1999年コリント人への手紙第二 第7講(♪541)

 

イエス・キリストの恵み

 

御言葉:コリント人への手紙第二8:1?9:15

要 節:コリント人への手紙第二8:9

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、

主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

 今日の御言葉は献金の意味に関する御言葉です。もっと具体的に言えば、救済献金の意味に関する御言葉です。当時、パレスチナ地方には大きな飢饉が発生してエルサレム教会の人々は非常に貧しくなりました。それでパウロは自分が開拓した異邦人教会に救済献金をするように勧めました。それによってエルサレム教会と異邦人教会がキリストの中で一つになり、愛の交わりができることを望んだのです。コリント教会は救済献金を一番最初に始めましたが、にせ使徒達のパウロに対する非難によって中断されました。それで使徒パウロは彼らが再び救済献金をすることを勧めながら献金の意味について話しています。献金は、あふれるばかりの神様の恵みに対する感謝です。今日の御言葉を通して私達の主イエス・キリストの恵みが私と皆さんに豊かに与えられるように祈ります。

 

?.献金の意味(8章)

 

一、マケドニヤの諸教会に与えられた恵み(1?5)

 

 1節でパウロはコリント教会の人々にマケドニヤの諸教会に与えられた恵みを知らせようとします。なぜなら、それは誰でも見習うべき良い信仰的な出来事だったからです。良い信仰的な出来事は聞く人々に感動を与え、自発的に良いことをしようとする心を呼び起こします。マケドニヤの諸教会とはピリピ教会、テサロニケ教会、ペレア教会を指しています。それではマケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みは何でしょうか。

 第一に、激しい試練と極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、惜しみなく施しました(2)。激しい試練と極度の貧しさの中では心配や不平不満が生じるのが普通です。自己中心的になり他人を顧みる余裕がなくなります。「自分の生活も大変なのに、救済献金なんかできるか」と思います。

 しかし、マケドニヤの諸教会は違いました。彼らは苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです(2)。どうやってこのようなことができたのでしょうか。彼らは激しい試練に会うたびに主にしっかり頼り、試練を通して彼らの信仰はますます金のように精錬されました。そして、試練の中にいる人々を深く理解し、同情する心を持つようになりました。何よりも彼らは一人子さえ惜しまずお与えになった神様の愛と私達の罪のために十字架に死なれたイエス様の犠牲的な愛を深く体験しました。彼らが神様の愛を体験した時、喜んで他人を助けることができました。これは神様が彼らの中に働いて成し遂げられたみわざであり、人間の力によっては不可能なことでした。それでパウロはそれを神様の恵みと言っています。すなわち、この恵みはマケドニヤの諸教会の人々にある聖霊の実でした。

 出エジプト記35章を見ると、幕屋を造るためにイスラエル人は心から進んで主への奉納物を持って来る場面が出ています。ある人は飾り物、耳輪、指輪、首飾りを主に捧げました。ある人は青色、紫色、緋色のより糸、亜麻布、やぎの毛、皮を捧げました。上に立つ者達は宝石を持って来ました。巧みな技術を持っている人はそれを持って奉仕しました。民は幾たびも、持って来たので有り余るようになり、それ以上持って来ないように言わなければなりませんでした(出36:5‐7)。ところが、彼らが主への奉納物を捧げる時、義務感や強いられて捧げたのではありません。彼らは感動して心から進んで捧げました。彼らがどうやってそのような心を持つことが出来たのでしょうか。それは彼らが罪の赦しの恵みを受けて神様の赦しの愛を深く体験したからです。神様の恵みを深く体験せずには、犠牲的に神様に捧げることができません。

 第二に、マケドニヤの諸教会は自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげました(3)。彼らは義務感や責任感によってではなく、自分達に与えられた神様の恵みに感謝してささげました。彼らは適当に捧げたのではなく力に応じ、いや力以上にささげました。また、彼らは外部からの圧力や雰囲気によって捧げたのではなく自ら進んで捧げました。彼らがそのようにした時、心には喜びが満ち溢れました。

 第三に、彼らは聖徒達をささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願いました(4)。救済献金は神様にささげる献身の意味だけではなく助けが必要な人との愛の交わりの意味も大きいです。

 第四に、彼らは献金する前に、まず自分自身を主にささげました。主が私達に本当に願っておられるものは献金ではなく心です。創世記4章を見ると、カインとアベルはそれぞれ主への捧げものを持って来ました。ところが、主は、アベルとそのささげ物とに目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。神様はささげ物よりそれを捧げる人の心をご覧になる方です。ですから、私達は献金する前に、まず自分自身を主に捧げなければなりません。

 以上からマケドニヤの諸教会が救済献金をする時の姿勢は、すべてが神様の恵みによるみわざだったことがわかります。神様の恵みを受けなければ誰も彼らのように喜びに満ち溢れて献身的に捧げることができません。救済献金ではありませんが、献金に関する面白い一話があります。ジョージ・ヒットヒルドは18世紀にアメリカの第一次霊的覚醒運動を起こすのに主導的な役割をした偉大な御言葉のしもべでした。ある日、ベンジャミン・フレンクリンはヒットヒルドが御言葉を伝える集会に参加しました。彼は牧会者に対して非常に批判的であり、冷淡で、隙間のない啓蒙主義者でした。彼はその集会に参加しながら自分は絶対に献金しないと心を決めていました。ところが、メッセージを聞く途中、恵みを受けると、その決心は崩れて銅貨一枚を捧げることを決めました。メッセージを半分くらい聞いた時にはもっと恵みに満たされて、今度は銀貨一枚を捧げようと思いました。メッセージの結論部分に至った時には、今度は金貨を捧げたいと思いました。ところが、いざと献金を捧げるようになった時には、自分が持っているものを全部捧げたそうです。また、リビングストンに関する一話があります。彼は主の恵みに感謝して献金を捧げたいと思いましたが、持っている物が何もありませんでした。その時、彼は献金箱の上に立って「主よ。捧げる物は私自身しかありません。」と祈ったそうです。結局、彼はアフリカの宣教師として自分の全生涯を主に捧げました。

 

二、私達の主イエス・キリストの恵み(6?9)

 

 7節をご覧下さい。「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」コリント教会の人々は信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、愛にも富んでいました。パウロは「そのように、献金のわざにも富むようになってください」と勧めています。

 ここで私達の信仰が実際的な信仰、バランスが取れた信仰になるためには、献金も信仰やことばや知識と同じ位置において闘争しなければならないことを学びます。すなわち、信仰を持つために励むように主に捧げる生活にも励まなければならないということです。他のことはすべて富んでいるのに、主に捧げる生活には惜しむ人の信仰はどこかで間違っているのです。うっかりすると、私達の持っている信仰、知識、言葉が具体的生活に現われていないことがあります。物質を捧げることは信仰生活とは別の問題ではなく、信仰生活の一部分なのです。イエス様も「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)と言われました。ジョン・ウェスレーは「私はあなたの財布が悔い改めるまであなたの悔い改めを信じない」と言いました。

 使徒パウロは8節で命令するのではなく、ただ、彼ら自身の愛の真実を確かめたいのでこのように勧めていると言っています。愛は口先だけではなく実際に仕えることを通して確かめられます。

 9節をご覧下さい。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」マケドニヤの諸教会に与えられた神様の恵みを話したパウロは、今度はイエス・キリストの恵みについて話します。私達の主イエス・キリストの恵みはどんな恵みですか。

 第一に、イエス様はご自分の権利と特権を捨てられました。イエス様は天と地を創造された創造主として一番富んでおられる方です。しかし、私達を罪から救うために人となられ、この世に来られました。イエス様は飼葉おけにお生まれになり、枕するところもない貧しい生活をされました。これは私達の想像を超えた大きな犠牲です。これはまるで、人間が虫けらのようになったこと、いや、それ以上に低くなられたことです。イエス様は創造主としていくらでもその権利と特権をふるまうことができました。しかし、私達のためにすべての権利と特権を捨ててこの世に来られました。ここに恵みがあります。 

 第二に、イエス様は低くなられ罪人に仕えてくださいました。イエス様は仕えられるにふさわしい方ですが、むしろ、仕えるためにこの世に来られました。ここには恵みが溢れています。

 第三に、イエス様は十字架につけられ私達の罪のために完全にご自分を犠牲にされました。口先だけの人に恵みがあるのではなく、自分を犠牲にする人に恵みがあります。

 それではイエス・キリストの恵みによって、私達が受けた恵みは何ですか。私達は過去罪のために心が荒れ果てていました。いくら多くのお金を持っていても罪のために惨めな人生を送るしかありませんでした。しかし、イエス様の恵みによって、罪によって病んでいた私達は癒され新しい人生を過ごすようになりました。心には真の喜びと平安が与えられました。神様の子供となり、神様の愛と守りと導きと祝福を受けるようになりました。それだけではなく神様の相続人となり、神の国を受け継ぐようになりました。このような祝福は、私達の主イエス・キリストによる恵みによって与えられたものです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

三、献金の社会的な意味(8:10?15)

 

 13‐15節では献金の社会的な意味について言っています。使徒パウロがコリント教会の人々に救済献金をするように勧めているのは、このことによって、他の人々には楽をさせ、彼らには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。それは足りないものを互いに補うことによって、余ることも足りないこともないためです。神様が私達に願われることは余裕がある人はない者に分け与えて互いに足りないことがないようにすることです。神様が私達に富を与えてくださったのは、自分だけ富を所有して楽に暮らせるようにするためではなく積極的に富を分け与えるようにしたことです。富は所有するのに意味があるのではなく分け与えるのに意味があります。

 アメリカL.Aに88歳でなくなったアグネス・プロンブというおばあさんがいました。このおばあさんは非常に倹約しながら普段慈善団体や病院などの困難な事情を聞くと、すぐ500ドールを寄付する人でした。隣人が高級レストランに招いてもそれを断り、ハンバーガの店や安い食堂にこだわったそうです。ところが、このおばあさんがなくなった後、およそ9800万ドールの遺産があってそれをすべて障害者や貧しい子供達のために使うように寄付したそうです。この方はイエス・キリストの教えを実際に実践した人でした。

 

四、実務者の重要性(16?24)

 

 16‐24節でパウロは献金を取り扱うのにおいてどれほど慎重だったのかを言っています。ここで私達は献金を取り扱う実務者の重要性について学ぶことができます。実務者は何よりも信仰的な影響力がいい人でなければなりません。パウロは救済献金を集めるために一番信頼できるテトスを立てました。テトスはパウロの仲間で、福音の同労者でした。また、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送りました。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されている人でした。そして、もうひとりの兄弟も信頼できる人でした。

 実務者の重要性はいくら強調しても言い過ぎではありません。もし、聖徒達が献身的に献金をしたのに実務者が怠けて忠実に働かなかったり、自分のことに忙しくて管理をおろそかにしたり、無駄使いをしたり、お金に誘惑されて持って逃げたりするとどうなるでしょうか。そのようになると、教会はサタンの試みに陥るようになります。ですから、実務者は信仰の影響力が良い人、忠誠心と信頼性がある人でなければなりません。また、神様の仕事を自分のことのように思い、神様に有益を残すために忠実に働く知恵ある管理者でなければなりません。

 

?.献金と祝福(9章)

 

 1‐5節は献金らしい献金になるためには前もって用意する必要があることを教えます。何の心の用意もなしに献金をすると、強いられてしたような感じがするし、献金を捧げても心の中に恵みがありません。しかし、祈りながら計画を立てて心を込めて準備した献金をささげると恵みがあります。

 6‐10節までは献金の祝福について言っています。人々は献金をすると、自分には何も残らないと思います。しかし、使徒パウロは献金を種にたとえています。6節をご覧下さい。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」

少しだけささげる人は少しだけ祝福し、豊かにささげる人は豊かに祝福してくださいます。ところが、それは物質が少ないか多いかではなく心の状態にあります。マルコの福音書12章を見ると、イエス様は献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられました。その時、多くの金持ちが大金を投げ入れていました。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れました。それは最小単位の銅貨です。すると、イエス様は弟子達を呼び寄せて、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:41?44)。神様の評価は相対評価ではなく絶対評価です。ですからいやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んでしなければなりません。他の人と比べたり、惜しむ心でしたりしてはなりません。7節をご覧ください。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

 8節をご覧下さい。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」神様は富んでおられる方です。神様は私達のすべてのよいわざをあふれるほど報いてくださる方です。

 神様は自発的に捧げる人に霊的、肉的に祝福して下さいます。物質的に豊かにし、霊的にも多くの実を結ぶようにしてくださいます。それによって、神様に対する感謝が満ち溢れるようになり、神様に栄光をささげるようになります(13)。

 私達の主イエス・キリストの恵みが私と皆さんの心に満ち溢れるように祈ります。