2000年イザヤ書書第1講

シオンからみおしえが出

御言葉:イザヤ書1:1?2:4

要 節:イザヤ書2:3

「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、

私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、

エルサレムから主のことばが出るからだ。」

聖書の中でイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書の四書を大預言書と言います。イザヤという人は大体紀元前770年頃生まれた人であろうと推定されています。彼はウジヤ王の死んだ時に神様から召しを受けて預言者として立てられました。イザヤ書は罪によって滅んで行くユダとエルサレムについて、イザヤが見た幻です。今日の御言葉は神様の希望のメッセージです。イザヤは暗くて絶望的な時代に希望の神様を仰ぎ見てビジョンに燃えています。このビジョンは絶望のシオンが、御言葉が流れ出るシオンとなり、世界の人々がそこに集まって来るビジョンです。この時間、イザヤのビジョンが私達のビジョンとなるように祈ります。

?.ユダの罪(1:1-31)

2節をご覧ください。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。」イザヤはユダとエルサレムの罪に対して天と地に向けて嘆き叫んでいます。神様は親が子供を懐に抱いて育てるように、ユダとエルサレムの人々を育てました。親は子供をどのように育てますか。親は子供たちが立派に育つようにすべての犠牲と労苦を惜しみません。イスラエルに向かう神様の御心もそうでした。神様は多くの国々の中からエジプトで奴隷生活をしていたイスラエル人を救われ御自分の民とされました。少しつらいことがあってもつぶやく子供のようなイスラエル人を荒野で40年間養育されました。聖なる戒めと律法をお与えになり、神様の民として歩むべき道を示してくださいました。神様は彼らが王である祭司、聖なる国民となる望みの中で育てられました。そして乳と密が流れるカナンの地に導いてくださいました。神様はこのように心を尽くして彼らを養育してくださいました。しかし、イスラエル人は親のように育ててくださった神様をどのように思っていましたか。

3節をご覧ください。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」牛は一生自分の飼い主のために働きます。そして、最後には自分のからだを飼い主に上げて死にます。ところが、イスラエルはすべての愛を注いで育てられた神様の愛を知りませんでした。彼らはその神様を捨て、侮り、背を向けて離れ去りました。彼らは牛にも及びませんでした。子供のように養育した自分の民がこのように侮り、背を向けて離れ去った時、神様はどれほど嘆き悲しまれたことでしょうか。4節をご覧ください。「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」

彼らがこのように堕落した原因は何でしょうか。それは、彼らが神様を捨て、侮り、背を向けて離れ去ったからです。幼い子供は親に頼り親を愛します。イスラエルは困難な時には幼い子供のように神様に頼りました。ところが、神様の祝福によって豊かになると、神様なしにもやって行けるという高慢な心が生じました。彼らが今の自分になったのは、自分の労苦の結果だと思いました。困難な生活がなくなると、切に神様に求めることもなくなりました。そして、この世のものに心が奪われました。神様より回りの強大国に頼りました。それは神様の愛と恵みを裏切ることであり、霊的な姦淫でした。私達が神様より目に見えるものをもっと愛し、もっと頼るならそれは聖なる神様を侮ることであり、霊的な姦淫を犯すことです。神様はこのような彼らをどのように打たれましたか。

5、6節をご覧ください。神様はご自身を侮り、離れ去ったイスラエルを立ち返らせるために強大国によって打たれました。箴言13:24には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」と書かれています。親が本気で子供を愛しているなら、罪を犯す子供を愛のむちで打つはずです。このように神様はイスラエルを愛し、愛のむちによって打たれました。それは彼らの命を救うためでした。ところが、彼らは打たれるとしばらく悔い改めたかのように見えましたが、すぐ堕落してしまいました。神様を離れた彼らの頭は残すところなく病にかかりました。神様を離れた彼らは心配、恐れ、うつ病で疲れ果てていました。心臓もすっかり弱り果てていました。周りの強大国によって打たれた彼らは足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷だけでした。しかし、誰からもその傷を絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえませんでした。イスラエルの繁栄した王国は異邦人に踏みにじられ荒れ果てました。美しかった町々は火で焼かれ、労苦して収穫したものや羊は略奪され、若者達は奴隷として連れ去られました。そして、老人と子供達だけが残りました。8節をご覧ください。「しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。」神様がその地を完全に破滅しなかった理由は何ですか。9節をご覧ください。「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」哀れみ深い神様はイスラエルをソドムとゴモラのように完全に滅ぼしませんでした。神様の希望の灯火を残してくださいました。

それではイスラエルがこのように傷だらけになった根本的な理由は何ですか。10節をご覧ください。「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。」イザヤは堕落した宗教指導者達をソドムの首領たち、民をゴモラの民と言いました。11節をご覧ください。「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。』」イスラエルは神様から離れていましたが、形式的な宗教行事には熱心でした。彼らは誰よりもまじめに信仰生活をしているように見えました。彼らは毎日無数の牛、羊、やぎをいけにえとして捧げました。しかし、神様に対する愛、信仰、真心はありませんでした。神様は彼らの形式的なささげ物を喜ばれませんでした。また、彼らは毎日定められた時間と安息日の礼拝を捧げるために神殿に出入りしました。しかし、神様との関係性を回復したり、神様との交わりを持ったりしないで神殿の庭を踏みつけるだけでした。宗教指導者達は新月の祭りや例祭、きよめの集会などを行ないました。しかし、神様はそれに耐えられないと言われます。また、集会の時には手を差し伸べて祈りました。しかし、神様は彼らが手を差し伸べて祈っても、彼らから目をそらしました。神様は、なぜ彼らの多くのささげ物と祈りを受け入れませんでしたか。15節をご覧ください。「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。」彼らは憎しみと妬みを抱いたまま祈りました。彼らは多くの行ないによって自分は誰よりも神様によく仕えていると思っていました。しかし、それは彼らが血まみれになった手で祈っていることでした。それは神様の重荷となり、神様を疲れ果てさせることでした。

それでは神様が本当に喜ばれるささげ物はどんな物ですか。16,17節をご覧ください。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

私達が他人を教えたり、宗教行事を行なったり、礼拝を捧げたり、祈ることも大切なことですが、もっと大切なことは自分の身をきよめること、すなわち、悔い改めることです。私達は罪がはびこる世の生活の中で罪を犯しやすいです。ですから、私達は神様の御前で真実に悔い改めることによって自分をきよめなければなりません。そうしなければ段々罪を積むことになり、それが満たされると悪臭を放つようになります。段々偽善者のようになり、利己的になり、情欲的になるしかありません。そして、悪い影響を及ぼすクリスチャンになりかねません。神様は形式的な礼拝や宗教行事よりはまず神様の御言葉に耳を傾けて悔い改めることを願われます。詩篇51:17には次のように書かれています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

罪を犯し反逆した民たちに向けられた神様の招きの御言葉は何ですか。18節をご覧ください。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」これは罪によって傷だらけになっている子供を招く親の声です。神様は「さあ、来たれ。論じ合おう。」と言われます。論じ合うことは互いに向かい合って話し合いながら事の善し悪しを一つ一つ調べることです。神様は彼らが何も正しいことを行なったことがなくても一方的に罪に定めず、彼らのことを聞いてくださいます。そして、彼らが心を開いて神様の御言葉を聞き自分の罪を悟って悔い改めることを願われます。もし彼らがこの神様の招きを喜んで聞き入れるなら、どんな祝福を得ますか。18節を一緒に読んでみましょう。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」ここで言う緋、紅のように赤いとは、消せない罪を言います。人々はどうしても消せない罪によって自虐し、苦しみと恐れの中で生活しています。ところが神様はその緋のように赤い罪を雪のように白くしてくださると約束してくださいます。紅のように赤い罪を羊の毛のように白くしてくださると約束してくださいます。彼らが帰って来るならありのまま受け入れてすべての罪を赦してくださると約束してくださいます。そのために神様は一人子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様が十字架の上で流された血はどんなにひどい罪もきよめる力があります。神様は今も罪を犯した人々に「さあ、来たれ。論じ合おう。」と招いておられます。

19,20節をご覧ください。もし喜んで聞こうとするなら、彼らは、この国の良い物を食べることができると言われます。これは罪によって荒れ果てたイスラエルの回復を意味します。しかし、もし拒み、そむくなら、彼らは剣にのまれると言われます。21-23節ではエルサレムの過去と現在とではどのように違うかを言われます。過去エルサレムは忠信な都でしたが、今は偶像崇拝に陥り霊的な遊女になりました。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに、今は人殺しばかりになりました。過去彼らは真実な民でした。しかし、今はかなかすになった銀、水で割ってある酒のように偽り者になりました。指導者達は反逆者、盗人の仲間になり、みな、わいろを愛し、報酬を追い求めました。そして、みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げませんでした。神様は、その堕落した民をどのように贖おうとされますか。25,26節をご覧ください。神様は彼らを溶鉱炉の中に入れてかすを取り除くように試練を通してかすを除こうとされます。懲らしめを通して指導者達を初めのように回復しようとされます。神様は選ばれた民をあきらめたり、見捨てたりされませんでした。懲らしめてでも彼らを回復し、聖なる神様の民としようとされました。

?.神様の望み(2:1-4)

1,2節をご覧ください。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」イザヤはイスラエルが回復される神様の希望を見つけた時、その希望は将来エルサレムとユダを通して成し遂げられる栄光あるビジョンにつながりました。ここで「終わりの日」とは、イエス様の誕生から再臨の時までを意味します。ですから、その日は使徒の働きの時でもあり、今の時でもあります。「主の家の山」は、神殿が立てられているエルサレムのシオン山を意味します。しかし、新約時代にはキリストがともにおられる神の教会を意味します。イザヤは主の家の山を世の山々と比較して神様のビジョンを言っています。

世の中には多くの山々があります。戸山公園にある小さな箱根山、日本一の富士山もあります。夏になると、多くの人々が富士山に登ります。なぜですか。富士山は日本一の山だからです。このように人々は一番高い山の頂上まで登ることを願います。この世には富士山だけではなく、哲学の山、芸術の山、科学技術の山、スポーツの山など様々な山があります。人々はその山の頂上に登ることを願っています。最近オリンピックが行われていますが、選手達は金メダルを取って世界のトップになることを願っています。そのために厳しい練習をします。それでもだめだと思った選手は禁止されている薬物までも使用してメダルを取りましたが、薬物検査で発覚されメダルをはく奪された事件もありました。そして、メダルを取った人は喜びの涙を流しますが、負けた人は悔しくて涙を流します。高橋尚子選手は女子マラソンの頂上に立ちました。

ところが終わりの日に、どんな驚くべきことが起こりますか。主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ちます。主の家の山、すなわち、神の教会は他の山々によって崩れ落ちそうになったことが多くありました。ローマが滅亡する時にキリスト教も崩れそうに見えました。共産主義によって神の教会が崩れそうに見えました。今日は物質主義、ダーウィン主義、相対主義によって神の教会が脅かされています。しかし、神様がイエス・キリストの十字架によって立てられた神の教会は段々強くなって山々の頂に堅く立ちます。そして、この山あの山をさまよっていた人々が失望して主の家の山に流れて来ます。彼らはなぜ主の家の山に流れて来ますか。3節をご覧ください。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」御自分の道とは、神様が人々に定められた真理の道、救いの道、いのちの道です。シオンは神様の御言葉が出るところです。人々は罪の勢力に打ち勝つ御言葉、暗闇を照らす光のような御言葉、渇いた魂にいのちの水を与える御言葉、虚無と無気力によって死んで行く人々を生かす御言葉を求めてシオンに集まって来ます。世の山は登ってしまえば虚しくなりますが、主の家の山に登れば真の満足があります。世の山には登り続けても結局は死が待っていますが、主の家の山には永遠のいのちがあります。ロシアのレスリング選手でカレリンという選手がいます。彼はオリンピックで三回も金メダルを取った人で、13年間一度も負けたことがない選手です。ところが、今度のオリンピックで無名のアメリカ選手に負けてしまいました。彼は歳を取っていたので昔のカレリンではありませんでした。彼は銀メダルを取りましたが、表彰式の彼は寂しい顔を隠せませんでした。彼は今まで山の頂に登っていましたが、これからは寂しくその頂上から下りなければなりませんでした。

終わりの日に実現するこのシオンのビジョンは御言葉が流れ出る神の教会を通して実現されるビジョンです。2000年前イエス様はこの世に来られ御言葉を宣べ伝えられました。すると、疲れた人、重荷を負っている多くの人々がイエス様の御言葉を聞くために集まって来ました。ニコデモは富と名誉と権力の山に登った人でした。しかし、彼の内面には彼が願っていた真の喜びがありませんでした。彼は夜イエス様のところに訪ねて来て聖書を学び、新しく生まれるようになりました。サマリヤの女は快楽の山に登った人でした。彼は五回も結婚をした経験があり、また、他の男と同居していました。しかし、彼女の内面には真の満足がなくて彼女の渇きの問題はひどくなる一方でした。彼女はイエス様と1:1聖書勉強をした時に渇くことのない水を飲むことができました。私達の間にもこのような驚くべきことが起こっています。聖書を学ぶ兄弟姉妹達がニコデモやサマリヤの女のように新しく生まれ変わっています。神様の御言葉だけがこの世の山々を登りながら疲れ果てている人々に唯一の道であり、真理であり、いのちです。時代が暗くても神様の御言葉が満ちたところには神様の御業が起こりました。初代のエルサレム教会の使徒達がいのちの福音を宣べ伝えた時、世界の人々が集まって来てイエス様を受け入れました。アンテオケ教会にいた多くの聖書先生が熱心に聖書を教えた時にアンテオケ教会が世界宣教の源となりました。エペソ教会に多くの聖書先生が立てられた時に御言葉が力を得て偶像崇拝者達が屈服する御業が起こりました。

それでは今日のシオンは何でしょうか。イスラエルは腐敗して失敗しましたが、神様は失敗しませんでした。神様はイエス・キリストを通して新しいイスラエル、新しいシオンの御業をなしてくださいました。イエス様は12名の弟子達を呼ばれた時、彼らが羊を飼う牧者になるビジョンを持っておられました。彼らに置かれたビジョンの通りに彼らは世界的な牧者であり、聖書先生になりました。このように神様はイエス・キリストを信じる一人一人を新しいシオンとされます。ですから、イエス・キリストの以後シオンの意味が変わりました。シオンは地理的な場所を意味するのではありません。イエス様を救い主として受け入れ、御言葉が流れる個人や集まりがシオンなのです。神様は私達をイエス・キリストの十字架の血によって救ってくださっただけではなく、偉大な聖書先生になり、羊に仕える牧者になるビジョンを持って育ててくださいます。過去私達は堕落したシオンのように罪が流れる者でした。しかし今や神様の御言葉が流れるシオンになりました。シオンからは神様の御言葉が流れ出なければなりません。神様は希望の神様です。私達は弱くて絶望する時もありますが、神様はその時に御言葉を通して立ち上がる力を与えてくださいます。私達が神様の御言葉を愛し、私達から御言葉が流れ出て多くのキャンパスの学生達が聖書を学び、救われるシオンとなるように祈ります。

結論、イザヤの時代のシオンは堕落していました。宗教指導者達には御言葉がありませんでした。しかし、イザヤはユダとエルサレムが忠信な都、祭司の国として回復されるビジョンを見ました。神様の御言葉が流れ出て多くの人々がシオンに流れて来るビジョンを見ました。彼はこのビジョンの中で熱心に神様の御言葉を宣べ伝えました。今の時代はイザヤの時代のように堕落しています。神様は私達一人一人をこの時代のシオンとして立ててくださいました。神様は私達を通してこの国と世界の人々を救おうとする望みを持っておられます。私達が弱い自分や罪がはびこるこの時代を見てはなりません。イザヤのように神様を仰ぎ見なければなりません。二学期には私達から主の御言葉がキャンパスの兄弟姉妹達に流れ出るように祈ります。東京UBFがシオンセンターとなり、主の御言葉が流れ出るように祈ります。