2014年マタイの福音書12講 

心から兄弟を赦しなさい

御言葉:マタイの福音書18:15―35
要 節:マタイの福音書18:35「 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

先週、月曜日に、私はある夫婦の赦しに関するニュースを読んで感動しました。19日にABC放送などのアメリカのメディアが報道した内容が紹介されていました。この夫婦はドナルド・ロレントの両親ですが、殺されたロレントは殺人者になったクリストファー・バザ(33)の友達でした。2011年12月、ロレントとバザはルームメイトとして酒を飲み、タバコも吸っていました。その時に、銃器事故でロレントが打たれて死亡しました。故意的ではありませんでした。しかし、息子を失った親の悲しみはどんなに大きかったでしょうか。一生癒されない悲しみと痛みがあったはずです。ところが、ロレントの両親はそれを乗り越えて赦したのです。バザが逮捕された後に面会を続けられ、彼が釈放されるように努力を続けました。彼らの献身と愛に感動した裁判官は、ついに仮釈放の寛大な措置を下してくださいました。バザは釈放されるようになりました。ロレントのお父さんが経営する会社で働くことにもなりました。この赦しの愛がアメリカ全地域に伝えられて人々は感動し、感激したのです。赦しによってひとりの青年が新しい人生を始めるようになりました。一生悲しみと恨みを持って生きるしかなかったロレントのご両親も新しい人生を生きるようになりました。
今日はイエス様のたとえ話を通して赦しについて学びます。イエス様は私たちが兄弟を最後まで赦し続けなければならないということを教えておられます。ところが、イエス様は真理と恵みに満ちた方です。では、イエス様の真理と正義はどうなるでしょうか。そこで、イエス様はまず正義の厳しさから教えてくださいます。

 15-17節をご覧ください。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。ここで、イエス様は、兄弟が罪を犯した場合にどのように助けるべきかを教えています。
 第一段階は個人的に助けることです。私たちの社会生活の中で「ああこの人は明らかに罪を犯した。社会的に罪を犯した」と思われる時があります。すると、親しい関係の人の罪を隠してあげ、人間関係が良くなかった人の罪は暴露しようとします。しかし、まだ、確認されていない場合もあるし、前後の事情をよく知らない状況があるかも知れません。ですから、まず、第一段階として、ひとりでその人のところに行ってその人の罪を責めることが必要です。それで、もしその人がそこで悔い改めたら、その人の名誉を守り、ふたりの信頼関係も深まって行くことでしょう。しかし、もし罪を認めず、社会的に悔い改めるということをしないならどうしますか。
 第二段階は二、三人の友達と一緒に助けることです。イエス様は「二、三人友達を連れて行きなさい。」と言われています。どういう友達かと言えば、言うまでもなく、人生の円熟した人、信仰のベテランを連れて行くことです。そうして、三人か、四人でその罪を確認します。そうして、もしその人が自分の罪を認めて、そこで悔い改めたら、彼の名誉を守ることができます。しかし、もしそこでも、悔い改めず、罪を認めないならばどうしますか。
 第三段階は教会に告げることです。教会の役員会、あるいは教会の総会に兄弟の罪の問題を持って行くのです。この時も、処罰のためより、罪を犯した兄弟が自分の罪を認めて悔い改めるように助けるためです。しかし、それでも罪を認めて、悔い改めないなら、どうしますか。その時は、彼を異邦人か取税人のように扱うことです。三段階を踏んで祈りと愛を持って訴えても、なお聞き入れないなら、教会の外にいる者として扱いなさいということです。それは大変つらい、お互いの中に傷を残すことになるでしょう。でも、教会に神様の真理と正義がなければなりません。教会はどんな罪を犯してもいい所ではありません。イエス・キリストの十字架の愛によって罪を悔い改めて霊的に成長して行かなければなりません。この世の光として神様の真理と正義を知らせる役割も果たすことは大切です。聖なる国民、王である祭司として生きるために、人としてできることは最善を尽くすのです。そうして正義の上に立つ教会でなければなりません。でも、教会の言うことさえ聞いてくれないならからと言ってその人を助けることをあきらめるべきではありません。人にはできないことでも神様にはできるからです。教会の話を聞いてくれない人であってもその人のために神様の助けを求める必要があります。そこで、イエス様は神様から助けられるために祈りについて教えてくださいます。
18‐20節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
イエス様は異邦人の扱いを受けるようになった兄弟でも悔い改めることができるように心を一つにして祈ることを教えておられます。「つないでいる」ということは祈りをやめないでいることでしょう。私たちが祈りをやめない限り、父なる神様の関係がつながっていて、時になると、その祈りをかなえられるのです。私たちが祈り続ける時、神様が助けてくださいます。どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる神様がそれをかなえてくださいます。
私たちUBF教会ではよく二人ずつ祈ります。それは、このイエス様の教えに基づいていることでしょう。もちろん、1人で静かにささげる祈りにも神様は御耳を傾けてくださいます。ふたりが心を一つにして祈るなら、なおさらでしょう。ふたりが心を合わせて祈るその祈りには力があります。私たち夫婦は長男サムエルが生れる前はふたりで心を一つにしてよく祈りました。神様はその祈りに答えてくださって結婚3年後にサムエルが生れるようにしてくださいました。この御言葉を準備しながら最近はふたりで祈ることを怠けていることに気づかされました。悔い改めて今週からふたりで祈る時間を増やしていきたいと思っています。
旧約時代のサムエルはイスラエルを代表する預言者、霊的リーダーでした。それでも、民はサムエルに王を求めました。リーダーがいるのにリーダーを求めたのです。そこで、サムエルが「それは良くない」と説得しても、民は聞いてくれませんでした。ところが、サムエルはそんな民たちのために、とりなしの祈りを続けました。聖書に「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」とあります。サムエルは民を心から赦し、彼らのために祈り続けたのです。すると、サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいました(?サムエル7:13)。神様はイスラエルを敵から守り、彼らに平和を与えてくださったのです。
ところが、私たちが人のために祈ろうとしても、赦せない心があると祈り続けることは無理です。答えられる祈りの第一条件は心から赦すことではないかと思います。そこで、イエス様は私たちに「心から兄弟を赦しなさい」と言うメッセージを与えておられます。
 21-22節をご覧ください。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とあります。
 当時、パリサイ人たちは、罪を赦す制度を設けて三度までは赦したそうです。日本では「仏の顔も三度」と言われます。野球でも、打者はストライクを3回宣告されると三振になり、アウトになります。ペテロが「三度」ではなく「七度まででしょうか。」と言ったのは、当時のパリサイ人たちよりも寛容な人になっていることを示唆してくれます。周りからは「七度も、ダメよ〜。ダメダメ」と言われたかも知れません。ところが、イエス様は七度くらいではなく、兄弟が罪を犯した場合、七度を七十倍するまでも赦すように教えられました。ここで、人々はさらに驚いたことでしょう。「ダメよ〜ダメダメ。それは無理ですよ。無理!」と言ったではないでしょうか。ではどうやって七度を七十倍するまでも赦すことができるでしょうか。そこで、イエス様は赦しのたとえ話をされました。
23〜24節をご覧ください。「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。」とあります。
聖書の欄外の注に「1タラントは6,000デナリに相当する」とあります。また、28節の欄外の注に「一デナリが当時の一日分の労賃に相当する」とあります。今の日本で一日分の労賃を1万円にして計算すると、1タラントが6000万円、1万タラントは6,000億円になります。一人の労働者が365日の中で休日を除いて300日間働くとするなら、6,000億円は、一人の人間が20万年間働いて稼ぐお金です。皆は「すごいなあ」と思ったでしょう。「一万タラントも借金する人はあり得ない。」と思ったでしょう。ところが、実際に、清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが王のところに連れて来られました。しかし、彼の事情はどうでしたか。
25‐27節をご覧ください。彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じました。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言いました。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。主人はしもべを赦し、彼が一生涯働いても稼げない借金を免除してくれたのです。
ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で彼から百デナリ、つまり百万円の借りがある者に出会いました。100デナリは彼が免除してもらった金額に比べれば60万分の1に過ぎません。つまり、60万円を赦してもらったばかりのしもべが、ただ1円貸している仲間に出会いました。ところが、彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言いました。彼の仲間は、ひれ伏して「もう少し待ってくれ、そうしたら返すから。」と言って頼みました。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。彼の仲間たちが見ると、それは酷いことでした。黙っていられませんでした。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。主人の反応がどうですか。
32‐34節をご覧ください。そこで主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。お前があんなに、頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったようにお前も仲間をあわれんでやるべきではないか。」と。こうして主人は怒って、借金を全部返済するまで、つまり、未来永久に、彼を牢屋にたたき込みました。それから、イエス様は言われます。
結論的に35節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 このイエス様のたとえ話から私たちに与えられるメッセージは何でしょうか。タラントをデナリにするといくらになるか、タラントを円に両替するといくらになるかと言う数学的な問題でもありません。イエス様は私たちに「あなたがたもそれぞれ心から兄弟を赦しなさい。」と言うことです。自分がどれだけ赦されたのか、一生涯働いても返せない赦しを無条件で受けたことを覚えて兄弟を赦しなさいというメッセージなのです。
私たちクリスチャンは神様から返すことのできない赦しを受けています。聖書に「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます(ローマ5:7‐8)。キリストが死んでくださったことによって返すことのできない私たちの罪は赦されたのです。キリストはアダムの原罪が始まって今まで犯して来た私のすべての罪、これからもあり得るすべての罪のために死んでくださったことにより私たちを赦してくださったのです。しかも、無条件で一方的な恵みによって私たちを赦して下さいました。この無尽蔵の赦しを覚えると、どんな人でも赦せるようになります。
事実、人の悪や罪を赦すことは難しいです。私自身も赦せなくて眠れぬ夜を過ごす時もしばしばありました。でも、イエス・キリストの十字架の赦しを経験している恵みのゆえに赦すことができた時に私には大きな益になりました。それは心理学に証明されています。「赦しの技術(How can I forgive you?)」という本によると「赦しは、精神的、肉体的な万病の治療薬だ。」と言っています。赦しはうつ病、不安、慢性的な憎しみ、高血圧、心臓病、ガン、そして免疫欠乏症に至るあらゆる病を癒す治療剤である」とあります。また、著者は「私たちが受けた傷に対しては責任がありませんが傷から回復することは自分の次第である」とも言っています。ほんとうに、そうだと思います。私たちが赦さないでいると、敵対心、憎しみ、不安などによって苦しみ、心も体も傷つけられて行きます。しかし、赦すと、心に平安があり、人に対しても自信感を持つようになります。何よりも、私たちがイエス・キリストの赦しを覚えて人を赦すなら神様からの報いと祝福があります。
ヨセフは兄弟に奴隷として売られて、本当に大変な苦しみを経験しました。彼の人生に苦難が続きました。でも、彼は兄弟たちに対して憎しみも恨みも持ちませんでした。十数年の時を経た後、彼はエジプトの宰相となりました。ところが、それを知らずに穀物を買いにエジプトにやってきた兄弟たちにヨセフは言いました。「あなた方は私に悪を企んだが、主はこれを善に変えられた」と言ったのです(創世記50:20)。人がした悪を赦す時、その悪が主の御手のうちに祝福に変えられたのです。
ここで、注意して置くことの一つは兄弟が罪を悔い改めている場合に赦したことです。この借金があったしもべたちは前の人も、後の人もひれ伏して赦しを求めました(26,29)。私たちが人の罪に対しては赦しますが、自分の罪に対しては謙遜にひれ伏して赦しを求める姿勢が必要だということです。自分の過ちや罪に対しては「ごめんなさい。」と謝る態度が必要なのです。自分の罪に気づかされたら、素直に「ごめんなさい。悪かったです。申し訳ありません。」と言う悔い改めの心も大切です。多くの場合に家でも、職場でも「ごめんなさい。」と言えば赦されます。
ところが、年をとればとるほど難しくなる言葉が「ごめんなさい。」だと言われます。実力がつけばつくほど、プロの世界に入れば入るほど、肝腎な時に言えなくなるなって来るのが「ごめんなさい。」です。しかし、あいさつと「ごめんなさい。」は早く言った方が勝ちだということは事実です。
私が教会でも職場でも観察してみると生まれつき、なかなか「ごめんなさい」と言えないタイプの人は非常に損をします。「ごめんなさいの一言がない、悔い改めがない、謝罪がない。」と言うことで、問題が大きくなっていくケースを何度も見ました。しかし、すぐに「ごめんなさい」というタイプの人は人間関係ではものすごく得をします。問題があっても、早くごめんなさいと言うと、赦してもらい、かばってもらいます。ですから、私たちは自分の過ちや罪に対しては早く悔い改めて「ごめんなさい。」と言える人にならなければならないと思います。私たちクリスチャンはイエス様の十字架の愛によって赦されていますが、人にも赦される経験を通してさらに、人々を赦すことができるようになります。どうか、自分のことでは早く謝り、人のことに対して七度も赦し、七度の七十倍も赦すことができるクリスチャンとして成長して行きますように祈ります。私たちが赦されると、赦すこともできるようになります。神様からの祝福も受けます。
神様は私たちが、自分の罪を認めて悔い改め、謝る時も、人を赦すときに神様はその心を見ていてくださるからです。時になると、私たちもヨセフのように自分が赦した分の悪や罪が祝福に変えられるのを見ることができます。どうか、この事実を覚えて兄弟が罪を犯したとしても心から赦しましょう。自分の息子を殺した人さえも赦して愛するロレントの両親のように、私たちも赦すことができるように祈ります。さらに、自分の過ちや罪に対してはすぐに悔い改めて神様にも、人にも赦される生活ができるように祈ります。