2000年マルコの福音書第11講

おまえの名は何か

御言葉:マルコの福音書5:1?20

要 節:マルコの福音書5:9

「それで、『おまえの名は何か。』とお尋ねになると、

『私の名はレギオンです。私達は大勢ですから。』と言った。」

 マルコの福音書5章では、汚れた霊につかれた人、ヤイロの娘、長血をわずらっている女、の三つの物語が出ています。彼らはそれぞれ人生のいろいろな問題をかかえていました。その人たちがイエス様に出会い、もう一度人生をやり直すということが書かれています。今日の御言葉には汚れた霊につかれて苦しんでいる一人の青年が出ています。彼はイエス様に出会い、失った自我を回復し、すべてが新しくなりました。この時間、私達もイエス様に出会い、失った自我を回復し、真の自由があり、幸せな新しい生活を送ることができるように祈ります。

?。汚れた霊よ。この人から出て行け(1ー5)

 突風を静められた後、イエス様と弟子達は湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着きました。ゲラサ地方はガリラヤ湖の東南に位置している都市でした。当時そこにはローマ第14軍団が駐屯していました。イエス様が舟から上がられると、そこは洞穴がたくさんあり、それらの多くのものは死体を入れる墓として使われていました。イエス様と弟子達はその日の夕方になって、舟に乗って出発したのでゲラサ人の地に着いたのは夕方遅くか、あるいは夜になっていたでしょう。そんな時間の墓場はもっと不気味なものです。弟子達は、暗闇の中で突然お化けが出てもおかしくない雰囲気だったので、恐ろしくなっていたでしょう。恐る恐る墓場に上がった時でした。その墓場の中から汚れた霊につかれた人が出て来ました。弟子達は何と恐ろしくなったことでしょう。彼らはイエス様の後ろに身を隠しました。

汚れた霊につかれた人は墓場に住みついていました。墓場はどんなところですか。墓場は話し合う相手もいなく、競争も愛も憎しみもない場所です。すべての関係性が断絶された孤独な場所です。人間社会が生き生きと動いている世界だとすれば、墓場はすべてが止まっている世界です。人はいつか死んでこの墓場に行かなければならない存在ですが、早く行きたいとは思っていません。だいたいの人々は墓場よりは愛する家族がいる家や友達がいる社会に住むことを願います。ところが彼はなぜ家や社会から離れて墓場に住みついているでしょうか。それは彼が汚れた霊につかれていたからです。彼がそのようになったのには何かきっかけがあったと思います。彼はローマ軍が残虐行為を行なったことを見て苦しんでいたかも知れません。そしてそれがあまりにもひどい経験であったので、彼を狂わせてしまったのかも知れません。彼が家や社会から離れて墓場に住みついているのを見ると、家庭や社会の問題によって彼はそのようになったかも知れません。家庭や社会の環境が人の人格形成に与える影響は大きいものです。両親が離婚したり、父親が暴力を振るったりすると子供は深く傷つけられます。今日は情欲によって破壊される家庭が増えています。破壊された家庭から育てられた子供は愛情欠乏と親に対する憎しみのために苦しみます。

しかし何よりも人間を狂わせる原因は外部の要因よりも人間の内面に働く罪の問題です。人間は罪を犯すとそれで終わるのではなく罪意識によって苦しみます。人を狂わせるほとんどの場合は罪意識のためだそうです。ゲラサ人が住んでいる所は軍人達が駐屯しているところでした。軍人達が住んでいるところは淫乱な雰囲気です。その青年は淫乱な雰囲気の中で暮らしながら罪の欲にさいなまれ、好奇心によって罪を犯したかも知れません。その後、罪意識のために苦しみ、結局狂ってしまったかも知れません。多くの人々が誰も知らないうちに密かに罪を犯し、苦しんでいます。

 人々は彼の問題をどのように解決しようとしましたか。3,4節をご覧ください。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を抑えるだけの力がなかったのである。」人々は彼が暴れると近所の人に迷惑がかかるからといって、鎖や足かせでつなぎました。すると、彼は鎖を引きちぎり、足かせを砕くためにあばれたので、体は傷だらけになりました。人々は彼の問題を全く理解することができませんでした。なぜ彼がそのように狂ってしまったのか、彼の内面に関心を持つより彼によって自分が被害を受けないために鎖や足かせでつなぎました。しかし、そうすればそうするほど彼はもっとあばれるようになりました。足かせや鎖によっては彼の問題を解決することができませんでした。今日はこのような人は薬を飲ませたり、精神病院に入れたりします。

 ゲラサ人は鎖や足かせを砕いて家や社会から離れて墓場に来ました。そこでは着物を着なくても誰も文句を言う人がいませんでした。彼は家や社会の束縛から離れることができました。しかし彼は自分自身からは自由になることができませんでした。それは足かせや鎖よりも強い汚れた霊につかれて奴隷になってしまったからです。5節をご覧ください。「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」彼は重苦しい心を押え切れず、夜昼なく、墓場や山で獣のように叫び続けました。「あー。苦しい。」しかしそのように叫び続けても内面の問題は解決されませんでした。それで彼は石で自分のからだを傷つけました。

今日も自我を失ってやけになっている人が多くいます。現代社会は目まぐるしい変化があります。携帯電話があってどこでも簡単に電話をかけることができるなど便利な生活を送っています。インターネットを通して世界の人々と情報を交換できるようになりました。医学も発達しました。このような現代の社会は技術が発達し、ものすごいスピードで変化しています。ところが、社会はますます不安になり、犯罪と自殺は増えています。共働きをする親と子供は話し合う時間がなく、ますます親子の関係が断絶されています。親は子供を理解することができず、子供は自分の世界に閉じこもっています。自分の心の苦しみや悩みを相談できる人がいません。「人はどんな存在であるか、何のために生きるべきか。」と真剣に話してくれるところがありません。大学に入っても同じです。それで人々は心の扉を堅く閉めて誰の干渉も受けることを嫌がります。そのような世界に住んでいる人は誰の干渉も受けることなく自由があるように見えます。幸せそうに見えます。しかし、そのような人は孤独な人です。自我を失って苦しむ人です。ゲラサ人は逃亡者のような心から来る不安、恐れ、あせり、憎しみ、むなしさ、絶望を抱いて破滅の穴に落ちていました。彼には救い主が必要でした。それでは誰がこのように自我を失った人を助けることができるでしょうか。

?。汚れた霊を追い出して下さったイエス様(6ー20)

 ゲラサ人はイエス様を遠くから見つけ、駆け寄って来てイエス様を拝し、大声で叫んで言いました。「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエス様が、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからです。彼がイエス様を知っていたのは汚れた霊につかれていたからです。彼はイエス様を拝し、イエス様を「いと高き神の子」と叫びましたが、それはイエス様を礼拝したことでも信仰告白をしたわけでもありません。ただ滅びることを恐れて苦しめないようにお願いしているだけです。このように悪霊につかれた人は御言葉に対して反発し、イエス様と関係性を結ぶことを恐れました。ゲラサ人がイエス様を遠くから見つけ、駆け寄って来たのを見ると、彼の本来の自我はイエス様と人格的な関係性を結ぶことを願っていることがわかります。ところが、彼のうちに働いている汚れた霊がイエス様と関係性を結ぶことに対して強く妨害しました。多くの人々が内面の問題を解決するために聖書勉強を始めます。ところが、聖書勉強が進んでいくうちに心が苦しくなってこれ以上聖書勉強をしたくないと言う人がいます。彼らは「聖書勉強をすると心に平安があると思ったのになぜこんなに苦しくなるのですか。私を苦しめないでください。」と言います。このような現象は悪霊が聖書勉強を妨げていることを現わしています。悪霊は人がイエス様と関係性を結び、新しく生まれることを妨げます。ですから、その時、私達はこれ以上その人を苦しめてはいけないと思ってそのまま放置して置いてはなりません。あるいは恵みを知らない人だと怒ってはなりません。むしろ悪霊がその人の中に働いていることを見分けて積極的に悪霊と戦わなければなりません。

 ここで私達はイエス様が汚れた霊につかれた人をどのようにご覧になったのかについて考えて見たいと思います。イエス様は悪霊につかれた人に会うとすぐ「汚れた霊よ。その人から出て行け。」と言われました。イエス様はその人と悪霊を分けてご覧になりました。彼の肉体は傷だらけで獣のようでした。だいたい人々は悪霊につかれた人を見るとその人自体がだめになったと思い、希望を失ってしまいます。そして鎖や足かせにつないでおきます。それは悪霊の存在を認めてないからです。しかしイエス様はその人自体がだめになったのではなく、悪霊がその人にとりついて破壊しているとご覧になりました。その人を苦しめる根本原因は悪霊だから悪霊さえ追い出せばその人は本来の自分に戻ることができるとご覧になりました。「汚れた霊よ。その人から出て行け。」ここでその人とは神様のかたちに似せて造られた存在であり、神様の御言葉を愛し、神様の御言葉に従おうとする本来の自我のことです。ところが、悪霊がその人の中に入り、その人の人格を破壊し、神様に敵対させ、神様との関係性を断絶させたのです。彼は神様からいただいた美しい姿を失い、幸せと喜びを失いました。悪霊は自分の存在を隠して巧妙にその人の中に入り込んで汚れた考えをさせ、悪い行動を行なうように操りました。イエス様はその人と悪霊とを分けてご覧になり、悪霊に命じられました。「汚れた霊よ。その人から出て行け。」それはまるで医者が患者を見る時、その人を苦しめる病気だけ治せばその人は健康になれると見ることと同じことです。

 イエス様は悪霊につかれたゲラサ人をご覧になった時、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われました。イエス様はその人の中で働いている悪霊と戦い、その悪霊を追い出してくださいました。すると彼は心の分裂現象が起こり、もっと苦しむようになりました。イエス様は彼が苦しんでいるからと言ってそのまま退かれませんでした。むしろ積極的に助けてくださいました。9節をご覧ください。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになりました。それではイエス様が彼の名前を尋ねられたのにはどんな意味があるのでしょうか。

 第一に、それは悪霊の正体を明らかにするためでした。悪霊は騙すこと、嘘をつくことが上手です。悪霊は嘘を本当の話のように話します。イエス様は悪霊に出て行くように命じられましたが、悪霊は彼から出て行きたくないためイエス様を騙そうとしました。それでイエス様は名前を尋ねられることによってその正体を明らかにされました。

 第二に、彼の存在の意味を悟らせ、本来の自我を回復させるためでした。名前はその人の人格と存在を現わします。ですから、名前を聞かれたのは自分がどんな存在であるのか、自分が本来どんな者であったのに、なぜ今こんな状態になったのか、を考えさせる質問です。彼は悪霊につかれて本当の自我を失っていました。彼が墓場の中で叫び続けているのは、汚れた霊が彼の中で働いていたからであり、本来の自我のためではありませんでした。彼は自分の考えや判断によって動くのではなく悪霊によって動いていました。イエス様はこのような彼に「おまえの名は何か。」と聞かれることによって、彼の自我を悟らせてくださいました。それは失った羊を見つけるまで探す牧者の愛の声でした。イエス様は今もなお私達に深い関心を持って質問してくださいます。「おまえの名は何か。」

 人間は神様から離れた結果存在意味を失い、自我を喪失するようになりました。それで神様は罪を犯したアダムに呼び掛け、彼に仰せられました。「あなたは、どこにいるのか。」(創3:9)。それは「あなたの存在は何か。」という質問です。また神様は世の名誉や愛や物質を求めて自我を喪失したヤコブに現われて同じ質問をされました。「あなたの名は何というのか。」(創32:37)。人は自分を造られた神様の御前で自分の存在意味を発見することができます。神様の愛によって本来の自我を取り戻すことができます。創造主である神様がひとり子をお与えになったほどに私達を愛してくださったことを悟る時、自分が神様の前でどれほど尊い存在であるかがわかります。その時、やけを起こさずに自分を愛することができます。イエス様は彼に「おまえの名は何か。」と尋ねられ、彼が本来の自我を回復し、人生をやり直せるようにしてくださいました。

 だいたいの人々の関心はどこにありますか。「どこの学校を卒業したのか。」「どんな職場で働いているのか。」「社会的な地位は何か。」「どんな車に乗っているのか。」「金持ちであるかどうか。」などで人を評価します。しかし、イエス様の関心は違いました。イエス様は汚れ霊につかれた人に「どこの学校を出たのか。」尋ねられませんでした。イエス様の関心は彼の存在にありました。外見だけを見ると、ゲラサ人は気が狂った人に過ぎませんでした。人々は彼がいなければいいと思っていたでしょう。しかし、イエス様は彼が神様のかたちに似せて造られた尊い存在としてご覧になりました。イエス様はこの一人を天下よりも尊く思われました。人々は彼を見捨てましたが、イエス様は彼を見捨てられませんでした。むしろ彼と愛の関係性を回復するために尋ねられました。「おまえの名は何か。」これはイエス様の愛の質問でした。イエス様は滅んで行く一人の魂をあわれまれ、彼を悪霊から救おうとされました。イエス様は名前を尋ねることによって彼と正しい関係性を結ぼうとされました。

 イエス様の質問を聞いた彼の心が開き始めました。イエス様のいのちの光が暗闇を照らし始めました。すると、彼はイエス様の御前に真実に自分の名前を言いました。9b節をご覧ください。「私の名はレギオンです。私達は大勢ですから。」レギオンというのは6000人で構成されたローマの軍団のことです。それを見ると彼にはそれほど大勢の悪霊が働いていたと思われます。情欲の悪霊、高慢の悪霊、憎しみの悪霊、貪欲の悪霊、ねたみの悪霊、安逸の悪霊、淫乱の悪霊、劣等感の悪霊、自虐の悪霊など様々な悪霊が彼の中に入り、彼の考えや感情や意志を支配していました。彼の告白によって正体が現われた汚れた霊はそれ以上その人の中にとどまることができなくなりました。それで、自分達をこの地方から追い出さないでくださいと懇願しました。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってありました。彼らはイエス様に願って言いました。「私達を豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエス様がお許しになると、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移りました。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまいました。悪霊につかれていた人は正気に返りました。彼は着物を着て、イエス様の前に座っていました。彼の狂った心は平和を回復しました。まるで「野獣と美女」に出ている野獣が魔法が解けた時、ハンサムな王子に変わったように彼は新しく生まれ変わりました。イエス様は一人を救うために豚2000匹を犠牲にされました。イエス様は一人のたましいを天下より尊く思われました。

 しかし、この驚くべきことに対する町の人々の反応はどうでしたか。彼らはイエス様のところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなりました。かつてはあんなに狂っていた人が、分別のある市民になっていました。見ていた人達が、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚の事を、つぶさに彼らに話して聞かせました。すると、彼らはイエス様に、この地方から離れてくださるよう願いました。どうしてでしょうか。一人の人は癒されましたが、彼らの豚が滅ぼされました。それゆえ人々はもうこれ以上のことは求めなかったのです。イエス様が続けてそこにおられると、彼らの鶏、牛、猫までも失うのではないかと恐れました。彼らはイエス様に「どうか、私達の仕事の邪魔をしないでくれ。私の財産を侵害するな。」と言いたかったのでしょう。ゲラサ人は問題を起こすキリストを追放しました。彼らはお金が損することを恐れて命の救い主を追い出してしまいました。彼らは豚中心の価値観を持っていました。

 18節をご覧ください。イエス様が舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエス様に願いました。彼はイエス様の愛に感動され、いつまでもイエス様とともにいたいと願いました。しかし、イエス様はお許しにならないで、彼に使命を与えてくださいました。19節をご覧ください。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」彼はキリストの証人となりました。そこで、彼は立ち去り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めました。人々はみな驚きました。救われた人々の使命も同じです。それは主が私に、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせることです。

 イエス様は私達に救いの恵みだけではなく同時に使命を与えてくださいます。ローマ1:5は次のように言っています。「このキリストによって、私達は恵みと使徒の努めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」使命は人を偉大な人にならせ、価値あるものにします。使命の人生はそれ自体が恵みです。

 結論、イエス様は汚れた霊につかれて自我を失い、苦しんでいる一人のゲラサ人に会ってくださいました。そして、彼を哀れんでくださり、「おまえの名は何か。」とお尋ねになり、汚れた霊を追い出してくださいました。彼はイエス様に出会い、失った自我を回復し、すべてが新しくなりました。イエス様はこの時間も悪霊につかれて自我を失って叫んでいる人々にお尋ねになります。「おまえの名は何か。」