1999年 創世記第11講

アブラハムを試練に会わせられた神様

御言葉:創世記20:1?22:19

要 節:創世記22:12

「御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。

今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、

自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」

今日の御言葉はイサクが生まれることによって神様の約束が成就され、また、神様の試練を通してアブラハムが祝福の源として認められる段階です。神様は永遠の救いのみわざの基礎を築くためにアブラハムを召され、彼が信仰の奥義を悟って多くの国民と父になるまで育てられました。今日の御言葉を通して自分のひとり子さえ惜しまないで神様にささげたアブラハムの信仰を学ぶことができるように祈ります。

?.約束を成就させた神様(20:1-21:34)

1節をご覧ください。ソドムとゴモラが滅亡した後、アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住み着きました。そこで彼は良くない古い習慣に従って自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れました。信仰の先祖アブラハムも繰り返して過ちを犯すのを見ると、古い習慣から離れることがどれほど難しいことであるかがわかります。しかし、いくら難しいことだとしても滅びて行く古い人を脱ぎ捨てて、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神様にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきです(エペソ4:22?24)。アブラハムがそのようにしたのはその地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです(11)。これを見ると、彼には神様に対する認識が足りませんでした。また、自分を多くの国民の父として立ててくださったことに対しても認識が足りませんでした。それゆえ、彼は自分を過小評価し、世の権力者を恐れました。

アブラハムが繰り返して過ちを犯したとき、神様は彼に対して失望して苦労するようにそのまま放っておくこともできました。社会では繰り返して過ちを犯すと首になります。しかし、神様は夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。神様は彼と契約を結ばれた通りに彼の味方となられ、どんな場合にも彼を守り、助けてくださいました。神様は相変わらず彼を愛し尊く思われました。7節をご覧ください。神様はアブラハムを助けてくださるだけではなく、彼を預言者として立てられました。預言者は神様のみこころを現す者です。神様はアブラハムを通してこの世にご自分の御心を示そうとされました。ですから、アブラハムは非常に大切な人物です。神様はアビメレクに次のように言われました。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」(7)。これを見ると、アブラハムは祈りを通して人を生かすことも死なすこともできます。祝福することものろうこともできます。アブラハムが預言者になったのは、彼の行いによらず、神様の恵みによるものでした。

そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返しました。アブラハムに対してアビメレクが与えるべきものは、本来なら、報復です。しかし、神様の介入によってアビメレクはアブラハムを預言者として恐れ、驚くほどの報酬を彼に与えました。神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべてのことを働かせて益としてくださいます。

それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21:1,2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」神様は約束されたとおりになさる方です。?テモテ2:13には次のように記されています。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」世の権力者は選挙の時に多くのことを人々に約束しますが、権力を握ると多くの約束を守りません。それゆえ、世の権力者は信頼できません。しかし、神様は一度した約束はどんな場合にも必ず守られる真実な方です。私達が聖書の約束の御言葉を信じることができる根拠がここにあります。

聖書の中には神様の約束で満たされています。キリスト教は約束の宗教です。旧約と新約はすべて約束です。神様はその約束に基づいて働かれます。それは神様が人格的な方だからです。信仰生活は神様の約束の御言葉を信じて生きる生活です。たとえば、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)このような約束を信じて生きる時、私たちは勝利の人生、祝福の人生を送ることができます。神様の約束の中で一番大きな約束は人類を罪と死から救うメシヤを遣わしてくださるという約束です。神様はその約束のとおりに、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。

ここで、神様の時に、約束を成就させた神様の真実性について、学ぶことができます。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。

それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。

このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。

21:3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのであり、このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。

イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。サラは今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。この喜びは単純な感情的な喜びではなく、信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。彼らは子供のことを通して神様は約束を必ず守られる真実な方であることを悟り、真に喜ぶことができました。彼らはこう思ったことでしょう。「ああ、神様はなんと真実な方なんだろう。なんと恵み深い方なんだろう。」神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。ローマ8:32にはこう記されています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ここで私たちはアブラハムが結んだ実とロトが結んだ実を比べることができます。アブラハムは今まで信仰によって生きるため多くの苦労をしました。生まれ故郷を離れて天幕生活をしながら旅人として生活していました。良いものを譲り損する痛み、小市民的な夢を捨てる痛み、長い間目に見える実がなく、約束の御言葉だけを持って生きる痛みがありました。しかし、彼はどんな苦しみの中でも神様の恵みを裏切らず、信仰の中心を守りました。その結果、彼は神様に喜ばれる実を結び、真に笑う者となりました。

反面、ロトはどうでしたか。彼はこの世と調子を合わせる信仰生活をしました。彼は賢く社会生活をしているように見えました。しかし、結局彼はソドムとゴモラが滅びる時、全財産を失いました。また、アブラハムのとりなしの祈りによって救われましたが、この世に対する未練のために救われた喜びより恐れの中で生活しました。結局二人の娘との間に悪い実を結びました。

人生は中間評価よりどんな実を結ぶかが大切なことです。実はその人がどんな人生を生きて来たかを現します。過程はだますことができても実をだますことはできません。ガラテヤ6:7,8は次のように言っています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。イサクの誕生までは自分こそがアブラハムの相続人だと思っていたイシュマエルにとって、イサクの誕生と成長は喜ばしいことではなかったでしょう。父アブラハムの愛が自分よりもイサクに注がれているのを感じて、イサクをいじめたくなったでしょう。それで人々が見てない時にイサクに拳骨を食らわしました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、イシュマエルもアブラハムの子でした。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。イシュマエルはアブラハムが人間的な方法によって得た肉の子供です。イサクは神様が与えられた約束の子供です。イシュマエルは強くてもイサクは弱いです。イサクの成長のためにはイシュマエルを追い出さなければなりません。

アブラハムは翌朝早く、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、イシュマエルとともに送り出しました。彼がそのようにする時、どれほど心痛かったでしょうか。しかし、彼は自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけました(ガラテヤ5:24)。神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました(15-21)。

?.アブラハムを試練に会わせられた神様(22:1-19)

1節の「これらの出来事の後」とは神様がアブラハムを祝福さらた後を意味します。約束の子イサクはすくすくと育ち、アブラハムの信仰も成熟して何の足りないこともない時でした。この祝福の時に神様はアブラハムを試練に会わせられました。神様が信仰者を試練に会わせるのは、時として彼が神様から離れ、迷い出している時です。神様は試練を通して悔い改めに導き、信仰を回復させます。しかし、アブラハムの場合はそうではありませでした。1節を見ると、神様は彼に「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、すぐ「はい。ここにおります。」と答えました。これは彼が神様と正しい関係にあったことを現しています。

神様はアブラハムにどんな試練を与えましたか。2節をご覧ください。神様は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」神様はイサクがアブラハムの一人子であり、アブラハムがどんなにこのイサクを愛しているかを知っておられました。その上で神様はイサクをささげよ、と命じられました。神様はイサクを「全焼のいけにえ」としてささげよと言われました。全焼のいけにえにするためには、まずいけにえを殺さなければなりません。そしてその後それを全部ささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなければなりません。ですからこれはアブラハムがイサクを完全にささげるように命じられたことです。このような神様の命令に対して、アブラハムは反論することもできたはずです。神様に対し、「あなたの約束されたことと、あなたが今、命じておられることとは全く矛盾しているではありませんか」それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。3節を見ると、彼は反論せずに主の命令に従いました。なぜでしょうか。彼は神様が意味もなく彼を苦しめるはずはないと信じていたからです。また、彼は神様は冷酷な方ではなく、愛なる方であることを信じていたからです。また、イサクはもともと子供を産むことが不可能であったアブラハム夫婦に神様がお与えになった子供です。だからその神様にささげることは当然のことであるという信仰があったからです。また、神様には人を死者の中からよみがえらせることもできる、という復活信仰があったからです(ヘブル11:19)。

アブラハムは主の命令に翌朝早く従いました。主の命令には速やかに従うことが一番従いやすい道です。「後で」と言うことは、従うことをより困難にします。遅かれ早かれ主の命令には従わなければならないのだから、できるだけ早いほうがよいのです。献身でも献金でも、遅らせれば遅らせるだけささげることを困難にします。

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて神様がお告げになった場所へ出かけて行きました。そこまでは三日もかかりました。アブラハムが黙って遠い道を歩いて行ったのは、まるで何の罪もないのに十字架を負ってゴルゴタの丘を上られたイエス様のようです。三日目に神様がお告げになったその場所が見えるところに着きました。そこでアブラハムは若い者達はろばといっしょに残るようにして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムはイサクの質問を聞いて悲しみを押さえることができず泣き出しましたか。いいえ。彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。それは彼が言い逃れをしたのではありません。彼は本当に、主は何とかして下さるという主への信頼を持っていたのです。

9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。しかし、イサクは反発せず、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは将来イエス・キリストが神様の小羊として黙って神様の御心に従われたことを象徴します。10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺しているのです。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。そして、アブラハムの献身を確認した時に、彼に合格通知書を渡しました。12節をご覧ください。御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

ここで神様が一番願われることが何かを学ぶことができます。それは神様を恐れる信仰です。神様を恐れる信仰は神様を一番愛する信仰です。神様ひとりで満足し、神様ひとりで喜ぶ信仰です。これは神様と私の間に愛する家族、羊、夢など何も介入してない純粋な信仰であり、神様に結び合わされた信仰です。神様はアブラハムにイサクとイシュマエルの中で一人を選ぶように言われました。そしてさらに神様とイサクの中で選ぶようにされました。イサクは約束の子ですが、神様からの祝福に過ぎません。この祝福に縛られて、その祝福を与えてくださった神様を忘れるならそれは悲惨のことです。神様は神様の祝福や賜物よりも神様ご自身を愛することを願われました。それがアブラハムが真に祝福された人生を送る道だからです。

13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。

16?18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムが信仰を持って主に従った時、主は彼に祝福を注いでくださいました。主は「あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と語られました。神様がアブラハムに祝福を約束されたのは、アブラハムの献身と信仰による従順の故でした。神様はアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。

結論、神様は時には私たちの心がどこに向かっているのかをテストされます。そして、私たちに愛するイサクをささげよと言われます。それはイサクよりももっとベストの祝福である神様ご自身を私たち与えてくださるためです。私たちが神様の祝福よりも神様ご自身を愛する者となるように祈ります。