1999年ルカの福音書第4講

 

使徒養成

 

御言葉:ルカの福音書6:1?19

要 節:ルカの福音書6:13

「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、

彼らに使徒という名をつけられた。」

 

 弟子養成はイエス様のみわざの中で一番大切なみわざの中の一つです。弟子養成を通して神様のみわざは継承され、発展して行くからです。弟子養成は福音のみわざを一番効果的にまた、確実に成し遂げるための神様の知恵です。今日の御言葉にはイエス様が12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた動機と目的について書いてあります。神様はこの時代、私達をも使徒として任命され、育てておられます。御言葉を通して神様が私達に置かれた望みを悟り、イエス様の弟子として成長することができるように祈ります。

 

?.安息日の主であるイエス様(1-11)

 

 1-11節に出ている二つの出来事は二つとも安息日に起こった出来事です。1節をご覧下さい。 ある安息日に、イエス様が麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていました。すると、あるパリサイ人たちが言いました。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」「なぜ?するのですか。」これはパリサイ人達がよく使うことばです。彼らの辞書には理解や哀れみや愛という単語がありませんでした。律法の根本精神は愛です。神様は人に律法を与えられましたが、決して律法的な方ではありません。神様は飢えている人をよくご存知で、「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」(申23:25)と言われました。しかし、パリサイ人達は律法的でした。彼らは律法をよく守るために熱心な人々でした。ユダヤ教のラビ達は安息日を守るために1261条からなる複雑な細かい規定を作りました。パリサイ人達に言わせれば、弟子達が穂を摘むことは刈り入れを意味し、手でもみ出すことは脱穀を意味します。これらのことはみな安息日にしてはならないことでした。彼らは飢えている弟子たちを理解するより律法と形式にこだわっていました。それではイエス様はどうでしたか。

 3,4節をご覧下さい。イエス様はダビデの例を上げて、律法を文字通りに守ることより、律法の精神を守ることがもっと大切であることを教えてくださいました。?サムエル21:1-6節を見ると、ダビデがサウルから逃げていた時、ダビデは祭司アヒメレクのところに行って食べ物を求めました。その時、アヒメレクは祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを与えました。アヒメレクは律法的に考えず、ひもじかったダビデのことをよく理解して、規定をやぶって供えのパンを与えました。ダビデもそのパンを食べることによって規定を破りました。しかし、神様はダビデを罪に定められませんでした。ダビデが心から神様を恐れ敬い、愛していたので彼がひもじかった時にしたことを問題にされませんでした。

 イエス様がダビデをたとえに上げて弟子達を弁護してくださったのは、弟子達をダビデのように尊く思われたからです。イエス様は弟子達が過ちを犯した時、「なぜあなたがたはそんなことをしてわたしを困らせるのか」と咎められませんでした。イエス様は弟子達が根本的に悪くならない限り、彼らを責められず、彼らのすべての咎と過ちを担ってくださいました。イエス様は母親のように弟子達を懐に抱いて育ててくださいました。弟子達はこのイエス様に抱かれて安心して育ちました。

 5節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「人の子は、安息日の主です。」ここで「人の子」とはイエス様のことです。イエス様は安息日の主です。イエス様は安息日を定められた神様です。ですから、安息日に関するすべての規定を超越します。安息日はイエス様を愛し、礼拝する日です。

 6節をご覧下さい。別の安息日に、イエス様は会堂にはいって教えておられました。そこに右手のなえた人がいました。彼はなえた手をポケットの中に隠して会堂に座っていたでしょう。彼は右手がなえたために日常生活に不便なことがたくさんあったと思います。神様は人間を造られる時、効果的に働けるように両手を造られました。しかし、彼は右手がなえていたため効果的に働くことができませんでした。彼はコンピュータを打つこともピアノを引くこともバイオリンを引くことも非常に不便です。顔を洗う時もかなり不便です。喧嘩をする時も相手が二回殴ると彼は一回しか殴ることができません。就職試験は合格しても面接で落ちてしまいます。このような外面的な苦しみだけではありません。彼は右手がなえていたため内面的な苦しみも非常に大きかったと思います。彼の心は暗くて運命的になり、深い自意識と劣等感によって苦しんでいたでしょう。手がなえたことで彼の考えも心もなえていたでしょう。彼は自意識のため夏にも長袖の服を着て右手はいつもポケットの中に入れていたでしょう。彼は何度も「自分なんか生まれなかったほうが良かった」と思っていたでしょう。彼は右手のなえたことで運命主義者になり、自虐しながら悲しく孤独な人生を過ごしていました。彼は助けが必要な人であり、愛が必要な人でした。

 人々の中には右手のなえた人のように人生の問題を抱いて苦しむ人々が多くいます。歯がめちゃめちゃになっている人は話す時も口を塞ぎ、思い切って笑うこともできません。また、背が低いことで悩む人もいます。林ステパノ宣教師も背が低くていつも悩んでいたそうです。ある日バスケットボールをすると背が伸びると聞いてからは夜遅くまでバスケットボールをしました。それでも背が伸びないので今度はサッカーをしたり、鉄棒を掴んでずっとぶら下っていたり、食べると背が伸びると言われる食べ物を食べたりしたそうです。しかし、そうしてもあまり伸びなかったそうです。横山幹雄牧師は神様を知る前に自分は二重まぶたでないことでさいなまれていたと言いました。彼はそれがすてきな男性アラン・ドロンと惨めな自分を決定的に分け隔てている秘密だと思い、何とかして二重まぶたになりたいと思いました。それでばんそうこうを使って、寝る前にまぶたを二つ折りにしてぺたりと貼って寝ました。朝起きると、まぶたが真っ赤に晴れ上がっていたそうです。彼は神様を知るようになってから自分を見て、いい男だと思えるようになったと言いました。このような身体の条件だけではなく、性格の問題や家庭の問題で心がなえた人も多くいます。彼らは助けと愛が必要な人々です。

 右手のなえた人もそのような人生の問題を持って助けを求めて会堂でイエス様の御言葉を聞いていたでしょう。ところが、彼の牧者であるべきパリサイ人達や律法学者達は、彼のそのような問題には少しも関心がありませんでした。ただ彼を利用してイエス様を訴える口実を見つけるためにイエス様が安息日に彼を直すかどうか、じっと見ていました。

 イエス様は、このようなパリサイ人たちに対してどのように挑戦されましたか。8節をご覧下さい。イエス様は彼らの考えをよく知っておられました。ですから彼らとの衝突を避けて後で手のなえた人をひそかに直してあげることもできました。しかし、イエス様は手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われました。その人は、起き上がって、そこに立ちました。すると、イエス様は人々に言われました。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が自分の手を伸ばすためには自意識と羞恥心を克服しなければなりませんでした。人々に見せたくない自分の恥ずかしく思っているところを現わす痛みを克服しなければなりませんでした。また手を伸ばすことによってパリサイ人から憎まれて追放されるかも知れない恐れを克服しなければなりませんでした。しかし、彼はイエス様を信頼して信仰によって手を伸ばしました。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになりました。私達も人生の問題を解決してもらうためにはイエス様の御言葉に従って信仰の手、従順の手、祈りの手、悔い改めの手を伸ばさなければなりません。イエス様は私達が手を伸ばす時、咎めないで直してくださいます。そして、回復された手で助けが必要な人々に愛の手、仕えの手を伸ばさなければなりません。積極的に手を伸ばして使命を担う時に神様の恵みといのちが満ち溢れるようになります。私達がキャンパスの兄弟姉妹達に愛の手を伸ばし、彼らが1:1聖書勉強を通して自分のなえた手をイエス様に伸ばして癒されるように祈ります。

 11節をご覧下さい。イエス様が右手のなえた人を直されると律法学者、パリサイ人達はすっかり分別を失ってしまって、イエス様をどうしてやろうかと話し合いました(11)。その時代は宗教指導者達さえ堕落した絶望的な時代でした。その時代にイエス様は何をされましたか。

 

?.12使徒を立てられたイエス様(12-19)

 

 12節をご覧下さい。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」イエス様の時代は一言で絶望的でした。ヘロデのような政治指導者は淫乱で、不義を行ない、パリサイ人のような宗教指導者達は心がかたくなになっていました。ですから人々は羊飼いのいない羊のように哀れな状態でした。イエス様はこの問題を持って祈るために山に行き、神様に祈りながら夜を明かされました。

 祈られた後、イエス様は何をされましたか。13節をご覧下さい。「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」これは何を意味するでしょうか。

 第一に、イエス様は小人数の霊的な指導者を養う決心をされました。イエス様の時代には多くの問題がありました。イスラエルはローマの植民地になり、人々は自由が奪われ苦しんでいました。民は貧困や病に苦しみ、悪霊につかれて苦しんでいました。その時代の問題は政治問題のようであり、経済問題のようです。しかし、イエス様がご覧になると、その時代の問題は霊的な問題でした。特に宗教指導者達の堕落が一番深刻な問題でした。彼らは牧者としてその時代の問題を見分けて民を神様の御言葉を持って助けなければなりませんでした。また、真理の御言葉をまっすぐに説き明かし、人々が進むべき道を示さなければなりませんでした。しかし、彼らは塩気を失った塩のように何の役にも立ちませんでした。彼らは高慢と律法主義とねたみによって人々を傷つけました。イエス様はそのような彼らをご覧になり、何よりも霊的な指導者が必要であると思われたでしょう。それで12人を選び、彼らを民のよい牧者であり、その時代の霊的な指導者として養おうとされたのです。

 ところが、イエス様はなぜもっと多くの弟子達を選ばず、12人だけを選ばれたのでしょうか。12という数字はイスラエルの12部族を象徴しています。さらに、新しいイスラエルを象徴しています。すなわち、12という数字はあらゆる国の人々、全世界の人々を意味します。12人は少ない人数ですが、世界の歴史をひっくり返すのに十分な人数です。歴史はいつも多くの人々によらず、小人数によって変わります。イエス様は少数の弟子達を人類の救いのみわざを受け継ぐ偉大な神様のしもべであり、霊的な指導者として育てようとされました。イエス様はイスラエルの独立や政治改革や経済回復より人を育てることを決意されました。それは神様の知恵でした。

 地球上にはいろいろな問題が山ほどああります。飢饉の問題、戦争の問題、公害の問題、核問題、麻薬の問題、エイズの問題など解決しなければならない深刻な問題が数多くあります。最近日本では完全失業率が最悪の状態になり、失業者問題があります。アメリカでは高校生が銃を乱射して多くの学生達が犠牲にされた事件が起こり、銃の問題が深刻な状態です。しかし、これらの問題よりもっと急いで解決しなければならないことがあります。それは神様に用いられる霊的な指導者を養うことです。この時代にモーセやダビデのように神様を恐れ敬い、民を愛する指導者が必要です。神様は世界の人々が偶像崇拝をしている時代にアブラハム一人を選ばれました。そして、彼が神様の御旨を知り、神様の御言葉に聞き従う人になるまで25年間育てられました。イスラエルはエジプトで430年間奴隷生活をしていました。彼らは苦しくて嘆いていました。その時、神様は何をされましたか。神様はモーセ一人を育てられました。彼が指導者としての基本教育を受けるようにエジプトの王宮で40年間教育されました。また、彼が奴隷の民、イスラエルに仕える謙遜な人、柔和な人になるように40年間荒野で訓練されました。神様は80年間モーセ一人を養われ、イスラエル人をエジプトから連れ出す指導者として用いられました。私達はこの国に弟子達が立てられるように祈っています。神様はパイオニアチームとヨハネチームを立ててくださいました。そして一人一人を霊的な指導者として育てておられます。今年私達は第二のヨハネチームが誕生できるように祈っています。神様がこの国と世界の人々を主に立ち返らせる使徒達を立ててくださり、この国が福音化されるように祈ります。

 第二に、イエス様の希望と忍耐です。イエス様は12人を選び、彼らに使徒という名をつけられました。「使徒」とはある特別な使命のために遣わされた者という意味です。使徒はイエス様の全権大使です。弟子といえば、福音書に出ている弟子達が思い出されますが、使徒といえば、使徒の働きに出ている使徒達が思い出されます。福音書に出ている弟子達は利己心、恐れ、野心、血気などが満ちていました。彼らはいつも「誰が偉いか」と競争していました。しかし、使徒の働きに出ている使徒達は違います。彼らは聖霊に満たされて権力者の前でも大胆に福音を宣べ伝える信仰の勇士達でした。彼らはいつも祈る祈りのしもべであり、神様のみわざのために自分を捨てて心を合わせて働く熟練した人々でした。イエス様は最初から彼らにこのようなビジョンと希望を置かれ、忍耐を持って育てられました。

 それではイエス様が選ばれた12使徒の名前と特徴は何ですか。14-16節をご覧下さい。ペテロは単純な人、忠実な人、情熱的な人、感情的な人でした。彼は考えより行動が先立つ行動派でした。そのため彼は過ちを犯し、イエス様から叱られたこともありました。アンデレは五つのパンと二匹の魚をイエス様のところに持って来た不可能に挑戦する信仰の人でした。ヤコブとヨハネはペテロと競争し、メシヤ王国が建設されると自分が総理大臣になろうとする野心家でした。ピリポは頭がいい人ですが、否定的な考え方を持っている人でした。バルトロマイは純真な人でした。彼は悲しい映画を見ると涙が出るタイプでした。反面マタイは利己的で、人々に嫌われる取税人でした。トマスは疑い深い人でした。シモンは熱心党員でした。彼は取税人に会うと撃ち殺す人でした。アルパヨの子ヤコブやヤコブの子ユダは聖書に名前だけ出ていて何をしたのかわからない人です。イスカリオテ・ユダはお金のためにイエス様を裏切った人でした。

 彼らは平凡な人々でした。彼らはイエス様に謙遜に学ぼうとする人々でした。また、彼らはイエス様に呼ばれた時、何もかも捨てて従った人々でした。また、彼らは若者達でした。イエス様は現在彼らが足りませんが、将来立派な福音の働き人となる望みを持っておられました。イエス様は彼らが現在何の役にも立たない鉱石のようですが、精錬されると金のように輝く偉大な主のしもべになる望みを持っておられました。自然の石や木もミケランゼロのような偉大な芸術家の手に入ると、偉大な作品に変わります。イエス様はまさに偉大な芸術家です。このイエス様の手に入った平凡な人々は人類の救いのみわざに尊く用いられる偉大な使徒として変わりました。

 イエス様は彼らが立派な主のしもべになる望みを持たれただけではなく、彼らを忍耐を持って育てられました。3年間彼らとともに生活しながら傷んだ心を癒してくださいました。長所を生かし、短所を担ってくださいました。そして曲がった価値観を正しく直し、神様の人として霊的な価値観を持つように助けてくださいました。誰が偉いかと競争する彼らに謙遜に仕えることによって真に偉大な人は仕えられる人ではなく、仕える人であることを教えてくださいました。イエス様を捨てて逃げた弟子達のところに再び訪れ、母親のように彼らを愛してくださいました。このような忍耐深いイエス様の愛によって彼らは偉大な使徒となることができました。

 イエス様はこの時代に私たちをも使徒として選ばれ、望みを持って育ててくださいます。私達は足りない自分を考えながら失望する時があります。自分一人の信仰さえ守ることが難しいのにどうやってキャンパスの学生達の牧者であり、宣教師になることができるかと思う時もあります。イエス様の弟子とか使徒という言葉は自分にはふさわしくなさそうに思われる時もあります。イエス様は弟子達を呼ばれ、最初から大きな望みを置かれました。育てて見ながら使徒となる可能性が見えるから望みを置かれたのではありません。このようにイエス様は私達を呼ばれる時、私たちの足りなさを知っておられながらも最初から霊的な指導者であり、信仰の父であり、祈りの母となる望みを置かれました。そして忍耐をもって育てておられます。私達に大きな望みと忍耐を持って育ててくださる主の愛を感謝します。

 17-19節はイエス様が、弟子達とともに山を下り、平らな所で弟子達に現場教育をさせる場面です。そこに大勢の民衆がイエス様の教えを聞き、また病気を直していただくために来ていました。イエス様は彼らの良い牧者となられ、彼らを癒してくださいました。弟子達はこのイエス様のそばで見習い、成長することができました。

 結論、イエス様は私達を弟子として呼ばれ、使徒としての大きな望みを置かれ、忍耐を持って育てておられます。私達がこのイエス様の望みを受け入れ、イエス様に見習い、立派な使徒として成長することができるように祈ります。さらに私達一人一人が弟子養成家になり、今年一人の弟子を立てることができるように祈ります。