1999年 創世記第9講

あなたは多くの国民の父となる

御言葉:創世記16:1?17:27

要 節:創世記17:4、5

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。

わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」

 先週はアブラムが信仰によって神様に義と認められた御言葉を学びました。しかし、彼は信仰によって義と認められましたものの、彼の内面は自己中心的で小市民的な状態でした。神様はこのような彼に多くの国民の父となる望みを置かれ、育ててくださいました。今日の御言葉を通して神様が私たちにどれほど大きな望みを置かれ、育てておられるのかについて学ぶことができるように祈ります。

?.ご覧になる方(16章)

 15章ではアブラムが問題に陥りましたが、16章ではサライが問題に陥りました。彼らは信仰生活を出発して10年が経っても子供を与えてくださるという神様の約束は成し遂げられませんでした。サライは歳を取って行くアブラムと自分のことを考えると焦る心が生じました。それで当時の慣わしに従ってアブラムに女奴隷を与えて子供の問題を解決しようとしました。サライの提案は「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(15:4)と主がアブラムに与えられた約束の御言葉にも違反しないので合理的な提案のように見えます。しかし、これは神様の方法ではなく人間的な方法だったのが問題でした。これは神様の側から見ると、大きな不信仰の罪です。アブラムも神様の約束を待つのに疲れてしまったのか、サライの言うことを直ちに聞き入れました。彼らの問題は神様の約束が成就することを最後まで待つことができなかったことです。彼らは信仰によって出発しましたが、途中不信仰に陥りました。信仰生活に忍耐は非常に大切なことです。忍耐できない時、もっと大きな問題が生じます。ヘブル10:36は次のように言います。「あなたがたが神の御心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐である。」

 彼らが忍耐できず、人間的な方法によって問題を解決しようとした結果、どんな問題が起こりましたか。サライがアブラムに与えた女奴隷ハガルはみごもると高慢になりました。今まで女奴隷としてサライに従って来たハガルは、自分が女性として彼女より優れていると考えるようになり、態度が変わってしまったのです。ハガルは洗濯もしないで胎児の健康のためだと言って美味しい食べ物ばかり要求しました。皿洗いもサライに全部任せて胎児の教育のためだと言って音楽だけ聞きました。そして、サライの前ではお腹をもっと膨らみました。彼女のお腹が大きくなるにつれて段々高慢になりました。サライは自分が子供を生めないことだけでも悲しいことなのに女奴隷から見下げられることは耐えられませんでした。そこでサライはアブラムに「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」とアブラムに責任があると抗議しました。この時、アブラムがハガルの味方になったなら問題はもっと深刻になったでしょう。しかし、アブラムはサライに「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」と言って家庭の秩序を立ててあげました。それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去りました。

 神様はアブラム家庭の問題をどのように解決してくださいましたか。神様はアブラムをとがめられず、彼のとがと誤りをすべて担ってくださいました。神様は彼を律法的に扱わず、深い理解と愛を持って扱われました。神様の愛は彼の多くのとがを覆いました。アブラムは神様の愛によって生かされました。そして神様はハガルを助けてくださいました。9節をご覧下さい。主の使いは、彼女を見つけ、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言いました。主は彼女を見捨てず、主の使いを遣わして彼女をもとに戻してくださいました。神様はハガルに「身を低くすること」つまり、謙遜に女主人に仕えるようにしてアブラム家庭の問題を解決してくださいました。

 神様はハガルに命令とともに約束の御言葉を与えてくださいました。10‐12節をご覧下さい。神様は彼女の子孫を大いにふやすことと生まれる子をイシュマエルと名づけるように言われました。これを通して、ハガルは神様に対して何を悟るようになりましたか。

 第一に、ご覧になる神様です。ハガルは自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼びました。それは、「ご覧になる方」という意味です。この神様はいつも私達のそばに立っておられ、ご覧になる方です。私達は難しい出来事が起こると神様は眠っておられるのではないかと思います。しかし、神様はまどろむこともなく、眠ることもない方です(詩121:4)。歴代誌?16:9を見ると、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」と言いました。また、ダビデは詩篇139:1‐4節で次のように歌いました。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」この神様の御前では何も隠すことができません。この神様の御前に生きる時、みだりに考えたり、行動したり、話したりすることができません。

 第二に、ご覧になる神様は私達の苦しみ、悲しみ、悩みをご覧になる方です。神様はエジプトで奴隷として苦しみ嘆いていたイスラエル人を顧みてくださり、モーセを通して救ってくださいました。ハガルはサライからいじめられ、重いからだを持って荒野に逃げて来た時、非常に悲しみ、苦しみ、悩んでいたでしょう。彼女は誰も自分を顧みてくれないと思いました。しかし、神様は彼女を見捨てられず、ご覧になりました。彼女の所に訪ねて来られ、望みを与えてくださいました。この神様は恵みの神様であり、愛の神様です。ハガルは神様の方向に従って家に帰り、イシュマエルを生みました。その時、アブラムは86歳でした。

?.アブラムを多くの国民の父として立てられた神様(17章)

 さらに時が経ち、13年が経ちました。アブラムがカナンに入国以来、すでに24年の歳月が流れていました。その間、アブラムがどんな生活をしたかはよく分かりません。しかし、1節と17、18節から考えて見ると彼の霊的な状態を推測することができます。神様がサラから息子が生まれることを言われると、アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言いました。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神様に申し上げました。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」アブラムは後継ぎの問題で苦労していました。後継ぎの問題は彼の人生の問題でした。彼はこの問題のために問題に陥った時もありました。しかし、この問題を通して信仰の奥義を悟り、耐えず闘争することができました。しかし、イシュマエルが生まれてからは状況が変わりました。深刻な後継ぎの問題が解決されたのでもうこれ以上その問題のために祈らなくてもいいでした。86歳に得た息子がどれほどかわいがっていたでしょう。彼は毎日イシュマエルを連れて戸山公園に散歩に行ったり、日曜日になると一緒にサッカもしました。彼は良い父になろうと努力しました。彼は以前知らなかった楽しみがありました。子供を見ていると仕事の疲れも消えました。彼は、人並みになり、自己満足に陥っていました。人生の問題が解決されると霊的な望みも消えてしまいました。すると使命人としての生活が重荷のように感じられました。うわべは何の問題もなさそうに見えましたが、心には霊的な望みがなかったので霊的な生活にも励みませんでした。霊的な生活に励まなかったので霊的な成長もありませんでした。その時が彼の信仰生活の危機でした。

 神様は13年間黙っておられましたが、アブラハムが99歳になった時アブラハムに現われ、こう仰せられました。17:1 節をご覧下さい。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」今まで神様はこのようにアブラムをお咎めになった時が一度もありませんでした。神様は彼のとがと誤りをすべて担ってくださいました。守りが必要な時には守ってくださいました。慰めが必要な時には慰めを、ビジョンが必要な時にはビジョンを与えて下さいました。しかし、今度は厳しくお咎めになりました。それは彼に全能の神様を信じる信仰がなかったからです。神様はアブラムにとがと誤りが多くあっても足りないことがあっても信仰によって生きている時に喜ばれました。しかし、彼が信仰を失った時、悲しまれ、咎められました。

 神様はなぜ彼に「わたしは全能の神である」と言われたでしょうか。それはアブラムの心の奥底に神様の約束を信じない不信仰があったからです。彼は年老いた自分とサライのことを見ると、不信仰から抜け出すことができませんでした。しかし、人間にはできないと思われることでも「全能の神」にはできないことがありません。神様は無から天地を創造された創造主です。この神様に不可能なことはありません。この全能の神様は不妊の女サライからも子供を誕生させることができます。神様は不治の病を治すことも死んだ人を生き返らせることも出来る方です。神様は私達がこの全能の神様を信じて生きることを願っておられます。ところが、私達の心の中にもやってもできないと思う不信仰があります。自分はどうしても弟子を養うことができないと思います。自分が不可能だから神様も不可能だと思っている人もいます。しかし、神様には不可能なことがありません。イエス様はおしの霊につかれた子供を連れて来て半信半疑する父親に言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)。

 また、神様は「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。主の前を歩むことは、いつも主の御顔を意識し、主の御臨在のうちに生活するということです。「全き者であれ」とは、完全な人間になれということではなく、たとい欠点だらけの人間であっても「全き信仰を持って神に応答する者であれ」ということです。

 神様はアブラムと契約を立てられました。その契約の内容と目的としるしは何ですか。

 第一に、契約の内容:神様がアブラムとの間に契約を立てると言われると、アブラムは、ひれ伏しました。それは神様の御言葉を聞いてそれに従うという姿勢でした。4‐6節は神様がアブラムと立てられた契約の内容です。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」アブラムはイシュマエルと一緒に暮らすことで満足していました。しかし、神様がアブラムに置かれた望みは大きいものでした。神様はアブラムを多くの国民の父とし、彼から王達が出て来ると言われました。この契約の内容を見ると、神様がアブラムに置かれた望みは大きいです。アブラムは父親として子供達から愛と尊敬を受けて、回りの人々からも認められる生活を望みました。彼の望みは自己中心的であり、小市民的でした。しかし、神様の望みはアブラムが多くの国民の父となり、世界の人々に仕え、王達が彼から出て来ることです。神様の望みは世界的です。アブラムはgood manになることを願いましたが、神様は彼が世界の人々の救いに用いられるgreat manになることを願われました。アブラムがこの神様の望みを受け入れ、その望みに従って生きる時、狭くて偏狭な自分の世界から離れて広くて偉大な神様の世界に入ることができます。また、その時、自己満足に陥ることなく、霊的な生活に励み、霊的な人として成長することができます。

 神様はこの時代、私達にもアブラムのように多くの国民の父となるビジョンを置かれました。ピリピ2:13には次のような言葉があります。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」神様は天地を造られた方です。この神様が私たちに置かれた望みは大きいです。神様がアブラムに祝福の源、多くの国民の父となる望みを置かれたように、私達にもこの時代、祝福の源、多くの国民の父となる望みを置かれて事を行なわせてくださるのです。奴隷の民、イスラエル人を救い出し、聖なる国民、祭司の王国として用いようとしたように、私達を罪とサタンの奴隷から救い出し、王である祭司として用いようとされます。神様は私を通して罪の中に滅びる多くの人々を救うことを願っておられます。神様が私を通して行わせようとする事を考えると胸がどきどきします。そして、神様から偉大なことを期待し、神様のために偉大なことを試みるようになります。詩篇81:10を見ると、「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」と言われました。神様は私達が口を大きく開けることを願われます。神様は私達が口を大きく開けると多く満たし、小さく開けると小さく満たされます。

 5節をご覧下さい。「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」「アブラム」とは「高貴な父」という意味です。「アブラハム」とは、「多くの国民の父」という意味です。これはアブラムから多くの子孫が出て来るということではなく、それらは幾つかの国民となり、その中から王達が出て来るということです。名前を変えられるということは、単に形式的なことではありません。聖書では名前は体を表しているから名前を変えられるということは、内容も変化するということです。アブラムの場合は主御自身が名前を変えてくださいました。ここに希望があります。自分では変わろうとしても変えることができないのを主は変えて下さいました。このように神様はアブラハムが多くの国民と父となり、使命人として生きることを願われました。使命人の人生には多くの痛みと犠牲が伴います。しかしここには真の人生の意味と命の実があります。

 今日の若者達は時代の影響によって大抵考えるスケールが小さいです。信仰生活も小市民的な信仰生活をしようとします。しかし、神様はそのような人生を喜ばれません。神様は苦しみがあっても大きなスケールを持って使命人の人生を送ることを願われます。神様は私達が家で育てられる犬や猫のようなペットのように生きることを願われません。餌を捜し求めながら野原を走り回る苦しみがあっても虎やライオンのような人生を生きることを願われます。神様は私達が温室で育てられる木よりも厳しい雨風に当たるとしても多くの鳥達が巣を作るほどの大きな木になることを願っておられます。このように神様が私達に置かれた望みは大きいです。

 15、16節を見ると、神様は、サライの名前も変えてくださいました。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」「サライ」とは「主婦」という意味で、「サラ」とは「多くの国民の母」という意味です。神様はサラが夫に愛されることを求め、味噌汁を作ったり、洗濯したりする平凡なおばさんになることを願われませんでした。だからと言って、夫にも仕えず、味噌汁も作らず、コップラーメンだけをあげてもいいのではありません。むしろ夫にも良く仕え、味噌汁も美味しく作り、子供達の面倒もよく見なければなりません。ただ現実に安住して小市民的な生活をしないで神様の大きな志に従って多くの国民の母としての人生を送りなさいということです。実際的に王達を生んで育てるのはサラがすることです。ですからサラの役割は非常に大切です。サラがどのように助けるかによってアブラハムが多くの国民の父として成長することも、小市民的な父となることもできるのです。もし、アブラハムは多くの国民の父として生きようとするのに、サラが小市民的に生きようとしてうしろから引っ張っているとどうなるでしょうか。その家庭には夫婦喧嘩が絶えないでしょう。サラが多くの国民の母として生きる時こそ、アブラハム家庭は神様の祝福を受ける器となるのです。

 第二に、契約を結ばれた目的:7、8節をご覧下さい。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」この御言葉には神様がアブラハムと契約を結ばれた目的が良く現われています。それは神様がアブラハムと彼の子孫の神となることです。全能の神がアブラムの神となります。それだけではなくこの神がアブラムの子孫の神となられます。それは祝福です。神様はアブラハムを通して崩れた創造の秩序を立て直そうとされました。神様はアブラムの子孫、つまり、イエス・キリストを信じる人の神となられます。そして、彼らをご自分の民とされ、愛し、守ってくださいます。

 第三に、契約のしるし:9‐14節までは神様がアブラハムと結ばれた契約を確かなものとするために割礼を受けさせる内容です。割礼は契約のしるしとして神様がアブラハムと彼の子孫達と結ばれる永遠の契約です。ところが神様はアブラハムと彼の子孫の家にいる者は選民や異邦人を問わず、すべての人が割礼を受けるように言われました。ここにすべての人々を救おうとする神様を知ることができます。これはクリスチャンが世俗化することは禁じられますが、ノンクリスチャンがクリスチャンになることは喜ばれることを意味します。

 割礼は男性の生殖器の包皮を切り取ることです。これは、心を清めなさいという意味です。神様は、アブラハムが純粋な心で神様の約束を信じることを望まれました。信仰の先祖となるためには、聖なる神様の御前に聖い心を持つことができるように心の割礼を受けなければなりません。割礼は自分の心を否認して神様の御心に従うという決断のしるしです。

 23‐27節をご覧下さい。アブラハムは、その日のうちに、割礼を受けました。彼は従順するのにためらいませんでした。彼は口先だけの人ではなく実践する人でした。従順するのには痛みも伴いますが、彼は喜んで従いました。このように私達も心の割礼を受けなければなりません。心から自己中心的な考えや計画を否認して神様の御心に従う使命人として生きることを決断しなければなりません。そのようにする時、神様は私達を喜ばれ、多くの国民の父と母として育ててくださいます。私達が心の割礼を受けることによってこの時代、多くの国民の父と母として成長することができるように祈ります。