2014年創世記第21講 

ヤコブからイスラエルに

御言葉:創世記31⁻33章
要 節:創世記32:28「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

先週、私たちはヤコブがラバンの家で20年間をどのように過ごしていたかを学びました。愛には7年間も数日のように思えるほどの力がありました。また、神様はご自分の約束のゆえにヤコブを大いに祝福してくださいました。ヤコブは大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました。そこで、ヤコブは生まれ故郷の帰ろうとしました。では、ヤコブは生まれ故郷に帰って行く時にどのようなことがあったでしょうか。今日はヤコブの名をイスラエルの変えてくださった神様を学びたいと思います。

ヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。ラバンの態度が、以前のようではないのにも気づきました。その時に、神様からの命令もありました。
31章3節をご覧ください。「主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」と言われたのです。そこで、ヤコブは二人の妻を呼び寄せて自分が生まれ故郷に帰られなければならない理由を説明しました。ヤコブはラバンとその息子たちの態度を考えると一刻早くそこから離れて行きたかったと思います。でも、彼は家族を持つ身として妻たちにもちゃんと神様の導きを説明しました。それに対して妻たちも心を開いてヤコブの決断に同意し、「さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」」と励ましています。素晴らしい夫婦関係であることが示されてあります。このように夫が妻に説明し、妻は夫を理解し、励まして行くなら、家庭に平和が保たられるでしょう。特に夫は妻の励ましがあると確信を持って行動することができるでしょう。
17-21節を見るとヤコブは、家族と全財産をもって出発しました。ラケルは父ラバンの所有のテラフィム(先祖代々の守り神)を盗み出しました。ヤコブはそんなことは知らぬまま、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かいました。
三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされると、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行きます。そしてギルアデの山地でヤコブに追いつきました。その時、ヤコブの一行は何も武装していませんでした。しかし、神様はヤコブの味方になってくださいました。
31章24節をご一緒に読んでみましょう。「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」とあります。もし、この時に神様がこういうことを命じておかなかったら、ヤコブはひどい目に遭わせられたことでしょう。ヤコブたちは取り戻されるしかありませんでした。しかし、前の夜、夢に現れた神様がラバンを注意してくださったのでヤコブたちに害を加えることはしませんでした。ただ、ラバンは守り神のテラフィムが盗まれたことについて言いました。「なぜ、私の神々を盗んだのか。」と責めたのです。ヤコブはラバンに「あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」と言いました。ヤコブは、ラケルが盗んだことを知らなかったので大胆に言えたでしょう。テラフィムが見つかったらラケルは殺されてもいいようなことを言ったのです。ところが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座っていてラバンに言いました。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」。たまたま女の常のことがあったかも知れませんがラケルは嘘を言ったと思います。結局ラバンはさテラフィムを見つけることができませんでした。すると、今度はヤコブが怒ってラバン咎めます。
36節をご覧ください。「そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。」とあります。それから、自分がラバンの家でどのように過ごして来たのかを説明しました。
40-42節もご覧ください。「私は昼の暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間あなたのいふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」とあります。ヤコブは幾度も騙されましたが、それでも忠実に働いてきたことを言いました。神様が味方してくださったこともはっきりと言いました。彼は「私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方」と呼んでいます。ヤコブは幼い時から父イサクは神様を恐れていることを見ていた、その神様が自分についておられることを体験して来ました。長旅の中でも、何度も騙されたラバンの家でも父イサクの恐れる神様が自分の保護者となって守り導かれたのです。ヤコブは神様が自分の悩みと手の労苦を顧みられ、裁きもなされることを証しています。そこでラバンは何も言えなくなりました。ただ、自分の娘たち、孫たちのためにヤコブと契約を結び、子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福しました。それからラバンは去って、自分の家へ帰りました。こうしてラバンの問題は解決されました。しかし、すべての問題が解決されたのではありません。もっと深刻な問題がありました。それは兄エサウの問題です。エサウが住んでいある故郷が近くなれば近くなるほど彼は恐れ、心配するようになりました。それは自分が家から出る時、長子の権利を奪い取り、兄を騙した罪の問題が解決されていなかったからです。かつて怒り狂ってヤコブを殺そうとした兄エサウを思い出すたびに恐くなっていたでしょう。この罪の問題が心から平安を奪い取っていました。ラケルを愛していても子どもたちが生まれ、財産が増えて行っても心の中にある罪意識と恐れは消え去りませんでした。この兄エサウとの関係、罪の問題が解決されない限り、故郷に帰っても恐れと不安の中で過ごさなければなりません。
だから兄エサウと関係を改善すること、和解することは、故郷に戻る大前提でした。そんなヤコブを深く哀れんでくださる神様は旅を続けているヤコブに神の使いを送ってくださいました。
32章1-2節をご覧ください。神の使いがヤコブに現れた時、彼は「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼びました。神様は彼を励まそうと二つの軍隊が彼とともにあることを示してくださったのです。詩篇34:7を見ると「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。今も神様は軍隊のような主の使いを送って私たちを助け出される方です。ところが、ヤコブは主を恐れるより兄のエサウばかり意識していました。兄のエサウが四百人を引き連れて迎えにやってきていると聞いたヤコブの心はどうでしたか。
32章7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。」とあります。ヤコブは今までの生活の中でこれほど恐れ、心配したことはなかったでしょう。彼は非常に恐れたのでいろいろ考えた末に、第一段階として賄賂作戦を立てました。彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」としました。それから神様に祈りもしました。
9ー12節をご覧ください。「そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまで打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」とあります。このように祈っても安心できませんでした。
今回は4段階の作戦を立てました。ヤコブは手もとの物から兄エサウへの贈り物を選び、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡しました。それから、彼らが兄エサウに「これらすべてのものはヤコブのものであること、それら兄エサウへの贈り物であることを伝えるにようにしました。ものに弱かった兄の心をよく知っていたヤコブは多くの物を兄に上げて心を和らげようとしたのです。それで第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じました。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」と言いました。ヤコブは、自分より先に行く贈り物によってエサウをなだめ、そうして後、エサウの顔を見ると、自分を快く受け入れてくれるだろうと思ったのです。
ヤコブは、今まで何度も神様を体験したし、今回も神様の軍隊が自分とともにいることも示されました。それにも関わらず兄エサウのことで恐れていました。彼は何とかして、被害を最小限に食い止めようと思い、宿営を二つに分け、出来る限り、精一杯の祈りも捧げました。その上、エサウの怒りを静めるために、ものすごい綿密な計算をして段階的に贈り物も備えました。しかも、何回かに分けて、時間を置きながら渡そうと考えたのです。 このようにヤコブは、「自分の手で何とか解決する」努力をしました。それでも、目の前が真っ暗でした。全く希望が見えませんでした。私たちの人生にもこのような時があると思います。
私たちも長い人生の中でヤコブのように知恵を尽くし、いろいろな対策を立ても希望が見えない時に遭う時があるのです。もちろん、ヤコブのように最善を尽くして生きて行くうちに、自分の力で得られるものがあります。努力の代価として大学に進学し、就職し、地位も上がります。結婚して家族と仲良く過ごします。
ところが、あるときは、非常に恐れ、心配せざるを得ない問題にぶつかるときがあるのです。その時には何も助けになりません。骨を折る苦労をして儲かった財産も、社会的な地位も、同窓会や同好会などの人間関係も力になりません。力を尽くして育てた子どもたちも、最愛の妻や夫さえも全く力にならないのです。それがある人には健康の問題であります。進学や就職の問題である場合もあります。職場での上司の問題である場合もあります。ヤコブにおいてはそれが兄エサウの問題であり、罪の問題でした。父を騙し、兄を騙した罪の問題は20年の歳月が流れてもなかなか解決されませんでした。人を騙した罪による恐れと不安の問題は自分の財産を尽くしても、自分にある知恵を尽くしても解決できなかったのです。 7年間働いても数日のように思ったほどに愛した妻ラケルも非常に恐れ、心配しているヤコブの力になりませんでした。では、神様はこのようなヤコブをどのように助けてくださいましたか。
24bをご覧ください。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」とあります。ある人」が夜明けまで格闘した。「ある人」は神様であるとされます(28,30)。格闘は、ヤコブのもものつがいがはずされ、足が不自由になったとあるように体と体をぶつけ合う、肉体的な戦いでした。しかし、それ以上の霊的経験をもたらすものでありました。神様はヤコブと勝てない状況に置かれています。不思議な言い回しです。しかしそれは、神様の弱さというよりも、ヤコブが弱さを認めたことです。自分が弱いからこそ、神様の祝福なくして、これ以上は一歩も先には進めないというヤコブの執拗さを物語っているのです。厚かましいほどに神様にすがりついていることです。
自分の底つきを経験すると私たちはどうなりますか。もはや神様の祝福を求めるしかありません。その他に道がありません。そういう心から切に祈る時に私たちが神様に出会い、神様に答えらる場合もあります。
26bをご覧ください。「しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」とあります。そこで神様はヤコブに言いました。「あなたの名は何というのか。」。そこで彼は答えた。「ヤコブです。」と言いました。ヤコブは自分が嘘つき、詐欺師であると告白したことです。つまり、私は父親を騙し、兄も騙した人間ですと告白したのです。そこで神様は何と言われましたか。
28節をご一緒に読んでみましょう。「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」 神様は「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った!」と勝利を譲ってくださいます。神様は私たちの所まで来て格闘してくださるお方です。慈しみと恵みに満ちた神様が私の内面が変わるように、存在と人格が変えられて行くようにしてくださいます。真の勝利は神様に出会い、私の存在が変えられるところにあります。
ヤコブはこの戦いで「イスラエル」という新しい名を与えられていきます。それは「神と争う者」という意味です。ヤコブの存在が変わりました。神様と格闘して自分の存在が変わると周りも変わっていました。そこでヤコブは神様との格闘の故に得た祝福の素晴らしい経験を記念し、その場所を「ペヌエル」と名づけました(31節)。そこに太陽が昇りました。まさに新しい出発を照らす、希望の光であったことでしょう。実に素晴らしい光景です。今までは暗かった夜の世界から、明るくすがすがしい、朝の世界が甦ってきました。そこで、ヤコブは平安を与えられて歩き出しました。太ももを傷めた足を引きずりながらも、彼は主が共にいて祝福を与えてくださった、という確信を与えられていました。平安と愛を持って兄と出会うために、歩き始めました。彼は、たといどんなことがあっても、殺されてもよいから、兄と和解しよう、と心に決めたことでしょう。そういう素晴らしい希望を持って一歩一歩大地を踏みしめました。そして33章にはヤコブとエサウの和解が記されてあります。神様はヤコブの思いに勝る仕方で、兄弟の和解をなさしめて下さったのです。
神様を信じる者にとって窮地は神様と出会う機会になります。直接に働いてくださる神様と格闘する機会になります。その格闘の中で私と付き合ってくださる神様の愛と力の体験ができます。信仰を失わない限り、失敗も成功に繋がります。絶望、孤独、非常に恐れ心配せざるを得ない状況は神様が真に祝福の神様であることを知る、重要な機会になるのです。真に神様にすべてをゆだね、神様が動いてくださることを知る時であります。私たちの予測する結果がすべてではなく、神様の出される結果があることを知る時でもあります。私の自我が砕かれ、新しい存在に生まれ変わるチャンスでもあります。
私たちが神様への信仰を持ち続けるなら、計り知れない可能性と祝福を経験して行く事ができます。どうか、私たちもヤコブのように神様の御言葉を覚えて祈り、神様と出会って神様を体験して行きますように祈ります。