1998年ヨハネの福音書?部5講

 

イエス様の最初のしるし

 

御言葉:ヨハネの福音書2:1ー11          

要 節:ヨハネの福音書2:11

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、

ご自分の栄光を現された。それで、弟子達はイエスを信じた。」

 

 今日の本文には、葡萄酒がなくなるという事件を、栄光を現す場に変えられるイエス様が示されています。この事件はイエス様がこの世に来られた主な目的が人々を祝福するためであることを現しています。またイエス様は人々を新しく生まれさせることができる能力者であることを現します。本文を通して私達が根本的に変えられた人生を送ることができる秘訣を学ぶことができるように祈ります。

 

?。水を葡萄酒に変えたイエス様(1ー11)

 

 第一に、イエス様の時(1ー4)

 1節をご覧下さい。イエス様がピリポとナタナエルを弟子として呼ばれてから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこにイエス様の母マリヤがいました。またイエス様も、弟子達と一緒にその婚礼に招かれていました。婚礼はどこの国でも人生において一番祝福の時です。ユダヤ人たちにとっても婚礼は人生の中で一番祝福の日でした。婚礼の宴会は伝統的に水曜日から始まって普通1週間も続きました。婚礼は宴会が始まってから一日目の夜遅く行われました。婚礼が終わると花婿と花嫁は新婚の家に行きました。花婿と花嫁の友達は彼らのために愛の歌を歌い、踊り、祝福の詩を朗読しました。花婿と花嫁は今日のように結婚式が終わるとすぐ新婚旅行に行かず、一週間家に泊まりました。その間彼らは花の冠をかぶり、宝石で飾った華やかな服を着て王や王妃のようなもてなしを受けました。この間には断食のような義務も免除されました。婚礼は喜びと楽しい日でした。

 ところがこの祝福の宴会に深刻な問題が起こりました。3節をご覧下さい。葡萄酒がなくなったのです。宴会場の葡萄酒は人の心を喜ばせるもので、なくてはならないものでした。葡萄酒がなくなったので喜びもなくなり、花婿と花嫁は恥じをうけるところでした。

その時イエス様の母マリヤがその問題に気づきました。そしてその問題をイエス様に向かって言いました。「葡萄酒がありません。」マリヤはイエス様に「葡萄酒がないので助けてください。」と祈りました。すると、イエス様は母に言われました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(4)。「わたしの時はまだ来ていません。」と言われたのはイエス様が人々の要求に従って働かれるのではなく神様のタイムスケジュールに従って働かれることを現します。                                 

「わたしの時」とは神様の御子としての栄光を現わすことができる時を意味します。ヨハネの福音書で「時」は重要な概念を表し、著者は何回も繰り返して言っています(7:6、8、30、8:20、12:4、23、27、13:1、17:1)。この「時」は十字架に向かって進み、イエス様が人類の救いの御業のために十字架につけられ死なれることによってクライマックスに達します。イエス様は常に神様の時を意識しながら働かれました。それはイエス様がご自分に置かれてある神様のみこころに従って生きておられたからです。  

 人々は自分の人生は自分のものだと思い、自分が願う時に自分がしたいことをすることを願います。しかしそのように生きる時、人生は不安と恐れがあります。神様の時に従って生きることが一番安全であり、最善の道です。神様は私達ひとりひとりに対してタイムスケジュールを持っておられます。ですから私達は自分に置かれた神様のタイムスケジュールに従っていきるべです。

 第二に、マリヤの祈り(3ー5)

 イエス様が「わたしの時」について言われながら冷たいことばのように感じられる答えをされた時マリヤは失望しがちでした。自分の要求を断ったイエス様に対して不信感を持ちやすいでした。しかしマリヤは神様を信じて自分ができる最善を尽くしました。私達はマリヤから祈りの段階について学ぶことができます。

 祈りの最初の段階:マリヤは問題が生じた時、それをイエス様のところに持って行きました。人々は宴会を楽しむことだけに関心があって葡萄酒がなくなっても気づきませんでした。しかしマリヤには主人意識があって葡萄酒がなくなったことに気がつきました。また問題が発生した時、自分のことのように思って積極的にその問題を解決しようとしました。マリヤは準備が足りない主人を判断したりつぶやいたりしませんでした。彼女は問題をイエス様によって解決しようとしました。それはイエス様が問題の解決ができることを信じたからです。問題がある時、イエス様のところに持って行くことが祈りの最初の段階です。私達は問題が発生すると誰のせいだと言いながら互いに非難しがちです。たとえば葡萄酒がなくなった時招かれた人々は主人が少なく準備したからだと非難します。反面主人はお客達が飲み過ぎたからだとつぶやきます。しかしそのようにすると問題の解決には何の役にも立ちません。私達は問題が発生した時、主に持って行って祈らなければなりません。私達は時々問題が生じると祈るより心配する時があります。しかし、心配するからと言って問題は解決されません。聖書は次のように勧めています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(?ペテロ5:7)。また自分の努力で何とか解決しようとすることもあります。そのような人は神様に祈りません。私達は問題を主に持って行って謙遜に助けを求めなければなりません。その時主はみこころに従って問題を解決して下さいます。

 祈りの二番目の段階:マリヤはイエス様の時を待ちました。イエス様は母マリヤの求めを拒否しました。イエス様は非常に冷たい方のように思われますが、実はもっとすばらしいことを計画しておられたのです。イエス様は人々の要求に従って働かれるのではなく神様の時に従って働かれます。「わたしの時」とは神様の御子として栄光を現わす時を意味します。神様の時に従って生きることが一番安全であり、最善の道です。マリヤはイエス様が断るようなことを言われた時失望しがちでした。しかしマリヤはイエス様を全面的に信頼しました。そしてイエス様が時になると働かれることを信じてすべてのことをイエス様に委ねました。そして黙って待っていました。詩篇31:14、15節で著者は次のように歌いました。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」私の時は、御手の中にあります。」私達が祈った後、神様がその祈りに答えて下さったことを信じて神様の時を待つことが祈りの二番目の段階です。

 祈りの三番目の段階:マリヤはイエス様が働かれるように環境を作りました。5節をご覧下さい。マリヤは手伝いの人達に言いました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」マリヤは最善を尽くして自分にできることをしてイエス様が働かれる環境を作りました。マリヤは手伝いの人達がイエス様が言われることが理解できなくても絶対的に従うように助けました。なぜなら主は御言葉に絶対的に従う人々を通して働かれることを知っていたからです。神様は従順の人を尊く用いられます。神様はいくら頭がよくて才能が多くあっても御言葉に聞き従わない人々は用いられません。神様は足りなくても御言葉に聞き従う人を用いられます。マリヤが手伝いの人達に主の言葉に従うように助けることができたのはマリヤ自身が従順の女性だったからです(ルカ1:38)。

 第三に、手伝い達の美しい従順(6ー10)

 イエス様は時になるとマリヤの祈りを聞かれ働かれました。6節をご覧下さい。さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水瓶が六つ置いてありました。きよめのしきたりというのは外出して帰った時には、手足を洗うことです(マルコ7:3、4)。7a節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「水瓶に水を満たしなさい。」今必要なものは葡萄酒ですから水瓶に水を満たすことは役に立たないことのように思われます。また宴会の手伝い達はとても忙しいのです。ですからイエス様のことばを聞いても、いま忙しいから水なんか汲んでおれないと思いやすいです。当時には今日のように水道の蛇口だけを回すとすぐ水が出るのではありません。遠くまで行って深い井戸から水を汲むのは大変な仕事です。そのような時にどうでもいいことをさせられると反発しない人はいないでしょう。しかし手伝いの人達はどのようにしましたか。彼らは水瓶を縁までいっぱいにしました。彼らは一言もつぶやかずイエス様の言われたとおりに聞き従いました。しぶしぶするのではなく喜びながら従いました。彼らはイエス様の御言葉に90%聞き従ったのではなく100%いや120%聞き従いました。彼らはイエス様の言われることばが理解できなくても聞き従いました。それもいやいやしながら聞き従ったのではなく自ら進んで聞き従いました。彼らは理解できるまでバケツの上に座って考えていませんでした。彼らには状況と条件と常識を乗り越える従順の姿勢がありました。このような従順を主は喜ばれます。

イエス様はまた手伝いの人達にどれだけ聞き従いにくい命令をされましたか。8節をご覧下さい。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」この御言葉は最初の命令よりも聞き従いづらいことでした。手伝いの人々は自分たちが汲んで来たものが水であったことをはっきりと知っていたのに、それを宴会の世話役のところに持って行くように言われたのです。手足を洗う水を宴会の世話役のところに持って行くとばかにされ怒られるでしょう。しかし彼らは今度も絶対的に聞き従いました。結局彼らの従順を通してどんな驚くべき御業が起こりましたか。彼らの従順を通して水が葡萄酒に変わる奇跡が起こりました。H2OがC2H5OHに変わりました。これは理論的に説明することができません。葡萄酒になるためにはまずぶどうがなければならないし、いい葡萄酒になるまでは長い時間がかかります。ところが水がすぐ葡萄酒に、それも上等の葡萄酒になったのは奇跡です。それもただの葡萄酒ではなくこの世では生産していない天国産の葡萄酒になりました。

 従順は不可能を可能にする奇跡を産みました。ルカの福音書5章を見るとシモン・ペテロが夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。その時、イエス様は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。彼がこの御言葉に従うことは難しいことでした。しかし彼は答えて言いました。「先生。私達は、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」彼がそのとおりにすると、網が破れそうになるほど魚が取れました。またイエス様は足りない弟子達に「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と世界宣教の使命を与えて下さいました。弟子達は足りなくてもこの世界宣教の命令に従った時人類の歴史の流れを変える偉大な神様のみわざに用いれました。

 従順の問題は初めから深刻な問題でした。ローマ5:19節は次のように言います。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」アダムの不従順によって罪がこの世に入り、イエス・キリストの従順によっていのちが生かされるようになりました。イエス様の一生は一言で従順の一生でした。イエス様は神様の御子ですがご自分を低くし十字架に死なれるほど神様の御旨に従われました。イエス様の十字架は従順の十字架です。従順は自然にできるのではありません。従順は学ばなければなりません。ヘブル5:8節は言います。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、」私達が霊的な世界を知り、神様に用いられるためには必ず従順を学ばなければなりません。

 9、10節をご覧下さい。宴会の世話役は葡萄酒になったその水を味わってみました。そして花婿に言いました。「だれでも初めによい葡萄酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良い葡萄酒をよくも今まで取っておきました。」しかし彼は新しい葡萄酒がどこから来たのか、知りませんでした。彼の喜びは葡萄酒を飲む時だけの一時的なものでした。しかし、水をくんだ手伝いの者達は知っていました。手伝い達は従順を通して霊的な奥義を悟り、霊的な目が開かれました。宴会の世話役は水を飲んだとすれば手伝いの人達は水が出る泉を発見したのです。彼らは変化の力の源であるイエス様を知るようになりました。それでいつでもこのイエス様のところに出て行き、恵みを受けることができるようになりました。彼らは祝福の源であるイエス様に出会い、これから祝福の人生を送るようになりました。 

 第四、最初のしるしの意味(11)

 11節をご覧下さい。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現された。それで、弟子達はイエスを信じた。」最初のしるしはメシヤの働きの性格をよく現します。まずイエス様は人々を祝福するために来られました。イエス様は私達を苦しめるためにこの世に来られたのではありません。人々は罪と死の勢力によって苦しんでいます。人々は人生の虚しさや罪意識、死の恐れによってさいなまれています。この世は葡萄酒がなくなった宴会場のように喜びがありません。イエス様はこのようなすべての人々に真の喜びを与えて下さいます。クリスチャンは婚礼に招かれて喜ぶ人々のようです。

 次にイエス様は水を葡萄酒に変えることができる能力者です。水が葡萄酒に変わったのは物理的な変化ではなく化学的な変化で本質的な変化です。水は味も色も香りもありません。しかし、葡萄酒はいい味もきれいな色もいい香りもあります。イエス様は水のような人生を葡萄酒のような人生に変えることが出来る方です。ヒンズ教で聖者と呼ばれるある人は毎日立っていて何も話さない荒行を受けています。ある人は手をあげている荒行を受けています。人々は変化のためにこのように荒行を受けています。荒行だけではなく本を通してあるいはよい行いを通して変化を求めます。それではこのようにしてほんとうに人は新しく変えられるのでしょうか。使徒パウロは?コリント5:17節で言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」イエス様のみ人を根本的に変化させることができます。弟子達は最初のしるしを通してイエス様が、この世界の造り主であるということを知り、それだけではなく、今までの律法や儀式によっては決して与えられなかった自由と喜びを与えてくださる方であるということを知ったはずです。

イエス様は水を葡萄酒に変えるしるしを行い、ご自分の栄光を現されました。それは神様の御子としての栄光でした。弟子達はこのイエス様こそ神様の御子キリストであることを信じました。

キリスト教は祝福の宗教です。喜びの宗教です。変化の宗教です。神様は私達が変化の能力者であるイエス様に出会い、祝福の人生、喜びの人生、葡萄酒のような人生となることを願われます。ところが、キリスト教は理論の宗教ではありません。私達が神様が生きておられることを研究室の実験で知ることができますか。聖霊の働きを理論的にわかりますか。私達が神様に祝福された人生を送るためには聖書の御言葉を学び、それに聞き従わなければなりません。聞き従って見ると奇跡を体験できます。私達が水のような人生から葡萄酒のような人生に変わります。神様が私達を信仰の人であり、祈りの人であり、従順の人として変化させてくださるように祈ります。