2000年ローマ人への手紙第7講

 

あなたがた自信とその手足を

義の器として神にささげなさい

 

御言葉:ローマ人への手紙6:1?23

要 節:ローマ人への手紙6:13

「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、

死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」

 

私達は先週第6講の学びを通して救われた者が受ける幸いについて学びました。きょうの御言葉は、私達がどのようにして罪から解放されたか、そして、罪から解放された者は具体的にどんな生活をすべきかを教えてくれます。これは信仰によって義と認められた者の新しい生活として「聖潔の問題」に関することです。聖潔は非常に大切な問題です。多くのクリスチャンが救われたことに満足しその後のきよい生活は疎かにするので霊的に成長することができません。また、ノンクリスチャン達に良い影響を及ぼすことができません。私達が今日の御言葉を通して自分は罪に対して死んだ者であり、神様に対しては生きた者であることを深く知ることができるように祈ります。また、自分自身を義の器として神様に捧げることができるように祈ります。

 

?.自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者だと、思いなさい(1-11)

 

1?11節は私達が罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者であることを説明しています。1節をご覧下さい。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」この御言葉は5:20節に対する反論です。5:20節は「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言っています。この御言葉から考えると、神様の恵みを多くいただくためには、罪を多く犯したほうがよいのではないかと思いやすいです。過去多くの罪を犯した人の所感を聞くと確かに恵みがあります。それで目立つ罪らしいものを犯すことなく真面目な生活をして来た人はその所感を聞きながらうらやましく思います。自分は所感を書こうとしてもあまり材料がなくて困っていると思っているからです。それでは私達は恵みが増し加わるために、再び罪の中にとどまるべきでしょうか。それに対してパウロは何と言っていますか。

2節をご覧下さい。「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」クリスチャンは罪に対して死んだ者です。私たちは、どのようにして罪に対して死んだ者になりましたか。3節をご覧下さい。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」バプテスマの語源は「浸す、洗う」という意味です。初代教会ではバプテスマを受ける時、水の中に完全に体を浸しました。それはキリストとともに古い人は完全に死んだことを意味します。また、水の中から立ち上がることはよみがえられたキリストとともに新しい人となったことを意味します。このようにバプテスマの霊的な意味はつぎ合わされることです。私達がイエス様を救い主として信じバプテスマを受けることはキリストにつぎ合わされて一つになることです。そうしてイエス様の十字架は私の十字架となり、イエス様の復活は私の復活となります。それでパウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。」と言いました。私達の古い人はキリストとともにすでに死んでしまったのです。

それでは「罪に対して死んだ」とはどんな意味でしょうか。

 第一に、クリスチャンの死はキリスト・イエスにつぎ合わされた死です。6:4a節をご覧下さい。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」5節では「私達が、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている」と言っています。6節では「私達の古い人がキリストとともに十字架につけられた」と言っています。ですから、クリスチャンは古い人はすでにキリストとともに十字架につけられて死んだと思わなければなりません。ガラテヤ5:24節は次のように言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」4節では死んでキリストとともに葬られたと言っています。これから葬られるではなく、すでに葬られたのです。過去の古い私はキリストとともに十字架につけられ死んだのです。そして、新しい世界で新しい身分で生きるようになりました。

 アウグスチヌスに対する有名な話があります。彼は若い時に放蕩息子でした。彼は遊女との間に私生児まで生みました。しかし、母モニカの涙の祈りによって悔い改めて偉大な神様のしもべとして新しく生まれ変わりました。ある日、彼は昔放蕩していた時にかよっていた町に入りました。すると彼を知っていた遊女達が近寄って一緒に遊びましょうと誘いました。その時、彼は言いました。「人違いです。過去のアウグスチヌスはすでに死にました。」私達も過去の古い人はキリストとともにすでに死んでしまったことをはっきり知らなければなりません。過去の寺崎八郎は確かに死んで今の寺崎アブラハムになったと知らなければなりません。小泉拓也は死んで小泉ダビデとなったことを信じなければなりません。このようにはっきり自分に対して認識することは大切なことです。自分の身分が変わったのにそれを知らず、古い人として生きることはおかしい話です。クリスチャンの死は神秘的なことです。死ねば死ぬほど熟練した者になります。死ねば死ぬほど豊かな実を結びます。イエス様はヨハネの福音書12:24で次のように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」死ぬことをしないで新しく生きることはできません。私達が本当にキリストとともに死んだなら、キリストとともに新しい生命に生きるようになります。イエス・キリストの新しい命に生かされ、神様によって永遠のいのちが与えられるためには、キリストとともに死ななければなりません。

 第二に、キリスト者は自ら進んで死にます。8a節をご覧下さい。「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、」これはキリストとともに自ら進んで死ぬことを意味します。ある人は死んだふりをしています。このような人は困難に会うとすぐ自分が死んでないことがわかるようになります。パロの奴隷から解放され出エジプトしたイスラエル人は非常に喜びました。神様の力によって紅海を陸地のように渡った時にはその喜びは絶頂に達しました。しかし、その喜びも荒野で困難にぶつかるとすぐなくなり、奴隷根性が現われました。それで困難に遭うたびにモーセや神様につぶやきました。奴隷の生活をなつかしく思いました。それはまだ古い人が死んでなかったからです。自ら進んで死んでないからです。日々イエス様の十字架を深く黙想しながらキリストとともに自ら進んで死ぬ人が本当に死んだ人です。パウロは「私にとって、毎日が死の連続です。」と言いました(?コリント15:31)。そのように自ら進んで死ぬ人には真の自由があります。日々熟練した主のしもべとして成長するようになります。

第三に、キリスト者の死は復活が約束された死です。ですからキリスト者の死は決して損することではありません。死ぬための死ではありません。復活が約束された死なのです。ですから、喜んで死ぬことができます。8、9節をご覧下さい。「もし私達がキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」私達がキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きるようになります。復活は将来与えられるものだけではありません。現在、キリストとともに死んだ者には、人生の虚しさ、暗い考え、否定的な考え、絶望、無気力が消え去ります。そして、いのちに溢れた生活をするようになります。顔は明るく目はきらきら輝きます。

10節をご覧下さい。パウロは結論的にキリストの死と復活の意味を次のように定義しています。「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」イエス様の十字架の死は人類のすべての罪をただ一度に、そして、永遠に解決された死です。そして、キリストが生きておられるのは、神に対して永遠に生きておられることです。11節をご覧下さい。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」キリスト者は罪に対してはもう死んでしまった者です。死んだ者のように、罪に対しては反応がありません。誘惑があっても「お前とは関係がない」と言ってその誘惑に背を向けます。そして、神様に対してはキリスト・イエスにあって生きた者です。罪に対しては心の扉を閉じ、神様と神様の御業に対しては心の扉を開きます。私達が罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者として生活することができるように祈ります。

 

?.義の器として神にささげなさい(12-23)

 

1-11節は私達が罪に対して死んだ者であることを教えてくれました。私達はこの事実をよく知らなければなりません。しかし、知っていることで留まってはなりません。これからは知っていることに基づいてそれにふさわしい生活をしなければなりません。12-14節ではこのような実際の生活に対する教えです。すなわち、死ぬことはどういうことなのかを教えてくれる御言葉です。12節をご覧下さい。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」この御言葉は罪に対して死んだ私達ですが、実際には罪に支配されることもあることを教えてくれます。それは私達の身分は変わりましたが、心には罪の欲望があるからです。ですから私達は自分の体を罪の支配にゆだねて、その情欲に従っていけません。そして積極的にしなければならないことがあります。

13節をご覧下さい。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ここで手足とは手、足、目などの体だけではなく考え、生活、お金、若さなどをすべて言うことばです。カルビンは感情や能力や気質、考え方までも含めました。この手足を不義の器として罪にささげてはなりません。むしろ、積極的に義の器として神様にささげなければなりません。捧げることは献身することを意味します。これは自己中心的な生活から神様中心の生活に自分を捧げることです。神様の栄光のために献身することです。食べるにも、飲むにも、何をするにも神様の栄光のためにすることです。学校の勉強、家庭生活、職場生活、アルバイト、結婚なども神様のためにすることです。神の国とその義とをまず第一に求める生活です。ですから、死ぬということは、自分を義の器として神様に捧げていくことです。私達は神様に次のように祈らなければなりません。「神様。足りない者ですが、この私の人生を、私の時間を、私の力を、私の持っているすべのものを、あなたに捧げます。どうぞあなたのために使ってください。」

また、捧げる姿勢は「死者の中から生かされた者として」感謝と喜びを持って神様に捧げることを言っています。いやいやしながら捧げることは正しい姿勢ではありません。そこには感謝と喜びもありません。死者の中から生かされた人にはどれほど感謝と喜びがあるでしょうか。そのように感謝と喜びを持って神様に捧げなければなりません。罪によって死んだ者が生かされて神様に捧げるようになったことは大きな祝福であり、喜びです。私達がイエス様を信じなかったなら今もなお罪の奴隷として罪に自分を捧げていたでしょう。私は最近xx牧者からいただいた「ちいろば」という本を読みました。エノ本保朗という牧師が書いた本ですが、「ちいろば」というのは、イエス様がエルサレムに入城なさったときに乗ったろばの子のことです。その方はこう書きました。「あの名もないろばの子も、ひとたび「主の用」に召し出されたとき、その背にイエス様をお乗せする栄光を浴し、おまけに群衆の歓呼に迎えられてエルサレムへ入城することができたのです。私のような者も、キリストのしもべとされた日から、身にあまる栄光にひたされ、不思議にみちびかれて現在に至りました。つまり、あの「ちいろば」が味わったであろう喜びと感動が私にもひしひしと伝わってくるのです。」私はこの方がろばの子のような喜びと感謝を持って主のために献身したことを通して多くの恵みをいただきました。そして、自分のことを考えて見ても自分は神様に用いられるような何の資格もない者ですが、こうして主の御業に用いられることが大きな感謝題目であり、喜びであると思いました。私が死者の中から生かされた者のような喜びと感謝を持って主に自分を捧げることができるように祈ります。

パウロは私達の体を器として表現しました。器は道具、あるいは武器という意味です。道具はどのように使うかによって、不義の器にもなれるし、義の器にもなれます。同じナイフでも医者が使うと、人を生かす道具になりますが、強盗が使うと、人を殺す道具になります。同じ手でも同労者を抱きしめる道具にもなれるし、殴る道具にもなれます。ですから、私達の手足と体を誰に捧げるかは大切なことです。過去私達は手を持って罪を犯し、足を運んで罪を犯しました。しかし今は私達自身とその手足を義の器として神様に捧げるようになりました。口を開くたびに人を傷つけた人が同じく口で主を賛美し主の御言葉を語るようになりました。いつも淫乱ことばかり考えていた頭が主の御言葉を黙想し何をすれば主に喜ばれることができるだろうかを考える頭になりました。それでは体を義の器として神様にささげる者にはどんな約束がありますか。14節をご覧下さい。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」積極的に自分を義の器として捧げる時、罪は私達を支配することができません。罪から解放されて恵みある生活をするようになります。ここで私達は罪の力に勝てる秘訣を学ぶことができます。私達は罪を犯さないために禁欲的な生活をする必要も、弱い自分を自虐する必要もありません。また、消極的に律法を守ることによって罪から離れようとする必要もありません。むしろ積極的に聖霊に導かれて神様に自分を捧げる生活をすればいいです。ガラテヤ5:16,17節は次のように言っています。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」私達が罪を犯す暇なしに積極的に神様のために、神様を中心に生活する時、罪に打ち勝つことができます。

14節で罪が私達を支配することができないのは私達が律法の下にはなく、恵みの下にあるからだと言いました。それでは私たちが恵みの下にあるからといって罪を犯してもいいでしょうか。15、16節をご覧下さい。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」私達は恵みの下にあるからと言って罪を犯すのを軽く思いやすいです。「悔い改めればいいじゃないか」と思いやすいです。しかし、どんな罪でもそれを犯すと罪はその人を奴隷にしてしまいます。罪が王となりその人を治めるようになります。すると、罪がさせるどおりにしなければなりません。サタンは「たった一度だけなら、いいじゃないか」と誘惑します。しかし、一度罪を犯したらそれで終わるのではありません。次から次へと自動的に罪を犯すようになります。段々自分をコントロールすることができなくなります。アルコール中毒者も一杯の酒から始まったのです。一杯が二杯、三杯と増えてついに中毒されてしまったのです。この一杯だけ飲んでこれから酒はやめようと何度も決心しますそれが思い通りに行かないのです。もう酒の奴隷となったからです。罪に対しても同じです。そのたった一度が問題です。

ですから私達が自分を誰に捧げるかの問題は一生を左右する大切な問題です。私達が自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るからです。私達が誰に自分を捧げるかによって、その結果は全く違います。私達が誰に従うかは自由ですが、その結果の実は自分が刈り取らなければなりません。罪の奴隷として刈り取る実は死です。義の奴隷として刈り取る実は義です。すなわち、永遠のいのちを刈り取るようになります。

17、18節をご覧下さい。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマの聖徒達ももとは罪の奴隷でした。このような彼らが神様の福音を信じることによって、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。この御言葉からどうやって罪の奴隷が義の奴隷になれるかを学ぶことができます。それは神様の福音を心から信じることによって可能です。それに対してヨハネの福音書8:32 でイエス様は言われました。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」私達が真理を知り、心から信じる時、罪から解放されて、自由になります。

人は誰でも罪の奴隷と義の奴隷、どちらからに属しています。神のしもべでなければ、罪のしもべです。誰のしもべになるか、それを選んで行くのは私達の責任です。罪の奴隷は罪に縛られ、罪に引っ張られて行く生活をします。それでは義の奴隷はどうでしょうか。その人は他人を愛し、仕える生活をします。神様の御言葉に導かれる生活をします。聖書を読んだり、学ぶことが大きな喜びです。古い人の時代にはカラオケに行くのが楽しみでしたが、義の奴隷となった今は主を賛美するのが楽しみとなりました。その人が結ぶ実は何ですか。22節をご覧下さい。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」しかし、罪の奴隷が結ぶ実は、死です。神の呪いです。

23節をご覧下さい。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ここでなぜ死を「罪から来る報酬」と言い、永遠のいのちを「神のくださる賜物」と言っているでしょうか。一所懸命罪に仕え、罪のために忠実に働いた結果、得る報酬は死です。それほど罪のために献身したのに、報酬として死が与えられるなんてひどいことです。しかし、神様のくださる賜物は、永遠のいのちです。これはあくまでも賜物です。私達が苦労して得たものではないのです。ただ神様の恵みによってプレゼントとして与えられるものです。

結論、信仰生活はキリスト・イエスの死と復活につぎ合わされて罪に対しては死に、神様に対しては生きた者としての生活です。そして、積極的に義の器として自分を神様に捧げる生活です。すると、罪が私達を支配することができず、いつも恵みの中で聖潔に至る実を結ぶようになります。私達が死者の中から生かされた者として恵みと喜びに満たされて積極的に自分自身を義の器として神様に捧げることができるように祈ります。