヨハネ2:20)もかけて作られたエルサレム神殿です。それは白い大理石が用いられ、金箔で覆われていました。夕方、太陽に照らされて光り輝いている光景はだれが見ても驚くほどだったそうです。ところが、イエス様の反応はどうでしたか。
2節をご覧ください。誰をもが驚くほどに美しく、素晴らしい建物に魅了させられている弟子のひとりにこのように言われました。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」。イエス様はまず「この大きな建物を見ているのですか。」と言われました。この言葉には、目に見えるものに執着している弟子に対するイエス様の思いが現われています。
先週、学んだようにイエス様は神様を愛し、隣人を愛することが最も大切であると教えられました。ところが、彼は神様を愛し、隣人を愛することに関しては何も言いませんでした。弟子のひとりなのにイエス様ご自身のことにも関心を示しませんでした。ただ、大きな建物に心を奪われていました。愛とかイエス様ご自身よりも美しく、素晴らしいものに関心がありました。そこで、イエス様は「この大きな建物を見ているのですか。」と言われたのです。
では、皆さんの関心はどこにありますか。イエス様ご自身にあるでしょうか、クリスマスツリー、クリスマスプレゼントなどにあるでしょうか。クリスマスだからこそイエス・キリストの愛で隣人を愛しようと思っているでしょうか。大きな建物を見て感嘆しているあの弟子のような心はありませんか。もしそういう心なら、イエス様は何と言われるでしょうか。イエス様は私たちにも「この大きな建物を見ているのですか。」と言われるでしょう。最も大切なのは神様を愛し、隣人を愛することだと教えたばかりなのに、あなたはただ、大きな建物だけに目を留めているのではないかと言われるでしょう。
私たちは大きな家、目に見える業績や地位、財産のようなものに縛られてしまいがちです。しかし、いくら大きな建物であっても目に見えるものは崩壊される時が来ます。個人や国の業績や地位も、財産も瞬間的に崩れてしまう時が来るのです。残るのは目に見えないものです。パウロはこう言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」そして、目に見えないものの中でも一番優れているのは愛です。聖書に「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(?コリント13:13)」とあります。ですから、私たちは見えるものよりも見えないものにこそ目を留めなければならず、愛することに励まなければなりません。
今年、私たちはクリスマス礼拝を大きな建物ではなく、ここでささげることにしました。場所を狭くなります。私たちが予定していた早稲田大学の建物に比べるとみすぼらしく見えるでしょう。でも、目に見えない心をご覧になる神様は喜んでくださると思います。あの派手な建物の多目的室を借りるのに必要なお金は災害の中にいるフィリピンの人々に贈ろうとしています。きっと神様が喜んでくださると信じます。この狭い場所であっても飼い葉おけにお生まれになったイエス・キリストを通して神様の愛を確信し、愛を実践して行きますように祈ります。
3、4節をご覧ください。イエス様がオリーブ山で宮に向かってすわっておられました。すると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエス様に質問しました。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」弟子たちは神殿が崩壊されることを聞いてビックリしたようです。彼らはそれがいつ起こるか、その時にはどんな前兆があるのかをイエス様に質問しました。彼らにとってはエルサレム神殿が崩れ去る時こそ、世の終わりの時ではないかと思っていたようです。しかし、イエス様は「いつ」については答えになりませんでした。ただ、「世の終わりの前兆」についてだけ答えられました。
5-8節をご覧ください。世の終わりになると、驚くべき奇跡を行なって自らメシヤだと名のる者が数多く現れて世の中の人々を惑わします。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がります。方々に地震があり、飢饉も起こります。イエス様が語られてから2,000年の間、世界各地で戦争や地震が何度も起きています。日本では地震が頻繁に起きているからよく分かるでしょう。2年前、東北地方には大地震が起きた時、この東京でも大混乱がありました。東北地方の方々は今なお大変な苦しみの中にいます。ところが、イエス様は「これらのことは、産みの苦しみの初めです。」と言われました。「産みの苦しみ」と言うのはどういう苦しみでしょうか。
私には4人の子どもがいますが「産みの苦しみ」はよく知りません。子どもを産んだのは私ではなく、家内だからです。私はその「苦しみ」がいかに壮絶なものであるかは聞いているだけです。しかし、この苦しみは「希望と喜びがある苦しみ」でした。子どもを産んでから横になっている家内の笑顔から喜びと幸せを感じとりました。ですから「産みの苦しみ」と言うのはただの苦しみではなく、新しいいのちが生まれるという希望の「苦しみ」なのです。そのように、イエス・キリストが再び来られる前に経験する苦しみは希望の苦しみです。この世の終わりに苦しみがありますが、イエス様が再び来られると、私たちのからだもよみがえります。イエス・キリストによる最後の審判が行われ、三位一体の神様と顔と顔を合わせて永遠の喜びに包まれます。したがって私たちはイエス・キリストの再臨を堅く信じ、どんな迫害や試練があっても最後まで耐え忍ぶ人にならなければなりません。
9-13節の御言葉は最後まで耐え忍ぶべきことを教えてくれます。終末の時はイエス様がこの世の憎しみを受けられたように、その弟子たちもこの世の憎しみを受け続けます。議会に引き渡され、会堂でむち打たれ、キリスト・イエスのゆえに総督や王たちの前に立たされます。田舎者が総督や王たちの前に立たされるとどんなに恐くなることでしょうか。ところが、その時こそ、彼らに福音を伝えるチャンスです。事実、迫害と殉教の歴史の中で福音が地の果てまで宣べ伝えられて来ました。
10、11節をご一緒に読んでみましょう。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」とあります」この御言葉の通りに人類の歴史の中で福音があらゆる民族に宣べ伝えられて来ました。キリスト教は迫害と殉教の歴史が続きました。患難や迫害に会いながらも、福音が地の果てにまで宣べ伝えられて来たのです。聖徒たちが会う患難が大きければ大きいほど、それと比例して福音も多くの人々の前で伝えられました。それは聖霊が世の終わりまで共にいると約束された通りに、語ってくださったからです。聖霊が慰めてくださり、導いてくださって福音があらゆる地域と階層の人々に伝えられて来たのです。
先週、韓国の光州ではUBF歴史館の開館記念礼拝がありました。そこで、Mother Bary宣教師はこう言いました。アメリカから韓国に行ったそのときは戦争が終わったばかりでした。すべてが破壊されていました。家も、建物も壊れていました。何よりも大学生たちの心も壊れていました。ところが、福音が宣べ伝えられると、大学生たちが変えられました。彼らは生かされて世界宣教のために、世界に出て行きました。そのとき、最初の学生だった全ヨハン宣教師は、今も世界中を回りながら福音を宣べ伝えています。このようにしてくださったのは聖霊です。」と言いました。本当に、聖霊が福音を宣べ伝える人たちに語るべき言葉を与え、彼らを用いてあらゆる国に福音が宣べ伝えられるようにしておられます。
私は毎週メッセージを語っていますが、不思議にも神様が語るべき言葉を与えてくださいます。挨拶の言葉も与えられます。もちろん、良い説教の時もあれば、物足りない説教の時もあるでしょう。確かなことは私のような者でもメッセンジャーとして用いられていることは聖霊の働きであると言わざるを得ないということです。日本に来て25年ですが、宣教師生活の中で健康が与えられ、語るべき言葉が与えられていることはただ聖霊が備えてくださったからです。このことは、宣教師や牧者に限りません。聖霊の働きを信じる皆さんの生活の中で、家族との会話の中で、友人との会話の中で、聖霊は「語るべき言葉」を与えてくださるのです。
14-23節はエルサレムの滅亡の過程を詳しく記していますが、それはイエス様の再臨の時の大患難とも関係があります。イエス様は「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」と命じられました。これはダニエル書11:31節に出て来る表現ですが、エルサレムの神殿が異邦人によって占領され、偶像礼拝が行われるようになる時のことです。イエス様がこのことを語られてから40年後紀元72年に、実際にローマ軍によって占領されることになります。そして、ローマ皇帝カイザルの像が刻まれた旗が「エルサレムの神殿」にかかげられ、偶像礼拝が行われることになります。このようなことが再臨の時にも行われるから、苦難の日に惑わされないようにしなければなりません。
21、22節を見るとイエス様は「『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません」と言われました。終末の最も大きな特徴は、反キリストと偽預言者の現われです。サタンは初めから偽りの父だったので、終末には偽りが横行するようになります。だから、イエス様は私たちに「気をつけていなさい。」と警告しておられます。私たちは驚くべきしるしを見ただけで信じるのではなく、正確な真理の御言葉に基づいた信仰を持っていなければなりません。夜が深まれば朝が来るように、苦難が深まれば聖徒たちに救いの日が近づいて来るのです。
イエス様が2013年前、お生まれになった時は、誰も気づかないような姿でした。みすぼらしい飼い葉おけでお生まれになりました。しかし、再臨の時は違います。すべての人が見ることができるよう、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。
26,27節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。その日は信じない人には裁きの日です。しかし、信じる人には救いの日です。その時、聖徒達は栄光の姿に変わります。神の国で永遠に生きる者になります。主はこの世であらゆる国の人々に福音を宣べ伝えるために流した私たちの涙を拭い取ってくださいます。そこには、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら以前のものは過ぎ去るからです。主は私達のために新しい天と地を用意しておられます。では、その日、キリストの再臨を待ち望んでいる私たちはどのような生活をしなければならないでしょうか。それは主の約束御言葉を信じて従うことです。
31節をご一緒に読んでみましょう。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」イエス様は「この天地は滅びます」と言われました。そうです。あの「みごと」で「素晴らしい」エルサレムの神殿も崩れ去りました。2年前、津波が襲って来たとき、私たちは一瞬のうちに町が消えて行く姿を見ました。今日、世界中では世の終わりの前兆としてさまざまな困難や苦しみがあります。それもやがて滅び去ります。ただ、そのような困難の中で、私たちを支え、私たちを生かし、私たちに希望を耐えるものは何でしょうか。神様の御言葉です。御言葉は私たちを誘惑から守り、迫害や苦しみに耐え忍ぶ力も与えてくださいます。決して滅びることのないイエス様の言葉こそが、さまざまな困難の中で、私たちをささえ、私たちを生かし、私たちに希望を与えてくださるのです。
振り返ってみると、私たち自身もこの決して滅びることのないイエス様の言葉によって救われました。御言葉によって癒され、生かされて来ました。これからも私たちを生かし、ささえ、励ましてイエス・キリストの再臨まで導いてくださるのは聖書の御言葉です。これからも神様の御言葉は私たちの教会を建てあげ、ひとりひとりの信仰を励まし、成長させてくださいます。
クリスマスが近づいて来ました。この時に思い出される方がいます。イエス様の母となったマリヤです。彼女はまだ男を知らないのに身ごもっていると言われた時、どんなに慌てられたでしょうか。さまざまな不安と葛藤が彼女を襲って来たでしょう。でも彼女は神様の御言葉に自分を委ねました。「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と自分の身を委ねていたのです。私たちもマリヤのように御言葉にゆだねて生きるように祈ります。
最後に37節をご一緒に読んでみましょう。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」イエス様は、この聖書を読んでいるすべての人が目をさましているように命じておられます。つまり、私たちです。イエス・キリストを信じる者たちは、いつも目をさましていなければなりません。そして、私たちが目をさまして見つめるべきお方はイエス・キリストです。ヘブル書12:2節を見ると「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。私たちがイエス様から目を話さない時に、苦難の日でも希望を持ち続け、それを乗り越えることができます。イエス様は私たちを救ってくださる救い主だからです。
2013年前一度来られたイエス様は、今日も来てくださいます。未来も来てくださいます。どうか、私たちが日々偉大な力と栄光を帯びておられるイエス様を体験して行きますように祈ります。そして、やがて偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるイエス様を見る希望を持ってその日を待ち望み、迎える準備をしていく生活ができるように祈ります。