1998年ヨハネの福音書?部第5講

 

イエス様の大祭司の祈り

 

御言葉:ヨハネの福音書17:1ー26

要 節:ヨハネの福音書17:1b

「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、

子の栄光を現わしてください。」

 

 先週は東北大学開拓礼拝を捧げました。今日の東北センター初礼拝に参加するために東京から5人の方が朝早く出発しました。主がその礼拝を祝福してくださるように祈ります。今日の御言葉はイエス様の祈りです。これは三つの内容から成っています.第一は、ご自分のための祈り、第二は、十二弟子達のための祈り、第三は、さらに広く、あらゆる時代のあらゆる国のクリスチャン達のための祈りです。この祈りはその内容が非常に深く広くて大祭司の祈りだと言われます。ルターはこの祈りを指して「その鳴る音は単純であるがその深さと広さの豊かさは計り知れない。」と言いました。この時間イエス様の大祭司の祈りを学び、狭くて自己中心的な祈りから大祭司的な祈りをすることができるように祈ります。

 

?。子の栄光を現わしてください(1ー5)

 1節をご覧ください。イエス様はこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われました。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」イエス様は今まで弟子達に向かって言われましたがこれからは目を天に向けられました。祈りは心を神様に向かうところから始まります。「時が来ました」とはイエス様が神の小羊として世の罪のために十字架につけられ死なれる時が来たことを意味します。この時は神様が人間の堕落の直後から始められた人類の救いのみわざが完成される時を意味します。イエス様はこの時のためにこの世に来られました。しかしこの時は人間的に考えて見るとイエス様の生涯において一番苦しくて悲しい時です。間もなく自分が鞭に打たれ十字架につけられ死ぬと考えて見てください。たぶんそのような状況に処せられると誰でも「主よ。私を救ってください。」と叫ぶでしょう。しかし、イエス様はこのような時に何を祈っておられましたか。「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」イエス様はご自分の死を通して神様の栄光を現わされるように祈っておられます。当時十字架は苦しみと呪いと羞恥の象徴でした。イエス様は十字架につけられ死ぬことがどれほど苦しいことかをご存じでした。しかしイエス様は人類の救いのために神の小羊として十字架につけられ死なれることを決意されました。イエス様はご自分がどうなっても神様の栄光を現わそうとされました。イエス様は生涯を通して神様の栄光を現されたし、これからは十字架の死を通して神様の栄光を現わそうとされました。

 神様の栄光を現わすことが人生の根本目的です。人は自分の栄光のために生きる時に幸せになると思いますがそうではありません。そういう人はいつも思い煩いが伴います。しかし神様の栄光のために生きる人の心には真の喜びと平安と自由があります。神様は人間を神様の栄光を現わす存在として造られました。私達が、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにすることができるように祈ります。(?コリント10:31)。

 2節をご覧ください。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」この御言葉はなぜイエス様の栄光が現わされなければならないかを教えています。イエス様はご自分を信じるすべての人に永遠のいのちを与えるために栄光が現わされなければなりませんでした。永遠のいのちを与えるためには死の力に打ち勝つ力が必要です。神様はこのためにイエス様を死者の中からよみがえらせすべての人を支配する権威を与えてくださいました。イエス様はこの権威によって信じる人に永遠のいのちを与えてくださいます。ところで、永遠のいのちとはどういうものでしょうか。いつまでも生き続けることでしょうか。しかし何の意味もなく苦しみの中で永遠に生きることはどれほど惨めなことでしょうか。それでうちの学校のある年取った先生は、自分は死んで再び生まれるなら人間としては生まれたくないと言いました。しかし、聖書が教えている永遠のいのちとは、そんなものではありません。分かりやすく言えば、本当のいのちであり、また別の言葉で言えば、救いのことです。聖書では、いのちと言えば、神様の祝福を意味し、それと逆に、死と言えば、神様の呪いを意味します。この世において成功し、名誉を得ても、神様の祝福のないところにおいては、決して人は幸福になりませんし、生きがいも、生きる喜びもなく、むなしい人生を歩まなければならないでしょう。ですから、神様の祝福を頂いた人生は、本当にすばらしいものです。永遠のいのちを持った人の人生は輝かしい人生です。

 それでは、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。3節をご覧ください。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」この世界を造られた造り主の神は唯一のまことの神です。あとの神は、みなこのまことの神に似せて人間が造った偽りの神、つまり偶像です。神のかたちに似せて造られた人間は、神から離れた後、何かを神としないではいられず、偶像を造り、偶像を拝み、偶像を神としました。しかし、そんな人間が造ったものが、人間を救うことができるでしょうか。イエス様は、人間の姿をとって、この世に来られた神様です。ですからこのイエス・キリストが、どういう方で、どういうことをなさったかということを知れば、神様はどんな方で、どういうことをしてくださるのかということも分かるはずです。ですから、このイエス・キリストを知ることが、実はこの世界の造り主である唯一のまことの神を知る道なのです。主がここで「知る」と言われたことは、人格的に知るということで、「信じる」ということと同じです。御子イエス・キリストを信じ、この方によって唯一の父なる神様を信じる人には永遠のいのちが与えられます。

 それではどのようにしてイエス様は父の栄光を現わされましたか。4節をご覧ください。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」イエス様は、父なる神様に従い続けることによって、栄光を現されました。そのわざとは人類の救いのみわざと福音のみわざを後継ぐ弟子達を養うことでした。イエス様はこのために弟子達に神様の御言葉を教えられ、ついに人類の罪のために十字架につけられ死なれました。イエス様は十字架の上で「完了した。」と言われました。イエス様は神様から与えられた使命をすべて成し遂げて、地上で神様の栄光を現わされました。

 私達がどのようにして神様の栄光を現わすことが出来ますか。一日中賛美していたらいいでしょうか。毎日ボランティア活動をしなければならないでしょうか。毎週まじめに教会に通うことでしょうか。私達が神様の栄光を現わすためには神様から与えられた使命を忠実に行なわなければなりません。神様がこの世に私達を送って下さる時にはひとりひとりに神様のわざを行なうように使命を与えて下さいました。神様のわざは罪によって死んでいる人を生かすことです。私達はどんな状況の中でも神様のわざを行なわなければなりません。人生の決算の日にはいくら儲けたか、社会にどんな業績を残したかによって決算するのではなくどれほど神様のわざを行なったかによって決算します。その時私達は世の仕事がとても忙しくて神様のわざを行なう時間がなかったと弁解することができません。私達はどんな状況の中でも神の国とその義とをまず第一に求めなければなりません(マタイ6:33)。

 5節でイエス様は世界が存在する前に、神様と一緒にいて持っていた栄光で輝かせて下さるように祈っておられます。イエス様は万物を創造し、人々から栄光と誉れと賛美を受けるにふさわしい方です。しかし人間の罪をその身に背負うためにこの世に来られ、罪人に仕えるために多くの苦難を受けられました。しかし、今イエス様は使命を果たされた後にその本来の栄光に入ろうとされます。イエス様は多くの苦難を通して栄光を得ようとされます。イエス様はこの栄光を仰ぎ見ながら喜んで十字架を負われました。

 

?。真理によって彼らを聖め別ってください(6ー19)

 第一に、イエス様は弟子達に聖書を教えられました(6ー8)。6ー8節はイエス様がどのようにして弟子達を養われたかを神様に報告する内容です。6a節をご覧ください。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」イエス様は弟子達に神様の御名を明らかにされました。弟子達は神様を知っていませんでした。彼らは神様を知らなかったので自分の願う通りに肉の欲と罪の欲に従って生きていました。イエス様はこのような彼らに神様の御名を明らかにしました。彼らに聖なる神様、全能の神様、愛と哀れみ深い神様について教えてくださいました。すると、彼らは神様を恐れ敬う信仰の人々になりました。彼らが神様を正しく知るようになった時彼らは新しくなりました。

 今日私達がするべきことも人々に神様の御名を明らかにすることです。この国には多くの神々があります。大魔神と言われる佐々木選手を祭る神社ができたほどです。それで私達が神様に対して言うと人々は多くの神々の中の一つとして考えます。このような人々に私達はまことの神様の御名を明らかにしなければなりません。私達が信じている神様は一般的に人々が信じている多くの神々の中で一つのように考えるような方ではありません。私達が信じている神様は唯一の救い主です。聖なる方であり公義を行なう方です。恵みと慈しみ深い方です。何よりも罪人のためにひとり子をこの世にお与えになるほど愛してくださった愛の神様です。私達は聖書の勉強を通して人々の心にあるすべての虚しい偶像を取り除き、真の神様の御名を明らかにしなければなりません。

 イエス様は弟子達に神様の御名を明らかにするために神様の御言葉を教えられました。イエス様は弟子達に時がよくても悪くても絶えず神様の御言葉を教えられました。家の中でも道を歩きながらも山や海辺でも食事をする時にも御言葉を教えて下さいました。それを通して彼らの霊的な目は開かれ、イエス様が神様が遣わされたキリストであることを信じるようになりました。この国が生きる道は私達が聖書をこの国の人々に教えることです。聖書を教える時個人個人が生かされます。また国が生かされます。私達がイエス様のようにキャンパスの人々に聖書を教える時この国が祭司の国として生まれ変わるようになります。

 第二に、イエス様は弟子達を皇太子のように尊く思われました(9、10)。主は、ご自分のためにまず祈られ、それに続いて、十一弟子のために祈っておられます。9節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者達のためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。」「彼らはあなたのものだからです。」この御言葉を通して私達はイエス様が弟子達をどれほど尊く思われたかがわかります。イエス様は弟子達を神様が下さった神様の所有として考え彼らを尊く思われました。聖書を読んで見ると弟子達は愛されるような者達ではありませんでした。彼らのほとんどは生臭い漁師出身が多くその中には悪名高い取税人出身もいました。彼らはイスラエル人からも蔑視されているガリラヤ出身でした。しかしイエス様は彼らを無視されませんでした。彼らは霊的な世界を悟ることが鈍かったのですが「このばか者!」と責められませんでした。イエス様は彼らを神様が下さった人々として考え、ひとりひとりを皇太子のように尊く思われました。彼らはイエス様の目には宝物でした。イエス様はこのように彼らを尊く思い、愛と柔和、謙遜によって仕えてくださいました。弟子達はイエス様にとって栄光であり、喜びであり、希望であり、冠でした。イエス様はご自身の誇りであり栄光である弟子達のために祈られました。

 主は私達のために祈っておられます。私達はすぐに躓いたり、主の御心を傷つけてしまう弱い者ですが、主はそれでも私たちを誇り、栄光と思ってくださるのです。

 第三に、イエス様は弟子達が一つになるように祈られました(11)。11節をご覧ください。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」イエス様は弟子達が一つとなるように祈られました。サタンのしわざは人々の心に疑いと不信、恐れを植え付け分裂させ、争うようにすることです。サタンはクリスチャン達が小さなことで互いに憎み、争う時拍手をしながら喜ぶでしょう。イエス様は弟子達が互いに愛し合いなさいという戒めに従い一つとなるように祈られました。イエス様は弟子達が一つとなって世界の人々に福音を伝えることを願われました。

 第四に、イエス様は弟子達が悪に陥らないように保護して下さるように祈られました(12ー16)。12節をご覧ください。「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」イエス様は弟子達がこの世の悪の影響を受けないように絶えず御言葉を教えられました。それによって彼らを保ち、また守られました。ただ滅びの子であるイスカリオテ・ユダだけが離れて行きました。それは、聖書が成就するためでした。イエス様は神様のみもとに行かれるのでこれ以上弟子達を助けることができません。イエス様は悪の勢力が強いことを知っておられたので全能の神様の御名によって彼らを悪の勢力から守ってくださるように祈られました。イエス様は弟子達が世にあっては患難がありますがこの世から逃げることを願われませんでした。イエス様は弟子達をこの世に遣わし世の罪に立ち向かって戦うイエス・キリストの立派な兵士として立てられました(18)。

 第五に、弟子達を真理によって聖め別ってくださるように祈られました。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」「聖め別つ」とは世と区別された聖なる生活をすることです。弟子達はこの世と区別された聖なる生活をしなければなりません。なぜなら私達を召された神様は聖なる方だからです。神様の民はお金より神様をもっと愛するべきです。神様の民はこの世と調子を合わせて罪の欲に従ってはならず神様の御言葉に従うべきです。それでは私達がどうやって聖なる生活ができるでしょうか。堅く覚悟すれば聖なる生活を送ることができるでしょうか。私達はいくら自分が堅く覚悟しても世の罪に汚れた自分を見つけるだけです。私達が聖なる生活をするためにはただ真理の御言葉に従うのみ可能です。詩119:9節はつぎのように言います。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」神様の御言葉がない時、聖なる生活をする基準がないので罪の欲に従うしかありません。神様の御言葉に従わない時、罪とサタンの奴隷になるしかありません。ある人はサタンが植え付ける憎しみ、不信、高ぶりに支配されています。ある人は淫乱ビデオを見て情欲の奴隷になっています。彼らの問題はその心に神様の御言葉が力強く働かず罪の勢力が支配しているからです。このような人は神様を見ることができず神様の怒りが下るのです(コロサイ3:6)。私達は神様の御言葉に従いながら罪の勢力と戦わなければなりません。私達が神様の御言葉に従って聖なる生活をする時心の中に神の国が臨まれます。また聖なる生活をする時、罪の勢力と戦う力と神様のみわざを成し遂げる力が与えられます。私達が神様の御言葉に従うべき理由がここにあります。神様の御言葉は汚れた魂をきよくします。また世の価値観を変化させ私達を霊的な人にならせます。聖なる生活は神様の民として持つべき姿勢です。

 

?。彼らがみな一つとなるためです(20ー26)

 

 イエス様はこれから弟子達の福音伝播を通して信じるようになるすべてのクリスチャンのために祈っておられます。それでは、主は何を祈っておられるのでしょうか。

 第一に、すべての信じる者達が一つになることです。21節をご覧ください。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」信じる人々がイエス様の中で一つになる時、主の御名があがめられます。また信じる人々が一つになる時、世の人々が神様の愛を知るようになります(23)。その時私達はイエス様の証人になることができます。しかしイエス様を信じる人々が一つにならず争うと世の人々から非難されるようになります。それは神様の栄光を遮ることであり、神様を悲しませることです。争いと分裂があるところに聖霊は働くことができずサタンが働くようになります。私達がイエス様の中で一つになれない理由がありません。なぜなら主は一つ、イエス・キリストは一つ、聖霊も一つ、信仰も一つ、望みも一つ、使命も一つだからです(エペソ4:4ー6)。

 第二に、イエス様はすべての信じる人々がイエス様の栄光を見ることを願われます。24節をご覧ください。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」イエス様はすべての信じる人々がこの世の巡礼の道のりを終えて神様の国でイエス様とともにその栄光にあずかることを願われます。私達がこの世でイエス様と苦しみをともにする時、将来主の栄光の中に入るようになります。イエス様は神様の愛が信じる人々の中にあるように願われます(26)。

 以上から私達はイエス様の大祭司の祈りについて学びました。主が私達をイエス様のようにこの国の人々と世界の人々のために祈る人として育てて下さるように祈ります。