1999年 創世記第5講

カインにしるしを下さった神様

御言葉:創世記4:1?5:32

要 節:創世記4:15

「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、

七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、

だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」

 今日の本文ではアダム一人から始まった罪が彼の子孫達に至ってはどのように成長し、広がったかを言っています。人間は罪を犯した故、滅びるしかありませんでした。しかし、神様はこのような絶望的な状況の中でも救いのみわざを続けられました。今日の御言葉を通して人間の内面にある罪の属性と罪人に対する神様の愛について学びたいと思います。

?.カインとアベル(4:1-8)

 1節をご覧ください。エバはみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言いました。彼女は、それからまた、弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。彼らがそれぞれ仕事をするようになってしばらくの期間が経過した時、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から、アベルは羊の初子の中から持って来ました。ここで「ささげ物」とは、主がそれぞれの仕事を守り祝福して下さったことに対して、それぞれの産物の一部を主に捧げることです。しかし、主はアベルとそのささげ物とに目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。なぜでしょうか。二人ともささげ物を持って来たと言うことは共通しており、またこれらのささげ物が「主へのささげ物」であったことも共通しています。それではささげ物の種類が問題だったのでしょうか。そうではありません。なぜなら、それぞれの職業自体は、主の御心に従ったものであったし、また、後に主は羊だけではなく穀物のささげ物も受け入れてくださっているからです。ところが、3-5節を注意深く読んでみると、二人のささげ物に違いがあることがわかります。カインのほうが極めて事務的に「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た」と記されているのに対し、アベルのほうは「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」と記されています。アベルは自分の持ている物の中でベストの物を主にささげのです。なぜなら、主こそ最良の物をお受けになるのにふさわしい方だと思ったからです。ヘブル人への手紙11:4には次ぎのように記されています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」後にイエス様も、多くの金持ちが献金箱に大金を投げ入れている中で、ひとりの貧しいやもめがレプタ銅貨二つを投げ入れるのをご覧になり、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」(マルコ12:43)と言われました。レプタ銅貨は価値の一番低い貨幣の単位です。しかし、イエス様がご覧になったのはいくらをささげたのではなくその女の信仰でした。4,5節を見ると、「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」と言われているように、主はささげ物に目を留められるよりも以前に、ささげている人自身に関心を持っておられることを知ることができます。

 私達は主の御業に仕えることにおいて、人々に見られることは熱心にしますが、人々に目立たないことはおろそかにしやすいです。また、外側はきよくしようと努力しますが、内側は汚れている時があります。しかし、神様は決して形式的、偽善的ないけにえには目を留められません。神様はそれを捧げる人のうわべではなく心をご覧になる方です。神様は多く働くより心を尽くして神様を愛し、隣人を愛することを願われます。神様は私達の真の悔い改めを喜ばれます。神様はいけにえより主の御声に聞き従うことを願われます。だから、私達は自分自身を神様に受け入れられる聖い、生きた供え物として捧げるように努め励まなければなりません。これこそ、私達が主に捧げるべき真の礼拝です。

 それでは、ささげ物を拒まれたカインは神様に対してどんな姿勢を見せましたか。5節をご覧ください。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」彼は自分が無視されたことと、弟アベルが認められたことでひどく怒りました。彼は神様が自分のささげ物に目を留められなかった原因を自分の中から捜して悔い改めるより、むしろ、神様に問題があるかのように怒りました。このような彼の問題は何でしょうか。それは一言で言えば、神様の主権を認めなかったことです。神様がアベルとそのささげ物に目を留められて、カインとそのささげ物に目を留められなかったのは神様の主権でした。カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。神様がなさったことが全く気に入りませんでした。彼は不満を抱いて神様の主権に逆らいました。彼が神様の主権を認めなかったからこそ、アベルも認めることができませんでした。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になりました。ヨブは潔白で正しく、神様を恐れ、悪から遠ざかっていた人でした。しかし、サタンの妬みによって急にすべての財産と子ども達を失ってしまいました。彼は悲しみに沈んで神様を恨みやすいでした。しかし、彼はその不幸な出来事を聞いた時、地にひれ伏して主を礼拝し、そして言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」彼の信仰は神様の主権に基づいていたため、苦難の日にも、祝福の日のように主に感謝し、主をほめたたえました。

 神様の主権を認めることができず、ひどく怒っているカインの怒りを見抜き、主は仰せられました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」このように問いかけることを通して主は、カインが憤る理由はないこと、そしてその憤りを神様の前に隠しても無駄であることを指摘し、カインを悔い改めに導こうとされたのです。続けて主は言われました。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」この御言葉を見ると、カインは実際生活の中で正しく行なっていなかったことがわかります。もし、カインが正しい動機で事を行なったのであれば、神様の前に立ち続けることができます。しかし、「正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」つまり、心に罪を持ったままで悔い改めないと、ついに罪によって支配されて罪を犯してしまうのです。人々は罪を犯すことに対してあまり深刻に思っていません。人生をエンジョイするために快楽を求めています。罪を犯すことはそれほど難しいことではありません。罪を犯すために努力しなくても肉の欲のままに行なえば、罪を犯すことができます。しかし、罪はそれを犯すその瞬間からその人を奴隷にしてしまいます。ですから罪は軽々しく楽しんでいいものではありません。積極的に治めなければならないものです。主はカインに「あなたは、それを治めるべきである」と言われました。人の心には善を行ないたいという願いと罪を犯したいという願いがあります。この二つの心は互いに対立しています。罪を犯そうとする願いが強ければ、善を行ないたいという願いは力を失ってしまいます。ところが、人は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができず、悪を行なってしまいます。では、私達がどうやって罪を治めることができるでしょうか。罪を犯そうとする願いを治める秘訣は御霊によって導かれることにあります。また、私達の手足を義の器として神様にささげることにあります。私達が御霊に従うか、肉の欲に従うか、また、神様に従うか、罪に従うか、これは自由意志の問題です。私達が自由意志を間違って使って肉の欲に従うと罪に治められるのです。ですから、私達は罪を悔い改め、神様に立ち返り、聖霊によって導かれる生活を通して罪を治めなければなりません。

 神様はこのように語りかけてカインが罪を犯し続ける道から悔い改めて神様に立ち返るように勧められました。しかし、カインは主の語りかけ、悔い改めへの勧めを無視しました。語りかけられた主に悔い改めを持って応答する代わりに、彼は心をかたくなにし、自分の心にある怒りを具体的な行動に移しました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その原因は何でしょうか。神様の警告を無視し、心の中にある罪を悔い改めないままでいると、その罪は成長し、具体的な罪の行動を生むようになります。だから私達は小さな罪でも神様の御言葉によって照らされたら悔い改めるべきです。特に兄弟を憎む罪、妬みの罪を悔い改めなければなりません。?ヨハネ2:11には次ぎのように記されています。「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」ヨハネ第一3:11,12節にはこう記されています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。」イエス様はマタイ5:21、22節で兄弟に向かって腹を立てることや「能なし」と言うことさえも禁じられました。ですから、私達は少しでも兄弟に向かって憎む感情があったり、無視する心や妬みがあったら悔い改めなければなりません。

?.罪と罰(4:9-15)

 9節をご覧ください。主は弟アベルを殺したカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。かつてアダムとエバが罪を犯した直後にも主は彼らに語りかけられました。「あなたは、どこにいるのか。」神様は罪を犯した人を見捨てられることなく、なおも悔い改めに至るようにと語りかけられるのです。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」主はいきなりカインの罪を指摘するのではなく、彼が自分から罪を告白するように促したのです。しかし、このような主の呼びかけに対してカインは自分の罪を悔い改めて告白することを拒否しました。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」この答えは自分には関心がない、弟がどこにいようと何をしようと自分は関心がないという答えです。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。彼は、心にも安らぎのない不安と恐怖におののく人生を送るようになりました。このようなカインの様子は現代人の様子と全く同じです。この世のどこに行っても、何をしても、真の安息を得ることができません。それで人々はカインのように地上をさ迷い歩いています。ここで私達は罪を犯したら必ず裁きがあることがわかります。私達が罪を犯すことを恐れるべき理由も罪を犯したことで済むのではなく、必ず裁きがあるからです。

 13節をご覧ください。カインは主に申し上げました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」彼が主に申し上げた言葉には二つの誤った考えがあります。一つは神様の裁きに対してそれを軽んじることです。もう一つは、罪があまりにも重くて悔い改めても赦されないという考えです。彼は14節で「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。」と言っていますが、主は決して「わたしの顔から隠れ」とは言っておられません。主はカインがさすらい人となっても、彼を見捨てるとは言っておられないのに、カインは主によって見捨てられたと感じています。それで、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と嘆いています。カインは自分が犯した罪、そのものを悲しんでいるのではなく、罪の結果もたらされた罰を悲しんでいるのです。これは真の悔い改めではありません。なぜなら、私達がどんな罪を犯してもそれを真実に神様の御前に出て行き、悔い改めるなら、神様は私達のすべての罪を赦してくださるからです。ヨハネ第一1:9節は次ぎのように言っています。「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。」

 15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3:9)。

?.カインの子孫、セツの子孫(4:16-5:32)

 

 16-24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。

 カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。

 ここで私達は、罪は成長するものであることがわかります。罪はまるで癌のようです。癌は成長するスピードが速いです。それで他の正常細胞組織を破壊し、結局人のいのちを奪ってしまいます。この事実を通して罪はいくら小さなことでも初めから徹底的に治めなければならないものであることを学ぶことができます。そうしなければ、癌のように段々広がり、霊的ないのちを失うようになります。

 カインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。レメクのように自分の力を誇る者にとっては「祈り」は逃避であり、自己満足のように思われるかも知れません。しかし、被造物としての自分の限界、罪人としての自分の限界を知る者にとっては祈りは力があります。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22-24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクは一生の間、神様から離れず、神様とともに歩みました。それは神様と密接な交わりの中に、神様にペースを合わせて生活したということです。三百年の間にはいろいろな出来事があっただろうし、喜びの時も悲しみの時もあったはずです。しかし、彼はどんな時も、神様とともに歩みました。ミカ6:8には次ぎのように書いてあります。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」更に彼の信仰の素晴らしさは、その最後に表されました。「エノクは神とともに歩んだ」(24)ともう一度繰り返されます。それほど、「神とともに歩んだ」というエノクの生涯の特徴があったのです。そしてその結果が、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」ということです。ヘブル人への手紙では「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」と記されています。他の人々については「彼はこうして死んだ」と言われているのに、エノクは死を見ることなく神のみもとに召されたのです。彼はアベルのように、その信仰によって今もなお語っています。他の人々の人生がむなしく過ぎ去って行く中で、「神とともに歩んだ」エノクの生涯は永遠に記憶される生涯なのです。

 以上から学んだ御言葉を通して私達は罪を犯したカインでさえ見捨てることなく、保護してくださる神様について学びました。また、罪が広がる世界の中で主がセツを与えてくださり、救いのみわざを続けて行なわれていたことを学びました。神様は、この時代にもご自分の救いの御業のために聖なる子孫達を残してくださり、救いのみわざを成し遂げておられます。私達一人一人が御霊に導かれ、罪を治めることによって主とともに歩む生活ができるように祈ります。特に兄弟に対する妬み、憎しみを悔い改め、愛することができるように祈ります。アダムにセツを授けられ、彼を通して救いのみわざを成し遂げて行かれる神様が、この国の人々と世界の人々の救いのために私達一人一人を召されたことを信じて感謝します。