1999年 創世記第12講

イサクの家庭を立てられた神様

御言葉:創世記23:1?24:67

要 節:創世記24:3、4

「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。

私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。

あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

本文の御言葉は神様がアブラハムの結婚観を祝福し、イサクの家庭を立てて下さった出来事に関するものです。神様はこの素晴らしいみわざに忠実なアブラハムのしもべと美しいリベカの信仰を用いられました。ではアブラハムの結婚観はどうだったのでしょうか。アブラハムから使命をいただいたしもべの姿勢はどうだったでしょうか。イサクと結婚するリベカの信仰はどうだったのでしょうか。この時間、聖霊が私たちのうちに働き、正しい結婚観と使命人の姿勢を教えて下さるように祈ります。

?.マクペラのほら穴を買ったアブラハム(23章)

23:1節をご覧ください。サラは百二十七歳にカナンの地ヘブロンで天に召されました。彼女は65歳の時、夫アブラハムと共に信仰生活をはじめ、62年間も侵食をともにしながらアブラハムを支えてきました。彼女はアブラハムにとってかけがえのない存在でした。この最愛の妻を亡くしたアブラハムの悲しみはどうだったでしょう。誰でも愛する妻や夫を亡くしたらその悲しみは大きいと思いますが、アブラハムにとっては格別な思いがありました。彼は本当にサラを苦労させ、悲しませてきました。二度も自分の妻を妹だと偽って他の人に渡しました。奴隷の女と寝て子どもを産みました。サラにとってどんなに大きなショックであり、辛いことだったでしょうか。そのショックと心の傷のためにアブラハムより10年も年下なのにもっと早く死んだかもしれません。アブラハムはこのサラのことを考えると嘆かざるを得ませんでした。彼はサラのために嘆き、泣きました。しかし、いつまでも泣いていることもできませんでした。彼はサラを葬る墓地を探さなければなりませんでした。彼は今まで神様の約束だけを信じて天幕生活をしていたので、私有の墓地がなかったからです。

4節をご覧ください。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」アブラハムは私有の墓地を求めました。それに対してヘテ人たちは自分たちの最上の墓地にサラを葬るように好意を施しました。しかし、アブラハムはヘテ人たちに一定の値を払って買おうとしました。ヘテ人の好意にも関わらず、アブラハムは自分のお金を払って買おうとしたのです。それは神様が約束して下さったカナンの地に対する主人意識と、その地に対する歴史性があったからです。私はたまに日本で生まれなかった在日韓国人一世の話を聞いていますが、彼らは年を取ればとるほど故郷に帰りたくなるそうです。死んだら故郷に葬られたくなるのが人の常でしょう。もちろんアブラハムにもそのような心があったでしょう。しかし、彼は人間的な考えより神様の約束をまず、第一に考え、カナンの地が約束の地であると確信しました。 今はわずかな土地であってもやがてカナン一帯が彼の子孫のものとなる先駆けとなると信じたのです。だから彼はその地に対する強い主人意識を持ち、これから歴史を考え、高いお金を支払ってでもその土地を買うことにしました。結局、この地は後にカナン一帯を征服するのに重要な手がかりとなりました。

私たちはここで使命の地、約束の地に対する主人意識と歴史性を学ぶことができます。私たちの使命の地はまず、早稲田大学と東京大学ではり、広い範囲では日本の560キャンパス、さらに世界のキャンパスです。神様はこの地を私たちの使命の地として与えてくださいました。私は何年前からこの日本、特に早稲田大学を神様が私に与えて下さった約束の地であることを確信し、50名のフルタイムの牧者が立てられること、自分の長男サムエルも早稲田出身のフルタイム牧者になることのために祈っています。ところが、私は先週金カレブ宣教師と話し合いながら彼にこの約束に地に対する主人意識が強いことを感じて大きな恵みを受けました。彼は仕事のために来年三重県に行きますが、東京の家はこのまま置いて行き、手首がなおると毎週東京の礼拝に参加すると言いました。また日本に帰化する手続きを始めると言いました。私は今まで帰化することはあまり考えなかったのですが、彼はアブラハムのようにこの約束の地に自分だけではなく自分の子孫が葬られることまで考えるほど主人意識を持っているのです。私一人一人がこのような主人意識と歴史性を持って福音のみわざに励むことができるように祈ります。

?.忠実なアブラハムのしもべ(24章)

?アブラハムの結婚観

24:1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。神様は信仰によって生きたアブラハムをあらゆる面で祝福されました。私たちも信仰によって生きると、究極的にはあらゆる面で祝福されるようになります。アブラハムは祝福されているとき、その祝福を受け継ぐようになるイサクの結婚を考えるようになりました。そこで彼は自分の全財産を管理している家の最年長のしもべにイサクの結婚を頼みました。

3、4節をご一緒に読んで見ましょう。「私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分だけではなく、自分の子孫もカナンの地に葬られることを願っていました。しかし、愛するひとり子イサクの妻をめとることはカナンではなく自分の故郷の女性を迎え入れようとしました。なぜなら不信仰の者とは根本的に結婚してはいけないからです。申命記7:3,4節を見ると「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。」とあります。そうです。信者が不信者と結婚すると、不信者は信者の心を神様から引き離し、神々に仕える偶像崇拝者にならせます。結局、その家族は神様が忌み嫌う偶像崇拝の罪のために滅ぼされるようになってしまいます。アブラハムはこのことをよく知っていました。すなわち、信者は不信者と結婚してはならないことをよく知っていました。だから、アブラハムは自分の息子が偶像崇拝をしているカナンの娘と結婚してはいけないと思っていました。もちろん人間的に見るとカナンには美しい女性、魅力的な女性が多くいたと思います。また、家柄がよく、やさしいイサクからプロポーズされることを願っている女性も多くいたでしょう。しかし、カナンに住んでいる彼女たちは不信者たちでした。一方カランに住んでいるアブラハムの同族は神様を畏れかしこみ、神様に従う生活をしていました(24:50、51、60)。ですから、アブラハムはどうしても自分の息子が神様を信じ、神様を畏れ敬っている女性と結婚することを願いました。アブラハムの結婚観は人間条件より神様を中心としていたのです。

さて、イサクの妻を迎え入れる使命を受け取ったしもべは少し困りました。720kmも離れている遠い所に行って、イサクの妻を迎えて来ることはやさしくなかったからです。それでしもべは言いました。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」しもべはイサクを連れないで行って見知らない人の娘を連れて来るのは無理だと思いました。やはりイサクを連れて行って見せた方がいいじゃないかと思ったのです。しかし、アブラハムは何と答えましたか。

6、7節をご覧ください。 「アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。この御言葉をみるとイサクを連れて行かないようにするアブラハムの確信がうかがえます。彼は必ず神様が導いてくださると確信していたのです。だから、彼は「私の生まれ故郷に行き」、そこからイサクの妻を迎えるように命じました。なぜならその地の娘は真の神様を信じていたからです(24:31、50)。

私たちはここで正しい結婚観を学ぶことができます。本当にクリスチャンにとって神様を信じている人と結婚することは大切なことです。それは基本であり、自分と自分の子孫が祝福され、幸せに生きるためにも不可欠なことです。私は教師ですが、生徒たちと相談しながらしみじみ感じていることは間違った親の結婚観のために子どもたちが受ける悲しみ、苦しみはことばで言い尽くせないことです。あるクラスは半分以上の生徒が離婚した母と暮らしていますが、一人一人が心の中に大きな傷を受けているし、この世に対する不平・不満が余りにも多くて落ち着いていられない人たちも多くいます。ですから、あらゆる面で祝福されたアブラハムの祝福をイサクも享受し、受け継いでいくためにはイサクが信仰の結婚をしなければなりませんでした。特にアブラハムから始まった祝福、救いのみわざはイサクを通して流れ、すべての民族が救われるようにならなければなりません。それなのに、イサクが不信者と結婚して、信仰の歴史が中断されるならそれは個人の問題だけではなく、歴史的な問題です。ですから、アブラハムはイサクの結婚を本当に大事にしていたのです。ではアブラハムのしもべはこの使命をどのように成し遂げましたか。

?忠実なアブラハムのしもべ〔10?56〕

 第一に祈りから始め,祈りながら使命を成し遂げました。24:12節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」」とあります。アブラハムのしもべは慌ててナホルの町に行ったのではありません。彼は何よりも先に祈りました。祈りは神様の主権を信じる信仰から出るものです。彼はアブラハムの神様を信じ,取り計らってくださるように祈っています。彼の祈りはとても具体的です。13,14節をご覧ください。彼が祈った女性はまず水を汲みに出てくる女性で,勤勉な女性,家族の面倒を見る女性です。また、旅人に水を飲ませることだけではなく,動物のらくだにも水を飲ませるほどの思いやりがある女性を求めました。すると、まだ祈りが終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。しもべは急がないで黙々神様がなさることを眺めていました。すると彼女はしもべが祈ったとおりの女性でした。リベカが祈りの応答であることを確信したしもべは神様をほめたたえ、栄光を返しました。アブラハムのしもべは祈りをもって始め、感謝の祈りをもって使命を成しています。私たちも何かやる時はまず祈りから始め,祈りによって終えなければなりません。祈りはすべての問題のかぎであり,成功の近道です。私は今年学校の仕事において非常に悩まされる時が多くありました。主のみわざに仕えながらも限界にぶつかって悩んだり,悲しむ時も多くありました。この間ある牧者と話し合いましたが,泣いている彼の言葉に私も同感し,理解するところが多くあるので私も涙が出ました。私は本当に無力な人間です。しかし、毎朝主の宮で日ごとの糧をいただき,祈る時、神様は私を助けてくださいました。今日まで与えられた使命を担うように力を与えてくださいました。私はこの祈りの力を体験しているので先週早稲田フェローシップに新しい100年、あたしい1000年迎える準備のために21世紀は早稲田大学がこの日本と世界において霊的に影響力のあるキャンパスとなり,早稲田出身のフルタイム牧者が48都道府県に立てられるように60日間朝6時に60分間祈ることを提案しました。すると同労者たちから新しい年に40日間もっと祈りましょうと言われたので100日間の祈りを決断しました。私たちひとりひとりがアブラハムのしもべのように主のみわざだけではなく、仕事や個人生活においても祈りによって始め、祈りによって成し遂げる生活ができるように祈ります。

 第二にアブラハムのしもべは何のことより使命を先に立たせました。

アブラハムのしもべはラクダ10頭に多くの品々を載せて720kmの長いたびをしました。彼の忠誠心を見るとほとんど休まずに走って来たでしょう。それに時は夕方になっていたので空腹であったに違いありません。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は食べるものより使命を先に立たせました。体が疲れ,お腹がすいている時は、まず食べることから始めようとするのが人の常であると思います。しかし、アブラハムのしもべは自分の体の状態より使命を大切にしたのです。リベカの家族はしもべの話を聞いて神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命を大切にしているかが分かります。

ではこのようにしてイサクの所に行くようになったリベカの信仰はどうでしたか。58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。とあります。リベカは『はい。まいります。』という一言で顔も知らないイサクとの結婚を決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。まさに「見ずして信じる信仰」をここに見ることができます。〇〇牧者から聞いたのですが、この世では見合いは持てない人がすることだという認識を持っているそうです。だからこの世の価値観に基づいて結婚するなら十回見合いしても不安です。しかし、霊的な価値観を持っているなら神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、本当の仲人の神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

結論的に24:3、4節を読みましょう。「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。