1997年バイブルアカデミー
幸いなことよ
御言葉:詩篇1:1―3
要 節:詩篇1:2
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
皆さん、この世で永遠のベストセラーと言われている本は何ですか。よくご存知のとおり、聖書、英語ではBibleです。聖書は二千年に渡って、多くの人々に読まれてきました。早稲田大学の創立者である大隈さんも大学を設立する前に、聖書を熱心に読んだそうです。戦後、日本の大学生たちも聖書を始め、多くの哲学の本を読んでいたそうです。皆さんがよくご存知のアメリカの大統領アブラハムリンカーンは「聖書は、神が人類に与えた最上の賜物である。」と言いました。この時間はこの「聖書を読む楽しみ」について一緒に考えたいと思います。
一緒に考える御言葉は詩篇1篇の御言葉です。詩篇の御言葉はダビデを始め、神様を愛する人々が神様を賛美した美しい詩であり、歌であり、上から教えてくれる教訓の言葉です。オーゴスチンは「詩篇はたましいのかがみだ」とも言いました。詩篇の御言葉は私たちの疲れたたましいを慰めて神様に向かって心の門を開かせ神様に導いてくれます。詩篇1篇は詩篇150篇の中で序曲に該当する御言葉です。詩篇の最初の言葉は「幸いなことよ」という言葉で始まります。即ち、人がまことに幸いで幸福な人生はどういう時であるかを教えてくれます。今日の御言葉を通して、私たちみなが幸いな人々となるようにお祈りします。
1節をご覧ください。「幸いなことよ。」この御言葉は原文を見ると「アシュレイハイシュ」その人はどんなに幸いであるか!という感嘆詞です。では、具体的に何が幸いなことですか。その定義はいろいろあると思いますが、詩篇1篇ではこう言います。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」この世の中には悪者のはかりごとに歩んでいて、罪人の道に立って、あざける者の座に着く人々が多いです。しかし、このような悪い道を歩まない人を聖書は幸いなことだと言います。なぜならば、その末路は滅びだからです。さらに聖書は言います。
2節をご覧ください。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」一緒に読んでみましょう。悪者の道に立たない人、その人が主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむことが幸いなことだと言います。ここで主の教えとは神様の御言葉、即ち聖書を言います。幸いな人は神様の御言葉を喜びとします。喜ぶということは「傾ける、渇望する、気に入る、好む」という意味があります。これは神様の御言葉を苦い薬を飲むようにむりやりに読むことではなく、興味をもって渇望する心で探し求める事を言います。人は喜びがあってこそ生きる存在です。人々に食べる喜びは非常に大きいです。ですからテレビ番組に料理や食べ物に関する番組が多いでしょう。また自分が好きな事を一生懸命する喜びも言葉で言えないほど大きなものでしょう。この頃は、スキー、ゴルプ、ボーリング、ある学生たちは競馬、或いは麻雀を喜びとし楽しみます。楽しくて自分の喜ぶ事は時間が過ぎることを知らずにやります。私はテレビが好きでテレビの前に時間が過ぎる事も知らずに座っている時が結構あります。またコンピュータの前に座る時も結構楽しみを感じていて時間が過ぎる事を知らずにやる時があります。
しかし、聖書は聖書を喜びとする人が幸いな人だと言います。聖書の御言葉を喜びとする人は神様の御言葉を世のどんなものよりも喜びとします。「昼も夜もそのおしえを口ずさみます」。ここで口ずさむという事は「続けて慎重に考え、口で暗唱すること」を意味します。ですから昼も夜もその教えを口ずさむということは一日中御言葉にとらえられて過ごすことです。囲碁に狂った人は食事する時さえも食器が囲碁の石のように見えるそうです。横になると天井が囲碁の板のように見えて、電車に乗ると人々の頭が黒い石のように見えるそうです。一日中囲碁にとらわれています。この中にはこういう人はいないでしょうか。何かに夢中になってやるということは素晴らしいことです。幸いな人は聖書の言葉にとらわれて生きます。御言葉がいつも彼の考えを支配して、彼の心を捉えて彼の生活を治めます。詩篇119篇の記者は御言葉を慕って夜明けからおきて主の御言葉を読んで、夜遅くまで目が衰えるほど黙想したと言いました。
それでは、なぜ聖書を喜びとし昼夜に口ずさむことがそれほど幸いなことでしょうか。
一番目に、聖書を読む事を楽しみとする人の結ぶ人生の実が素晴らしいものだからです。3節をご覧ください。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」イスラエルの地域は砂漠が多くて、渇きが酷いそうです。それで、荒い広野でやっといのちを維持する木が多いらしいです。しかし水路のそばに植わった木は何の心配がありません。灌漑施設がよく出来ている水路に植わった木とか、オアシスの周囲にある木は根を地の中に深くおろして、すくすく成長します。どんな状況の中でもその葉は枯れないで、茂ります。絶えず水分と栄養分を供給されるから生気があふれます。また、季節ごと豊かな実を結びます。水路のそばに植わった木は日ごろは目立ちません。しかし、ひどい飢饉に処して、全てのものが枯れた時は、その真価があらわれます。このように日ごろ神様の御言葉に深く根を下ろした人は普通の時にはその真価が目立ちません。しかし、人生の飢饉が迫ってきた時、揺れないで、その内面には海の底流のような静かな平和がともにします。このような人は常にその心の底に恵みと喜びと感謝の充満の人生を過ごすことができます。大変な時でさえ更に力が溢れて積極的に他の人を愛しながら生きる事が出来ます。そして内的外的に豊かな実を結んで神様に栄光を捧げて、周りの人々に喜びを与える人生を生きることが出来ます。
二番目に、その人の具体的に結ぶ実は次のようなものだから、聖書を喜びとする人は幸いです。詩篇19:7,8は言います。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」神様の御言葉は世の中で疲れ果てた私たちのたましいを生き返らせるように新しい力を与えます。また主の御言葉は愚かなものを賢くします。いくら頭が回らない人でも聖書を勉強すると賢明になります。神様の御言葉は人生の知恵を教えてくれます。聖書はこう言っています。「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」(箴言13:20)またテモテへの手紙では神様の御言葉の中に救いに至る知恵がある事を教えています(テモテ第二3:15-17)。この世のどんな本も私たちを救いに至らせません。しかし、神様の御言葉は私たちに、救いに至る道を明確に提示してくれます。さらに神様の人として完全にして、全ての善なることを行うのに完全にします。神様の御言葉は全人格的な救いをなして、私たちを段々神様の形に似て行くようにします。正しい人格と正しい価値観を確立することができます。
三番目に、その人は何をしても栄えるからです。これはどんな事でも無条件的に成功するということではありません。時には意味も知らないでいじめられたりしながら、苦難の道を歩む時があります。ところが、その人生を総合してみる時、神様は全てを働かせて益としてベストウェイに導いてくださることがわかるということです。なぜ、御言葉のとおり生きる人は何をしても栄えますか。それは神様が全ての事で栄えさせるからです。神様はご自分に依頼する人をほっとかないで、良い牧者となられ、青き牧場(マキバ)に導かれます。神様はその人生の責任を負って下さって、天の御国まで導いてくださいます。
聖書を喜びとし、聖書の御言葉を暗唱して、その御言葉を骨の中に刻む時、聖書に基づいた人生観、価値観、歴史観、世界観を形成して丈夫な人生の基礎を置くようになります。また、今日は映像の時代として見て感じる事は好みますが、考える事はいやがります。このため、思考力は退化して考える力がありません。しかし、御言葉を読んで、黙想する人々は考える力があります。また、御言葉を黙想して御言葉の中でまことの安らぎを得て、喜びを得、力を得ることができます。聖書の中には詩篇の御言葉のように、詩があり、三国志よりも面白くて教訓のあるサムエル記などの歴史書があり、感動と教訓のある手紙などがあります。私たちがどこから来て、どこに行くのか私たち人生の根本疑問の答えが書いてあって、救いの道、命の道、真理の道が書いてあります。人生の存在意味が書いてあります。本当に聖書は宝箱です。
以上から見ると、時代がいくら変わっても聖書を喜びとし、昼夜に口ずさむ人は幸いな人であることがわかります。ですから、私たちははっきりとした信念を持って聖書を喜びとし昼夜に口ずさむ必要があります。初めて一人で聖書を読むと難しいから途中でやめる人が多いです。また、読んでもその中にある深い意味を把握できず、読み終える場合が多いです。毎週1:1で聖書勉強をすると、聖書の深い世界に入って、多くの宝物を自分のものにする事が出来ます。聖書勉強を通して、皆幸いな人生を過ごすようにお祈りします。後で3人の人が聖書勉強をして、どんなに幸いな人となったか証しがありますが、それを通しても恵みを受けて皆聖書勉強を始めるようにお祈りします。それでは2節の御言葉をもう一度一緒に読ませていただきます。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」祈って終わります。