1999年ルカの福音書第7講

 

もっと大きく良い信仰

 

御言葉:ルカの福音書8:40?56

要 節:ルカの福音書8:50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさ

    い。そうすれば、娘は直ります。」

 

 私達クリスチャンは自分の信仰が成長することを願っています。神様も日々私達の信仰が成長してもっと大きく良い信仰を持つことを願っておられます。それでは、もっと大きく良い信仰とはどんな信仰でしょうか。今日の御言葉には十二年の間長血をわずらっていた女性と、十二歳の一人娘が死にかけているヤイロのことが記されています。彼らは絶望の中から信仰によってイエス様のもとに出て行きました。イエス様は彼らの信仰に基づいて彼らの信仰を成長させ、彼らが願っていたことよりももっと大きく祝福してくださいました。この時間、イエス様が願われるもっと大きく良い信仰とは何かを学びたいと思います。

 

?.もっと良い信仰(40-48)

 

 40節をご覧下さい。イエス様はゲラサ人の地方から、再びカペナウムに帰られました。すると、群衆は喜んで迎えました。みなイエス様を待ちわびていたからです。イエス様の愛と力を知っていた彼らはイエス様が一日も早く自分達の所へ帰って来られることを願っていたのです。その中でも誰よりも切実にイエス様を待ちわびている人がいました。41節をご覧下さい。その人は、ヤイロという人でした。彼は会堂管理者でした。彼はイエス様の足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願いました。会堂はユダヤ人の礼拝の場所ですが、初等教育や裁判の場所ともなりました。会堂管理者とは、この会堂で、礼拝が正しく行なわれるように監督し、会堂の建物を維持し管理する責任者でした。会堂管理者は町の長老達の中から選ばれた町の有力者でした。ですから、ヤイロはかなり地位のある人でした。こんな彼がなぜ、イエス様の足元にひれ伏して自分の家に来てくださるように願っているのでしょうか。42節をご覧下さい。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのです。彼にとって一人娘はかけがいのない存在でした。たった一つの灯火のような存在でした。彼が職場から帰って来ると娘は「パパ。お帰りなさい」と言いながら抱かれました。すると、一日の疲れはすぐ消えてしまいました。娘のかわいい顔を見ているとヤイロは幸せでした。ところが、そのかわいい娘が死にかけていたのです。何と悲しいことでしょうか。子供は親にとって自分のいのちのような存在です。親は子供が病気のために苦しんでいると、出来ればその苦しみを自分が代わりに受けたいと願うほどです。ヤイロは死にかけている娘を癒すことができるならどんなことでもするつもりでした。それで、彼は会堂管理者としての名誉も地位も、日ごろのプライドも捨てて、イエス様の足元にひれ伏しました。そして、「どうか。私の家に来てくださって娘を癒してください」と懇願しました。これがまさに親心です。この親心は罪によって死にかけている人を哀れむ牧者の心であり、神様の御心です。私達が罪のために死にかけている兄弟姉妹達に対してこのような親心を持つ時、ヤイロのようにイエス様に懇願することができます。神様が私達にキャンパスの兄弟姉妹達に対する親心を与えてくださるように祈ります。

 イエス様はヤイロの願いを聞いてお出かけになりました。すると、群衆がみもとに押し迫って来ました。その時、どんなことが起こりましたか。

 43節をご覧下さい。群衆の中に、イエス様のうしろに近寄って来る一人の女性がいました。彼女は十二年の間長血をわずらっていましたが、誰にも直してもらうことができませんでした。この病気は出血を伴う一種の婦人病でした。ユダヤ人社会においては、このような出血のある女性は汚れた者とされ、それにふれる者は汚れると考えられていました(レビ15:25-27)。そのために彼女は人前に出ることができず、結婚もできませんでした。肉体的には長い闘病生活のために弱り果てていました。マルコの福音書5:26節によると、「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と記されています。彼女は、社会的にも、肉体的にも、経済的も絶望的な状態でした。彼女はその絶望の中で、イエス様に対するうわさを聞きました。ローマ10:17節によると「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです」と書いてあります。彼女はイエス様について聞いて信仰を持つようになりました。彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と信じるようになりました(マルコ5:28)。

 信仰は彼女に積極的な姿勢と諦めない不屈の精神を与えてくれました。それで彼女は信仰によってすべての壁を乗り越えてイエス様のうしろから近寄って来て、イエス様の着物のふさにさわりました。すると、驚くべきことが起こりました。44節をご覧下さい。十二年間止まらなかった出血がたちどころに止まったのです。この時は「群衆がみな押し迫って来て」「大勢の人がひしめき合って押していた」から、多くの人がイエス様にさわったはずです。しかし、信仰によってさわった彼女一人だけが癒される恵みを受けました。今日も、キリスト教の集会に出席する人は少なくありません。聖書を読んでいる人も多くいます。しかし、ただ漠然とそうする人は何の恵みも受けません。信仰を持ってそうする人だけが恵みを受けるのです。イエス様は言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」(マルコ11:22,23)。神様は天地を創造された全能なる方です。神様には不可能なことがありません。誰でもこの神様を信じる人は能力ある人生を過ごすことができます。

 45-47節をご覧ください。イエス様は、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われました。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言いました。しかし、イエス様は、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われました。女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエス様にさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話しました。それでは、なぜ、イエス様はそれほどしつこく彼女を捜しておられたのでしょうか。治療費をもらうためにそのようにされたのでしょうか。「ありがとうございます」という言葉が聞きたくてそうなさったのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様が彼女を捜されたのは信仰の人に会いたかったからです。イエス様は信仰による行ないを大事にされる方です。ヘブル人への手紙11:6節は言います。「信仰がなくては、神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」主は何よりも信仰のわざを喜ばれ、信仰の人を捜しておられます。今日でも私達が何をしても信仰がなくては神様に喜ばれることはできません。神様は私達が信仰によって行うことを喜ばれ、信仰の人を捜しておられます。また、イエス様はこの女性に信仰の告白をさせたかったのです。イエス様は信仰の告白を通して彼女の体の癒しだけではなく、たましいまでも救おうとされたのです。彼女が病気だけ癒されて帰ってしまったのなら、イエス様との関係性を結ぶことも、たましいが救われることもできなかったはずです。また、体の病気のために生じた心の病も癒されなかったはずです。そういうわけでイエス様は彼女がみなの前で信仰によって癒されたことを告白するようになさいました。イエス様は彼女の告白によって彼女のたましいも救われ、すばらしい信仰のわざが人々に知らされて主の御名があがめられることを願われたのです。

 48節をご覧下さい。そこで、イエス様は彼女に言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」イエス様は信仰告白をした彼女を「娘よ」と呼んでくださいました。人々は彼女を汚れた女として見下げていましたが、イエス様はご自分の娘として迎え入れてくださったのです。彼女は信仰告白を通してイエス様と親子関係を結ぶようになりました。私たちの所感発表は信仰告白の一つです。私達は所感発表を通して自分の罪を悔い改めたり、主が自分のうちに働かれたわざを告白します。そして、イエス様を自分の救い主として告白します。すると、イエス様との深い関係が結ばれるようになります。心には真の平安と救いの確信が与えられます。また、イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。それは彼女の信仰を認められたことです。イエス様は彼女の信仰を認めて励まし、祝福してくださいました。

 ここで、私達はイエス様が願っておられるもっと良い信仰について学ぶことができます。彼女は自分の病気だけが癒されることを願いました。しかし、イエス様は彼女がもっと良い信仰を持つように助けてくださいました。信仰告白を通して体の病気だけではなく、たましいの救いに至る信仰に導かれました。そして、彼女と人格的な関係性を結んでくださいました。さらに、個人の問題を乗り越えて人々に信仰のわざ、イエス様の恵みを証しする福音の伝道者として祝福されました。私達はイエス様に解決していただきたい様々な問題を持っています。学生は勉強の問題、卒業した人は就職の問題があります。健康の問題で苦しんでいる人もいます。羊の問題、弟子養成の問題で悩んでいる人もいます。また、結婚の問題、アルバイトの問題などを持っている人もいます。イエス様は信じる者にこのような現実の問題も解決してくださいます。しかし、私達はその問題を解決してもらったことにとどまっていてはなりません。主は私達がもっと良い信仰を持つことを願っておられます。主は私達がそれらの出来事を通してイエス・キリストを得ることを願っておられます。また、主はそれらの出来事を通して私達と深い人格的な関係性を結ぶことを願っておられます。そればかりではなく、私達が人々に信仰のわざ、イエス様の恵みを証しするクリスチャンとして成長することを願っておられます。私達の信仰がもっと良い信仰として成長し、主に喜ばれるクリスチャンになることができるように祈ります。

 

?.もっと大きな信仰(49-56)

 

 ヤイロは、イエス様が途中で足を止め、長血をわずらっている女のために手間取っているのを、いらいらしながら待っていたでしょう。しかし、とうとう間に合いませんでした。イエス様がとどまっている間に、人々はヤイロに絶望的な知らせを持って来たのです。49節をご覧下さい。イエス様がまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」この知らせを受けたヤイロの心境はどうだったのでしょうか。その瞬間、彼はハンマーで打ちのめされたように目の前が真っ暗になったはずです。家から来た人の言葉には「もう死んだからすべてが終わった」という諦めと「イエス様も死んだ人に対してはどうすることもできない」という不信が込められています。この言葉はヤイロにイエス様に対する不信仰を植え付け、イエス様との関係性を破壊させる力を持っています。ヤイロは「死んだ。娘はもう死んでしまった。イエス様をお連れしようとしたのに、間に合わなかった」と思ったでしょう。ヤイロ家庭のたっと一つの灯火が消えてしまいました。死の知らせはヤイロを恐れさせました。その時、イエス様は彼にどんな方向と約束を下さいましたか。50節をご覧下さい。これを聞いて、イエス様は答えられました。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」この御言葉は不信と恐れを植えつける人々の言葉を気にしないで続けてイエス様だけを信じなさいということです。イエス様は人々の言葉を通して働くサタンの策略を見分けられ、ヤイロに信仰を植えつけてくださいました。「恐れないで、ただ信じなさい。」

 イエス様は、まず「恐れないで」と言われました。ヤイロの心に生じた恐れは生まれつきのものではなく、娘が死んだという知らせを聞いた時、生じたものです。この恐れはサタンが植えつけるものです。恐れは働くと力があります。人は恐れに捕われると無気力になります。声も小さくなり、表情も堅くなります。心も狭くなっていらいらしたり、焦ります。それで恐れのために不信に陥り、信仰の道から離れる人もいます。この恐れは神様から来たものではありません。こういう恐れはサタンが私達の心に植えつけるものです。神様が私達に与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です(?テモテ1:7)。サタンは私達の心に健康に対する恐れ、失敗に対する恐れ、結婚に対する恐れ、将来に対する恐れ、漠然とした恐れを植え付けます。私達が信仰によって生活しないとすべてを恐れるようになります。私達はこのような恐れはサタンが植え付けるものであることを見分けて立ち向かわなければなりません。そうすれば、恐れを植え付けるサタンは私達から逃げ去ります。

 イエス様はヤイロの心にある恐れのとげを取り除いてから信仰を植え付けられました。「恐れないで、ただ信じなさい。」ここで「信じなさい」という動詞はマルコの福音書には「信じていなさい」と書いてあります。それは信仰とは一時的にその時だけ信じるのではなく、信じ続けることが肝心であることを示唆してくれます。神様の力を信じる信仰が成し得ることに限界はないのです。どんなに状況が難しく進んでいても弱まることなく、信じ続けなければならないのです。パウロはアブラハムの信仰についてこう言っています。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ4:19-21)。パウロはアブラハムの信仰をすべての人々の信仰の模範として言いました。ですから、私達も信仰の先祖アブラハムのようにどんなに状況が難しく進んでいても信仰が弱まることなく、ますます強くならなければなりません。イエス様はヤイロが娘が死んだという知らせに恐れないで、イエス様をただ信じ続けるように方向を与えられたのです。

 「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」この御言葉は信仰の力がどんなに大きいのかを教えてくれます。ヤイロは死にかけていた娘が死んだから、彼が処せられた状況はもっと悪くなりました。こうなると、信じ続けることは段々難しくなります。しかし、彼が、ただ信じさえすれば、死んだ娘が生き返ります。彼がただ信じさえすれば、死の力に打ち勝ち、復活の力を体験することができます。ただ信じさえすれば、悲しみや絶望を乗り越えて喜びの人生、勝利の人生を過ごすことができます。人々はただ信じることは愚かなことだと思っています。ただ信じていったい何ができるかと言います。しかし、ただ信じさえすれば神様ご自身が働きかけてくださるので、何をしても栄えるようになります。信じることはすべてのことを主に頼り、主にゆだねることです。ただ信じさえすれば、神様がその信仰を祝福してくださり、必要な物質も健康も与えてくださいます。神様は信じる人をベストの道に導いてくださいます。

 ヤイロが死にかけている娘を生かすためにイエス様に出て来たのは大きい信仰でした。しかし、イエス様は彼にもっと大きな信仰を持つことを願われました。なぜなら、娘の病気が癒されてもいつかは死ぬからです。イエス様はヤイロに死までも乗り越えるもっと大きな信仰を植え付けることを願われました。復活信仰は限界の限界である死を乗り越える最も大きいプレゼントです。イエス様は私達にも最も大きくて良い信仰をプレゼントすることを願っておられます。

 ヤイロに信仰を植え付けられたイエス様は家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しになりませんでした。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様は言われました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」いのちの主であるイエス様の前では泣く必要がありません。イエス様にとって死は眠りと同じなのです。よみがえりであり、いのちであるイエス様には死がないのです。イエス様にあって死ぬ人は、それが死ではなく、この世の労苦を終えて眠ることです。死ぬということには希望がありませんが、眠るということには希望があります。私達は毎日夜になると寝ます。寝るのを恐れている人はいません。それは朝になると起きることを知っているからです。もし朝起きられず、永遠に眠ってしまうと思ったらなかなか眠れないでしょう。このように起きられるということと起きられないということには大きな差があります。ところが、主にあって死ぬクリスチャンは死んでも生きるのです。それで黙示録14:13節にはこのように記されています。「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

 人々は死ねば、すべてが終わりだと考えているので死の前で絶望し、泣きます。しかし、主にあって死ぬ私達の死は眠りと同じです。一日中働いて疲れた体も一晩ぐっすり寝て起きると新しいさわやかな朝を迎えることができます。そのようにクリスチャンが死ぬということはぐっすり寝て起きると栄えある神の国に移されていることなのです。何とすばらしいことでしょうか。私達にはこのような生ける望みがあるからこそ、今の労苦に悲しむことなく、主と福音のために喜んで献身し、自分を犠牲にすることができるのです。人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエス様をあざ笑っていました。しかしイエス様は、どのようにして死んだ子どもを生き返らせたのでしょうか。54,55節をご覧下さい。イエス様は、娘の手を取って、叫んで言われました。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がりました。それでイエス様は、娘に食事をさせるように言いつけられました。このイエス様はどんな方ですか。イエス様は死にも打ち勝ち、支配することのできる方です。イエス様は、ご自身が復活されただけではなく、イエス様を信じる者を死からよみがえらせる力を持たれた方です。ですから、信じる者にとっては、もはや死も恐れるべき存在ではありません。イエス様は言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。

 結論、イエス様は「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われます。イエス様はヤイロに死の力を打ち破られるイエス様を信じるもっと大きな信仰を持つことを願われました。私達が信仰によってサタンが植え付ける恐れや不信、絶望を乗り越えて力ある人生、勝利の人生を過ごすことができるように祈ります。