1999年 創世記第10講

アブラハムを同労者として立てられた神様

御言葉:創世記18:1?19:38

要 節:創世記18:18、19

「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

 アブラハムは神様の友と呼ばれます(ヤコブ2:23)。本文には神様の友となったアブラハムの姿がよく現われています。今までアブラハムの信仰は自己中心的な段階でした。しかし、本文で神様は彼を友、すなわち、同労者として立てられました。私達も神様の御旨を知り、その御旨に従って仕える神様の同労者となるように祈ります。

?。アブラハムのとりなしの祈り(18章)

 第一に、アブラハムのお客へのもてなし(1‐15)

 神様は今まではアブラハムに幻のうちに現われ、仰せられましたが、今度は人の姿で現われました。1,2節をご覧下さい。主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われました。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていました。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は、見るなり、年寄りであるのにも関わらず、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をしました。そして「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」(3‐5)と言いました。アブラハムはお客さんを喜びながら出迎えています。彼は謙遜な姿勢で迎えました。彼は旅人に必要なものが何かをよく知っていました。彼は旅人の立場で考えました。アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」と言いました。そして牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡し、若い者は手早くそれを料理しました。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えました。アブラハムは熱心にお客にもてなしました。それは彼の心に神様の恵みと愛が満たされていたからです。また、サラと若者達が一言も文句を言わず、素早くもてなしをするのを見ると、アブラハムの家庭の人々が皆喜びを持ってもてなす雰囲気であることがわかります。それではアブラハムは彼らが御使いだったので、そんなに豊かに出迎えたのでしょうか。いいえ。ヘブル13:2を見ると、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」と記されてある通りに、アブラハムはどんな人でもこのように出迎える愛が溢れる人だったことがわかります。

 このような彼の内面の豊かさはどこから来たのでしょう。彼がお金持ちだったからでしょうか。違います。この世の中にはお金持ちであっても心が狭くてけちな人々がいくらでもいます。彼らは豊かさの中でも貧しい人々です。箴言11:24、25に次のような言葉があります。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」。人々の中には金をもうけるのはよくできるが、その金をどう使うべきかはよく知らない人々が多くいます。自分のために、あるいは快楽のためには惜しみなくお金を使いますが、他の人のためにはけちのようです。このような人の心は氷のように冷たいです。アブラハムは訪ねて来たお客さんのため惜しみなくもてなしをしました。アブラハムのこのような豊かさは神様の大いなる御心を受け入れ、信仰によって生きる生活から来ました。信仰は冷たい社会の中でも心の余裕を持って喜びながら他人をもてなすようにします。私達が信仰によって生きる時、豊かな神様は、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えて下さいます(コリント?9:8)。

 世の中は愛がない冷たい世界になりました。このような社会の中で私達はアブラハムのようにお客をもてなすことを学ばなければなりません。私達のうちには貧しい生活の中でも兄弟姉妹達を食事に招いてもてなす人々が多くいます。彼らを見ると、暖かい愛を感じます。もてなしはお金の問題ではなく心の問題です。お茶一杯でもアブラハムのような心を持ってもてなすとお客を喜ばせることができます。

 アブラハムから豊かなもてなしを受けられた神様は快くなられました。それで来年の今ごろ、サラには、男の子ができていると喜びの知らせを伝えました。その知らせを天幕の入口で、聞いていたサラは心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」サラは不信のために笑ってしまいました。そこで、主がアブラハムに「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」と仰せられました。サラは恐ろしくなって「私は笑いませんでした。」と言って打ち消しました。しかし主は「いや、確かにあなたは笑った。」と言われました。神様は年寄りのアブラハムとサラを笑わせました。神様は私達の理性、想像を超えてみわざを行なわれる全能な方です。

 第二に、アブラハムのとりなしの祈り(18:16‐33、19:29)

 食事の後、その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行きました。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていました。17‐19節をご覧下さい。主はこう考えられました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」神様はアブラハムを通して大いなる強い国民を立てることと地のすべての人々は彼の子孫から生まれるメシヤによって祝福されると言われました。神様が命じられた道を守らなければ、ローマ1:21‐31に出るように偶像崇拝、姦淫、不義などの罪を犯してしまいます。ソドムとゴモラのようになります。

 ここで私達は神様がアブラハムを友とされたことが分かります。神様は御自分がなさろうとすることをアブラハムに知らせ、彼がそれに関心を持つことを願われました。アブラハムはもう自分の問題に陥り、神様を悲しませる子供のような者ではありません。彼は子供の段階を超えて神様の御旨を知って神様のみわざに同労する同労者となりました。神様が彼を育てられ、彼の位置がしもべではなく、同労者の位置になったのは驚くべき恵みでした。イエス様も弟子達に「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」と言われました(ヨハネ15:14,15)。私達も神様の御言葉を行なうなら、神様の友となります。しかし、私達が神様の友だとして同等な関係になったことではなく、これは神様がなさることを知ってそのことに参加するようになったということです。それでは神様の友としての特権は何でしょうか。 

 第一に、神様のなさることを知ることができます。しもべは主人がしようとすることを知らず、知っていても参加することができません。しもべは主人がやさせるとどういう意味があるのか知らなくても無条件従わなければなりません。しかし友は主人がしようとすることを知ることができます。主人の心を知っているので自発的に従うことができます。神様はアブラハムのような御言葉に従う忠実な人を同労者として立てられ、御自分の計画を知らせてくださいます。神様はアブラハムに置かれた計画を言われてからソドムとゴモラに対する裁きの計画を言われました(20、21)。

 第二に、とりなしの祈りをすることができます。ソドムとゴモラの滅亡を知ったアブラハムは何をしましたか。アブラハムは悪い者は裁かれて当然だと思いませんでした。彼はそこの人々のためにとりなしの祈りを捧げました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(23‐25)。彼の祈りは無条件要求する祈りではありませんでした。彼は公義を行なう神様を信じました。そればかりではなく、義人を本当に愛し、その義人のために悪い者達も赦してくださる神様を信じました。彼はこのような神様を信じて希望がない民のためとりなしの祈りを捧げました。ここで大いなる国民の父としての彼の内面性を見ることが出来ます。主は彼の切なるとりなしの祈りに答えられました。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

 しかしアブラハムはどう考えてもソドムに五十人の正しい人がいそうもありませんでした。それでアブラハムは正しい人の数を減らし始めました。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」このように必死的に義人の数を減らし、50人から45人‐40人‐30人‐20人‐10人まで減らしました。彼の祈りの姿勢は謙遜でした。彼は自分がちりや灰に過ぎない存在であることを知っていました。彼は自分を低くして神様を恐れ敬いました。また、彼の祈りはしつこい祈りでした。また、彼には牧者の心情が溢れていました。罪のため滅ぼされてしまうソドムとゴモラの人々をを考えると苦しくて耐えられないほどでした。勿論、彼の心の中にはおいロトを考えていたでしょう。

 神様はこのようなアブラハムの祈りを全部聞いてくださいました。神様は彼が何度も正しい人の数を減らしたことで怒りませんでした。しかし、結局ソドムとゴモラは正しい人十人がいなくて滅ぼされてしまいました。その中でも19:29を見ると、「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」と書いてある通りに神様はアブラハムのとりなしの祈りを聞かれ、ロトを救ってくださいました。

 ここで私達は二つのことを学ぶことができます。

 第一に、正しい者の重要性を学ぶことができます。残念ながらソドムに十人の正しい人がいなかったので神様の裁きを受け、滅んでしまいました。もしロトが自分の家族と一緒に一人とのマンツーマン聖書勉強をして一人の弟子を養ったなら10人は十分な数でした。これを考えて見ると、一つの国の裁きと救いの分かれ道は政治家や企業家ではなく正しい人であることがわかります。神様は正しい人を尊く思われ、正しい人を中心に働かれます。神様は常に十人の正しい人を求める方であり、そのゆえにいっさいの誤りや欠点を赦してくださる方です。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず私が正しく生きることです。正しい人とは神様と共に歩む人です。私達が十人の正しい人のうちに数えられる者となるように祈ります。

 第二に、とりなし祈りの大切さを学ぶことができます。ロトのような自分勝ったな羊のためには途中諦めてしまいがちです。この国と世界宣教のために祈りますが、私一人の祈りが何の役に立つかと思いがちです。しかし、神様は羊達のための祈り、キャンパスと国のための祈り、世界の人々のためとりなしの祈りを聞いてくださいます。義人の祈りは働くと、大きな力があります(ヤコブ5:16)。

?.ソドム、ゴモラの最後(19章)

 ふたりの御使いは夕暮れにソドムに着きました。ソドムの門のところにすわっていたロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎えました。そして彼の家に招き、彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。アブラハムのお客の迎え入れと比べて見ると、けちのように見えます。アブラハムには柔らかくておいしそうな小羊が思い出しますが、ロトはかたいパン種を入れないパンが思い出します。また、ロトの妻と娘達は迎えに出て来ませんでした。アブラハムから見ることができる暖かさ、快く迎えること、豊かさが見えません。ロトは都市生活をしながら心も狭くなっていたようです。彼はこの世と調子を合わせながら信仰生活をしていたので心の余裕も恵みもありませんでした。

 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲みました。そしてロトに向かって叫んで言いました。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」彼らが「よく知りたい」と言っていることは同姓とのセックスを意味します。これを見ると、ソドムの若い者から年寄りまでどれほど性的に堕落していたかがわかります。ロトは彼らを守るために自分の二人の娘を連れて来るから、好きなようにするように言いました。これを見るとロトがどれほど世俗的であり、妥協的であったかがわかります。しかし、町の人々はロトをひどいめに会わせようとしました。この事件を見ると、ソドムとゴモラの人々がどれほど淫乱で堕落していたかが分かります。御使いは戸を破ろうと近づいて来た人々の目を見えなくしてロトを保護しました。そしてソドム、ゴモラに対する御使いの決心を言いました。「わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」(13)。ふたりはロトに「あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」と言いました。そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われました。彼らには滅亡の直前、救いの恵みが臨まれましたが、御言葉を聞く耳がなかったので結局滅ぼされました。

 ロトはどうでしたか。16節をご覧下さい。彼はためらっていました。彼は羊の群れ、立派な家など多くの財産を捨てて行くのをためらっていました。すると、御使いたちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置きました。それは主の彼に対するあわれみでした。彼はこの世のものをとても愛していました。アブラハムは世の中で住んでいましたが、聖なる旅人として住んでいました。しかし、ロトは一緒に信仰生活を始めましたが、世の物も愛していました。彼は世俗的な信仰生活をしていました。彼は賢い人のようですが、実際には愚かな人でした。

 ソドム、ゴモラに対する神様の裁きはどうですか。24,25節をご覧ください。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました。審判の知らせを冗談のように思ったロトの婿達も、性的に堕落した人々も、権力者達もみな滅ぼされました。

 26節をご覧下さい。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」ロトの妻は「うしろを振り返ってはいけない」と言った御使いの言葉に聞き従いませんでした。彼女はソドムの家にあるダイアモンドの指輪、お金を惜しむ心があったでしょう。それを考えるうちに自然に頭がうしろを振り向いてしまいました。ロトの娘達も親の影響を受けて世俗的でした。娘達はロトに酒を飲ませ、いっしょに寝て、子供を産みました。彼女達が産んだ子供はモアブ人とアモン人になりました。彼らは神様に敵対する民族になりました。ロトが結んだ実は悲惨なものでした。ソドムとゴモラの滅亡は今日の私達に教訓を与えています。神様は主の道を守らず、正義と公正とを行なわず、欲望に従う人々を必ず裁かれます。

 結論、神様がアブラハムを同労者として立てられたように、この時代、私達をも神様の同労者として立てられました。私達が子供のような信仰の段階から離れて神様の御旨を知り、救いのみわざに仕える神様のの同労者となることができるように祈ります。