2000年イザヤ書第6講

渇いている者はみな、水を求めて出て来い

御言葉:イザヤ書55:1?13

要 節:イザヤ書55:1

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」

今日の御言葉は渇いている者を招く主の招きの言葉です。渇いている人々を神様が招いてくださるとは、なんとすばらしい恵みでしょうか。世の中には様々な招きがありますが、自分の有益のためのものが多いです。しかし、神様の招きは全く私達のためのものです。主は世のものを求めましたが、渇くしかなかった人々を招き何の条件もなしに決して渇くことがないいのちの水を与えてくださいます。神様は御自分から離れて渇いている人々を招いておられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」この時間、神様の招きの御言葉に聞き従い、神様の御前に出て行くことができるように祈ります。

?.あなたがたは生きる(1-5)

今日の御言葉は神様の招きの言葉から始まっています。1節をご覧下さい。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」神様は渇いている者と金のない者を招いておられます。彼らはイスラエルです。彼らは乳と密が流れるカナンの地に入りましたが、彼らを導いてくださった神様を忘れて偶像崇拝をしました。その結果、彼らは祝福を奪われ、バビロンの捕虜として連れ去られました。彼らは渇いていました。さらに「渇いている者」とは、神様を離れたすべての人々を指しています。神様はこのような人々に向かって言われます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」神様はイスラエルとすべての人々に向かって切なる心を持って招いておられます。神様は渇いている人々をどこに招かれますか。水を求めて出て来いと言われます。水があるところ、すなわちいのちの水が流れ出る神様のところに招いておられます。

「渇いている者」の苦しみはどうでしょう。お腹がすいていることよりも耐え難いのが、渇いていることです。また、「金のない者」の苦しみはどうですか。金がなければ、穀物を買うことができません。今の世界でも4秒に一人の子供が飢えと戦争で死んでいるそうです。食べ物がなくて死んで行く子供達はなんとかわいそうでしょう。

選民イスラエルはなぜ異邦人の地であるバビロンに来て渇き、金のない者になってしまったのでしょうか。2節をご覧ください。彼らは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しました(2)。それで彼らは自分達の持っている財産を全部使ってしまい、乞食のようになりました。過去彼らは無駄なところにお金を使っていました。それは偶像崇拝をしたことを意味します。神様はアブラハムとの契約に基づいて奴隷の民イスラエルを祭司の国、聖なる国民とされ、乳と密の流れるカナンの地をただで与えてくださいました。彼らは何の労苦もせずに神様の祝福によって神様の民となりました。しかし、彼らは約束の地で神様と神様の御言葉を離れて偶像崇拝をしました。彼らは湧き水の泉である神様を捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのです(エレミヤ2:13)。彼らは農業の神であるバアルを拝みました。多産の神であるモレクにいけにえとして子供を捧げました。彼らは農業や子供のような祝福を受けるために彼らのすべてのものを偶像に捧げました。食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しました。

しかし、彼らに戻って来たものはもっと激しい渇きと惨めな人生だけでした。偶像崇拝の結果、彼らは神様の裁きを受けて美しかった神殿は破壊され、多くの人々が血を流しながら死にました。彼らに残ったのは異邦の地で寄留者となりさ迷うことでした。彼らは渇いている自分達を見て嘆息するしかありませんでした。預言者エゼキエルはこのような彼らを干からびた骨にたとえました。彼らはシオンに対する懐かしさ、過去の栄光に対する懐かしさによってもっとひどく渇いていました。彼らは一日も早く捕虜生活から解放されることを願いました。過ぎ去った栄光を回復したいと願いました。しかし、これよりももっと渇いていたのは自分達に向かう神様の愛を確認したいという渇きでした。神様から離れて偶像崇拝者になったのを悔い改めて神様に立ち返りたい渇きでした。しかし、彼らには何も残っていませんでした。神様に立ち返る勇気も力もありませんでした。

このような彼らに主は言われます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」神様は渇いている者に水を、飢えている者に穀物を与えようとされます。神様は甘いぶどう酒と冷たい乳で彼らの渇きを解消しようとされます。甘いぶどう酒は人々の心を喜ばせるものです。乳は冷たくて栄養分があって元気付けるものです。それでは神様が私達に与えてくださるぶどう酒と乳は何でしょうか。それは罪と虚無によって苦しい人生を生きている人々に与える罪の赦しと永遠のいのちと神の国です。密のようないのちの御言葉によって真の満足と喜びを与えてくださり、意味ある人生、尊い使命人の人生を生きるようにしてくださることです。神様はこのようなぶどう酒と乳をただで与えてくださいます。イスラエルが願えば何の条件もなしに得ることができると言われます。これは大きな恵みであり、祝福です。ですから、イスラエルはあるがまま神様の御前に出て行けばいいです。信仰によってそれらを買えばいいのです。世の中ではただでもらえるようなものは駅前で配っているティッシュくらいでしょう。しかし、それもただではありません。そこにはちゃんと広告が載ってあるのです。ところが、神様はただでいのちのぶどう酒と乳を与えてくださいます。

このようにすべての人々にぶどう酒と乳をただで与えることができる神様はどんな方でしょうか。過去共産主義であったソ連は貧しい人々にすべてのものをただで与えました。パンもただえで、牛乳もただで、家もただで、給料もただで与えました。ところが、そのようにすると巨大なソ連も貧乏になってしまいました。世界第一の金持ちであるビル・ゲイツは貧しい人々のために数十億ドルを寄付しました。しかし、彼も無限に寄付することはできません。しかし、神様は御自分のところに来る者に無限にぶどう酒と乳を与えてくださることができる全能なる方です。ですから、この神様のところに行けばどんなに渇いている人もいのちの水を飲むことができます。どんなに飢えている人もいのちのパンを食べることができます。イエス様は渇いている人々を招かれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)。イエス様は飢えている人々も招かれました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)。

今日の人々は、何に渇いていますか。お金に渇いている人もいます。情欲に渇いている人もいます。人々から認められたい、愛されたいという心に渇いている人もいます。権力に渇いている人もいます。人々はサマリヤの女のように魂の渇きを解消するためにさ迷っています。そして、人々は自分達が求めていたものを得ることができれば渇きの問題が解決されるだろうと思います。しかし、世のものはしばらくはその渇きを解消してくれるだけで再び渇くようになります。願っていた目標に到達した時にはしばらく満足と喜びがありますが、再び虚しくなります。人々はどうしても渇きの問題を解決することができず、心から誰かに助けを求めて叫んでいます。ニューヨークタイムズによりますとアメリカの15歳から24歳までの若者の死亡の第一原因は事故です。第二位は自殺です。「人生の意味や目的がわからない」と言って、自殺に走る若者は毎年七万人から八万人と言われています。これはアメリカだけではなく世界的傾向です。この国でも若者の犯罪や自殺は増えています。若者達は、心の渇きの問題、魂の渇きの問題で苦しんでいますが、解決することができません。それで「こんなに苦しんでまで生きる意味があるのか」と思い、自殺に走るのです。人間はただ飲み食いするだけで満足できません。それは動物たちもやっていることです。人間は魂の所有者として魂の渇きを解決しない限り、何をしても満足できない存在なのです。それでアウグスチヌスは人間の心は創造主である神様でなければ満たすことのできない魂の空間があると言いました。

それではどうすればこの魂の渇きの問題を解決することができるでしょうか。それはいのちの水を与えてくださる主に出て行くことによって可能です。神様の御前に出て行き、神様が与えてくださるぶどう酒と乳をただで飲めばいいです。神様はけちな方ではないので、どんな渇いている人にも御前に出て来る者を豊かに飲ませてくださいます。渇いているのは私達ですが、神様は私達のほうに両手を伸ばして招いておられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」

2節をご覧ください。イスラエルは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しました。偶像のためにいくら金を払っても食糧にもならなかったし、いくら労しても腹を満たすことができませんでした。しかし、神様は言われます。「わたしに聞き従いなさい。」神様に聞き従うとどうなりますか。良い物を食べることができます。神様の御言葉は私達のたましいに良い物です。それに聞き従うと、恵みと愛に満たされます。生き生きとした信仰生活ができます。また、神様に聞き従う者は神様の家に住み、神様の家族の一人として受ける特権があります。これは何と良いことでしょうか。もし神様が私達を招いてくださらなかったなら私達はどんな人生を過ごしているでしょうか。楽しむために生きているかも知れません。食べるために生きているかも知れません。働くために生きているかも知れません。偶像のために生きているかも知れません。世の快楽のために、名誉のために生きている人もいるでしょう。どんな人生を過ごしている人でも神様から離れて生きている人々の人生は虚しく、渇いている人生です。しかし、神様に聞き従うと、神様は私達に良い物を食べさせてくださいます。神様は日ごとの糧の御言葉を与え、毎週の礼拝のメッセージを通して私達の魂を豊かにし、神様の人として成長させてくださいます。サマー・バイブル・キャンプや弟子合宿、バイブル・アカデミーなどを通して豊かないのちのパンを食べさせてくださいます。御言葉だけではなく、恵みある賛美、感動的な演劇、楽しい体育大会によって喜びを与えてくださいます。神様の御業のために同労者達と心を合わせて祈り、熱心に羊達に仕える時に神様は私達に真の喜びと満足を与えてくださいます。このように神様に聞き従う時に神様は私達に良い物を与えてくださいます。

3a節をご覧ください。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」神様の御言葉に耳を傾ける時、私達のたましいは生きるようになります。毎日、日ごとの糧を食べること、聖書を読むこと、所感を書くこと、聖書を熱心に学び教えること、祈ることによって私達は主の御声を聞くことができます。私達はサタンに耳を傾けるのではなく、神様の御言葉に耳を傾けなければなりません。すると、私達のたましいが生きるようになります。

神様の御言葉に耳を傾ける人と神様は契約を結ばれます。3b節をご覧ください。「わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」神様は御言葉に耳を傾け、出てくるイスラエルととこしえの契約を結ばれます。それは、神様は彼らにとって父となり、彼らは神様にとって子となるという契約です。また、メシヤによる永遠の神の国を与えるという契約です(?サムエル7:13,14)。この御言葉はイエス様によって成就されました。イエス・キリストの十字架と復活によって私達は神様の子となる特権が与えられました。また、神様を「アバ、父。」と呼ぶようになりました。さらに復活と永遠のいのち、永遠の神の国を相続するようになりました。

4節をご覧ください。神様はダビデを諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官としました。ダビデは、人が神様の御言葉に聞き従う時にどれほど祝福されるかを見せてくれた人です。彼は神様を自分の牧者として愛し、主の御言葉を聞き従った時に、乏しいことがありませんでした。彼が神様の御言葉に聞き従った時に神様は羊を飼う牧童をイスラエルの王として立てられました。彼を通して回りの国々を打ち破り、強力なダビデ王国を建設してくださいました。ダビデは神様の愛によって民を治めました。民はこのようなダビデを尊敬しました。さらに神様は彼の子孫の中からメシヤを与えてくださいました。このように神様を愛し、神様の御言葉に聞き従う人はダビデのように祝福されます。イエス様は生まれた時から天に上られる時まで神様の御言葉に聞き従われました。イエス様は十字架の苦しみの前でも神様の御言葉に聞き従うために黙っておられました。そして、最後には「完了した」と言われて息を引き取られました。イエス様は、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、また、聖書に従って三日目によみがえられました。このように神様の御言葉に従われたゆえ、神様は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:9)。イエス様は主の主、王の王となられました。神様の御言葉に耳を傾けてその御言葉に聞き従うことこそ祝福される道であることを学びます。私達が日々主の御声に耳を傾け、その御声に聞き従うことができるように祈ります。

それではイスラエルが御言葉によって生きる時、神様が諸国の民の間にどんな御業を成されますか。5節をご覧ください。「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」この御言葉はイスラエルが祭司の国となり、諸国の民が従うようになることを言っています。これは彼らにそのような資格があったからではなく、神様が彼らを輝かせてくださるからです。神様はご自分の御言葉に聞き従う人を耀かせてくださいます。渇いている人々を招いていのちの水を与えてくださる神様、御言葉に聞き従う人に良い物を与え、輝かせてくださる神様の恵みと愛に感謝を捧げます。

?.豊かに赦してくださる(6-13)

それではイスラエルは、いつ、神様を探し呼び求めなければなりませんか。6節をご覧ください。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」神様にお会いできる間、近くにおられるうちはいつですか。今のこの時です。今のこの時が神様を捜し求めなければならない時です。人々は、今は忙しくて聖書を学ぶ時間がないと言います。そして時間があったら聖書を学ぶと言います。受験生の時には大学に入れば聖書を読んでみますと言いますが、いざと、大学に入るとアルバイトや遊びやサークル活動などで忙しくなります。このような人は結局神様にお会いできる機会を失ってしまうかも知れません。ソロモン王は言いました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(伝導12:1)。若い日、青年の時である今のこの時が主にお会いできる時です。

神様に帰る者は何を捨てなければなりませんか。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。」神様に帰る者は、過去の罪悪な生活を捨てなければなりません。罪を悔い改めないまま神様に帰ることができません。イスラエルは過去の偶像崇拝、不従順、不信仰、情欲などの道を捨てて主に帰られなければなりません。

7b節をご覧ください。「そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」神様は悔い改める人をあわれみ、豊かに赦してくださいます。半分は赦し、半分は残して置く方ではありません。たとい、私達の罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。このように罪人が赦される道があることは何と幸いなことでしょう。ですから、イスラエルは神様のあわれみと赦しの愛を信じて神様に帰られなければなりません。体だけが祖国に帰るのではなく、心から神様に帰らなければなりません。

8?11節をご覧ください。神様の思いは、彼らの思いと異なり、神様の道は、彼らの道と異なります。天が地よりも高いように、神様の道は、彼らの道よりも高く、神様の思いは、彼らの思いよりも高いです。また、雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えます。そのように、神様の口から出ることばも、むなしく、神様のところに帰っては来ません。必ず、神様の望む事を成し遂げ、神様の言い送った事を成功させます。これは神様の御言葉にはいのちがあり、その御言葉に聞き従うことは無駄なことではないことを言っています。神様の御言葉に聞き従う人のたましいは生きるという約束の言葉は必ず成し遂げられます。また、神様に帰る時に豊かに赦してくださるという約束も必ず成し遂げられます。

12,13節は将来ある帰還の時に成就される御言葉です。「まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。」彼らは喜びをもってバビロンから出て行くようになります。また、神様は荒野に道を、荒地に川を設けて彼らを安らかに導いてくださいます。神様に帰って来る者もこのような祝福を受けます。彼らの喜びは、まるで山と丘が喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らすようです。

その時、どんな新しい御業が起こりますか。13節をご覧ください。「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」いばらは人を刺します。それはバビロンでの生活、そして神様を離れた人の生活の苦しみを意味します。それがもみの木になることは、神様に立ち返る時、苦しみが過ぎ去り、喜びがあることを意味します。

結論、神様は今も神様を離れて渇いている人々を切なる心を持って招いておられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」「耳を傾け、わたしのところに出て来い。」私達が神様の招きの言葉に聞き従い、今のこの時、主のところに出て行くことができるように祈ります。