1999年ルカの福音書第21講
よみがえりと世界宣教
御言葉:ルカの福音書24:1?53
要 節:ルカの福音書24:47
「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、
エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」
「主はよみがえられました。」これはすべての人にとって大きな喜びの知らせです。イエス様の復活によって人々は死の世界からいのちの世界に、絶望の世界から希望の世界に入るようになりました。イエス様の復活は人々の生き方を変え、人類の歴史を変えました。今日の御言葉にはイエス様の復活によって変わった人々が出ています。彼らはみな悲しみと心配、失意と挫折、恐れと疑いに捕われていました。しかし、彼らがよみがえられたイエス様に出会ってからは人生は大きく変わりました。彼らは喜びと希望に満たされるようになりました。イエス様は彼らを復活の証人として立ててくださいました。彼らに世界宣教の偉大な使命を与えてくださいました。この時間、私達もよみがえられたイエス様に出会い、私達の人生に大きな変化が起こり、復活の証人として世界宣教のみわざに尊く用いられるように祈ります。
?.御言葉通りによみがえられたイエス様(1-12)
1節をご覧ください。週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着きました。彼女達は、どうしてイエス様のようないい方がそんなに惨めな十字架刑を受けざるを得なかったか、よく理解できませんでした。それで、彼女達は泣くしかありませんでした。女達は敬愛するイエス様への最後のつとめとして、そのからだに香油をぬろうと思い、墓へと急いでいました。マルコ16:3を見ると、彼女たちは墓に行きながら「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていました。当時ユダヤ人の墓は岩を掘ってつくり、入口に大きな石を転がして置きました。その石は20名の男達がやっところがせるような石でした。ところが、彼女達が墓に着いて見ると、石が墓からわきにころがしてありました。彼女達は不思議に思ったでしょう。しかし、彼女達をもっと驚かせることがありました。墓にはいって見ると、イエス様のからだがなかったのです。「誰がイエス様のからだを盗んで行ったのか。」彼女達はもっと悲しくなりました。しかし、この日はイエス様が死者の中からよみがえられた輝かしい復活の朝でした。
4節をご覧ください。イエス様のからだがなかったため女たちが途方にくれていると、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来ました。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」イエス様は十字架につけられる前、何回もご自分が受けるべき苦難と十字架の死と復活に対して預言されました。イエス様は預言された通りに多くの苦難を受け、十字架につけられ、死なれ、三日目に死者の中からよみがえられたのです。イエス様は神様の力によってよみがえられました。イエス様の死と復活は神様の完全な救いのご計画のもとでなされたことです。
それではイエス様が死者の中からよみがえられた知らせが人々に与える意味は何でしょうか。御使いは「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と言いました。この御言葉から見ると、生きている人と死人がいることがわかります。イエス様は生きている方です。この生きているとはいつかは死ぬことを意味するのではなく死の力に打ち勝ち、永遠に生きていることを意味します。黙示録1:17,18節は次のように言います。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」アダムが神様に罪を犯したため死ぬようになるとその中にいるすべての人々も死ぬようになりました。それはアダムが人類の代表だからです。アダムの中にいる人はいくらからだに良い物を食べ、健康管理をよくしても死の限界を乗り越えることができません。人間は根本的に死の世界に閉じ込められているので真の喜びや勝利を得ることができません。まるで無期懲役を受けた囚人が刑務所の中では真の喜びと勝利を得ることができないことのようです。人間は何をしても結局死ぬという事実の前でむなしくなります。悲しくなり、運命的になります。死は歴史上人類最大の敵でした。史上最も有力な人々も死の前にひざまずいてしまいました。誰がこの死の力から逃れることができるでしょうか。しかしイエス様の復活を通して、神様は人類の最後の敵である死に打ち勝たれました。イエス様の死と復活によって神様は、私達に生ける望みを与えてくださいました。イエス様が死の力に打ち勝ち、人々を死の世界から永遠の命の世界に移してくださいました。イエス様は第二のアダムとして人類の代表として死なれ、よみがえられました。ですから誰でもイエス様を救い主として受け入れる時、イエス様とともに死に、イエス様とともに生きるようになります。それは永遠のいのちを持つようになることです。生きている者は人生のむなしさや無意味にさいなまれません。生きている者は試練の中でも喜ぶことができます。生きている者は死を恐れません。その人には生ける望みがあります。ですから、心には平安と喜びがあり、その人の顔は明るいです。罪によって死んでいた私達をイエス様の十字架と復活によって生きる者としてくだっさった主をほめたたえます。
8節をご覧ください。女たちは御使いの復活のメッセージを聞いて、イエス様のみことばを思い出しました。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告しました。彼女達は最初の復活の証人となりました。しかし使徒たちはなぜイエス様のよみがえりを信じることができなかったのでしょうか。11節をご覧ください。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」彼らは女達の話を愚かな話だと思いました。彼女達が大きな悲しみのあまり夢を見たのだと思ったかも知れません。また、死んだ人がどうやって生き返ることができるかという先入観がありました。確かにイエス様の復活は人間の理性では信じられないことです。今日の人々も復活はあり得ないことだと思い、イエス様の復活の話をすると愚かな話だと言います。しかし、天地万物を創造された全能たる神様を信じる時、イエス様の復活も信じることができます。
使徒達は、女達の話をたわごとと思いましたが、ペテロは違いました。彼は、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込みました。ところが、そこにはイエス様のからだはなく、イエス様のからだを巻いた亜麻布だけがありました。それで、この出来事に驚いて家に帰りました。
?.弟子達に現れたイエス様(13-35)
13節をご覧ください。ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中でした。エマオはエルサレムの西にありました。彼らは、ふたりでエルサレムであったいっさいの出来事について話し合っていました。彼らはイエス様が神様とすべての民の前で、行いにも言葉にも力のある預言者だと信じました。そして、このイエス様こそイスラエルを購ってくださるはずだ、と望みをかけていました。彼らはこのような望みをかけて何もかも捨ててイエス様について行きました。しかし、何の罪もないイエス様が祭司長や指導者達によって、死刑に定められ、十字架につけられ、無力に死なれました。彼らがイエス様にかけた望みが大きかったほど彼らが受けた失望も大きかったでしょう。この二人は、万事が無意味に思われました。彼らの夢も希望も消えました。
15節をご覧ください。ふたりで話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられました。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわかりませんでした。近づいて彼らとともに道を歩いておられるイエス様はどんな方でしょうか。このイエス様は死者の中からよみがえられ、私達とともにおられる方です。このイエス様は昨日も今日もこれからも永遠に生きておられ私達とともにおられる方です。このイエス様は私の人生の同伴者であり、友となられる方です。このイエス様は私が悲しい時にも、苦しい時にもともにおられ、私のことを聞いてくださる方です。このイエス様は私から遠く離れておられる方ではなく実際の生活の中で私とともにおられ、話し合ってくださる方です。しかし、私達もふたりの弟子達のように不信と悲しみのため目が遮られていて、イエス様だとわからない場合が多くあります。私達が霊的な目を覚ましてイエス様が自分とともにおられることがわかる時、喜びと確信に満ちた生活を送ることができます。このイエス様がわかった時、私達は決して寂しくありません。私たちは孤独に打ち勝ち、悲しみに打ち勝つことができます。そして私達はよみがえられたイエス様とともに天の御国に向かって巡礼の旅を続けることができます。
17節をご覧ください。イエス様は彼らに言われました。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まりました。クレオパというほうが答えて言いました。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」彼らはイエス様を不思議に思いました。そして彼らはイエス様にかけた望みとイエス様が十字架につけられたことを言いました。また仲間の女たちからイエス様の復活の知らせを聞いたことを言いました。彼らは復活に関する喜びの知らせを聞いたのにも関わらず、信じることができなかったので失意と挫折の中で故郷に帰っていました。
イエス様は彼らのどんな点をお咎めになりましたか。25,26節をご覧ください。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエス様は、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。聖書の主題は神の御子イエス・キリストに関することです(ヨハネ5:39)。聖書はイエス様は本来神様ですが、人となられ罪人に仕え、また罪人のために死なれ、よみがえられ、天に上られ、この世を治められることを言っています。これが救いのご計画です。ですからイエス様の十字架の死と復活は少しもおかしいことではなく、神様の救いのご計画を完成するための過程なのです。イエス様が多くの苦しみを受け、十字架につけられ、死なれたことは私達のとがと罪を購うためでした。イエス様は私達が払うべき罪の代価を変わりに払ってくださり、私達を罪の鎖から解放してくださいました。またイエス様はよみがえられ、罪の報酬である死の問題を解決してくださいました。人類の罪と死の問題を解決するためにはイエス・キリストの苦難と復活は必然的なことでした。
イエス様はふたりの弟子達に復活の栄光は必ず十字架の苦難を通して来るという事実を教えてくださいました。苦難による栄光。これが聖書が教えているメシヤ観です。これは復活の原理であり、生命の原理です。死なしには復活はあり得ないし、一粒の麦が地に落ちて死ななければ新しい生命を誕生させることはできません。この原理はすべてのことに適用されます。努力なしに良い成績が取れないし、産みの苦しみなしに新しい命が誕生しません。私達は復活の栄光、復活の力を受けることを願っています。そのためには苦難を愛し、十字架を負うことを身につけなければなりません。神様に用いられる偉大な人になるためには罪悪な本性や自分の欲望が死ななければなりません。その時、霊的な世界の奥義を悟り、神様に用いられる人となります。
28節をご覧ください。彼らは目的の村に近づいたが、イエス様はまだ先へ行きそうなご様子でした。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエス様は彼らといっしょに泊まるために中にはいられました。彼らとともに食卓に着かれると、イエス様はパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されました。それで、彼らの目が開かれ、イエス様だとわかりました。するとイエス様は、彼らには見えなくなりました。そこでふたりは話し合いました。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」彼らの目が開かれたのはイエス様が聖書を詳しく説き明かして下さったからです。聖書の御言葉を勉強する時、聖霊が働かれ、霊的な目が開かれます。
33節をご覧ください。この二人は喜びの体験をした時、それをともに分かち与えようと急いで出発しました。エルサレムまでひきかえすには、約十一キロも歩かねばなりませんでした。だが、彼らはその良い知らせを、自分達だけで持っていることはできませんでした。彼らが戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていました。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエス様だとわかった次第を話しました。
?.あなたがたは、これらのことの証人です(36-53)
これらのことを話している間に、イエス様ご自身が彼らの真中に立たれました。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思いました。イエス様はこのような彼らにからだが復活したことを確認させてくださるために釘つけられた跡がある手や足を見せて下さいました。それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエス様は、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われました。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエス様は、彼らの前で、それを取って召し上がりました。マルコの福音書を見ると、イエス様は11人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をとがめられました。それは、彼らが、よみがえられたイエス様を見た人たちの言うことを信じなかったからです。私達には不足しているものはたくさんあります。お金が不足している人もいます。英語の実力が不足している人もいます。このテンポの速い社会で時間も不足しています。しかしひとつだけ私達に不足してはいけないものがあります。それは信仰です。イエス様は弟子達に信仰を望まれたので彼らを責められたのです。信仰の反対は恐れです。イエス様の弟子達はユダヤ人の権威者を恐れて小さな部屋に鍵を閉めて閉じこもっていました。私達は不可能に思われる状態に直面した時、恐れが私達の心に入って来ます。しばしば理由なしに恐れは私達の心にこっそり入って来ます。現代の若者は罪の快楽を失うのではないかと思い、イエス様に生涯を託すことを恐れています。全生涯をイエス様の羊に仕えることは無駄な浪費ではないかと恐れています。また、死を恐れます。しかし、復活されたイエス様によって死はもはや私達の敵ではありません。復活されたイエス様によって死は天の御国への入口でしかなくなりました。その入口を入ると、私達は初めてイエス様と握手することができます。そして主は私達ひとりひとりに永遠の命の冠を与えて下さいます。復活されたイエス様によって、私達の地上での生活は天国への旅路になりました。それはわくわくするような旅路です。よみがえられたイエス様に出会ったパウロは次ぎのように叫びました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」。
44節をご覧ください。さて、そこでイエス様は言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエス様は、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われました。46-48節を皆さんと一緒に読ませていただきます。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」イエス様は弟子達に復活信仰を持つように助けてから世界宣教の使命を与えてくださいました。そしてその使命を果たすことができるように聖霊を送ってくださることを約束されました。それから、イエス様は、祝福しながら、彼らから離れて行かれました。よみがえられたイエス様に出会った弟子達は変わりました。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。弟子達は意気消沈してその場を去ったのではありません。非常な喜びを持ってそこを去ったのです。悲しみと恐れに満ちていた弟子達はよみがえられたイエス様に出会い、喜びと賛美に満たされました。彼らはよみがえられたイエス様に出会い、人生の問題が解決され、世界宣教の使命を担う主役になりました。なぜでしょうか。もはや何ものも、自分達からイエス様を引き離すことができないことを知ったからです。パウロは言いました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38、39)。
私達もよみがえられたイエス様に出会い、人生の問題を解決していただき、いのちを生かす救いのみわざに復活の証人として尊く用いられるように祈ります。