2025年東京UBFイースター修養会 第1講
寺崎アブラハム
イエスから、目を離さないでいなさい
御言葉:へブル人への手紙12:1-29
要 節:へブル人への手紙12:2
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
Happy Easter!!死者の中から、よみがえられたイエス様を心から感謝し、賛美します。
今日学ぶへブル人への手紙12章で、著者は、信仰生活を「自分の前に置かれている競争」(1a)にたとえています。この競争は、この世での競争とは違います。優勝するのが目的ではありません。忍耐を持って走り続けることです。そのために、イエス様から目を離さないでいなさい、と教えています(2)。この時間、私たちも「イエス様から目を離さない」で、自分の前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けることができるように、お祈りします。
1節をご覧ください。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」
「こういうわけで」とは、前の11章の内容に続くものです。著者は、信仰によって生きた信仰の先祖たちを証していきました。彼らは、この地上で、自分たちが置かれている環境の中で、「信仰によって」生きてきました。また、さまざまな試練の中で、多くの苦しみを受け、虐待を受けても決して、信仰から離れようとはしませんでした(11:36,37)。これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました(11:39a)。彼らは、この地上で、約束されたものを手に入れることはありませんでしたが、神様は私たちのために、もっとすぐれたものを用意してくださいました(11:40b)。
「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、」何と力強い励ましでしょうか。信仰生活は、個人一人一人の信仰が求められますが、決して一人で行うものではありません。私たちの周りには、共に信仰の道を歩む仲間たちがいます。更に、私たちの先に信仰によって生き、天に召された先祖たちが雲のように私たちの周りを取り巻いています。彼らもまた、私たちのことを応援してくれます。彼らの声援を受けて、私たちも、前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けるのです。信仰の競走で完走するためには、まず「一切の重荷とまとわりつく罪」を捨てることです。すべての思い煩い、悩み、恐れと不安、疑いは、信仰生活にとって、支障をきたします。また、情欲、貪欲、怠惰、怒り、妬み、憎しみは、霊的な目を暗くして、私たちの行く道をはばんでしまいます。このような要素を取り除いて、自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けるのです。では、どのようにしてそれができるのでしょうか。
2節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」信仰の競走を最後まで、走り続ける秘訣は、イエス様から目を離さないでいることです。このイエス様は、「信仰の創始者であり完成者です。」11章に出て来る信仰の先祖たちは、この地上で約束されたものを切に待ち望んでいました。「イエス・キリストによる救い」と「永遠の天の御国」です。ところが、彼らが生きている間、その約束のものを手に入れることができませんでした。ところが、著者は11:40節で、次のように証ししています。「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」すなわち、著者をはじめとする使徒たちの伝道によって、聖徒たちが完全な者とされるのです。なぜでしょうか。それは、使徒たちは、イエス様の十字架と復活を証ししたからです。
イエス様は、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座された」のです(2)。イエス様の十字架の死によって、信仰が完成されました。それで私たちは、このイエス様から目を離さない生活をすると、信仰の競走を忍耐を持って、走り続けることができます。
3、4節をご覧ください。「あなたがたは、罪人たちの、自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」
当時、へブル人の教会の聖徒たちは、ローマ帝国により、激しい迫害の中にいました。そのため、「私はクリスチャンだ」と公言できず、身を潜めて生活をしていました。信仰によって、生きることは本当に命がけのことでした。また、同胞のユダヤ人たちからは、「信仰による救いを強調するが、律法や割礼を軽んじている」と言われ、非難されていました。すると元気を失い、疲れ果ててしまいます。それで著者は言いました。「あなたがは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。」(3a)。
5-7節をご覧ください。「そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」私たちが信仰によって、生きようと決断した時、神様から大きな祝福を受けます。しかしそれは、同時に、イエス様の通られた道、弟子の道を歩むことになります。イエス様が十字架を負って試練の道を歩まれたように、時には、私たちの前に大きな試練が立ちはだかることもあるでしょう。その時、すなおに神様の訓練として受け入れ、耐え忍ぶことが求められます。するとその人は成長します。「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられえた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
聖書を学び、所感を書き、祈る生活は、自分の信仰が成長するために行ないます。と、同時に周りから入って来る様々な情報、誘惑から身を守る役割も果たします。いつも聖書の御言葉にふれ、御言葉に従って生きようとするなら、罪が入って来る余地もありません。とは言え、一日にできることが限られています。忙しい生活の中で、やるべきことがあり、一体から手を出したらよいのか、分かなくなることもあるでしょう。その時は、優先順位を決めることが必要です。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタ6:33)苦行するのではありません。健康を維持していく中で、健全な信仰生活をしていくのです。そのような生活をする時、私たちの心の中に、まことの平安を得ることができるのです。
12,13節をご覧ください。「ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるためです。」試練の中でも、素直に、神様の訓練として受け入れ、耐え忍ぶ時、弱った手と衰えた膝をまっすぐにする力が与えられます。それだけではありません。試練の中でも、イエス様を目指して生きようするなら、私たちの周りにいる人も、癒されるようになります。
ある3月の昼さがりでした。仕事で疲れ果てた私は、一人でお茶を飲みにセンターの4階にいました。すると、誰かがささやく声が聞こえて来ました。「今回のメッセージを証ししたくないですか。」周りには、だれもいませんでした。するとまた、声が聞こえてきました。「メッセージを証ししたくないですか。」その時、私は、イースター修養会に参加することができるように祈っていました。何とか休みが調整できかと、私の目はスケジュール表に向いていました。イエス様から目を離して、「協力的でなく、自分の意見だけを押し通そうとする社員に対する思い、仕事が忙しくてなかなか、休みが取れないのに、うまくいかない」という現実に目を向けていました。それで「すでに、メッセンジャーが決まっているのに、今さら」という思いが強くありました。「メッセージを証ししたくないですか」という問いに、「メッセンジャーが御言葉を準備し、証しできるように祈ります」と答えざるを得ませんでした。現実的に考えて、休みの保証もないのに、忙しい生活の中で、御言葉を黙想し、メッセージを書いて証しすることが無謀なことのように思えました。ところが、神様は、パウロチームの聖書勉強会の時に、鄭ダニエル宣教師を通して、「まだ、第1講のメッセンジャーが決まっていない」と告げられました。それを聞いた時、しばらく時間を空けたのち、「私が伝えます」と立候補しました。ところが、後で、後悔が生じました。本当に大丈夫なのだろうか。
ところが神様は、私がメッセージが証しできるように環境を備えてくださいました。修養会の二週間前に、基礎勉強を行ないましたが、その時は、すでに修養会に参加できる日程を確保することができました。また、仕事で忙しく、満足にメッセージの準備をすることができませんでした。そのような中で、イエス様から目を離さないように導いてくださいました。へブル人への手紙12章の本文すべてを黙想することはあまりできませんでしたが、それでも、電車での通勤時間、仕事の合間に、御言葉を十分に黙想できる環境を整えてくださいました。それだけではありません。実際に御言葉の準備ができるように、何日が時間を備えてくださいました。それを通して、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないように、そのような生活が出来るように導いてくださいました。
14節をご覧ください。「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」信仰の共同体において、平和は必要不可欠なものです。同じクリスチャンであっても、その人の人格、個性は違います。お互いにその人の人格を尊重することが必要です。イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:17)
15節をご覧ください。「だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」著者は、エサウを例にあげて、信仰の競走から離れないように、強く勧めています。また、警告でもあります。
18-24節をご覧ください。モーセは神様から律法をいただくために、シナイ山に上りました。その時、神様の御声を聞いて、怖くて震えました。聖い生活をしていたあのモーセでさえ、恐れおののきました。「しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」(22‐24)。
へブル人の教会の聖徒たちは今、イエス様の十字架の血によって、天の御国に入る特権が与えらえました。栄光に満ちた神様の御前に進み出ることができるようになったのです。それで、警告の言葉を受けるようにと戒めました。
26―29節をもう一度読んでみましょう。「あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。『もう一度、わたしは、地だけではなく、天も揺り動かされます。』この『もう一度』ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すわなち造られたものが取り除かれることを示しています。」
「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。私たちの神は焼き尽くす火なのです。」著者は、イエス様が再び来られることを告げています。その時は、地上にあるエルサレムは消えてなくなり、天の御国が聖徒たちの前に現われます。世の終わりのラッパが鳴り響き、信仰の競走に終わりをつげます。天の御国の城門が開き、私たちはその中に入るのです。その時、栄光ある姿でよみがえった聖徒たちと再び会うことができます。(新467番)
この望みの中で、私たちは感謝し、賛美します。また、感謝をしつつ、敬虔と恐れの中で、神様に喜ばれる生活をするのです。
もう一度、2節の御言葉を読んでみましょう。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
イエス様を救い主として受け入れてから、私たちは信仰の競走を走り続けています。その道は、決して平たんな道ではありません。だからこそ、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離してはいけないのです。天の御国に対する望みの中で、最後まで、イエス様から目を離さずに自分に置かれた道のりを走り続けることができるように、祈ります。