1998年コリント人への手紙第二 第2講

 

私達はキリストのかおり

 

御言葉:コリント人への手紙第二2:1?17

要 節:コリント人への手紙第二2:15

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、

神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」

 

今日の御言葉はクリスチャンの影響力に関する御言葉です。私達がどうすれば良い影響力を及ぼすクリスチャンになれるでしょうか。今日の御言葉を通してその秘訣を学ぶことができるように祈ります。

 

?。あふれるばかりの愛(1?11)

 

 第一に、涙の人、パウロ(1?4)。1節をご覧下さい。「そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。」使徒パウロがコリント教会を開拓して離れている間にコリント教会は分裂して党派に分かれ、パウロの権威を認めない人達がいました。そのためにパウロは急いでコリント教会を訪問しましたが、事態は改善されるどころかますます悪化し、さすがのパウロも、悲しみを残して帰って来ました。それでパウロは彼らを悲しませることになるような訪問は二度と繰り返すまいと決心しました。そのような状況では、たとえ訪問しても、パウロもコリント人もお互いに悲しい思いをさせられるばかりだったからです。

 2節は罪を犯した人に対して悔い改めを促す御言葉です。「もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。」パウロは相手に苦痛を与えるために叱ったことはありませんでした。彼はつねに、喜びを回復するために叱ったのです。彼らが悔い改めると牧者であるパウロにとって喜びになります。それはコリント教会の聖徒達の喜びにもなることを確信しました。彼は羊とともに悲しみ、ともに喜ぶ良い牧者でした。

 4節にはコリントの聖徒達に向けられたパウロの愛の深さがよく表れています。「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。」

 ここで私達はパウロが涙の人であることがわかります。涙にはいろいろな種類があります。悲しい時の涙、苦しい時の涙があります。また、喜びのあまり感激して流す涙もあります。悔しくて流す涙もあります。子供達は親に叱られて涙を流し、女性は涙を武器として使う時もあります。ところがこのような涙とは質の違う涙があります。私達がイエス・キリストの十字架の愛を悟ってその愛に感動して流す涙は尊いものです。また、神様の前で自分の罪を悔い改めながら流す涙も尊いものです。ダビデはウリヤの妻を犯してそれを隠すために忠臣ウリヤを激戦地に送って死なせる大きな罪を犯しました。神様は預言者ナタンを遣わして彼の罪を指摘し、叱らせました。その時彼は、「私はそんなことをした覚えがない」とうそをついたり、「王としてそんなこともあり得る」と弁明せず、神様の前で涙を流しながら自分の罪を悔い改めました。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」(詩篇51:1?3)。そして続けて「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)と告白しました。神様はこのようなダビデの悔い改めの涙を受け入れ、彼のすべての罪を赦してくださいました。

 悔い改めの涙とともに尊い涙があります。それは羊を助けながら流す牧者の涙です。私達は羊を助けながら心が痛くて涙を流す時があります。羊たちのために流す牧者の涙はとても尊い涙です。パウロはこのような尊い涙を流す牧者でした。使徒20:19節を見ると彼が3年間エペソを開拓しながらどんな牧者生活をしたかを証ししています。「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」彼の牧会哲学は謙遜と涙でした。彼は使徒20:31でこう言っています。「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」エペソで驚くべき福音のみわざが起こった裏には彼の謙遜と涙がありました。

 ところが、彼が最初から涙の牧者であったわけではありません。彼は元々高慢で残忍な人でした。彼はステパノを石で殺す時に先頭に立って指揮した人でした。このような彼がどのようにして涙の人となったのでしょうか。それは彼がよみがえられたイエス様に出会い、新しく生まれ、イエス様に見習う生活に励んだからです。彼が本来牧者の体質であったのではなく、心からイエス様に見習う生活に励んだからです。福音書を見ると、イエス様は涙の牧者でした。イエス様は羊飼いのいない羊のようにさ迷っている人々を深く哀れみ、御言葉を教えてくださいました。また、死の勢力に縛られて悲しんでいる人々を見て涙を流されました。また、メシヤに背いて将来裁きを受けるようになるエルサレムをご覧になって、その都のために涙を流されました(ルカ19:41)。十字架を前にしてゲツセマネで涙ながら祈られました。ヘブル人への手紙の著者はイエス様の生涯について次のように言いました。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)。今日は人間性を失い、涙が枯れた時代になりました。このような時代に私達に必要なのはイエス様の牧者の心です。私たちがイエス様の牧者の心を学び、この国の人々の救いのために涙を持って祈りましょう。キャンパスの兄弟姉妹達に謙遜と涙を持って仕えましょう。

 第二に、赦しの人、パウロ(5?11)。5?11節は赦しに関する御言葉です。コリント教会にはパウロを攻撃して彼の心を悲しませた人がいました。それはパウロだけではなく聖徒達全部を悲しませたことでした。6節を見ると、その人は、すでに多数の人から十分処罰を受けました。ところが、コリント教会の聖徒達の中には「こんなことではまだ足りない、もっときびしく、もっと重い刑罰を与えよ」という人達がいました。それでパウロは彼らに勧めました。7,8節をご覧下さい。「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。」パウロが懲罰を用いた目的はその人を打ち倒すためではなく、むしろ彼を助け起こすためでした。ですから罪を犯した人を悔い改めるように助けるべきですが、悔い改めた時には無条件赦してあげるべきです。そうしなければ、自虐してつまずくようになるからです。パウロは、その慈愛のゆえに、かつて自分の敵であった人を赦すように訴えているのです。私達が人から傷つけられ侮辱された場合、クリスチャンとしてどうすべきかについて、パウロはここで模範を示しています。「赦す」という言葉には「免除する」という意味があります。マタイ18章でイエス様はたとえで、私達が神様に一万タラントの借りがあると言われました。これは労働者17万年分の給料に相当する金額です。私達は生涯のすべての日にこの重い借金を負って苦しみ、絶望するしかありませんでした。しかし神様は私達を哀れみ、イエス・キリストの贖いによって、すべての借金を免除してくださいました。ところが兄弟が私に対して持っている借金は百デナリにすぎないものです。これは百日間の労賃に相当します。これは一万タラントに比べれば取るに足りないものです。ですから神様の赦しの愛を受けた私達は兄弟の罪を赦してあげるべきです。

 ここで私達は兄弟が罪を犯すと悔い改めるように助け、真実に悔い改めた時には必ず赦してあげなければならないことを学びます。これは言うのはやさしいが、実践するのは難しいです。罪を犯すと真理の御言葉に基づいて悔い改めるように助けるより人間的な情けに縛られて適当に妥協してしまいやすいです。また、悔い改めると口先では赦してあげると言うものの、心からは赦すことができず、罪に定める時もあります。しかし、私達は兄弟が罪を犯した時、悔い改めるように助けることも愛によって、悔い改めた時に赦すことも愛によってしなければなりません。ルターはこう言いました。「むちを加えない者はその子をだめにしてしまうーその通りだ。しかし、むちのそばにりんごを置いておくがいい。子供が良いことをしたらやるように。」

 11節をご覧下さい。「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」サタンの策略は互いに疑い、争い、分裂するようにすることです。反面、神様のみわざは互いに愛し合うこと、一つになることです。

 

?.キリストのかおり(12?17)

 

 12,13節をご覧下さい。パウロが、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は彼のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。テトスはパウロの福音の同労者としてパウロがコリント教会の問題を解決するために送りました。そしてトロアスで彼と会う予定でしたが、会えなかったので、心配していました。

 しかし、彼は根本的にはいつも勝利に対する感謝の心がありました。14節をご覧下さい。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」彼の二つの感謝題目は何ですか。

 第一に、いつでも、キリストによる勝利を与える神様に感謝しています。大部分の人々は敗北感と劣等感を持って生きています。世の中はピラミットのように上に上がれば上がるほど勝利の確率は少なくなります。そのために勝利する人はまれです。何よりも人を敗北させる決定的な要因があります。それは死です。いくら世の中で成功した人だとしても死の前では敗北するしかありません。人には根本的に世に打ち勝つ力がありません。

 しかし、キリストは罪と死の力を打ち破り、勝利されたので、キリストのうちにいる私達も勝利者となることができるのです。イエス様は弟子達に言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33b)。「わたしはすでに世に勝ったのです。」と誰が言えるでしょうか。これは死の力を打ち破り、よみがえられたイエス様だけが言える言葉です。そしてその方を信じる私達が言える言葉です。使徒ヨハネは次のように言いました。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(?ヨハネ5:4,5)。使徒パウロは1世紀に多くの教会を開拓しながら多くの苦難を受けました。しかし彼はいつも勝利に対する確信がありました。それは彼が勝利を与えるイエス様を信じていたからです。彼は次のように言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(?コリント15:55,57)。私達は自分の人生において失敗したかのように思われる時があります。しかし、神様は主イエス・キリストによって、私達に勝利を与えてくださいます。私達に勝利を与えてくださる神様に感謝します。

 第二に、至る所で私達を通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださる神様に感謝しています。世の中にはいろいろな知識が溢れています。その知識の中には人々に有益を与える知識がある反面、悪い影響を与える知識もあります。イエス・キリストを知る知識は人々に救いを与え、生ける望みを与え、永遠のいのちを与えます。

 私達はどうやって人々にキリストを知る知識のかおりを放つことができますか。第一に、私達は福音を宣べ伝えることを通して人々にキリストを知る知識のかおりを放つことができます。私達が時が良くても悪くても福音を宣べ伝えるべき理由がここにあります。第二に、主の御言葉に聞き従う生活を通してキリストを知る知識のかおりを放つことができます。いくら聖書に関する知識が多く、熱心に御言葉を教えているとしても教える人が御言葉に聞き従う生活をしなければその人の語ることはうるさいシンバルと同じです。人々は私達が言っていることより実際の生活を注目しています。口下手な人でもイエス様に見習い、献身的な生活、自分を犠牲にする生活に励む時、人々にキリストを知る知識のかおりを放つことができます。イエス様は神様の御子ですが、神様としての権利を主張せず、むしろしもべのように低くなって罪人達に仕えてくださいました。ついには私達の罪のために十字架にご自分を犠牲の供え物として捧げられました。イエス様の御言葉が私達にいつもいのちの御言葉となるのはそのためです。もし私達がイエス様を信じると言いながら世の人々と全く同じく自己中心的で、利己的な生活をするなら、人々にキリストを知る知識のかおりを放つどころか、臭いにおいを放つようになるでしょう。しかし私達がイエス様に見習い、献身的で、犠牲的に仕える生活に励むと、私達を通して人々はキリストを知る知識を得るようになります。ですからクリスチャンの影響力は大きいです。私達ひとりひとりが良い影響力を及ぼすクリスチャンになる時、早稲田大学が変わり、東京大学が変わります。さらに、この国が変わります。

 15,16節をご覧下さい。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」パウロは当時のローマの凱旋行列を考えています。戦いに勝ったローマの将軍に与えられる最高の栄誉は凱旋でした。当時戦争で勝った凱旋将軍は兵士達とともに捕虜を連れて人々の歓迎の中で入城します。その時、祭司達は神達、特に勝利の女神であるナイキ神に捧げる香を焚きました。戦争で勝ったのは神達が助けてくれたからだと思っていたからです。このような行列の終点はジュピター神殿でしたが、そこで捕虜の中でかしらを殺して凱旋の供え物として捧げました。ですから凱旋将軍と凱旋軍にとっては、その香炉から出る香のかおりは喜びと勝利と生命とのかおりでした。しかし、捕虜達にとっては、それは死のかおりでした。なぜなら、それは過去の敗北と来るべき処刑とを意味するものであったからです。

 そこでパウロは勝利のキリストの福音を宣べ伝えている自分と仲間のことを考えています。私達クリスチャンは救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。福音を受け入れる者にとっては、凱旋軍にとってそうであったように、それはいのちのかおりです。しかし、それを拒む者に対しては、捕虜達にとってそうであったように、それは死のかおりなのです。私達が福音を宣べ伝える時、信じる人には救いがあり、信じない人には神様のさばきがあります。これを考えて見ると、福音を宣べ伝える人々がどれほど大切な人々であるかがわかります。

 それでは私達がどうすればかぐわしいキリストのかおりになることができますか。

 第一に、神様の前に全幅的に献身する時です。神様は私達が100%捧げることを願われます。まるでイエス様に香油を注いだ女性のように自分を神様に捧げる時、かぐわしいキリストのかおりになることができます。

 第二に、真心から福音を語る時です。17節は私達がキリストのかおりとなるもう一つの秘訣を教えてくれます。「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」当時、多くの人々が純粋な動機から主の御言葉を教えず、自分の有益を得る手段として御言葉を教えました。彼らはまるで神様の御言葉を持って商売する人々のようでした。しかし、パウロは真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって福音を語りました。私達が純粋な動機を持って人々に福音を語る時、かぐわしいキリストのかおりになることができます。

 結論、私達はこの時代、キリストのかおりです。かおりは目には見えませんが、周りの人々に影響を及ぼします。私達は臭いにおいを放つことも、かぐわしいキリストのかおりを放つこともできます。それは自分自身にかかっています。私達がかぐわしいキリストのかおりを放つことによって、人々がキリストを知り、救われるように祈ります。また、罪によって臭いにおいがするこの時代を変えることができるように祈ります。