1999年ルカの福音書第11講

 

何を求めるのか

 

御言葉:ルカの福音書12:13?34

要 節:ルカの福音書12:31

「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。

そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」

 

 人間はお金や地位などによって幸せになれません。それではクリスチャンが本当に求めるべきものは何でしょうか。本文の御言葉でイエス様は私達に貪欲を警戒し、物質に対してどういう態度をとるべきか、を教えてくださいました。今日の御言葉を通して聖書的な物質観を確立して神の国を求める人生を過ごすことができるように祈ります。

 

?.人の命はどこにあるのか(13-21)

 

 13節をご覧下さい。群衆の中のひとりがイエス様に、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言いました。当時の人々は、何かの決着のつかない争いが起こると尊敬するラビのもとに持って来ました。彼は兄弟と遺産を分配する問題をイエス様のもとに持って来ました。今の時代にも親が残した財産の分配をめぐって争いが起こる場合が多くあります。少しでも多くの財産を分配してもらうために兄弟同士が憎み合い、恨み合うことが頻繁に起こっているのです。それではイエス様はその問題に対してどう答えられましたか。

 14,15a節をご覧下さい。イエス様は彼に「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」と言われました。そして人々に言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」イエス様は遺産分配の問題で争そっている兄弟達の問題が貪欲であるのを読み取って分かりました。また、この問題はすべての人々の問題でもあるのが分かったので人々の教育のために「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」と言われました。それでは貪欲とは何でしょうすか。貪欲は欲望をどこまでも追求し、満足することを知らない様子です。もっともっと所有しようとする熱望です。すなわち、貪欲は必要以上に所有しようとする欲なのです。私達には事実、ある程度のお金も必要だし、家も、物も必要です。先週学んだ「主の祈り」の中でもイエス様は日ごとの糧のために祈るように教えられました。ところが問題は自分の必要以上に、無理にでも所有しようとする欲です。人にはいろいろな種類の貪欲があります。お金や食べ物に対する貪欲、権力や名誉に対する貪欲、情欲に対する貪欲などがあります。私達はどんな貪欲にも注意して、警戒しなければなりません。食べ物に対する貪欲のためにいつも食べ過ぎると、胃病にかかります。ヤコブ先生は「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)と言いました。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(?テモテ6:9、10)と言いました。貪欲は人を滅びと破滅に投げ入れ、愚かで、有害な多くの欲とに陥れます。貪欲は人格を破壊し、人々との関係を切ってしまいます。さらに霊的に偶像崇拝者になって神様との関係まで破壊させます。それで、神様はこの貪欲を十戒のひとつとして禁じられました。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(出20:17)。

 ですから、私達はどんな貪欲にも注意して、よく警戒しなければなりません。ある証券会社の標語は「命よりもっと貴重なお金を守ろう」であるそうです。実際にお金は私達のいのちを守り、私達を幸せにしてくれるそうに見えます。お金がなければ買いたいものを買えないし、食べたいものを食べられません。しかし、お金があれば何でもできます。お金があれば世界一周旅行もできます。だから、人々は熱心にお金を儲けようとしています。しかし、実際に多く所有している人達はむしろその所有のために不幸になる場合が多くあります。貪欲のために利己的になり、けちになってしまいます。その結果、友達を失い、兄弟までも失って非常に寂しい生活をしている人達も多くいます。また、貪欲のために儲けすぎて心配し、苦しんでいる人達もいます。アメリカの多くの金持ちはホテルに住んでいるそうです。なぜなら、自宅ではいつ強盗に襲われるか知らないからだそうです。貪欲のために心の平安と安らぎを失い、真の幸せを失っているのです。

 そこで、イエス様は人々にどんな貪欲にも注意して、よく警戒しなければならない最も根本的な理由を説明して下さいました。15b節をご覧下さい。「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」。ここでいのちは真のいのちを意味します。人々はお金さえあれば胸を張って生命力のある生活ができるだろうと思っています。しかし、真のいのちは財産にあるのではありません。いくら金持ちであってもいのちの問題だけはそのお金で解決できないのです。それなのに、人々はそのお金に執着しています。イエス様はこういう人々の愚かさを悟らせるために一つのたとえを話されました。

 16-19節をご覧下さい。ある金持ちの畑が豊作でした。彼は元々金持ちなのにその年も豊作だったのでますます金持ちになりました。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えました。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』彼は作物が多くて悩む嬉しい悲鳴をあげたのです。そして悩みの解決策として今の倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこうと思いました。そして、自分のたましいにこう言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」彼の幸福への価値観は安心して、食べて、飲んで、楽しむことでした。彼は美味しいものを食べながら「ああ、僕は何と幸せだろう」と言う人でした。彼は熱心に儲けて蓄えた財産を見ながら「ああ、僕は何と幸せな人だろう」と思う人でした。彼は多くの財産を持って人生をエンジョイする人でした。人々も彼に対して「あの人は成功した人だね。あの人はきっと幸せだろう」と言ったでしょう。それでは彼は本当に幸せな人でしょうか。

 20節をご覧下さい。神様は彼に言われました「愚か者。おまえのたましいは今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか」。神様はこの金持ちに「愚か者」と言われました。それでは彼はどんな点で愚か者なのでしょうか。

 第一に、彼は自分のたましいについて真剣に考えていませんでした。「愚か」というのはギリシャ語で「考えがない」という意味です。創世記2:7節を見ると、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」と書いてあります。ここで「生きものとなった」というのは文語訳に「霊となり」と訳されています。人間は動物と違ってたましいのある霊的な存在として造られたのです。ところが、たましいは食べて、飲んで、楽しむだけで満足しません。人間に五つの感覚があります。「見る」、「聞く」、「嗅ぐ」、「味わう」そして「触れて感じる」です。これを人間の五感と言います。しかし、私達人間はこの五つの感覚がどんなに満ち足りても魂の安らぎや喜びや感動はやって来ないのです。美味しいものを食べている時には嬉しいかもしれません。しかし、いくら美味しいものだとしても毎日食べるとすぐ飽きてしまいます。しかし、本文の金持ちは「五つの感覚」よりもっと深く広く高い魂の世界があるということに気づいていなかったのです。最も重要なたましいについて考えもしなかったのです。食べて、飲んで、楽しむことだけを考えて、自分のたましいのことを考えない彼は神様がご覧になると、愚か者でした。

 野心に燃えた青年と人生を知った老人との間に、こんな会話が交わされました。「僕は商業を勉強するんだ」。「それから」。「事業で身を立てるのさ」。「それから」。「きっと金持になるだろうよ」。「それから」。「それから、僕も老人になって、隠退し、稼いだ金で残りの人生を送ることになるだろうよ」。「それから」。「うーむ、それからいつかくたばる日が来るだろうさ」。

 第二に、物質をどのように使うのが価値ある使い方かについて何の考えもありませんでした。彼は財産を集めるためにはよく考え、努力して、金持ちになりました。しかし、お金を儲けることよりもっと大切なことはその使い方です。彼は多くの財産を自分のために使うことしか考えていませんでした。彼は自己中心でした。彼は莫大な富を所有していながら、その幾分でも分けようとはしませんでした。彼は与えることに幸福をみつけようとする代わりに、貯えることによって幸福を確保しようとしました。21節をご覧下さい。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」彼がいくら多く儲けても死ぬ時は裸で帰らければなりません。彼は財産を使う知恵がありませんでした。その物質が神様から与えられたものであることを知りませんでした。その物質に対する管理人としての姿勢がありませんでした。人はたましいがなければ獣と同じです。たましいに喜び、幸福がなければ真の喜び、幸福がありません。財産に執着すると霊的な問題に陥りやすいです。ですから、財産に対する価値観、人のいのちに対する価値観がはっきりしていなければなりません。

 

?.人が心配をどのように克服することができるのか(22-34)

 

 22節をご覧下さい。金持ちの譬え話を言われたイエス様は弟子たちに言われました。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。」金持ちは豊か過ぎて嬉しい悲鳴を上げましたが、反対に弟子達は衣食住の問題を心配していました。彼らは何もかも捨ててイエス様に従ったので貧しい生活をしていたからです。ギリシヤ語で「心配」は「分裂」を意味することばです。彼らの心は天と地、財産と神様の間に二分されていたことがわかります。彼らはすばらしい神の国の民としてアイデンティティを持っていましたが、地上の物に心配もあったようです。ところが、そういう二心は神様に喜ばれることではありません。だから、イエス様は「心配するのをやめなさい」と言われました。何よりもいのちは食べ物より大切であり、体は着物より大切だからです。神様は私達のいのちを養って下さるのに、どうして命に必要な衣食住の問題を解決してくださらないでしょうか。

 24節をご覧下さい。「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」イエス様は弟子達に目を上げて自然の世界を考えて見るように勧めておられます。センターから近くの戸山公園に行けば多くの烏があります。私はその烏が種を蒔いたり、刈り入れたりするのを見たことがありません。神様はこのような烏さえも養ってくださるなら、烏よりも、はるかにすぐれた弟子達を養ってくださらないわけがあるでしょうか。イエス様は、心配が問題の解決に全く助けにならないこと、をどのように言われますか。25,26節をご覧下さい。「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」心配すればいのちを少しでも延ばすことができるなら人々は毎日心配するでしょう。しかし、心配すればするほど病気にかかったり、命が縮まるようになります。イエス様は烏のことを言われてから今度はゆりの花のことを考えてみるように言われます。27、28節をご覧下さい。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち」イエス様の言われるゆりの花とは、パレスチナの丘に咲くアネモネでした。夏、夕立がひとしきり降った後には、丘の斜面がこの花で覆われました。しかし、それは一日咲いただけで枯れて行きます。パレスチナでは木が少なかったので、炉の火には乾草や枯れた野花が用いられました。しかし、栄華を窮めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾っていませんでした。ましてこの花にまさる存在である弟子達に神様がよくしてくださらないわけがあるでしょうか。それを確信したパウロはローマ8:32で次のように言いました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 以上を通して見ると、私達は何の心配もする必要がないことを学びます。それでも実際に問題にぶつかると心配が生じます。「心配してもしょうがない」と思いながらも心配が生じるのは、どうしてでしょうか。イエス様は「ああ、信仰の薄い人達」と言われました。弟子達は全く信仰がない人たちではありませんでした。しかし、その信仰は薄かったのです。それは信仰が全然ないわけではありませんが、立派な信仰でもない中途半端な状態を現わします。大抵こういう状態である時、心配が多いのではないかと思います。イエス様を信じてクリスチャンになったけれどもまだ、神様を信じきっていない時、心配が多いのです。

 ですから、私達は実際生活の中で心配を克服する方法を学び、身につけて行かなければなりません。使徒パウロはピリピ4:6で次のように言いました。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。私達は心配が生じるたびに祈らなければなりません。イエス様は神様が烏をどのように食べさせ、百合の花をどのように着させておられるかを考えてみるように言われました。人が不信に陥って心配するのは神様を考えずに、現実の問題ばかり考えているからです。神様の愛と恵み、導きを深く考えて見る時、私達は神様を信じて祈ることができます。過去、惨めな私を顧みて愛と恵みを施し、導いてくださった神様が今も食べさせ、着させてくださるだけではなく、これからもベストの道に導いてくださることを信じることができます。私達は自然界を見ながら神様を考えて見ると憂いと心配は消え去り、その代わりに私達の心は神様の愛と恵みによる感謝と平安に満たされます。それでも心配がある方は戸山公園に行って烏のことを見ながらイエス様の御言葉を考えて見ましょう。そして、神様はこんな烏でも食べさせてくださることを見て、信仰を持ちましょう。

 それでは心配しないで私達が求めるべきものは何でしょうか。31節をご一緒に読んで見ましょう。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」この御言葉は不信仰の人々が何を食べようか、何を着ようかと心配し、熱心にそれらを求めている時、あなたがたは彼らの情熱以上に神の国を求めなさいということです。神の国とは何でしょうか。それは、神様が支配する国です。戦いが終わらない国ではなく、愛と正義、公平と平和によって治める国です。イエス・キリストの福音によって人々はこのすばらしい神の国の民になります。キリストの福音によって人々はこの世で愛と平安、心の安らぎがある神の国の民として生きるようになるのです。そして、やがてイエス様が再び来られる時は霊的にも肉的にも完成される永遠なるパラダイス、神の国の民になります。ですから、神の国を求めることは福音のみわざに励むことです。福音を宣べ伝えることによって神様の支配を受ける人々が増えることです。使命人の人生を送ることです。?テモテ4:2には次のように書いてあります。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」私達は神の国を求めるべきであり、神の国のために生きる時こそ、価値ある人生、人間らしい人生を過ごすことができます。また、神様はその人の人生に責任を持ってくださるし、大いに祝福してくださいます。「何はともあれ、あなたがたは神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」これは真実な私達の救い主イエス様の約束の御言葉です。

 32節をご覧下さい。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」大部分の人々は物質中心に生きています。弟子達は小さな群れです。ですから、恐れやすいです。しかし、恐れることはありません。神様は御言葉に従う人々の味方だからです。神様は信仰によって生きる人達に御国をお与えになります。

33、34節をご覧下さい。「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」。実に多くの人々が永続することのないものを積み上げています。しかし、私達は永遠に存続するもののために働かなければなりません。この世を去る時に置いて行かねばならないもののためではなく、一緒に持って行くことのできるもののために働かなければなりません。天の宝を求める者は、その心が天にあります。しかし、地上の宝を求める者は、その心が地上の物にあります。そして、いつの日にか、それらのものに別れを告げる日が来ます。

 結論、私達は愚かな金持ちのようにならないために貪欲に注意して、よく警戒しなければならないことを学びました。そして、心配しないで積極的に神の国を求め、具体的に持ち物、すなわち、時間と若さなどを神の国のみわざのために投資するべきであることを学びました。私達が学んだとおりに実践して、真に価値ある人生、真に豊かな人生、生命力のある人生を過ごすことができるように祈ります。