1999年ルカの福音書第17講

 

商売しなさい

 

御言葉:ルカの福音書19:11?27

要 節:ルカの福音書19:13

「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。

『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」

 

 今日の御言葉は救われた人々の生き方について教えてくれます。イエス様は神の国がすぐにでも現れるように思っていた人々にたとえを話されました。イエス様はたとえを通して人々が持っている神の国に対する誤った考えを正し、主の再臨を待っているクリスチャンはどんな姿勢を持って生きていくべきかを教えてくださいます。本文の御言葉を通して神様が喜ばれる生き方を学び、主の御前で正しい生活を送ることができるように祈ります。

 

?.商売しなさい(11-13)

 

 11節をご覧ください。イエス様はご自分が話されることに耳を傾けている人々に、続けて一つのたとえを話されました。それは、イエス様がエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからです。イエス様は今まで様々な罪人達に仕え、数多くの病人を癒し、奇蹟を行なわれました。五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられたこともありました。それで人々はイエス様がローマ帝国を倒し、イスラエルが全世界を治める地上王国がすぐにでも現われるように思っていました。そうなると自分達の苦労と苦痛は終わり、これから神様の祝福と恵みを受けることができるだろうと期待していました。特に何もかも捨ててイエス様に従った弟子達は神の国が現れると、自分達の今までの苦労は終わり、総理大臣になる期待によって胸がどきどきしていたでしょう。しかし、イエス様がエルサレムに上っておられる理由は、人類を罪から救うために十字架につけられるためでした。イエス様の先には恥と蔑視の十字架、苦しみと呪いの十字架が置かれていました。イエス様はこの十字架を通して栄光に至ろうとされました。これはイエス様に置かれた神様の御旨でした。

 それでは私たちにはどんな点で彼らのような期待がありますか。私達も十字架を通らないで復活の栄光に至ろうとする心を持つ時があります。それは運が良くなることを願い、奇跡を求める心です。奇跡を求める心は現実の生活を認めず、使命の十字架を拒みます。こういう人々は御言葉の前で真実に悔い改め、御言葉に基づいて生活するより、神様が奇跡的に自分を変化させてくださるように願います。全力を尽くしてFishingやマンツーマン聖書勉強を通して弟子を育てようとするより神様が素直な羊を送ってくださるように願います。汗をかきながら英語単語を覚えるより神様が異言の賜物を与えてくださってある日突然上手に英会話ができることを願います。こんな信仰をご利益信仰と言います。

 しかし、「No cross, no crown」です。失われた一人が悔い改めてイエス様を信じて救われるためには涙とともに福音の種を蒔くことが必要です。そしてその人が他の人にも教える忠実な主のしもべとして成長するためには牧者の涙の祈り、信仰、犠牲が伴います。イエス様はヨハネの福音書12:24節で言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 弟子達はイエス様の十字架の苦難と死の意味を通してこういう命の原理を学ばなければなりませんでした。何よりもイエス様の弟子として自分の十字架を負ってついて行かなければなりませんでした。しかし、世の栄光ばかり求めている心は彼らの霊的な目を暗くしました。イエス様はそのような彼らの誤った考えを正し、主の再臨を待ち望んでいるクリスチャンがどんな姿勢を持って生活するべきかについて一つのたとえを通して教えてくださいました。

 12,13節をご覧ください。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」当時、ユダヤはローマの植民地だったのでユダヤの王位を得るためにはローマに行って王位を受けて来なければなりませんでした。このたとえは当時のこのような政治的な状況を背景にしています。ある身分の高い人が、王位を受けて帰るために遠い国に行きました。彼は出発に先立って自分の十人のしもべを呼んで、各自に一ミナずつ与えました。ここで言われている一ミナとはギリシャの貨幣単位であって、ローマの貨幣で百デナリに相当するものです。当時の一日の労賃が一デナリであったので、一ミナは約三ヶ月の賃金に相当するものでした。主人は一人当たりに一ミナずつ与えて「商売しなさい」と命じました。これは限られている期間のうちに果たすべき使命でした。この使命は彼らの人生にはっきりとした方向を与えてくれるものです。また、これは命令なので自分が願っていても、願っていなくても必ず果たさなければならないことです。そしてこの御言葉のギリシヤ語の意味は「私とあなたのために商売しなさい」という意味が含まれています。しもべが主人の命令に従って商売するのは、ただ主人のためだけではなく、自分にも益になることなのです。

 それではこのたとえが私達に与えてくれる意味は何でしょうか。このたとえはタラントのたとえ(マタイ25:13-30)と似ていますが、多くの相違点があります。その中で最も違う点は依託の方法において能力別ではなく、一律に同額であることです。タラントのたとえではしもべ達に五タラント、二タラント、一タラントが与えられ、それぞれ与えられたタラントが違いました。このタラントから人の「才能」を意味するタレントという言葉が作り出されました。ですからタラントのたとえは才能を活かして神様に有益を残してあげなさいという意味が強いです。しかし、ミナのたとえはタラントのたとえとは違ってしもべたちにみな同じく一ミナずつ与えられました。それではこのミナは何を意味するでしょうか。ある人はそれを「生命」だと言っています。しかし、すべての人が神様からいのちをいただきましたが、その寿命は違います。人に与えられた時間もそうです。それで多くの聖書学者達はミナを神様から受けた福音を意味すると言っています。神様は私達に福音を与えて下さいました。そしてイエス様が帰るまで、すなわち再び来られるその日まで「商売しなさい」と命じられました。

 私達がこの命令に従って福音の商売をする時、多くの利益を残すことができます。福音には、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力があります(ローマ1:16)。福音は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なものです(?テモテ3:16)。福音には信じるすべての人を新しく生まれさせる力があります。この福音は悪名高い取税人レビをセイントマタイに変えました。利己的な取税人のかしらザアカイを隣人に施す人として新しく生まれさせました。生臭いにおいがする漁師ペテロを人間を取る漁師に新しく変えました。このように福音には三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせる力があります(マルコ4:20)。ですから、私達がこの福音を持ってよく商売するなら、多くのいのちの実を結ぶことができます。私達が一年にひとりずつ弟子養成するなら、30年後には全世界が福音化されます。それに何だかの能力が必要ではありません。ただ福音の力を信じる信仰だけあればできます。私達に福音の力を信じる信仰があれば、どんなことでもできるのです。また、多くの実を結ぶことができます。そういうわけで、イエス様はそのしもべたちに言われました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。私達がこの主の命令に従って福音の商売をして多くの実を結ぶことができるように祈ります。

 

?。よくやった。良いしもべだ(14-27)

 

 14節をご覧ください。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」その国民達は何の理由かは知りませんが、彼が王になることを願いませんでした。このたとえ話を聞いた人々は、当時から約三十年ほど前に起こったある事件を思い出したはずです。それはこの話が歴史的な事実に基づいているからです。紀元前四年、過越の祭が始まる少し前にヘロデ大王が死に、その遺言により、その子アケラオが王位を継承することになっていました。しかし、それはローマのカイザルの承認を必要とするものなので、彼はローマに行かなければなりませんでした。ところが、アケラオはあまりにも悪く残忍な人だったので、ユダヤ人たちは50人の使節団をローマに派遣して、彼を王に迎えるのは不服である旨をカイザル・アウグストに伝えました。しかし、結果的にはアケラオが王位を受けて来て自分が王になることを拒んだユダヤ人八千人を虐殺した事件がありました。ですからユダヤ人なら誰でも、このたとえ話を聞けばすぐに、そのもとになっている歴史的な事件を思い出しただろうと思います。イエス様のたとえ話はこういう歴史的な事件を背景にしています。また、この御言葉はイエス様のキリストとしての王権を否認し、イエス様を十字架につけようとしているユダヤ人のことを考えて言われたたとえです。

 同じように、私達が処せられているこの世はイエス様の王権を拒んでいます。イエス様がキリストであることを拒んでいます。キリストの再臨が近づいて来れば来るほど世の人々はますます堕落します。ルカ17:26-29節に出ているノア時代のように、またソドムの人々のように人々は霊的なことに無関心になります。そして、食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりする肉体的なことにだけ没頭するようになります。しかし、世の人々がイエス様の王権を認めないからと言ってイエス様が王として来られないことはありません。

 15節をご覧ください。「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」人々の反対にも関わらず、身分の高い人は王位を受けて帰って来ました。時になると、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られます(マルコ13:26)。その時はイエス様がご自分を反対した人々を裁かれる日です。その日は彼のしもべたちを集めて決算をする日です。聖書は次のように言っています。「なぜなら、私達はみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(?コリント5:10)。その日は、私達が自分の行ないに応じて神様の前で人生の決算をしなければなりません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9:27)。そういうわけで私達は自分の人生を自分勝手に過ごしてはならないのです。

 16節をご覧ください。「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』」最初の者はよく商売して10倍の利益を残しました。主人を排斥しようとする雰囲気の中で十倍の利益を残すことはなかなか難しいことでしょう。また、一ミナを預けられた時、小額だと思って軽視する可能性が大いにあります。大切にしてそれを活用するにはそれだけ主人への尊敬と従順の精神がなければなかなかできないことです。それで主人は非常に喜んで彼に言いました。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」(17)。主人は彼を賞賛し、十の町を支配する報酬を与えました。忠実なしもべの受けた報酬は、手をこまねいて、何もしないでいられるという種類の報酬ではありませんでした。「あなたは忠実に働いたのでこれから何もしないで休みなさい」というようなものではなかったのです。良い仕事をした報酬は、さらに重大な仕事を任されたことです。試験に合格した人間に対する神様の報いは、さらにあつい信頼であるのがわかります。

 18、19節をご覧ください。二番目の者が来て言いました。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言いました。「あなたも五つの町を治めなさい。」二番目の者に対して主人は最初の者と比較してもっと多くの利益を残せなかったことをお叱りになりませんでした。そのしもべが最善を尽くして努力したことを認め、賞賛しました。そして、彼の行為に応じて五つの町を支配する報酬を与えました。

 では彼らが、商売がよくできた秘訣は何でしょうか。いろいろなことが考えられますが、その中で四つのことを考えてみたいと思います。

 第一に、ほんの小さなことに忠実だったことです。小さなものは無視してしまいがちです。成功した人達の特徴の一つは小さなことに忠実したことだそうです。英語を上手に話せるためにはほんの小さな単語を一つ一つ覚えなければなりません。偉大な牧者や宣教師になるためには小さな一人の兄弟を尊く思い、仕えることを学ばなければなりません。

 第二に、途中諦めず最後まで熱心に働いたことです。彼らは一ミナを持って熱心に働きました。しかし、うまく商売ができなかった時もあったでしょう。人は困難に出会うと、途中で諦めてしまいがちです。「できるまでやろう」と決めていたにもかかわらず、うまくいかなくなると、投げ出してしまいます。しかし、それでは何も得ることができません。執念を持って最後までやり遂げなければ、成功など望むべきものではありません。「井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ」という言葉があります。任された仕事を始めたら、目的が達成されるまで諦めずする人が成功します。途中諦めてしまったら何もやらなかったのと同じです。私達はこの国のキャンパスの人々に福音を宣べ伝えています。ところが、私達が今まで経験して来たように様々な困難に出会う時があります。最初は信仰によって出発したにも関わらず、このような困難に出会うと諦めてしまいがちです。しかし、それではいつまでも何も得ることができません。しつこいやめものように諦めず、最後まで福音を宣べ伝える時、主は必ず実を結ばせてくださることを信じます。私達が信仰によって最後までサマー・バイブル・キャンプに兄弟姉妹達を招くことができるように祈ります。

 第三に、商売のために研究したことです。商売をうまくするためにはタイミングが必要です。そのためには研究が必要です。福音の商売もそうです。成功するためには御言葉を研究し、羊を研究し、時代を研究しなければなりません。研究しない人は成長しないし、商売をうまくすることができないのです。

 第四に、「商売しなさい」という主人の命令に聞き従ったことです。ほんの小さなもので商売をするように言われた時、彼らは「こんな小さなお金で商売ができるか」と主人に文句を言いたくなったでしょう。また、主人を敵対している雰囲気の中で商売どころか、殴られるかも知れないという恐れも生じたでしょう。特にこのような蒸し暑い時に商売をするのは大変だったでしょう。しかし、彼らはそのような環境や状況に対して文句を言ったり、つぶやいたりせず、主人の命令に絶対的に聞き従いました。その時、彼らは五倍、10倍の利益を残すことができました。

 しかし、もうひとりは、前の二人とどのように違いましたか。20、21節をご覧ください。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」彼は主人を恐れていました。主人との関係性がありませんでした。主人を愛していませんでした。今日も神様が与えられた福音をふろしきに包んでおいている人達がいます。彼らは大抵、恐れに悩まされている人達です。自分は弱いからできないと謙遜そうに言う人もいますが、実は恐れが問題です。恐れは人を怠け者にし、弱虫にします。ところが、この恐れは不信仰から来るものです。結局、恐れて何もしないと主人に不従順な者になってしまいます。

 主人はそのしもべに「悪いしもべだ」と叱りました。そして、そばに立っていた者たちに「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」と言いました。26節をご覧ください。主人は言いました。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。」これがまさに福音の原則です。誰でも、主人から責任を与えられていることを自覚して忠実に働く者は、さらに多くの責任が与えられ、責任を持っていないと思っている者、すなわち、神様からの賜物を軽んじている者は、持っているものまでも取り上げられてしまうのです。

 結論、主は私達に福音を預けて命じられました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。私達に預けられた福音には力があります。生命力があります。ですから、「商売しなさい」という命令に従ってほんの小さなことに忠実であるなら、主は三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせてくださいます。私達が任された福音を持ってよく商売をし、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ忠実なしもべとなるように祈ります。そして、主の御前に立ち、清算をするその日、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と賞賛される人となるように祈ります。この国の人々は商売を上手です。日本の商品は世界国々に輸出されています。商売上手のこの国がこれからは福音の商売で成功して世界宣教のみわざに尊く用いられる祭司の王国となるように祈ります。