2000年ローマ人への手紙第4講
贖いの福音
御言葉:ローマ人への手紙3:21?31
要 節:ローマ人への手紙3:25
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、
公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、
今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
私たちはローマ人への手紙1:18-3:20節までの御言葉を通して、すべての人々は罪を犯したので神様の裁きの下にあることを学びました。罪を犯した人間はまるで死刑囚のように何の望みもない絶望的な状態にありました。死刑囚が豪華なマンションでごちそうを食べても幸せであるはずがありません。罪―死―さばきー地獄、これは罪人が行くべきコースです。神様はこのような人間をあわれみ、救いの手を伸ばされました。絶望の海に溺れそうになった人間のためにいのちの綱を投げてくださいました。誰でもこのいのちの綱を掴めば助かります。きょうの御言葉は、絶望的な人間のために神様が用意された救いの道が何かを教えてくれます。きょうの御言葉を通して、神様が私達のために用意してくださった購い福音、救いの福音を受け入れることができるように祈ります。
3:20節をご覧下さい。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」この御言葉は人間の罪論に対する結論です。ここで律法を行なうこととは、救いを得るための人間のあらゆる努力を意味します。ユダヤ人は律法を守ることによって救いを得ようと努力しました。道徳主義者達は良心に従って生きることによって救いを得ようとしています。また、修行や苦行によって救いを得ようとする人々もいます。キリスト教以外のすべての宗教は人間の努力によって救いを得ようとします。しかし、人間の努力によっては決して救いを得ることができません。石をいくら磨いてもダイアモンドにはなれないように、根本的に堕落した人間はいくら努力しても神様が要求される救いの水準に至ることができないのです。努力すればするほど、自分が惨めな罪人であることを悟り、もっと深い絶望に陥るだけです。
しかし、このような絶望的な人々のために神様は救いの道を開いてくださいました。それは何でしょうか。21,22節をご覧下さい。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」「しかし、今は」(But now)という言葉は、ここが一つの転換点であることを言ってくれます。パウロは今まで罪と律法の下にいる人間の絶望的な状況について説明しました。律法の世界では罪に対する認識と罪に定めることだけがあります。しかし、今は罪の赦しの世界が開かれました。今までは恐ろしい神様のさばきがありました。しかし、今は、救いの世界が開かれました。律法の世界から恵みと愛の世界に転換したのです。この転換は闇の世界から光の世界への転換です。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が啓示されました。」神の義は、すでに旧約聖書で律法と預言者によってあかしされたものです。ですからこの「神の義」は、人間が律法を守れないから急いで作り出したものではありません。神様は人間が堕落して間もなく、創世記3:15節の原始福音を通して救いの御業を示されました。それは律法が与えられるはるかに前の出来事です。原始福音に現れた救いの御業はアブラハム一人を召されることによって、具体化されました。アブラハムはモーセが生まれる430年前の人です。律法はモーセを通して与えられました。ですから、神の義は、律法とは別に、神様が約束し用意して来られたものです。この神の義は誰でもイエス・キリストを信じる者を神様が義と認めてくださるということです。すなわち死刑囚を特別に赦免するように、神様がさばきの下にいる罪人に無罪を宣告することです。この恵みは誰でも受けることができます。しかし、この恵みはイエス・キリストを信じる者にだけ与えられます。神様のプレゼントはすべての人々のために用意されましたが、そのプレゼントを歓迎し、喜んで受け取る人だけが所有することができるのです。それには何の差別もありません。東洋人と西洋人の差別がありません。金持ちと貧乏人との差別もありません。学歴のある人とない人の差別もありません。男性と女性の差別もありません。イエス様を信じる人なら誰でもこの恵みが受けることができます。それは驚くばかりの神様の恵みです。神様はすべての人々に新鮮な空気と輝く太陽の光を与えてくださいました。光が入らない暗い部屋の中に閉じこもっていると病気にかかりやすいです。しかし、外に出て新鮮な空気を吸い、太陽の光に照らされると元気になります。このように律法の部屋に閉じこもって罪悪感とさばきに対する恐れによって苦しんでいる人が心の扉を開き、イエス・キリストを迎え入れると新しくなります。心の中に働いていたすべての罪の勢力と悲しみと暗闇が過ぎ去り、感謝と喜びと賛美が心に満たされるようになります。この恵みは謙遜に心の扉を開いてイエス様を受け入れることだけで受けることができます。
それではなぜ神の義はイエス・キリストを信じる人だけに与えられますか。23節をご覧下さい。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」この御言葉は人間がどんな状態にいるかを言っています。すべての人は、罪を犯しました。罪は的を外れた矢のごとく、神様が人間に要求する目的からはずれたことです。栄誉とは重さという意味を持っています。すなわち、神様が重さを量ってみると足りないという意味です。神様が要求される救いの水準に至らないことを意味します。人間は本来神様のかたちに似せて造られ、神様に喜ばれる存在でした。人間は動物と違って道徳的、霊的に高い水準を持った高貴な存在として創られました。人間は神様の御前に価値があり、偉大な存在です。しかし、人間は神様の御言葉に聞き従わず、罪を犯しました。その結果、神様のかたちを失い、肉に過ぎない存在になりました。神様から離れた人間は欲望のままに汚れた人生を送ります。偶像崇拝者となります。あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者となります。ねたみと殺意と争いと欺きと悪巧みとでいっぱいになった者となります(1:23-31)。神様はこのような人間を裁くしかありませんでした。これはまるで陶器を作る人が水準に至らないものを壊してしまうことのようです。
しかし、神様はこのような人間のために何をされましたか。24、25節をご一緒に読んでみましょう。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」この御言葉には神様の義に対する三つの大切な言葉があります。
第一に、購い
この言葉は当時の奴隷制度を背景にして使われた言葉です。奴隷は自らの力によっては奴隷の身分から免れることができません。必ず誰かが代価を払ってくれなければ奴隷の身分から解放されることができません。ここで人間は奴隷状態であることがわかります。イエス様は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と言われました。人は情欲の奴隷、利己心の奴隷、妬みの奴隷、偽りの奴隷、お金の奴隷、貪欲の奴隷になりました。好奇心で一度だけのつもりで情欲の罪を犯した人が、それをやめられなくなって結局情欲の奴隷になってしまいました。好奇心で万引きをしたことがやめられなくて習慣的に万引きをするようになりました。このように罪は強い力を持っていてそれを犯す人を奴隷とし、続けて罪を犯すようにします。それがよくないと思っていて悪い習慣を直そうとしますが、なかなか思う通りになりません。それはアルコール中毒者がなかなかお酒をやめられないように、罪の奴隷になっている人は心ならず罪を犯すのです。そして、罪を犯した人は不安な日々を過ごします。神様はこのような罪人を救うためにイエス・キリストを購いの代価としてお与えになりました。私達が罪から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです(?ペテロ1:18,19)。このイエス様によって私達は罪の奴隷から解放されました。なぜなら、イエス様が私達の罪の代価をすべて払ってくださったからです。購い主なるイエス様に感謝します。
第二に、義と認められる
「義と認められる」とは、ローマの法廷用語として、「罪がないと認められる」、「赦免する」という意味です。すなわち、神様が罪人に対して無罪宣告をして神様と正しい関係性を結ばせてくださることです。それはただ罪を赦してくださるだけではなく、神様の子供として受け入れてくださることです。まるで放蕩息子が帰って来た時に彼を赦しただけではなく、息子として認めて盛大な宴会を用意してくれたことと同じです。これは神の恵みにより、値なしに与えられたものです。
ところが、この恵みはたった一度だけ与えられるものではありません。「義と認められる」は現在分詞として「いつも」、「常に」という意味が含まれています。ですから、この恵みは続けて与えられることを意味しています。この事実は私達にとって大きな慰めとなります。私達はどれほど弱い存在ですか。私達は悔い改めて信仰によって生きるとしてもいつも聖なる生活をするわけではありません。罪を犯すまいと堅く決心しますが、その決心がいつの間にか崩れてしまい罪を犯す時があるのです。そのように人間は弱い存在です。私達は弱い自分に失望し、絶望する時があります。しかし、神様は私たちが真実に悔い改めるなら、その罪を何度も赦してくださいます。
第三に、なだめの供え物
3:25a節をご覧下さい。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」「なだめの供え物」とは、旧約の祭司制度を背景にしています。年に一度大贖罪日になると、大祭司は動物の血を注ぐことによって自分と民の罪をきよめました。これは神様と人間を和解させる犠牲のいけにえであり、和解のいけにえでした。このように罪人が聖なる神様の御前に出て行くためには、必ずなだめの供え物が必要でした。それは人間が罪を犯したので、神様と不和状態にいるからです。罪を犯すことは神様の敵になることです。それでは神様が人間と和解するのにおいて、なぜ血を流さなければなりませんか。それは罪の代価は死ですから、罪を購うためにはその代価としていのちを要求するからです。それでいのちが犠牲にされなければ罪の赦しがないのです。そういうわけで旧約時代には祭司が人間の罪を購うために牛や羊などを犠牲にしてその血を祭壇に注ぎました。しかし、この動物の血は不完全なものでした。その効力は一時的であり、制限があったので根本的な解決策にはなりませんでした。それは来るべき影に過ぎませんでした。
イエス様は神様が私達の罪のためにお与えになったなだめの供え物です。イエス様は世の罪を取り除く神の小羊となられました。小羊イエス様は茨の冠をかぶらせ血を流されました。鞭に打たれて血を流されました。両手と両足に太い釘が打ち込まれて十字架につけられ血を流されました。兵士達に槍でわき腹を突き刺されて血を流されました。このようにイエス様はご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブル9:12)。このようにして私達の緋のように赤い罪を雪のように白くしてくださいました。紅のように赤い罪を羊の毛のようにしてくださいました。イエス・キリストの血は力があります。どんな罪人の罪をも赦し、その人を新しく生まれさせる力があります。罪を犯したい願望を追い出し、聖なる生活を慕い求める願いを与える力があります。私たちはいつでも、どこでもこのイエス様の血の力によって神様の御前に出て行き、罪の赦しを受けることができます。これは大きな恵みであり、祝福です。
神様がイエス様をなだめの供え物として示された御旨は何でしょうか。25b,26節をご覧下さい。「それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」神様は義であり、愛である方です。神様は罪を憎まれますが、罪人は愛しておられます。義である神様は必ず人間の罪を裁かなければならないし、愛である神様は罪人を裁きと滅亡から救わなければなりません。もし神様がすべての罪人をさばかれ、滅ぼしてしまうなら愛である神様が損なわれます。だからといって、罪人を赦すなら義なる神様が損なわれます。そこでどうすればこの神様の義と愛を調和させることができるかが大きな問題になります。昔中国のある国での話です。春になると、酒を飲んだ人が馬に乗ってきて麦畑を荒らす事件が起こりました。この知らせを聞いた王は非常に怒り、そんな者は捕まったら両目を抉り出しなさいと厳しく命じました。王の命令は法律になり誰も変えられないものになりました。ところが、ある日一人の青年が捕まえられてきましたが、見ると何と自分の愛する息子でした。その息子は王の後継ぎでした。王は大きな悩みに陥りました。もし息子を罰しないと法律が守られません。それだからといって、息子の両目を抉り出すことも父としてできないことです。ついに王は決断をしました。それは自分の目一つと息子の目一つを抉り出すことでした。義なる神様は人間の犯した罪をどうしても罰せずに入られません。そこでご自分の愛するひとり子をお与えになりました。そして、イエス様に人類のすべての罪を背負わせられました。イエス様は私の代わりに鞭に打たれ、茨の冠をかぶられました。そして十字架につけられ尊い血を流されました。イエス様の十字架は、私たちの罪がどれほどひどいものであるかと、神様がどれほど私たちを愛してくださったかを現しているものです。神様の義と愛が一番よく現れているのが、このイエス様の十字架です。神様は愛する一人子を十字架につけるほど罪を憎まれました。また、愛する一人子を十字架につけるほど罪人を愛してくださいました。神様が私達の罪を購うために一人子イエス様をお与えになりました。誰でもこのイエス様を信じる者は罪の奴隷から解放され、神様の子供となります。この時間、神様が私達のために用意してくださった救い主イエス・キリストを心の中に迎え入れることができるように祈ります。
27節をご覧下さい。私達が信仰によって救われたからといって、なぜ決して誇ることができませんか。それは救いを私たちの行いによって得たものではなく、信仰の原理、すなわち神様の恵みによって得たからです(27)。この信仰の原理はユダヤ人だけに限るものではありません。異邦人も、割礼のある者や割礼のない者も、同じく信仰によって義と認められるのです(30)。なぜなら、神様はすべての人々の神様だからです。
ところで「ただ、信仰によって」というローマ人への手紙の主題を強調すると、律法は無効ではないかと思いやすいです。しかし、パウロはかえって、律法を確立することになると言います。それは信仰によって生きる時、律法もよく守ることができるからです。律法が救いの条件となっていた時には、それは私たちを縛り付け、罪悪感を与え、罪に定め、さばく役割をしました。それで律法をよく守ることができませんでした。しかし、恵みによって救われた時には、感謝と喜びに満たされ、律法を守る力を得るようになりました。
結論、以上から学んだ御言葉から考えて見ると、イエス様の十字架は購いの意味があり、私達を義と認める意味があり、また、神様の敵であった私達を和解させる意味があります。罪を犯した人々を長く忍耐し、一人子をなだめの供え物としてお与えになった神様の大きな愛を感謝いたします。イエス様の血はどんな罪人の罪も赦し、新しく生まれさせる力があります。私達が自分の罪を悔い改める時、神様はすべての罪を赦してくださいます。私達に購いの福音を与えてくださった神様に感謝します。