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13Romans5Mその血による、また信仰による

13romans5mその血による、また信仰による, 2013年ローマ人への手紙第5講 その血による、また信仰による御言葉:ローマ3:21〜31要 節:ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」私たちは先週までのローマ人への手紙を通して人間は一人残らず罪人であることを学びました。異邦人もユダヤ人も、皆さんも、私も罪人です。「義人はいない。ひとりもいない」と書いてあるとおりです。私たちは絶望と悲しみの中に死ぬしかありません。そして死後にさばきを受けることが定まっています, ヘブル9, 。「ああ、私はどうしたら救われるでしょうか。」と叫んでも律法によっては救われる道がありません。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです, 。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。今日はそのことを学びます。そういう意味で本文の御言葉はローマ人への手紙全体の中心であると言えます。ここで、パウロは福音の最も大切なことを伝えています。どうか、御言葉を通して人間の罪の問題をどのように解決なさったのか、どうやって義と認められる救いの恵みにあずかるかを学ぶことができるように祈ります。21節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」パウロは「しかし、今は、律法とは別に。」と言っています。つまり、律法を守るという道ではないけれども、律法も賛成していて、預言者も賛成している神の義が示されたのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義です。それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません, 。パウロは今まですべての人は罪人であることを証してきました。すべての人が罪を犯したのです。ですから、だれも神様からの栄誉を受けることが出来ません。ユダヤ人も異邦人も神からの栄誉を受けることが出来ません。日本人にも、中国人にも、韓国人にも同じです。何の差別もありません。ではどうやって私たちは義と認められて救われるのでしょうか。23、24節をご一緒に読んでみましょう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです, 23,24, 。 ここで、私たちはどうやって義と認められるか、すなわちどうやって救われるかを知ることができます。第一に「ただ、神の恵みによる。」ものだと言うことです。神様は救われる価を要求なさいません。ただ、恵みによって義と認めてくださいます。私たちはこの恵みを神様が創造された世界から見ることができます。私たちが生きて行くために欠けてはならない空気は、神様の恵みです。5分だけでも息を吸わなければ人はどうなりますか。死んでしまいます。ところが、ただで与えられる空気によって私たちは息を吸うことができます。空気の中にある酸素はただで吸うことができるのです。これは恵みです。先週、主日には4階の水道水が出なくなっていて大変でした。それでポンプとタンクを取り換えたので今週は大丈夫です。しかし、新しいポンプとタンクがあっても水がなければ意味がありません。その水は天から降る雨という恵みによるものです。天から降る雨と言うのは、ただ一方的な神様の恵みとして与えられます。このようにこの世界をほんの少しでも見回すなら、神様の恵みで溢れています。一方的な愛です。たとえば、今、cbfの〇〇君は入院していて母のプリスカ牧者が彼の面倒を見ています。航君は親のために何もできませんが、親は一方的に彼の面倒を見るのです。それも恵みです。あれも恵み、これも恵み、この世界全体が神様の恵みを証しています。人々は太陽の光線について、天から降る雨について当たり前のように思っています。しかし、実は神様から価なしに一方的に与えられる恵みなのです。そのように神様はだれにもただの恵みによって救われるようにしてくださいました。従って救われた私たちクリスチャンはただ与えられているすべての主の恵みを深く考え、すべてのことにおいて感謝しなければなりません。御前に謙遜にひれ伏し、主の恵みに感謝し、賛美する生活をするのです。ただ与えられるこの救いの恵みを深く悟ったisaac, wattsは新聖歌106番を書き残しました。ご一緒に賛美しましょう。新聖歌106番です。「むしにもひとしきもののために主はかくもむごきめにあいしか … 恵みに報ゆるすべを知らず すべてを投げ出し ただひれ伏す」」ただ恵みによって私たちを救ってくださる神様を賛美します。第二に、「イエス・キリストによる贖いのゆえ」です。「贖い」と言うのは、ビジネス用語で、買い戻すという意味です。たとえば、私が車を買う時に、もし、私の息子とか、誰かがあらかじめ500万円払っていたなら、私にとってはただです。誰かが代わりに払ってくれたからです。それが「キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められる」と言うことなのです。人類の先祖アダムの犯罪により、私たち人間は暗闇の国に入ってしまいました。病気、苦しみ、悲しみが起こり、死が人類に入りこんできました。死の恐れが私たち人間を支配するようになりました。やがてすべてのものは死んでいくようになりました。それだけではありません。「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。それらはすべて人間が犯した罪の結果です。神様は、そんな私たちを苦しみとさばきの世界から連れ出したいと思われました。でも無理やりに人の髪の毛を掴んで、つまみだすようにして連れ出すに行きません。神様は正しいお方、聖なるお方であられるからです。無理やりにしては神様の義が現わされないのです。そこで神様は、代価を払って買い戻すこと、つまり贖う方法を選び取られました。神様が、人間についての所有権を取り戻すために代価を支払うことになさったのです。そしてその尊い代価が、御子イエス・キリストの十字架の血です。25節をご一緒に読んでみましょう。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」神様は救いを私たちにただで与えるために大きな代価を支払われました。ご自分の御子イエス・キリストを私たちの代わりに罪の代価として支払ってくださいました。それがイエス・キリストによる贖いです。私たちは正しい社会、罪のない社会を求めています。警察も刑務所も要らない社会で生きるなら、何と幸せなことでしょうか。ところが、私たち人間は理想的な社会を求めながらも罪を犯しています。人権を求めながらもいじめをし、情欲の罪を犯します。「むさぼるな」と言いながらむさぼっています。それは人間が罪の勢力、サタンに支配されているからです。自分がわざと罪を犯そうと決意しなくても、利己心の奴隷、妬みの奴隷、偽りの奴隷、お金の奴隷、貪欲の奴隷になっているのです。そして奴隷になっているので自分の力ではそこから救い出される道がありません。代価を払わなければ自由の身になることができないのです。神様はこのような罪人を救うためにイエス・キリストを贖いの代価としてお与えになりました。そして、イエス様は十字架にかかって御血を流し、死なれることによってその代価を支払われました。このイエス・キリストの血によって私たちが罪から贖い出されたのです。銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです, ?ペテロ1:18,19, 。その代価の価値は計り知れません。高級乗用車のために払う500万円位ではありません。全世界よりも尊く、神様ご自身である御子を私たちの罪の代価として払われたのです。測り知れない代価を払われた神様の恵みを心から感謝します。ではイエス・キリストはどのようにしてご自身を罪の代価としておささげになりましたか。もう一度3, 25a節をご覧下さい。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」とあります。「なだめの供え物」とは、旧約の祭司制度を背景にしています。年に一度大贖罪日になると、大祭司は神様のお怒りをなだめるために動物の血を祭壇に注ぎました。ほふられて血を流した動物は神様と人間を和解させる犠牲のいけにえであり、和解のいけにえでした。その供え物によって神様のお怒りはなだめられ、神様と人間の関係が和解されるようになりました。そのなだめの供えものによって神様はさばきを見逃して来られました。この和解は人間関係においても大切です。夫婦が喧嘩していて和解しなければ、その家は地獄になります。同様に、神様と私たちとの和解関係が崩れると、私たちのたましいはどうなるでしょうか。不安と恐れに陥ってしまいます。りっぱな家で高価な服を着て美味しいものを食べながら暮らしても不安な生活が続くでしょう。落ち着かない生活が続くようになってしまいます。従って、私たち人間は神様と和解することが何よりも最優先的にしなければならない重要な問題です。そういうわけで旧約時代には祭司が人間の罪を購うために牛や羊などを犠牲にしてその血を祭壇に注ぎました。しかし、この動物の血は不完全なものでした。その効力は一時的であり、制限があったので根本的な解決策にはなりませんでした。ところが、神様は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それで、イエス様は人となって世に来られ、世の罪を取り除く神の小羊として血を流されました。ほふられた小羊のように、イエス様は鞭に打たれ、剣に刺されて血を流されました。両手と両足に太い釘が打ち込まれて十字架につけられました。十字架上で貴い血を流されました。このようにしてイエス様はご自分の血によって神様のお怒りをなだめてくださいました。そして、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブル9, 12)。それで、私たちはイエス・キリストの血による贖いを信じることによって救われます。緋のように赤い罪を雪のように白くしていただくことができます。私たちの罪が紅のように赤くても羊の毛のようにしていただきます。イエス・キリストの血を信じる信仰によって私たちは癒され、救われるのです。このようにイエス・キリストの血には神様と私たちとの和解関係を回復させる力、私たちを癒し、救う力があります。私たちはいつでも、どこでもこのイエス様の血の力を信じるならその信仰によって神様の御前に出て行き、罪の赦しを受けることができます。神様と和解して神様に愛され、神様に祝福される人生を生きるようになるのです。なぜなら、神様は、愛する御子イエス・キリストを地上に遣わして、私達の罪のなだめの供え物とされ、十字架において血を流して、その代価によって私達を買い戻されたからです。それによって神様の義も現わされるようになりました。ただ、信じない人たちには神様の恵みも、贖いも何の意味もありません。神様が示された救いを信じることによって神様の赦しと癒しの力が私たちのうちに働くようになります。私たち人間が神様の真の救いにあずかる道は神様が示された救いの恵みとキリストの血による贖いを信じることなのです。教会のあらゆる儀式やルールによるのではありません。ただ一つ、心から私たちを贖うために十字架にかかって死んでくださったキリストを仰ぎ見、その血を信じることです。キリスト教、キリスト信仰、クリスチャンとは、この十字架の主が流されたその血によって救われると信じる信仰以外に何もありません。十字架のキリストを心より愛し、受け入れる人が真の救いにあずかれるのです。27、28節をご覧ください。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」とあります。結局、私たちは律法の行ないによってではなく、ただ信仰の原理によって救われるので、救いを誇ることが出来ません。もし、身分や、学歴、財産、人柄などによって救われているなら、それらを誇ることができるでしょう。しかし、ただ恵みによってイエス・キリストの血による犠牲、信仰によるものだから、いつも神様の恵みに感謝し、神様に栄光を帰すべきなのです。  29、30節をご覧ください。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」信仰によって救われるから、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救われます。この神様は一つの民族だけを救われる神様ではなく、全世界を救われる世界的な神様です。 31節をご覧ください。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」 ただ神様の恵みによって、信仰によって救われるといいますと、律法を無効にしてしまうのではないかと誤解する可能性があります。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません。」と言い切りました。神様はイエス様の十字架によって律法の代価を全部払うようになさいました。律法の要求を満たされたのです。そして、イエス様を信じて救われると、聖霊によって生まれ変わった人が律法を確立して行きます。二つのJ, Jesus,Japan, を愛した内村鑑三はこう言いました。「キリストが十字架を通して施された救いにあずかられてから善に対する義務は喜びに変り、罪を犯すことはこの上もない苦痛になった。善を愛するから善を行なうようになったし、悪を憎むから悪を行なわないようになった。律法はもはや重荷にならなかったし、使徒ヨハネの言葉も理解するようになった。」と告白したのです。そして、使徒ヨハネは「神を愛することは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」, ?ヨハネ5, 。と告白しています。私たちもこのように深く悟ってキリストの恵みのゆえに、もっとイエス・キリストを愛し、日本を愛する生活ができるように祈ります。結論的に、私たちはただ恵みによって価なしに神様の大いなる贖いのゆえに救われました。ただ、ただイエス・十字架の血による贖いを信じる信仰によって救われました。救いはイエス・キリストの十字架を見上げ、信じること以外のどこにもありません。自分の善行によっても、熱心な宗教によっても、自分の奉仕によっても救われません。ただ神様の恵みによってキリストの血による、また信仰によって救われたのです。私たちにはその恵みにただ感激し、感動し、感謝をし、喜び、主を愛して行くことが許されています。主を愛して律法に示された神様を愛し、父母を敬い、隣人を愛する生活をしていくのです。この素晴らしい恵みを、一人でも多くの若者、日本の47都道府県の人々に伝えて行くことができますように祈ります。

13Mark15.神にはどんなことでもできる

13mark15, 神にはどんなことでもできる, 2013年マルコの福音書第15講(聖歌300番)神にはどんなことでもできる御言葉:マルコの福音書10:17−31要 節:マルコの福音書10:271.イエス様が道に出て行かれると、どんな人が御前にひざまづいて、何を尋ねましたか, 。イエス様は彼に、何と言われましたか, 。その人は、いつから戒めを守っていましたか, 。2.イエス様はその人をいつくしんで、何と言われましたか, 。すると、彼の顔色はどのように変わったのでしょうか, 。その理由は何でしょうか, 。3.イエス様は、弟子たちに何と言われましたか, 。驚いている弟子たちに、イエス様はどんな話をされましたか, 。なぜ弟子たちは、ますます驚いたのでしょうか, 。「どんなことでも、神にはできる」, と言われたイエス様の御言葉を、あなたは信じていますか。4.何もかも捨てて、イエス様に従ったペテロと弟子たちに、イエス様はどんな祝福を約束されましたか, 。神様に従う人々の祝福について、話してみましょう。

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13DBC2.良いわざに励みなさい

13dbc2, 良いわざに励みなさい, 2013年弟子修養会第2講良いわざに励みなさい御言葉:テトスへの手紙3:1−15要 節:テトスへの手紙3:81.1,2節を読んでみましょう。テトスは聖徒たちをどんな者にするべきなのでしょうか。聖徒たちは、支配者たちと権威者たちに対して、どんな姿勢を持つべきでしょうか。なぜそうしなければならないのですか, ロマ13, 。また、全ての人に対して、どんな態度を示すべきでしょうか。2.3−7節を読んでみましょう。パウロは、「私たちも以前は、どんな者であった」と言っていますか。しかし、どんな人に変わりましたか。「聖霊による、新生と更新との洗い」とは、何でしょうか。以上から、なぜ聖徒たちは、上のような社会倫理を持たなければならないのでしょうか。3.8節を読んでみましょう。パウロは、どんな言葉が良い言葉、と言っていますか, 。テトスは、何について、確信を持って話すべきでしょうか。その理由は何でしょうか。4.9−11節を読んでみましょう。テトスは、聖徒たちを助ける時、どんなことを避けるべきでしょうか。なぜそのようにしなければならないのでしょうか。また、異端に属している人々には、どのように接するべきでしょうか。5.12−15節を読んでみましょう。パウロはテトスに何を頼みましたか。また、人々がどんなことに励むように、教えなければならないのでしょうか。パウロの最後のあいさつは何でしょうか。

13Mark14.みなに仕える者となりなさい

13mark14, みなに仕える者となりなさい, 2013年マルコの福音書第14講, みなに仕える者となりなさい御言葉:マルコの福音書9:30−50要 節:マルコの福音書9:351.イエス様は、今まで主に活動されていたガリラヤを通って、これからどこへ向かって行かれるのでしょうか。なぜイエス様は、「人に知られたくない」と思われたのでしょうか, 。イエス様の十字架の出来事は、具体的に、どのような形で起きるのでしょうか, 8,8, 。イエス様が語られた二度目の受難と復活の予告に対して、弟子たちの反応はどうでしたか, 。2.イエス様が神様の御心に従って十字架に向かって歩んでおられるのに対し、弟子たちの一番の関心はどこにありましたか, 。イエス様は、そのような十二弟子を呼んで、何と言われましたか, 。イエス様は、どのようにして、みなに仕える者になられたのでしょうか, ピリ2, 8,マタ20, 。3.イエス様は、一人の子どもを連れて来て、どのようにされましたか, 。「みなに仕える者となる」とは、具体的に、どのようにすることなのでしょうか。なぜ私たちは、取るに足りない子どものような者を受け入れるべきなのでしょうか, 。4.「先生(主)の名を唱えて悪霊を追い出している者」を見たヨハネは、なぜその人の行為をやめさせたのでしょうか, 。仲間(味方)に対して、イエス様は、どのような見解を持っておられましたか, 。どのような人が確かに救われるのでしょうか, 。5.イエス様は、「つまずきを与える者」に対して、どれだけ厳しい言葉で話されましたか, 。もし、私たちの手足や目が、自分につまずきを与えるなら、どのようにすればよいというのでしょうか, 。なぜ、他人や自分をつまずかせる原因となるものを切り捨てることが、大切なことなのでしょうか, 。主イエスの弟子たちの生き方について、話してみましょう

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13DBC1.見よ、わたしは新しい事をする

13dbc1, 見よ、わたしは新しい事をする, 2013年弟子修養会第1講見よ、わたしは新しい事をする。御言葉:イザヤ書43:1−28要 節:イザヤ書43:19?.恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ, 1.1,2節を読んでみましょう。今、イスラエル(ヤコブ)はどんな心情を抱いていたのでしょうか。神様は、そのような彼らをどのように助けてくださいますか。2.3−7節を読んでみましょう。神様は、イスラエルをどのように回復させて、くださいますか。神様が、イスラエルを高価で尊い、と思われた理由は何でしょうか, 。神様は、イスラエルをどのように集められますか。なぜそのようにされるのでしょうか。3.8−13節を読んでみましょう。イスラエルに向けられた神様の御心は何でしょうか。どのようにして、これらのことが可能になるのでしょうか。?.わたしは新しい事をする, 1. 14−17節を読んでみましょう。神様は、具体的に、どのようにしてイスラエルをバビロンから救ってくださるのですか。神様は、以前のことを、どのように覚えさせているのでしょうか。2.18−21節を読んでみましょう。神様は、どんな新しい事をされるのですか。新しい事をされる神様について、何を学ぶことができるのでしょうか。3.22−28節を読んでみましょう。過去、イスラエルはどんな罪を犯しましたか。しかし、神様は、なぜ彼らを赦してくださるのですか。しかし、罪が赦された彼らは、何を覚えていなければならないのでしょうか。

13Mark13.信じる者にはどんなことでもできる

13mark13, 信じる者にはどんなことでもできる, 2013年マルコの福音書第13講, 信じる者には、どんなことでもできる御言葉:マルコの福音書9:14−29要 節:マルコの福音書9:231.イエス様の一行が山から帰って来ると、弟子たちは何をしていましたか, 。イエス様の質問に、群衆の一人は何と答えましたか, 。2.一部始終を聞かれたイエス様は何と言われましたか, 。弟子たちは、どんな点で不信仰な人たちでしたか。イエス様は、「その子」をどのように助けようとされましたか。3.その子をイエス様のところに連れて来た時、霊はどんな反応を示しましたか, 。その子に起こった症状は、いつ頃から続いたことですか, 。子を滅ぼそうとする霊の働きは、どこまで及びましたか, 。父親の心はどれだけ苦しいものだったのでしょうか。4.父親は、どのように、イエス様に助けを求めましたか, 。イエス様は彼にどんな信仰を持つように、助けてくださいましたか, 。イエス様が私たちに求められる信仰について、真剣に考えて見ましょう。5.イエス様の御言葉を聞いた父親の姿勢がどのように変わりましたか, 。イエス様は、汚れた霊を叱って、どのように命じられましたか, 。苦しんでいた子は、どのようになりましたか。6.この出来事を見た弟子たちは、イエス様にどんな質問をしましたか, 。なぜ彼らは汚れた霊を追い出すことができなかったのでしょうか, 。信仰と祈りの関係について、考えてみましょう

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12X-Masひとりのみどりご

masひとりのみどりご, 2012年クリスマス礼拝ひとりのみどりご御言葉:イザヤ書9:1−7要 節:イザヤ書9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」merry, christmas, クリスマス、それはイエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスチャンの少ない日本でも、クリスマスは年間行事の一つとして根付いています。喜びを持って私たちの主イエス・キリストの誕生を喜び祝いましょう。ハレルヤ!merry,  クリスマスのプレゼントはイエス・キリストご自身です。神様は罪や死や悪に支配されている人々を救うために神のひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださいました。そして、クリスマスと言う言葉は「キリストを祀る、崇める」と言う意味です。イエス様を心に受け入れ、崇めるならば、その日はクリスマスなのです。イエス・キリストを信じることによってすべての罪が赦され、心が喜びと平安で満たされます。まことの光に照らされて明るく平和の人生を生きるようになります。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君であられるイエス様がその人生を真実と愛によって導いてくださいます。では、神様がお遣わしくださったイエス様はどのようなお方で、どのように働かれるのでしょうか。今日は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇の誕生日を祝う日です。もし天皇の誕生が預言されていたと聞いたことがありますか。ないでしょう。仏教の釈迦も、イスラム教のマホメットも、生まれる前から預言されていたわけではありません。しかし、イエス様の誕生は数千年前から預言されていました。イエス様は、どこで生まれ、だれから生まれ、どのような生き方をするか、どのように死ぬか、死後にどうなるか、一生涯のことが事細かく預言されています。旧約聖書にイエス・キリストに関する預言が350位あると言われているほどです。そして、預言された約束が新約聖書において成就されました。これからも成就されつつあります。今日はそういう聖書の預言の中でも最も知られている預言者イザヤの預言からイエス・キリストを学びたいと思います。b, c730年ころ、神様はイザヤとイスラエルにメシア、イエス・キリストの誕生に関するビジョンと約束を与えてくださいました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」」という約束です。それは当時の人々にとって注目のニュース、トップニュースでした。世界的なニュースだったのです。そのニュースは当時の世界で東の果てにある今のイラクまでも広がったようです。後で東から東方の博士たちがひとりのみどりごを拝みにイスラエルのベツレヘムまで来ました。では、なぜそれほどビックニュースだったでしょうか。イスラエルは世界のどの国よりも多くの侵略を受け、虐待を受けている国です。エジプトの奴隷生活だけでも400年間でした。その後も、アッシリヤ、バビロニア、ペルシア、ローマなどによって圧制されました。ナチス・ドイツ時代には600万人も殺されました。しかも、ひどい殺され方でした。本当にイスラエルは数多くの苦難を受け、圧制されている国なのです。イザヤ時代もイスラエルはアッシリヤに侵攻され、抑圧されていました。特に、イスラエルの北部であるガリラヤ、ナフタリの全土は占領され、その住民はアッシリヤへ捕え移されました, ?列王15, 29, 。イザヤ8章22節は、その状態をよく表しています。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」とあります。正に真っ暗な状態です。そこに偉大な神様の約束、メシアの誕生の約束が与えられました。9章1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。イザヤは後のことなのに「光栄を受けた」と表現しています。それほど信じ切ったということです。神様の約束に対する確信です。2節をご覧ください。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とあります。これも素晴らしい信仰の告白です。現在やみの中を歩んでいた民です。アッシリヤに侵略されて苦しみ、死の陰の地に住んでいました。ところが、イザヤは「大きな光を見た。彼らの上に光が照った」と確信したのです。このように、神様に対する信仰がある人は苦しみの中でも希望を持つことができます。神様の時を待つことができます。それは幸せなことです。希望を持ち続け、待ち続ける時に苦しみにも耐える力が湧いてきますし、創造的な知恵も与えられるからです。それで、聖書勉強を通して神様の約束をつかみ、信じている人たちは幸せな人たちです。苦しみの中でも明るく肯定的に生きることができます。何よりも、神様から与えられたビジョンと約束が実現されて行くことの体験ができるからです。イザヤも自分に与えられた神様の約束が部分的に成就されることを体験しました。ユダヤ人を闇の中に陥れたアッシリヤは滅亡したからです。しかし、その約束が完全な形で実現されたのはイエス・キリストの誕生です。イエス様ははずかしめを受けていたゼブルンとナフタリの地、ガリラヤに来られました。大きな光として働かれました, マタイ4:13, 16)。そして、ガリラヤでイエス・キリストを迎えて受け入れた人々は大きな光の力を体験しました。彼らはイエス様が病人を直し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出してくださることを見ました。死の陰の地、ガリラヤに住んでいた人たちが新しい人生を生きるようになりました。今日も、大きな光、イエス・キリストを受け入れる人々は癒され、生かされて新しい人生を生きるようになります。ただ、厳しい現実だけを見て生きている人は世の中が暗く見えるかも知れません。クリスマスがクリスマスではなく、「苦しみ増す」だと言いたくなる人もいるでしょう。しかし、この日本にも大きな光が照らされています。日の出が昇りました。私たちの上に光が照ったのです。その光はイエス・キリストです。イエス様は大きな光です。心からイエス・キリストを受け入れるなら、心は明るくなります。イエス様を信じると、イザヤに与えられたビジョンと約束の御言葉が与えられます。御言葉によって私たちの心に住み着いている暗黒と死の陰が消えていきます。冷え込んでいる冬でも心が温かくなります。内なる人が強くなります。そうして成長と刈り入れ時の喜び、勝利の楽しみを体験する人生を生きるようになります。3節をご覧ください。「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの前で喜んだ。」とあります。神様がその国民を増やしてくださるのでイスラエルは繁盛する、成長する喜びが増し加えられるのです。この喜びは刈り入れ時に喜ぶ喜びです。この喜びはこの世の喜びとは質が違います。この世でも喜べるものは多くあります。コンピュータゲームやパチンコを楽しむような喜びではなくて健全な喜びもあります。クリスマスパーティーやクリスマスコンサートを楽しむ喜びもあります。しかし、そういう喜びは一生懸命に働いて得られる刈り入れ時の喜びには至らないでしょう。敵と戦って勝利して分捕り物を分ける時に経験する楽しみも大きいものです。大きな光に照らされた人は、そういう素晴らしい喜びを経験して行くのです。それだけではありません。勝利を楽しむ喜びと平和も経験して行きます。4、5節をご覧ください。人々に負われていた重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の杖は粉々に砕かれます。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火の餌食となります。つまり、イスラエルは戦争に勝利して外国の圧迫から解放され、争いから平和の国になります。そのように、私たちも大きな光に照らされると、自分を束縛する重荷から解放されます。安逸と情欲の支配から解放されます。険しい世の中で人を憎しみ、妬み、競争し、騒いでいた心が平和になります。そうして、いつも喜び、すべてのことにおいて感謝するようになります。もちろん、自分の力だけで収穫し、勝利する喜びを経験することもできます。ところがその時は感謝ではなく自慢話になりがちです。それが人を傷つけてしまう場合もあります。しかし、私たちのために生まれたひとりのみどりご、イエス・キリストによる刈り入れ時の喜び、勝利の喜びは違います。すべてがイエス様の恵みだから自慢ではなく、ただ、感謝するようになります。喜んでもへりくだっているから人々から妬まれません。それでいつも喜び、すべてのことにおいて感謝するようになるのです。では、大きな光として来られたイエス・キリストは私たちのうちにどのように働かれるでしょうか。6節をご一緒に読んでみましょう。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ここで、私たちのために生まれるひとりのみどりご、イエス・キリストについて学ぶことができます。第一に、イエス様は「不思議な助言者」として働いてくださいます。「不思議な助言者」というのは英語の訳で「wonderful, counselor」となっています。イエス様は知恵と知識にあふれています。私たちが経験するすべての領域において正しい道を示してくださいます。聖書の御言葉、メッセージ、聖歌の歌詞などを通して私たちが悟り、正しい道を歩んでいくようにカウンセリングしてくださるのです。第二に、イエス様は「力ある神」として働いてくださいます。イエス様には不可能なことがありません。イエス様を信じる者たちはその力を体験することができます。使徒パウロは次のように告白しています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」, ピリ4, 。私たちも力ある神イエス・キリストを信じて生きる時、どんなことでもできる人生を生きるようになります。第三に、イエス様は永遠の父として働いてくださいます。皆さんにとってお父さんはどんな存在でしょうか。私の父は天に召されました。その後に悟ったことの一つは父が生きていることだけでも大きな恵みだということです。ほんとうに、子どもにとって父は大きな存在です。子どもたちを保護し、必要なものを満たします。いつまでも子どもを見守り、助けようとします。そういう父親に恵まれている人は幸いです。でも、この世の父は暴力的な父もいます。いくら素晴らしい父であっても限界があります。しかし、イエス様は永遠の父となって下さいます。いつでも、どこでも、私たちを見捨てず、父親であり続けて下さるのです。私は弱い者で精神的にも肉的にもよく疲れてしまいます。さまざまなことで心が騒ぎ、落ち着かない日が続く時もあります。でも、静かに祈る時に、「父なる神様!お父様!」と呼ぶと、それだけでも心が癒されます。安堵感と平和が与えられます。ひざまずいて「お父さん」と呼んでいるうちに主の大きな愛に包まれて泣いてしまう時もあります。心は潤され、新しい力をいただきます。私たちに永遠の父がいていつでも「お父さん!」と呼べることは大きな恵みです。皆さん。一緒に呼んでみましょう。「父なる神様!お父さん!」永遠の父として私たちのうちに働いてくださる主の御名を賛美します。第四に、イエス様は「平和の君」として働いてくださいます。イエス様はなぜ、「平和の君」なのでしょうか。それは、イエス様が十字架の死によって人と神様との和解を実現したからです。パウロはこう言いました。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです, コロサイ1, 。」私たち人間はイエス様の十字架の死によってのみ神様と和解することができます。私たちは神様に敵対していました。神様の怒りを受けるばかりのことをして来たのです。ところが、神様は私たちのすべての咎と罪をイエス様に負わせました。それに対してもイザヤは預言しました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた, イザヤ53, とあります。このキリストの死によって私たちは、神様との和解をいただいているのですですから、私たちはイエス様の十字架の死による贖いを信じることによって救われ神様と和解することができます。神様との和解から人々の間でも平和が生まれます。それで人々に「シャローム!」と言えるようになります。ヘブル語のシャロームは「平和、平安」とも「繁栄」とも訳すことができます。つまり、シャロームという時に平安と繁栄を祈るのです。, 隣の方と挨拶しましょう。シャローム!)どうか、平和の君であられるイエス・キリストの働きによっていつまでも平安で何をしても栄えるように祈ります。 7節をご覧下さい。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。イエス様は、ひとりのみどりごとしてお生まれになりますが、その主権は増し加わります。その平和は限りなく続きます。「ダビデの王座」に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えます。なぜなら今より、とこしえまで万軍の主の熱心がこれを成し遂げられるからです。つまり、救いのみわざは万軍の主の熱心によって成し遂げられるということです。私はこの日本の宣教、救いのみわざのために遣わされて来ました。特に、若者たちがダビデの王座に着いておられるイエス様を信じて救われ、イエス様に従う人になることを願っています。この国が神の国になることを望んでいます。しかし、それは私の力では無理です。日本に1%のクリスチャンがいますが彼らの力によってでもできません。しかし、万軍の主の熱心によって愛する兄弟姉妹たちがイエス様を不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として受け入れ、信じるようになるのです。イエス様が選んだ弟子たちのほとんどが、ガリラヤの漁師たちでした。イエス様はあえてエルサレム大学の出身の人ではなく、あまり学問のない、普通の人たちを選ばれました。当時の国際語であるギリシャ語もできない人たちが選ばれたのです。パウロは?コリントでこのように言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです(1:27, 28)。」でも、イエス様が彼らのうちに、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君として働いてくださいました。すると、彼らの人生は変わりました。今なお歴史に残る偉大な12使徒として福音のみわざに用いられました。 ここにいるクリスチャンも過去は苦しみ、はずかしめを受け、やみの中、死の陰の地に住んでいたことでしょう。自殺を考えたほどに死の陰の谷を歩いていた人もいます。私たちは本来、神様の子どもとして造られたのに、罪の中で死に、サタンの支配下にいたのです。しかも自分が闇の中にいることさえもわかりませんでした。イエス様を信じて救われた後、「ああ、私は闇の中にいたんだ!」ということが分かりました。そんな私たちのためにイエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになったのです。大きな光として私たちを照らして明るい人生を生きていくようにしてくださいました。それで、皆さんの顔を見ると明るいです。もちろん、クリスチャンでも厳しい世の中で苦しみ、悲しむ時があるでしょう。しかし、イザヤに与えられた神様のビジョンと約束の言葉があるから希望を持ち続けることができます。今は苦戦しても勝利の時を待つことができます。祈り続けながら神様の愛と力を体験して行きます。行く先々に勝利を与えられる神様の不思議な力と愛を体験して行くのです。私も過去はやみの中、死の陰に住んでいました。自分の安逸と情欲の罪のためにはずかしめを受けていました。漁師の子どもとして親には財産もないのに、自分に何の才能も、実力もないと言うことでつぶやいていました。体育の時間に走ると、いつもビリだし、歌では音痴として呼ばれていたことで悩み、苦しんでいました。さらに、体は肝炎にかかって黄色くなり、学校の成績も落ちって行くと生きる意味を失ってしまいました。ところが、大学1年生の時にこのubf教会に導かれて聖書を学び、祈って行くうちに心も、体も癒されました。ことばではうまく説明できませんが、不思議な力と愛を体験して宣教師になりました。今は教会のメンバーにも恵まれ、家族にも恵まれています。笑顔で幸せに生きる人生になりました。惨めな私を救ってくださった主の御名を賛美します。どうか皆さんも心からひとりのみどりごのイエス様を受け入れますように祈ります。クリスチャンでも、もう一度、ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス様の誕生が自分のためであることを信じてイエス様に対する心を新たにして行きますように祈ります。ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス・キリストの恵みと平和が皆さんと皆さんのご家族に上にありますように祈ります。

32M 生きている者の神様

生きている者の神様, 2012年ルカの福音書第32講生きている者の神様御言葉:ルカの福音書20:1, 47要, 節:ルカの福音書20, 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」merry, christmas,  先週も話しましたが、今年のクリスマスには「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であられるイエス様を学びたいと思っています。先週は御名によって来られる王、イエス・キリストは平和の王であられることを学びました。今日も力ある神、永遠の父であられるイエス様の御姿を学ぶことができます。特に、死んだ者の神ではなく、生きている者の神様について学びたいと思います。第一に神の権威によって働かれるイエス・キリスト。第二に生きている者の神の御子イエス・キリストについてです。どうか、生きている者の神様がクリスマスを迎える私たちの心に力強く働いてくださるように祈ります。?.神様の権威によって働かれるイエス・キリスト, 1,2節をご覧ください。先週学んだように、強盗の巣になってしまった宮をきよめられたイエス様は宮で教え、福音を宣べ伝えておられました。ところが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエス様に立ち向かって来ました。彼らは、今日の衆議院選挙で選ばれる国会議員のように、イスラエルでは宗教的にも政治的権威と権力が与えられている人たちです。彼らがイエス様に「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」と言いました。そこでイエス様は答えて言われました。3, 4節をご覧ください。「そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」」とあります。ヨハネがバプテスマを授ける時、多くの人々が罪を悔い改め、水のパプテスマを受けました。ただ、祭司長をはじめ、律法学者、長老たちは受けようとしませんでした。従って彼らがヨハネを天から遣わされた預言者であると認めるなら、どうしてそのバプテスマを受けなかったのかということになります。また、ヨハネなんか人間的な思いでそうしただけだと答えるなら、ヨハネからバプテスマを受けた民衆は黙っていないでしょう。イエス様の見事なお答えに彼らは困ってしまいました。そこで、彼らは「どこからか知りません。」と答えました。するとイエス様は、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われました。では、ここで、宗教指導者たちが問題にしていた権威について考えてみましょう。ヤフー辞書によると、権威とは第一に「他の者を服従させる威力。」と書いてありました。そして第二に「ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。」とありました。ここで、第一の意味は権力と同じ意味でもあります。権威だけの意味を言うなら、第二の意味になります。つまり、人を納得させるだけの信頼性があるものが権威なのです。イエス様にはそういう権威がありました。聖書に「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである, マルコ1, 。」とあります。イエス様の律法解釈、理解による教えには中身がありました。内容がありました。他の律法学者以上に人々を納得させるだけの深いものを持っておられたのです。それだけではありません。イエス様には病を癒す権威も、罪を赦す権威もありました。ある時、中風の人が連れられて来ました。そこで、イエス様は「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。すると、彼の病は癒され、起きて歩きました。イエス様にはその病を癒すことのできる力、罪を赦す神様の力があったのです。祭司長たち政治的に、宗教的には最高の権威が与えられていてそれを主張していました。しかし、彼らには人々から信頼される何の力も、中身もありませんでした。神様の御前にひれ伏し、服従し、神様を礼拝している生活をしなかったからです。ただ、彼らは祭司長だ、学者だというタイトルによって人々を強制に服従させようとしていました。それは不信仰者たちが人間的なタイトルを傘にして権力を振る舞うようなことです。信仰の人は神様の権威に従うことによって神様から与えられる権威によって働きます。昨日、職場で私は上司から管理監督ができなかったことで注意されました。担当者の間違いでしたがそれは部長が優し過ぎて権威がないからだと言われました。私は宣教師としても、牧師としても強制に服従させるようなことはしませんが、そのことでリーダーとしての威厳がないと言われる時もあります。しかし、本当の権威とはイエス様のように神様に従うことにあります。私に権威がないのは強制的に指導しなかったからではなく、神様に服従し、御言葉に従う生活に徹することが足りなかったからでしょう。イエス様は徹底に神様に従うことによってまことによって神様から天においても、地においても一切の権威をいただきました。イエス様はぶどう園のたとえを通してご自分に神の御子としての権威が与えられていること、神様のみ心に従ったことを示唆してくださいました。9, 12節をご覧ください。「また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。」とあります。このたとえで、ぶどう園は、イスラエルを指しています。農夫たちは、イスラエルの宗教指導者たちです。しもべとは預言者たちのことです。神様はイスラエルと契約を結び、宝なる約束の御言葉をくださいました。預言者たちを遣わして、ご自分のところに戻って来るように声をかけてくださいました。しかし、イスラエルの指導者たちは、その預言者をまっさきに迫害しました。神様の恵みと祝福を裏切ったのです。それでも、忍耐深い神様は、あきらめずに預言者を続けて送られました。彼らが悔い改めて帰って来る日を待ち望んでおられたのです。ところが、イスラエルは神様が遣わされた預言者を最後まで受け入れませんでした。そこで、神様はどうなさいましたか。 13節をご一緒に読んでみましょう。「ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』とあります。ここで「愛する息子」とは紛れもないイエス・キリストご自身のことです。イエス様は弱々しいひとりのみどりごとしてお生まれになりましたが、神様のひとり子としての権威を持っておられたのです。また、この御言葉には私たち人間に対する神様の愛とイエス様の犠牲が表われています。何度もご自分の預言者たちを殺してしまったところに愛する息子を遣わされました。イエス様は先に遣わされた預言者たちが殺されたことを知っていながらも神様に従ってこの地に来てくださいました。ここに限りない愛と犠牲があります。どころが、農夫たちは送られた息子をどのように扱いましたか。14、15a節をご覧ください。「ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。」とあります。彼らは取り返しのできない罪を犯してしまいました。彼らは、神のひとり子イエス様を殺す罪まで犯してしまうのです。では、ここまで罪を犯してしまう動機は何でしょうか。「あれはあと取りだ。あれを殺せば、財産はこちらのものだ。」とあります。貪欲です。貸してくださったことに感謝するどころか、その所有権までも奪い取ろうとしたのです。その結果、どうなりましたか。15b、16a節をご覧ください。「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」とあります。借りていたものまでも奪われるようになりました。農夫どもは打ち滅ぼされてしまうようになりました。ヤコブ1, 15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とありますが、そのとおりです。私たちも神様の権威を認めず、従わず、神様の愛する息子さえを受け入れずに自分の欲望を満たことだけを求めて生きるなら、滅ぼされます。16b節をご覧ください。「これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言いました。滅ぼされるのは自分たちであることに気付いたからです。彼はそれが分かったら悔い改めるべきでした。しかし、イエス様のたとえを聞いて分かっても悔い改めませんでした。そこでイエス様は、彼らを見つめて言われました。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」とあります。これは詩篇118, 22節の引用ですが、彼らが神様から遣わされた神様の愛する息子、ひとり子を見捨ててしまうことを教えてくれます。また、神様は十字架につけて殺してしまうイエス様をよみがえらせて礎の石にしてくださるということです。実際に、イエス様は見捨てられた石として死なれたことによって私たちの罪を負われました。そして復活によってイエス様が神の御子キリストであることを明らかにしてくださいました。従ってこのイエス様の十字架の死による贖いを信じる者は救われます。今まで金を愛し、自分の欲望を満たすことだけを求めて来たとしてもその罪を背負ってくださったイエス・キリストを信じることによって赦され、救われます。しかし、神様が最後に遣わされた、愛する息子イエス様の権威を認めず、信じなかった者たちには神様のさばきがあります。イエス・キリストを受け入れず、信じない人たちは、皆が粉みじんになれるのです。そういうわけでイエス様の権威を認めず、むしろ殺そうとしている宗教指導者たちは一刻も早く悔い改めなければなりませんでした。しかし、彼らの反応はどうでしたか。19節をご覧ください。律法学者、祭司長たちは、イエス様が自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づきました。それで、この際イエス様に手をかけて捕えようとしましたが、やはり民衆を恐れました。彼らは、民衆を恐れてその場でイエス様を捕らえることはできませんでしたが、悔い改めもしませんでした。そのような彼らに、イエス様はさらに、神様のこと、ご自分のことについて教えてくださいます。?.生きている者の神の御子イエス・キリスト, 22節をご覧ください。民衆を恐れたのでイエス様を捕まえなかった宗教指導者たちは間者, スパイ, を送り、イエス様のことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエス様を引き渡そうとしました。間者は義人を装ってイエス様に質問して言いました。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」とあります。当時、イスラエルはローマの植民地でした。従ってイエス様が「カイザルに税金を納めるべきだ」とお答えになれば、民たちはイエス様を取税人のように思うでしょう。イエス様の間に隙間が生じてしまいます。だからと言ってイエス様が「税金を納めてはならない」とお答えになると、ローマに反逆することになります。すると、宗教指導者たちはイエス様をローマに訴えて処刑させることができます。イエス様がどっちに答えても、イエス様を罠に陥れることができるのです。そこで、彼らは微笑んでいたでしょう。ところが、イエス様のお答えはどうですか。 23, 25節をご覧ください。イエス様はそのたくらみを見抜いて、デナリ銀貨を持って来させ、「だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と質問されました。彼らが「カイザルのです。」と答えると、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。見事なお答えでした。宗教指導者たちは民衆の前で、イエス様のことばじりをつかむことができず、驚嘆しました。イエス様は私たちが二つの国籍を持っていることを教えてくださいました。すなわち地上での国籍と天の御国での市民権です。私たちの地上の国で税金を払わなければなりません。先週、私は永住権を申請する宣教師の保証人の書類として課税証明書と納税証明書を頼まれました。どちらか一つ取れば同じじゃないかと思っていたのですが、頼まれたので区役所に行って申請しました。そして取ってみると両方とも数字が全く同じものでした。それで係員の方に全く同じですねと聞きました。すると、彼は「そうです。あなたが税金を全部払ったことです。」と答えました。そこで、私は「なるほど、課税と納税が一致しなければ滞納者となり、保証人になれないんだ」ということが分かりました。私は外国人であっても日本に住んでいる以上、税金を払わなければならないのです。同時に、私たちはクリスチャンとして神様に選ばれた神の国の国民です。神様に対する義務も果たさなければなりません。今日、主日礼拝をささげていることも神様への義務を果たしていることです。特に私たちは、私たちのからだを、神様に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる義務があるのです, ロマ12, 。イエス様のお答えに驚嘆した彼らは次に来世の問題を持ってイエス様に質問しました。28, 33節をご覧ください。七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。という質問です。これは申命記25, 10節の御言葉に基づいていますがずいぶん残酷な質問です。実際には起こりえないことでしょう。それでも、イエス様はその質問を無視せずにサドカイ人たちの霊的な無知を悟らせてくださいました。34, 36節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。』」私たちがこの世で生活している間はめとったり、とついだりしますが、これは生きて行く上で必要なことです。ところが死人の中から復活する時にはめとることも、とつぐこともありません。私たちが御使いのように霊的な存在になるからです。もし、もし天国でも結婚するなら、今のままが良いという方もいれば、絶対に新しい人に出会いたいと思う人もいるでしょう。天国でも同じ夫婦なら行きたくないと思う方もいるかも知れません。しかし、私たちが神の御国に入るためには私たちのからだが変わらなければならないのです。使徒パウロは、私たちの体が将来栄光あるものに変わることを証ししました。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」, ?コリ15, 。その時にはもう罪の誘惑に支配される必要もありません。将来のこと、結婚のことで悩む必要もありません。栄光ある神様の子どもとなり、栄光ある私たちの主とともに、神様の御国で永遠に栄光を受けるようになるのです。神様は全能なる神様なのでそのようにすることができるのです。 37, 38節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」神様はモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」, abraham, issac, jacob, と言われました。実はモーセの時、アブラハムも、イサクも、ヤコブもみな死んでしまいました。しかし肉体的には死んでいますが、霊的にはみな生きているのです。彼らは全能なる神様の力によって生かされました。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神様が今ここにいる私と皆さんの神様です。私たちが生きている限り、私の神様です。ところが、イエス様を信じる者は死んでも生きるのです。ですから、神様は永遠の父、永遠に私の神様です。永遠に私たちを導いてくださる人格的な方です。ただ、宗教指導者たちのように信じない者は死んでいます。彼らの神になれません。彼らは生きておられる神様の力を体験することもできません。イエス様を信じている者だけが永遠に生きておられる神様の権威と力を体験することができます。どうか。私たちが私のためにひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス・キリストを心から受け入れ、信じますように祈ります。信じると、私たちは救われて神様の子どもとなり、永遠に生きている者として神様と交わり、神様の愛に包まれた生活ができます。「苦しい時に神頼み」という言葉があります。これは信仰を批判する言葉として用いられています。しかし、この言葉は私たちの信仰の真実を示す言葉でもあるでしょう。今、苦しんでいることがあるでしょうか。悩んでいることがあるでしょうか。それは生きている証拠でもあります。どうか、生きている者の神様にすがりましょう。神様に祈り、生きている者の神様を体験して行きたいと思います。

12Luke31M 主の御名によって来られる王

12luke31m, 主の御名によって来られる王, 2012年ルカの福音書第31講主の御名によって来られる王御言葉:ルカの福音書19:28〜48要, 節:ルカ19:38, 「こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」」merry, christmas!クリスマスが先週よりも近づいて来ました。今年のクリスマス礼拝の時は、偉大な預言者イザヤの預言からイエス様の誕生について学びたいと思っています。イザヤはイエス・キリストの誕生について「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と預言しました。その通りに、イエス様は生涯を通してご自分が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを明らかにしてくださいました。今日の本文では平和の君であられるイエス様について学ぶことができます。イエス様は十字架の死を目の前にして威風堂々とエルサレムに入られました。約束されたメシヤ、平和の王としての姿を見せてくださったのです。この時間、御言葉を通して主の御名によって来られる王、平和の王であられるイエス様を心から迎え入れますように祈ります。また、平和の王イエス・キリストの恵みが私たちのうちに豊かに注がれますように祈ります。28節をご覧ください。「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。先週、私たちはイエス様がエルサレムに上って行かれる途中、エリコに入って失われた人ザアカイを捜して救い、彼に言われたことを学びました。イエス様が十ミナのたとえを話されたことも学びました。その後、イエス様は、さらに進んでエルサレムに上って行かれました。ついに、エルサレムが見えるオリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれました。そのたときです。イエス様はふたりの弟子を使いに出して言われました。30、31節をご覧ください。「言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とあります。イエス様は二人の弟子たちにろばの子を連れて来るミッションを与えました。このミッションを果たすことはなかなか難しいことです。全く面識のない人のろばの子を連れて来ることだからです。しかも、イエス様は弟子たちに不思議な助言をしてくださいました。イエス様はろばの子を買うとか、借りるように命じたのではありません。ただ、「もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とおっしゃったのです。特に「主がお入り用なのです。」と言う言葉は、日本語では丁寧な言葉ですが、英語ですと「the, lord, needs, it.」となっています。「主がそれを必要です」と単刀直入に、はっきりと言うことなのです。ところが、ふたりが向こうの村に行ってみると、イエス様が話された通りでした。弟子たちは不思議な力を経験しました。ろばの子の持ち主も、ろばの子も、イエス様が言われた通りに動いてくれたのです。そこで、弟子たちは、自分の姿とこのろばの子とが重なり合うことを感じ取ったことでしょう。考えてみると、自分たちもイエス様が言われた通りに動いていたのです。そうです。すべての被造物はイエス様のものだから、イエス様に従っているのです。ヨハネの福音書1, 3節はこの事実を明らかにしています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。すべてのものは、イエス様によって造られました。ですから、この世にあるすべてのものはすべてがイエス様のものです。イエス様はこの世のすべてのものの持ち主です。ろばの子も、ろばの持ち主もイエス様が主人なのです。そして、それは私たちにも言えることです。一般的に、人々は自分の人生の主人は自分だと思っています。日本の女性は結婚すると、夫がご主人です。それで、日本の女性は結婚の相手として世界で一番人気があるそうです。夫を自分の主人として思ってくれるからでしょう。しかし、本当のご主人は神様です。すべての人のご主人は神様なのです。そして、神様が私たちのうちに主権的に働いておられます。ある日、皆さんのところにある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです。」と言ってくれたでしょう。もちろん、単刀直入に言わなかったかも知れません。いろいろ説明して誘われたかも知りません。確かなことは神様から遣わされた人を通して私たちもイエス様のみもとに来ているということです。神様が私たちを尊く思ってくださり用いようとされたのです。そして、ろばの子のように平凡な私たちでも主が用いていてくださいます。あれこれの失敗を恐れ、自分の能力や力の弱さ、才能の乏しさに弱気になります。不安を覚えることがあるでしょう。しかし、本当は、「主がお入り用なのです。すべてのすべての主人であられる神様に用いられているので、そこではもはや、能力も才能も問題ではありません。主がそういう力の足りない私たちを用いて尊い御業をなさることを心から感謝します。では弟子たちはろばの子を連れて来ることを通して何が分かったでしょうか。35、36節を読んでみましょう。「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。」とあります。弟子たちは「主がお入り用なのです。」と言ったことだけでもロバの子を連れて来ることができました。それを通して彼らはイエス様が見えない世界も支配しておられるまことの王であることが分かりました。そこで、彼らはろばの子の上に自分たちの上着を敷きました。これは王様に対する態度です。ユダヤでは、王の即位式などに際し、自分の命を捨てて服従するという象徴的行為です(列王下9・13)。彼らはイエス様に王様への尊敬と服従を表したのです。そして、ろばの子にイエス様をお乗せしました。ろばの子にとっては身に余る大役を担うことになりました。自分のようなか弱い者が、まことの王であられるイエス様をお乗せして大切なご用をすることは、力をも分をも越えることだ、と思ったことでしょう。37、38節を読んでみましょう。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」とあります。弟子たちの群れはみな、イエス様を祝福し、賛美しました。その日に、イエス様は王の王としてエルサレムに入城されました。事実、イエス様はすべての人々が喜んで迎え入れるべき全人類の救い主、王の王です。預言者ゼカリヤは預言して言いました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。, ゼカリヤ9, 9、10, 」とあります。この預言の中にイエス様はどんな王として来られたかがよく表われています。 第一に、イエス様は救いの王です。ゼカリヤはメシヤに対して「この方は正しい方で、救いを賜わり、」と預言しました。つまり、イエス様は救いを賜わる方なのです。イエス様が先に立ってエルサレムに入城される目的は救いを賜わるためです。イエス様は救いの王です。イエス様は罪と死のかげに座っている人々を救うために救いの角としてお生まれになりました。そして、私たち人間のすべての罪と咎を贖うために十字架につけられて死なれました。そして、死者の中から三日目によみがえられて私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。このイエス様こそ、私たちを罪と永遠の破滅から救う救いの王です。 私たちは生活の中で様々なことで苦しみ、悩みますし、なかなか克服できない罪の習慣のために絶望します。しかし、救いの王イエス様を信じて受け入れるなら、イエス様が暗闇の世界から救ってくださるのです。救いの王イエス様は今年も、弱い私たちをさまざまな苦難と試練、罪と咎から救ってくださいました。正しい方で、救いを賜る救いの王イエス・キリストの御名を賛美します。 第二に、イエス様は柔和と謙遜によって治める平和の王です。イエス様の時代に、ローマ帝国の王たちは戦争に勝つと、軍馬や戦車に乗ってローマに入城しました。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ロバは馬とは違って、戦争には使われません。重いくびきを負って人に仕える動物です。大人しくて柔和で、その上背も低いのです。そのロバにお乗りになった主御自身こそは、まさに柔和なお方です。弱い者の弱さを担い、病める者の病を担い、低い者の低さに身を置いてくださる王です。それで、平和の王イエス様を迎え入れて信じる人は平和に生きることができます。シャローム人生を生きるようになります。それで、イエス様がお生まれになった時、御使いたちといっしょに、多くの天の軍勢が現われて神様を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように, 」。今年のクリスマスにも数多くの人々が平和の王イエス様を迎え入れてシャローム人生を始めることができるように祈ります。12月は年末で忙しくなります。なかなか落ち着かない日々を過ごしているとサタンは私たちの心に不和、憎しみ、競争心などを植え付け、高ぶらせます。自分も知らずに高慢になって心が騒ぎ、平和がありません。しかし、私たちのうちに住まわれる平和の王、イエス様と交わるなら、イエス様が柔和と謙遜によって治めてくださいます。すると、私たちの心は穏やかになり、平和に生きることができます。39節をご覧ください。パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス様に向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言いました。すると、イエス様は答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」とあります。つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神様がしてくださっていたのです。41, 44節をご覧ください。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。エルサレムを見られたイエス様は、その都のために泣かれました。もし、エルサレムの人たちが平和のことを知っていたなら、イエス様は泣かれなかったはずです。平和の王、イエス・キリストを知り、信じたなら、エルサレムは聖なる神の都として保たれたはずなのです。しかし、エルサレムにいる宗教指導者たちは平和のことを知っている弟子たちを叱ってくださいと言いました。彼らは霊的に無知でした。しかも、聖なる都エルサレムの中でも聖なるところであるはずの宮の状態はどうでしたか。 45、46節をご覧ください。宮にはいられたイエス様は、商売人たちを追い出し始め、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」主の家は祈りの家です。ところが、彼らはそこで商売して強盗の巣にしてしまいました。それほどエルサレムの中心である宮も堕落していました。聖なる宮で商売をしていました。それだけではありません。彼らは神様にそむき続けてきました。いまや神の子イエス様を十字架につけて殺します。その結果、彼らは滅亡し、エルサレムの神殿は崩されます。紀元前20年にヘロデ王が建築を始めたエルサレムの神殿は工事を始めてから80年以上たった紀元64年に完成しますが、その神殿は紀元70年8月にローマ帝国との戦いの末、一日で崩壊します。平和への道を知らず、平和の王イエス様の訪れの時をわきまえなかったからです。そのために、イエス様は神の都、エルサレムのために涙を流し、高慢で利己的な彼らの心を嘆き悲しまれたのです。そして、彼らが滅びることを預言してから商売人たちを追い出し、「私の家は祈りの家でなければならない」と宣言なさいました。それから、イエス様は毎日、宮で教えておられました。それによって祈りの家である宮では毎日神様の御言葉が教えられるべきことも示してくださいました。それでも、宮で祈り、御言葉を教えるべき祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエス様を殺そうとねらっていました。彼らは悔い改めて平和の王イエス様を迎え入れるべきなのに、むしろイエス様を殺す殺意に満ちていたのです。イエス様は、それを前もってご存知であり、その人たちのために泣かれたのです。では、2012年のクリスマスが近づいている日本の都東京をご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。平和の王イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの訪れを知らずに商売ばかりしている人々をご覧になる聖霊様の御心はどうでしょうか。私たちの教会では毎週姉妹宣教師たちは早稲田大学に行って伝道しています。何回も注意されたそうです。それでもキャンパスのたましいたちのために祈り、伝道していますが、追い出される時もあるそうです。最近はキャンパスの中に入ることもできず、外の庭で伝道しているそうです。このような現実のために、ある宣教師は涙が出たと言いました。このような今のキャンパスをご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。あの宣教師よりも嘆き悲しまれるのではないでしょうか。すぐに滅ぼすことはなさらず、泣いてくださるでしょう。それが平和の王イエス様の御心です。堕落してしまった人々をご覧になると、彼らがさばかれることを前もってご存知であり、そのために悲しまれるのです。特に、私たちのからだは聖霊の宮です。?コリント6, 19節を見ると「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とあります。つまり、私たちのからだは私たちのうちに住まれる主と交わる祈りの家なのです。神様は私たちがいつも聖霊と交わることを望んでおられます。そして、この教会堂は目に見える主の宮です。祈りの家です。ここで、神様は私たちが平和の王イエス様と交わる祈りと賛美をすることを望んでおられます。どころが、私たちのからだは祈りの宮としての役割を果たしているでしょうか。主と交わる場所として用いられているでしょうか。私はこのメッセージを準備するうちに、イエス様が私とこの教会を見て泣いておられるのではないかと思いがしました。主と交わることよりも、この世の事で騒いでいる私の心です。夜明けに教会に来ても寂しさを感じてしまう時も多いこの教会堂です。イエス様がご覧になってどう思われるでしょうか。こんな私たちを責めるのではなく、涙を流してくださいます。私たちが本当に平和のこと、平和の王イエス様のことを知っていたなら、祈っているはずです。イザヤ55章6、7節を見ると「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。どうか、クリスマスが近づいて来たこの時期に、主に帰りましょう。心から平和の王としてお生まれになったイエス様を受け入れ、イエス様と交わる祈りに励むことができるように祈ります。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めましょう。そうすれば主は哀れんでくださいます。私のために泣いてくださいます。どうか、私のために涙を流してくださる主の愛に感謝し、主に御名によって来られる平和の王イエス様を心から迎え入れますように祈ります。

12Luke30 きょう、救いがこの家に来ました。

12luke30, きょう、救いがこの家に来ました。, 2012年ルカの福音書第30講きょう、救いがこの家に来ました。御言葉:ルカの福音書19:1−27要 節:ルカの福音書19:9, “イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。”クリスマスが近づいてきました。キリスト教ではクリスマスの4週間前の日曜日から24日までの期間をアドベント(待降節)と呼びます。「アドベント」には、「到来」、「接近」、「出現」などの意味があります。このアドベントの期間にクリスマスに向けて本格的に準備を始めます。私たちも先週、幼児洗礼式と聖餐式を行い、心をきよくしてクリスマス礼拝の準備を始めています。今年も心を込めて準備してイエス・キリストのお誕生をお祝いしたいと思います。今日の本文を見ると、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と言っておられます。そして、自分の家に来られたイエス様を迎え入れたザアカイは変わりました。お金を取り立てる人生から人のために自分の財産を施す者に変えられたのです。そこで、イエス様は救われた者がどのように生きるべきかを教えてくださいました。どうか、心からイエス様を迎え入れることができますように祈ります。今日も神様の救いを経験し、ほんの小さな事にも忠実な者として生きるように祈ります。1, 2節をご覧ください。イエス様は、エリコにはいって、町をお通りになりました。エリコは貿易の中心地であって税金を納めるのに良いところでした。そこに、ザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで、金持ちでした。「ザアカイ」という名前は「純潔、きよい」あるいは「正義、正しい」を意味しています。彼の両親は子どもがきよく、正しく生きることを望んだでしょう。ところが、彼は、どういうわけか、民族の裏切り者、不正にお金を集める者の代名詞である取税人になっていました。しかも、取税人のかしらになっていました。でも、彼の心はきよく正しくいきることへの憧れがあったでしょうか。彼は、町を通られるイエス様がどんな方か見ようとしました。イエス様に対する関心、好奇心があったのです。今日、多くの人々は学校の歴史の時間でイエス・キリストがキリストのことを聞いています。特に、クリスマスシーズンになると、テレビを通してもイエス様のことを聞いています。ところが、ほとんどの人々はただ、聞いているだけです。イエス様がどんな方か知ろうとしません。しかし、ザアカイは違いました。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。思うだけではありません。4節をご覧ください。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」とあります。ザアカイはイエス様を見るために走り出ています。積極的に行動していることが分かります。彼がイエス様を見ることができそうな所を探して走り出てみると、一本のいちじく桑の木がありました。背が低い弱点も木登りには長所になりました。素早く登れたのです。すると、どうなりましたか。5節をご覧ください。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」」とあります。イエス様は上を見上げて木の上にいるザアカイに声をかけてくださいました。『ザアカイ!』と。ザアカイはイエス様がどんな方か見ようとしましたが、実はイエス様がすでに彼の名前も知っておられました。彼が木に登っていることも知っておられました。イエス様は彼の内面も知っておられたでしょう。心からは自分の名前の通りにきよく正しく生きようとしながらも汚い取税人になっている人生の迷い、不安と恐れを知っておられました。そして寂しい、孤独な人生を生きている彼を探しておられました。だからこそ、イエス様は彼の家に泊まることにしてあると言われたのです。イエス様は彼の家にはいり、彼と交わる中で彼を救おうとされました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と書いてある通りです, ?ヨハネ4, 10)。神様がザアカイのことを知っていて彼のためにイエス様を遣わしてくださったのです。私たちに対しても同じです。皆さんはイエス様がどんな方を見るために教会に来ました。ザアカイは木登りをしましたが、皆さんは階段をのぼって三階の礼拝堂まで来ました。ところが、神様はこんな私たちのことをすでに知っておられます。私がイエス様を知る前から私を知っておられます。そして、罪深い私を救うためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は十字架に掛かって死なれ、三日目に復活することによって私たちへの愛を貫いてくださいました。そして、今も私たちのところに来ていてくださいます。黙示録3章20節に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。心の扉を開けてイエス様を迎え入れましょう。では、イエス様に呼ばれたザアカイはどうしましたか。6節をご一緒に読んでみましょう。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」ザアカイは急いで降りてきました。大喜びでイエス様を迎えました。ほんとうに素晴らしい光景です。ザアカイにとって忘れられない瞬間でした。ザアカイは踊りながら自分の家に案内したことでしょう。ところが、それを見ている人々の反応はどうでしたか。7節をご覧ください。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」とあります。彼らはイエス様を非難し、つぶやきました。それはイエス様に対する関心よりも、イエス様が罪人のザアカイのところに行くことに関心がありました。このように、私たちもイエス様に対する関心よりも罪人に関心があるとつぶやきます。教会に来てもイエス様よりも人のことばかり考えるとつぶやくようになります。たとえば、皆さんが罪人の私を見ると、讃美歌もまともに歌えないくせに牧師なのか…、発音もよくないくせに説教なんて…とつぶやくようになるでしょう。私だけではなく、他の人に対してもそうでしょう。しかし、ザアカイはつぶやく彼らの言葉を気にしませんでした。イエス様だけに関心を持ち、イエス様に喜ばれることを考えました。8節をご覧ください。「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とあります。彼はイエス様の御前で自分がどうするべきか、自分の決断を告白しています。ほんとうに、素晴らしい光景です。ザアカイは自分の財産の半分も貧しい人たちに施すと決断しました。取税人の先輩レビは自分の財産をどうしたのかを調べたり、彼と比較したりしませんでした。彼は神様の御前でものごとを考えて「だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」と言っているのです。大変なことが起こっています。『大変』と言うのは大きく変わると書きますが、その通りにザアカイは大きく変えられたのです。彼は今まで自分中心に生きてきました。当時、イスラエルの国を統治していたローマ帝国のために税を取り立てるという仕事をしていたのです。無理に税金を取り立てる人生でした。ところが、これからは自分の財産を施す人生に変わったのです。しかも、イエス様から言われたからそうしようと言い出したのではありません。自ら進んで人々に施し、与える人に変わったのです。そうです。ほんとうに、イエス様に出会い、イエス様を迎え入れるなら、その人はザアカイのように変わります。価値観が変わります。人に施すことができる幸せな人生に変わるのです。そこで、イエス様は彼に何と言われましたか。9、10節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエス様はザアカイの告白を聞いて彼の救いを感心しました。そして彼の家に救いを宣言なさいました。そして、アブラハムの子としての名誉と祝福を回復させてくださいました。ザアカイはもはや孤独な人生ではなく、アブラハムの子として生きることができます。隣人と愛し合いながら、仲よく平和に生きられるのです。12月になり、クリスマスが近づいて来ています。世界中の人々がイエス・キリストのご降誕を祝います。世界中の人たちがなぜ、それほど喜び、祝っているでしょうか。それは、荒野で羊の番をしながら野宿していた羊飼いたちに、天使が語った言葉がその事を伝えています。「「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」, ルカ2, 。と。ザアカイはイエス様を迎え入れることによって素晴らしい喜びをいただいたのです。その生き方を変えようとするまでの力も一緒にいただきました。私たちも純粋にイエス様を迎え入れる時に、ザアカイに起こったことを体験することができます。大喜びと救いをいただきます。今年のクリスマスにも、ザアカイのように寂しく孤独に生きている人々がイエス様を受け入れて救われますように祈ります。では救われた人はどのような姿勢で生きるべきでしょうか。イエス様はたとえを通して救われた人々がどのように生きるべきかという方向を示してくださいました。11節をご一緒に読んでみましょう。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」イエス様は人々がザアカイのことに耳を傾けているときに一つのたとえを話されました。12、13節を読んでみましょう。「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』とあります。ここで、「身分の高い人、主人」は、イエス様ご自身のことです。主人はひとりひとりに1ミナを与えられました。一ミナは今の日本では約100万円くらいです。主人は「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と命じられました。この一ミナに対する解釈がいろいろありますが、福音であると言えます。イエス様は救われた人々が福音で商売することを教えておられるのです。イエス・キリストによって救われたクリスチャンには皆同じく、平等に与えられている一ミナがあります。イエス・キリストによって救われたという福音です。それはザアカイにも、私たちにも与えられています。イエス様は私たちに「わたしが帰るまでこれで商売しなさい。」と命じておられます。そして、福音には、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力があります(ローマ1, 16)。この福音は利己的な取税人のかしらザアカイを隣人に施す人として新しく生まれさせました。ですから、私達がこの福音を預けてくださった神様を信じてよく商売するなら、多くのいのちの実を結ぶことができます。そういうわけで、イエス様はそのしもべたちに言われました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。14節をご覧ください。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」とあります。ここで見ると、商売する環境は良くなかったことが分かります。1ミナを預けた主人を認めず、憎んでいる環境で主人から預かった1ミナで商売することは難しいでしょう。では、決算の時にどうなりましたか。15節をご覧ください。「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」とあります。主人は人々の反対にも関わらず、身分の高い人は王位を受けて帰って来ました。時になると、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られます(マルコ13, 26)。その日は人生の決算を求める日です。私たちは自分の行ないに応じて神様の前で人生の決算をしなければなりません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9, 27)。それでは、しもべたちの商売の決算はどうでしたか。16節をご覧ください。「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』」最初の者はよく商売して10倍の利益を残しました。商売できない環境の中でも10倍の利益です。彼は人々が主人を憎んでいたにもかかわらず、主人を全く信頼して商売したでしょう。彼に対する主人の評価がどうですか。17節をご一緒に読んでみましょう。「主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」主人は彼を称賛し、十の町を支配するように言われました。一人が10の町を支配する権威が与えられたのです。英語では10Citiesになっています。東京都の多摩地域には西東京市、八王子市などの26市があります。そのうち10の市を治める「権威」が神様から授与されるのです。それほどその人の影響力が大きくなることでしょう。この教会におられる皆さんで東京都のほとんどの地域までに影響を及ぼすことができます。小さな事に忠実であれば神様からそういう権威が与えられて影響を及ぼすようになるのです。実際にパウロ宣教師はビジネスをしていますが、小さな事に忠実にやって行くと、それが10倍に繁栄します。神様が権威を与えてくださると、都市全体に神の国が来るのを見るのです。それでは、18、19節をご覧ください。二番目の者が来て言いました。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言いました。「あなたも五つの町を治めなさい。」二番目の者に対して主人は最初の者と比較してもっと多くの利益を残せなかったことをお叱りになりませんでした。そのしもべが最善を尽くして努力したことを認め、賞賛しました。そして、彼の行ないに応じて五つの町を支配する報酬を与えました。しかし、商売しないでいる人はどうなりますか。20、21節をご覧ください。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」とあります。この言葉から見ると、このしもべには主人に対する信頼がありません。主人との信頼関係ができてなかったのです。神様に対する信頼がなければ、何をしても不安と恐れのために人生を投資することができません。結局怠け者になってしまいます。自分には能力がないからあれもこれもできないと言いますが、恐れているからです。遠慮しているようですが、実は能力のない者として、実力のない者として見られることを恐れていることでしょう。主人はそのしもべに「悪いしもべだ」と叱りました。そして、そばに立っていた者たちに「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」と言いました。26節をご覧ください。主人は結論的に言いました。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。」これがまさに福音の原則です。誰でも、主人から責任を与えられていることを自覚して忠実に働く者は、さらに多くの責任が与えられ、責任を持っていないと思っている者、すなわち、神様からのいのち、福音を軽んじている者は、持っているものまでも取り上げられてしまうのです。まとめますと、ザアカイのように、私たちはイエス様に出会って救われました。イエス・キリストは今も、私たちひとりひとりを捜しておられます。そして、私たちに出会おうとしているのです。私の名前を知っていて声をかけ、迎え入れられるのを待っているのです。そして迎え入れるなら、主は私たちを今の苦しみ、悩み、病、罪、孤独などから救ってくださいます。そして、自分を救ってくださった福音で商売するように導かれます。どうか、今日も私たちの所に来ておられるイエス様を迎え入れ、忠実に生きることができるように祈ります。