1999年ルカの福音書 第13講

 

父親の大きな愛

 

御言葉:ルカの福音書15:11?32

要 節:ルカの福音書15:20

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

 

 ルカの福音書15章は、いなくなった羊のたとえ、なくした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえで構成されています。この三つの譬え話は一人の罪人が悔い改めると父なる神様が大きく喜ばれることを教えてくれます。今日はその中でも最も有名な放蕩息子の譬え話について学びたいと思います。これは聖書の中の聖書と言われるほど多くの人々に愛され、感動を与えています。ここには神様から離れた人間の姿と堕落した人間に向かう神様の愛がよく描かれています。私達はこのたとえを通して悔い改めた人間をありのまま受け入れてくださる神様の愛について学ぶことができます。この時間、神様の大きな愛を受け入れ、自分の罪を悔い改めて父なる神様のところに立ち返ることができるように祈ります。

 

?.家を出た放蕩息子(11-24)

 

 11節をご覧下さい。ある人に息子がふたりいました。父親は二人の息子をとても愛していました。父親は財産も多くあって二人の息子のために必要なものは惜しむことなく与えました。最新型のコンピュータも買ってあげました。日曜日礼拝が終わるとサッカが好きな息子と戸山公園に行って一緒にサッカもしました。また、いつも二人の息子と話し合いながら息子が抱えている悩みを聞いてあげました。学校の成績が落ちって落胆している時には慰めてあげました。また、父親は信仰教育にも格別に気を配りました。毎日夜明けに息子達を起こして夜明けの祈り会に参加するようにしました。また、主日礼拝はどんなことがあっても守るようにしました。1:1で聖書を教え、その御言葉に聞き従うように助けました。

 ところが、このような父親に対して二人の息子は対照的な反応を見せました。兄息子は責任感と忠誠心があって父親から言われたことはきちんと守りました。しかし、自由奔放な弟息子は父親の愛と干渉を束縛だと思い、不平不満が多くありました。親父は新世代である自分を少しも理解してくれず、一々干渉することが多いとつぶやきました。彼は自分はもう子供ではないから人生の経験も摘んで、自分なりの夢を持って、自分なりの人生を送りたいと思いました。父親から離れて一人暮らしをすれば、きっとそのような自由や幸せがあるだろうと思いました。それで彼は父親が知らない遠い国に行くのを夢見ていました。ところが、そのためにはお金が必要でした。

 それで彼は、お父さんに理不尽な要求をしました。12節をご覧下さい。彼は父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言いました。一般的に財産の分け前は、父親が死ぬ直前や死んだ後の遺言に従って一方的に与えられるものです。親は息子が気に入らないと慈善団体に寄付してしまうことも可能です。ところが、父親がまだ元気に生きているのに分け前を要求することは本当に無礼なことです。息子の要求は父親を非常に悲しませることでした。普通の父親だったら、「お前、おれが早く死ねとでも言いたいのか」と叱るでしょう。それでは放蕩息子の父親はどうしましたか。父親は息子がなぜ財産の分け前を要求するのかよく知っていました。父親は息子が自分から離れようとするのを知った時、非常に心を痛めたことでしょう。しかし、父親は息子の人格を尊重しました。それで、身代をふたりに分けてやりました。父親は財産をなくしても息子はなくしたくない心でした。

 13節をご覧下さい。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。彼はできるだけ父親から遠く離れて自由に暮らすことを願ったでしょう。そこは彼が今まで憧れていた国であり、誰も干渉する人がいなくて欲望のままに生活できる国でした。彼はそこで翼を広げて夢を果たしたい心だったでしょう。彼はファースト・クラスを予約し、自由の国、アメリカに飛んで行きました。彼はニューヨークに着いて自由の女神を見ながら「僕は自由だ。自由」と叫んだでしょう。彼は一流ホテルに泊まりました。そこでは夜明けになっても祈り会に参加するように起こす人がいないので腰が痛くなるまで寝ても構いませんでした。1:1聖書勉強も所感を書く必要もありませんでした。日曜日になると、礼拝に行かず、伊良部選手が出るメジャーリーグを見に行きました。しかしこのような彼の自由は間もなく放縦に変わりました。いきなりに与えられた多くの時間や若さ、お金をどのように使えばいいか分からず、淫乱な雰囲気に誘惑されました。夜になると、華麗なネオンサインが彼を誘いました。彼はライトクラブに行ってお酒を飲んだり、踊ったりしました。そして、遊女と遊びました。ラスベガスに行って賭博をしました。きれいな恋人と結婚を約束し、高い宝石や高級服も買って上げました。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。このようにして彼は父親が分けてくれたすべての財産を快楽のために使ってしまい、何も残りませんでした。

 結局彼はどうなりましたか。14節をご覧下さい。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めました。友達も恋人もお金がない彼から離れました。一人ぽっちになった彼は寂しくなりました。誰も彼を相手にしてくれませんでした。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせました。彼は豚の世話をするアルバイトを始めたのです。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれひとり彼に与えようとはしませんでした。彼は絶えられず豚にお願いしました。「おい。豚さん。少し分けてくれ」。しかし、豚は豚らしく少しも残さず、全部食べてしまいました。彼は悲しくて豚小屋の前で涙を流しました。豚はユダヤ人が嫌う汚れた動物です。ところが、彼は豚よりも惨めな状態になりました。

 この姿は、神様から離れた人間が人間としての尊厳性を失い、動物よりも衰えた存在として堕落する姿を段階的に言ってくれます。

 第一に、堕落した最初の段階は父親から離れて遠い国に行ったことです。遠い国は異邦の世界です。すなわち、神様を知らない世界を意味します。彼は神様から離れました。神様は私達を創造された創造主です。神様は人間を造ってその鼻にいのちの息を吹き込まれたので、人は、生きものとなりました。神様は私達のいのちの源であり、喜びの源であり、祝福と幸せの源です。ところが人間が高慢になり神様のようになろうとして善悪の知識の木から取って食べて神様から離れたのが堕落の始まりでした。神様から離れた人間は自由になり、幸せになりそうでした。

 第二に、父親を離れた息子は放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。ここで財産とは単純にお金だけを意味するのではありません。ここで財産とは父親から与えられたすべてのものを意味します。これは私達に与えられたいのち、若さ、時間、才能、お金などを含めています。このようなものは神様の栄光のために実を結ばせるために神様が与えてくださったものです。ところが、弟息子は放蕩して父親の財産を使ってしまっただけではなく、尊い若さと健康と時間を自分自身の快楽のために使いました。人類は神様から与えられた知恵や知識を持って宇宙船を打ち上げ、宇宙旅行する日も遠くない時代になりました。コンピュータの発達により、家でインターネットを使って情報を得たり、買い物ができるようになりました。しかし、人間はその知恵や知識を持って地球を核兵器の恐怖や化学兵器の倉庫としました。今日、世界には少なくとも4万発から5万発の核弾頭があるそうです。また、安心して水も飲めないので浄水機を使わなければならないほど自然は汚染されています。神様から離れた人間は自滅の道を歩んでいます。人間は自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、偶像崇拝者になりました。創世記6章で肉にすぎない人間は洪水の裁きを招き、性的な堕落や同性愛をしたソドムとゴモラは神様の裁きによって滅亡しました。今日の性的な堕落はソドムとゴモラ以上です。今日の人々も物質の豊かさとともに神様から与えられたいのちと若さ、時間と人生を湯水のように使っています。

 第三に、大飢饉の段階です。これは物質の飢饉だけではなく、いのちの飢饉、愛の飢饉、喜びの飢饉、幸せの飢饉を意味します。人間は本来エデンの園で何の足りないものがありませんでした。そこには永遠のいのちがあり、神様の愛と恵みが満ちていました。使命があり、自由と秩序がありました。しかし、人間は神様の恵みを感謝せず、罪に従って神様から離れました。その結果、人間はパラダイスを失いました。呪われて罪と死の勢力に支配され、永遠に滅びるしかない惨めな状態になりました。神様から離れた人間は絶えず、内面の欠乏を満たそうとしますが、決して満足することができません。

 第四に、豚の世話をする人として転落しました。これは奴隷生活です。つまり、人間が罪の奴隷、サタンの奴隷になったことです。神様から離れた人間は神様のかたちを失って動物のような肉に過ぎない存在になりました。神様を離れた人間は快楽を求めます。心の欲望のままに汚れに自分を引き渡します。人間は神様なしに生きようとする罪悪な本性を持っています。神様を知らなかったら自由があり、幸せな生活ができるのにと思います。しかし、罪は甘いですが、結局滅びに至らせます。神様から離れた人の終点は死です。このような状態から救われるために人間にできることは何でしょうか。

 17-20節は回復の段階です。豚の世話をしていた放蕩息子は、ようやく父親と自分について考えるようになりました。17節をご覧下さい。我に返ったとき彼は、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」と言いました。

 第一に、彼は父親のところを考えました。父親の家には足りないものがありませんでした。父親のところでは雇い人も味噌汁にご飯を食べて食後にはデザートとして果物も食べました。父親のところは食べ物だけではなく、愛も恵みも御言葉も豊かでした。やっと彼は「父親のところで住んでいた時が良かった。その時が幸せだった」と悟るようになりました。

 第二に、彼は自分自身の惨めな姿を悟りました。「私はここで、飢え死にしそうだ」。彼は奴隷に転落して飢え死にしそうな惨めな自分の姿がわかりました。人間は飢えている時、一番悲しくなります。彼は飢える悲しみの中で放蕩した過去のことを悔いる心が生じました。また、死の恐れの中で自分が父親に対して罪を犯したことがわかりました。彼は惨めな自分の姿がわかった時、今まで肉の欲望のままに生きて来た自分が罪人であることがわかりました。18、19節をご覧下さい。「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」彼は自分が資格のない罪人であることを悟り、悔い改めて父親のところに立ち返る決心をしました。

 第三に、彼は心の決心を行動に移しました。彼の状況や今まで自分がやって来たことを考えて見ると、父親の家に帰ることは難しいことでした。しかし、彼は父親に対する信頼によって立ち上がりました。彼は無礼にも分け前を要求した時、黙って身代を分けてやった父親を思い出しました。彼は家から離れる時、黙って涙を汲んで見送る父親の姿を思い出しました。彼は信仰によって豚小屋から立ち上がりました。彼は汚い匂いがする服をそのまま着て父親のところへ帰ることを決心しました。父親が自分を見て何と言うか、隣人が何と言うかを考えると恥ずかしくなりましたが、彼は自尊心を捨ててありのまま立ち返りました。これは今までの生活を清算して新しい方向転換をすることでした。そのためには勇気が必要でした。帰ることが恥ずかしいと思って帰らなければ決して自由と幸せを得ることができません。

 悔い改めはこのようなはっきりとした方向転換です。悔い改めは自分の罪を認めてそこから立ちあがり、砕かれた悔いた心を持って神様に立ち返ることです。今まで欲望のままに生きて来た生活から離れて神様の御言葉に従うことです。私達が真の自由と幸せを得るためには必ず立ち上がり、父なる神様に立ち返らなければなりません。これが唯一の救いの道です。私達は必ず立ち返らなければなりませんが、今それをしなければなりません。弟息子が立ち返ることができたのは、彼の謙遜です。彼が離れた理由は「自分はできる」という高慢があったからです。しかし、今は自分が豚の食べるいなご豆さえ楽に食べられない存在であることがわかりました。また、彼は父親のところに行けば、自分を受け入れてくれることを確信しました。私達が信仰によって神様のところに出て行くと、愛の神様は私たちをありのまま受け入れてくださいます。

 それでは父親は息子をどのように受け入れましたか。20節をご一緒に読んで見ましょう。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけました。これは父親がいつも彼を待っていたことを現わします。父親はいつも家を出た愛する息子を考えていたでしょう。その日ももし今日は帰って来るかなと思って遠いところ見つめていたでしょう。すると、乞食の姿をしている一人の人が歩いて来ていました。父親は息子の姿が家を出る時と全く変わっていてもすぐ自分の息子であることがわかりました。その息子を見つけた時、父親は非常に喜びました。父親は息子の名前を大声で呼びながら走りました。「平八郎!」。息子の髪の毛はぼうぼうとしていたでしょう。服はぼろぼろになってひどい匂いがしたでしょう。そのような息子でも構わず、父親は力強く息子を抱き、口付けしました。「ああ、ずいぶん苦労したんだよな。」と言いながら涙を流す父親の大きな愛は息子の咎と罪を覆ってしまいました。父親の愛は罪によって傷ついた心を癒してくれました。息子は「帰って来て良かった」と思ったでしょう。

 この父の愛は罪人に向かう神様の無条件的な愛であり、変わらない愛です。神様は私達が悔い改めて帰って来る時、「どうしてそんなことしたのか、なぜこんなに汚いのか」と言われません。神様はどんな罪人でも悔い改めて帰って来るのを切なる心を持って待っておられ、帰って来た時、ありのまま迎え入れてくださる方です。

 21節をご覧下さい。息子は言いました。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」父親の無条件的な愛と無限な愛の前で彼は自分が罪人であることを悟り、告白しました。しかし父親は彼をどのように待遇しましたか。22、23節をご覧下さい。「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。』」父親は息子をしもべではなく、愛する子供として受け入れてくれました。皇太子として受け入れてくれました。悔い改めて帰って来る時、過去のことを少しも問題にしませんでした。父親は息子が帰って来たことだけでも非常に喜びました。これは罪人に対する神様の心です。

 それでは父親の財産を湯水のように使ってしまってから帰って来た息子をこのように待遇する理由は何でしょうか。24節をご一緒に読んで見ましょう。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」息子は罪によって死んでいましたが、生き返りました。父親にとってそれは非常にうれしいことです。ここで死んでいた者やいなくなっていた者とは神様から離れた罪人を意味します。私達はイエス様を信じて救われる前にはみな罪ととがによって死んでいた者であり、いなくなっていた者でした。しかし、イエス様を信じることによって新しいいのちを与えられ、新しく生まれるようになりました。

コリント?5:17節を見ると、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書いてあります。そうです。過去どんな罪人だったとしてもイエス様をキリストとして信じて受け入れた人は新しくなります。神様はその人を神の国の皇太子として受け入れてくださいます。

 

?。家にいた放蕩息子(25-32)

 

 25節をご覧下さい。その日も兄息子は畑で遅くまで働いて家に帰って来ました。家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来ました。それでしもべを呼んで、、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです」。すると、兄はおこって、家にはいろうともしませんでした。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみました。しかし兄は父にこう言いました。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」彼は父親の心を知りませんでした。父親が彼をどれほど愛しているかを知りませんでした。父親は彼が願うなら子山羊だけではなく牛でも惜しまず与える人でした。しかし、彼は父親の愛を知らず、奴隷のように働いていました。彼は父親が弟をなくした時の悲しみと見つかった時の喜びを理解できませんでした。ただ自分が父親のために働いたという自己義と弟のとがと罪を赦せないという心だけでした。これは彼が父親の家にいながらも父親に対する愛や人格的な関係が欠如していることを言ってくれます。また、彼は家を出た弟に対して関心も愛もありませんでした。彼は家で父親に仕えていましたが、心は父親から離れた放蕩息子でした。このような兄息子は父親を悲しませました。この兄息子は取税人や罪人達を受け入れたイエス様の心を理解できず、罪に定めるパリサイ人や律法学者達のようです。彼らは神様に対する熱心はありましたが、自分の義のために罪人に対する神様の愛とイエス様の心が理解できませんでした。彼らは神様の祝福が異邦人や罪人達に与えられることを喜びませんでした。彼らは律法はよく知っていましたが、律法の精神は知りませんでした。私達も働き中心になると、神様の大きな愛を知らず、兄息子のような心を持ちやすいです。私達が主と福音のために働くのは、人々から認められたり、他の人と比較したりするためではありません。ただ救いの恵みに基づいて使命を担うのです。神様の愛を知らず、負担感を持って信仰生活をしているならそれは非常に残念なことです。31、32節を見ると、父親はつぶやく息子に言いました。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」。

 結論、父なる神様は今も大きな愛を持って家を出た息子が帰って来るのを待っておられます。今日も多くの弟息子達が父親から離れて自分勝手な道を歩んでいます。父なる神様はそのような息子達を見ながら心を痛めておられます。私達がこれ以上神様の愛を蔑視しないように祈ります。神様から離れている自分の姿を悟り、父なる神様のところに立ち返ることができるように祈ります。誰でも自分の罪を告白し、父なる神様の所に立ち返ると、主は走って来て私達を迎え入れ、罪を赦してくださいます。また、ご自分の息子、娘として受け入れてくださいます。この時間、父なる神様の大きな愛を悟り、罪が赦され、新しい人生を送ることができるように祈ります。