2000年マルコの福音書第13講

あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。

御言葉:マルコの福音書6:30?44

要 節:マルコの福音書6:37a

すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人達に何かを食べる物を上げなさい。」

今日の御言葉はイエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられた事件です。この事件を通してイエス様はご自分の栄光を現し、弟子達を羊達の牧者として訓練されました。今日の御言葉を通して私達もこの時代の羊達に食べる物を上げる霊的な指導者として成長することができるように祈ります。

?.群衆を深く哀れんでくださったイエス様(30-34)

 今日の御言葉は伝導旅行から帰って来た弟子達がイエス様のもとに集まって来て宣教報告をすることから始まります。30節をご覧ください。「さて、使徒達は、イエスのもとに集まって来て、自分達のしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」今まで弟子達はイエス様から学ぶ学生であり、愛される羊でした。彼らはいつまでもイエス様の愛を受けながら羊として過ごしたかったでしょう。しかしイエス様は彼らを呼ばれた目的どおりに彼らを自立的な御言葉のしもべであり、サタンと戦う力ある主のしもべとして育てるために伝道旅行に行かせました(6:7?13)。彼らを遣わすイエス様の心はまるで狼の中に羊を送り出すようなものでした(マタイ10:16)。弟子達は自立的に伝道旅行をしようとした時、最初は恐れもあったと思いますが、イエス様の御言葉に従って大胆に福音を伝えました。すると、驚くべき御業が起こりました。彼らは福音の力を体験して喜びに満たされて帰って来ました。そして自分達のしたこと、教えたことを残らずイエス様に報告しました。ペテロは大声で言いました。「イエス様!私が主の御名によって悪霊に命じると悪霊が出て行きました。」疑い深いトマスもその時だけは確信に満ちて言いました。「主よ。私がメッセージを伝えると人々が恵みを受けて悔い改めの涙を流しました。」

 報告が終わった後、イエス様は弟子達が激しい働きで疲れていることがわかりました。それでイエス様は彼らに言われました。「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」(31a)。そこは人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからです。イエス様は人々と接触した弟子達が、今度は静かに休みながら神様と交わるようにして下さいました。イエス様は弟子達に何が必要なのかよく知っておられる方です。そしてその必要を満たし下さる方です。イエス様は私達の弱さもよくご存じで、繊細に助けて下さる方です。イエス様は私達に真の休みを与えてくださる方です(マタイ11:28)。イエス様は私達をみどりの牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる良い牧者です(詩篇23:2)。イエス様の慰めの言葉を聞いた弟子達はほんとうに嬉しかったでしょう。彼らは「夕食はバーベキューにしよう、その後はキャンプファイアをしよう。」などと休暇の計画を立てて舟に乗って、自分達だけで寂しい所へ行きました。

 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気付いて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけました。彼らはどんなに熱心に走ったのか、イエス様と弟子達よりも先に着いてしまいました。なぜ群衆はこれほどしつこくイエス様について来たのでしょうか。それはイエス様からいのちの御言葉と真の愛を味わったからです。彼らは先に着いてイエス様と弟子達を喜んで迎えました。しかし、弟子達は久しぶりの休みさえ奪われてしまうことを考えろとどこかに逃げたい気持ちになったでしょう。イエス様や弟子達の都合やスケジュールを全く無視して来る群衆が怪獣のように見えたかも知れません。

しかし、イエス様は多くの群衆をご覧になられた時、その心情はどうでしたか。34節をご覧ください。「イエスは、船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」ルカの福音書9:11節を見ると、「イエスは喜んで彼らを迎えられた。」と記されています。イエス様は彼らに対して少しも負担感を持たず、父親が息子を迎えるように喜んで迎えて下さいました。イエス様はいつでも誰でもご自分のところに来る人を喜んで迎えて下さいます。

 イエス様が喜んで彼らを迎えることが出来たのは、彼らを深くあわれんで下さったからです。あわれむとは単純な同情心ではなく心から愛し、彼らの悲しみや苦しみを理解する心です。それは牧者の心であり、神様の御心です。それではイエス様は彼らをどんな点であわれんで下さいましたか。

 第一に、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれんでくださいました。イエス様は彼らに政治的な自由がないからあわれんでくださったのではありません。貧しい生活をしているからでもありません。イエス様が彼らをあわれんでくださったのは、彼らが羊飼いのいない羊のようであったからです。羊飼いのいない羊はなぜあわれなものですか。それはまるで保護者のいない子供のようだからです。羊は羊飼いがいなければ生きられません。羊は牧者の繊細な関心と助けが必要な弱い動物です。羊は倒れると自ら立ち上がることさえできません。もし牧者が助けてくれなければそのまま死んでしまいます。また、羊は弱くて猛獣から自分を守ることができません。牧者がいつも杖を持っているのはこのような猛獣から羊を守るためです。また、牧者のいない羊は食べることも飲むこともできずやせ衰えてしまいます。偶然に見つけた草は致命傷を与える毒草であり、飲んだ水は腐った水です。すると、羊は病気で死んでしまいます。また、羊は近視眼なので自分ではどこに行けばいいかわからない哀れなものです。ですから、羊には牧者が絶対に必要です。牧者は弱まった羊を強め、病気のものを癒し、傷ついたものを包み、迷い出るものを連れ戻し、失われたものを捜します。また牧者は羊達を狼のような猛獣から守り、正しい道に導き、行くべき方向を指示してくれます。

 人はいろいろいろな面で羊と似ています。それで聖書は人を羊に例えています。羊に牧者が必要であるように人にも牧者が必要です。人々はお金の問題、病の問題、就職の問題、家庭の問題など多くの問題をかかえています。しかし、本当に大切な問題は羊飼いがいない問題です。イエス様がご覧になると、当時の人々には牧者がいませんでした。政治指導者であったヘロデは淫乱な王でした。宗教指導者達は偽善者であり、羊達を利用する者でした。 

 今日のキャンパスの兄弟姉妹達も羊飼いのいない羊のようです。彼らは高校生の時までは受験勉強のために人生について真剣に考えてみる暇がありません。大学に入っても大学の雰囲気は人生について論じ合ったり、真理を探究したりする雰囲気ではありません。むしろ人生について論じ合い、真理を探究する人々は時代遅れの人のように思います。学生達は高校生の時とは違って多くの自由と時間が与えられています。多くの学生達がこのような自由と時間を遊びや快楽のために使ってしまいます。彼らは淫乱と情欲という腐った水を飲んで死んで行く羊のようです。また、人生の意味と目的を知らず、さまよっている羊のようです。このような学生達を狼のような異端思想がいのちを奪っています。問題は彼らを助ける牧者がいないことです。教授が彼らを助けてくれることができますか。両親が彼らを助けてくれることができますか。いいえ。彼らの問題を誰も助けることができません。イエス様はこのような彼らをご覧になると、やはり羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれんでくださるでしょう。彼らに食べるものがないからではありません。彼らに世の知識がないからでもありません。彼らが罪の問題で苦しみ迷っているのに彼らを導く羊飼いがいないからあわれんでくださるのです。サタンの餌食になって死んでいるのに助けてくれる羊飼いがいないからあわれんでくださるのです。

 第二に、彼らが霊的に無知だったのであわれんでくださいました。イエス様は群衆を深く哀れみ、何をされましたか。イエス様はいろいろと教え始められました。それをみると彼らは霊的に無知だったことがわかります。彼らはこの世に生まれて生きていますが、人間はどこから来てどこに行く存在なのか知りませんでした。また、何をするのが価値ある人生か、何のために生きるべきかを知りませんでした。ただ食べるため、またもっと豊かな生活のため朝から晩まで働いていました。しかしこの世のすべてのものを手に入れたとしても自分のいのちを失ってしまったら何の益があるでしょうか。いくら金持ちになり、地位が高くなり、人々から尊敬される人になっても霊的に無知な人は哀れな者です。このような人々に一番必要なのは神様の御言葉です。

 今日はコンピュータによる情報産業がものすごく早いスピードで発達しています。人々はコンピュータを利用して短時間に多くの情報を手に入れることができます。特にこの頃はインターネットを使うと机の上で世界の情報を集めることができる時代になりました。しかしいくら多くの情報を手に入れたとしてもそれらの知識や情報が罪によって苦しんでいる人の問題を解決してくれることができません。人々に何よりも必要なのは罪の赦しと永遠のいのちと神の国に入ることができる情報です。それは神様の御言葉です。神様の御言葉は人生の意味と目的が何かを教えてくれます。神様の御言葉は人を苦しむ罪の問題を解決してくれます。神様の御言葉は人の魂を生き返らせます。神様の御言葉は私達に真の満足や喜びを与えます。神様の御言葉は私達を天の御国に導いてくれます。神様の御言葉は罪によって死んで行く人々を生かします。神様の御言葉は救いと永遠のいのちへの道を教えます。神の国に対する生ける望みを持つようにしてくれます。主が私達に羊飼いのいない羊のようであるキャンパスの学生達をあわれむ心を与えて下さるように祈ります。また、彼らに神様の御言葉を教えることができるように祈ります。

?.五千人を食べさせられたイエス様(35-44)

 35節をご覧ください。イエス様の宣教の熱心と群衆の聞く熱心さとのために、思わず時間がおそくなり、夕方近くなりました。しかしイエス様は続けて御言葉を教えておられました。弟子達はお腹がすいていてグーグー鳴りましたが、がまんしていました。しかし、時刻も遅くなったので、それ以上がまんできず、イエス様と群衆との間に入り込んで口を開きました。「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」(35、36)。弟子達は何よりも人間的なこと、その中でも最も重要な食事のことが心配になって来ました。彼らの提案は現実をよく把握した提案であり、合理的な提案でした。イエス様はこんな弟子達に何と命じられましたか。37a節をご覧ください。「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」イエス様も現在の状況をよく知っておられました。ところがなぜイエス様は弟子達にこのように命じられたのでしょうか。

 第一に、指導者としての責任感を持たせるためです。弟子達には食べるものと休みが必要でした。しかしイエス様は彼らの状況がどうであれ「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われました。なぜなら彼らは霊的な指導者として羊の群れを食べさせる責任感があるからです。羊飼いの基本姿勢は羊に対する責任感を持つ事です。羊飼いは「羊の問題は私が解決してあげなければならない。」「私が羊達に食べるものを上げなければならない。」という強い責任感を持たなければなりません。「私が食べるものを上げなくても誰かが食べる物をあげるだろう。」という無責任な人は羊飼いとしての資格がありません。この国はクリスチャンが全人口の1%だと言われています。すなわち、キャンパスの99%以上の学生達はノンクリスチャンだということです。ところが、問題は彼らに福音を伝える牧者がいないことです。キャンパスのほとんどの学生達は一生聖書の御言葉を聞くこともなく人生を終えてしまいます。このような彼らに誰が食べるものを上げなければならないでしょうか。

現代宣教の父と言われるウィリアム・ケーリは「クック船長の航海」という本を読んで世界の人々に対する強い責任感を感じました。彼は聖書を通して世界宣教こそ教会の一番大切な使命であると確信しました。ある日、彼は牧師達の集まりに参加した時、世界宣教に対して話しました。するとその中の一人が言いました。「おい。若者。座りなさい。もし神様が異邦人を改宗しようとすればあなたや私達の助けなしにもいくらでできるだろう。」しかし、ウィリアム・ケーリは世界の人々に自分が食べ物をあげなければならないという強い責任感を感じました。それで彼はインドの宣教師になりました。神様は世界の人々に対する強い責任感を持っている彼を通して本格的に世界宣教の御業をなしてくださいました。靴の修理をしながら人生を終えるはずだった彼は現代宣教の父となりました。イエス様は弟子達が状況を言い訳にしないで群衆に対する責任感を持つことを願われました。

 第二に、牧者の心を持たせるためでした。指導者としての責任感だけでは群衆を食べさせるのに限界があります。群衆を食べさせるためには牧者の心が必要です。イエス様は群衆をご覧になって彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれんでくださいました。牧者の心は羊達を哀れみ、どうしても助けようとする心です。牧者の心がある時、羊の問題が自分の問題のように思われます。羊の悲しみが自分の悲しみとなり、羊の痛みが自分の痛みとなります。このような牧者の心は人間に向かう神様の御心を知る時生じます。特にイエス様が私をどのように助けてくださったかを知る時、生じます。イエス様は罪によって滅びるべき私達を救うためにご自分のいのちを捨てて下さいました。このイエス様の愛と救いの恵みを深く悟るようになると羊達を憐れむ牧者の心が生じます。使徒パウロはイエス様から受けた恵みと愛を考えると負債を負っている人の心になりました。彼はその心に満たされて多くの人々に仕えることができました。私達もイエス様の恵みと愛を覚えて負債を負っている者の心を持ってキャンパスの兄弟姉妹達に福音を宣べ伝えることができるように祈ります。

 弟子達はイエス様が「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」と言われた時、どのように受け取りましたか。37b節をご覧ください。「私達が出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人達に食べさせるように、ということでしょうか。」44節には男が五千人とあるので、女と子供をいれると、もっと多くなります。それだけの人のためにパンを買うというのは、大変なことです。一デナリは一日の労働賃金でした。二百デナリは半年分以上の給料にあたります。ところが貧しい弟子達にこんな大金があるはずがありません。またそんな大金で食料を求めるのは、よほど前から準備しておかなければ、突然町に買いに行っても買える物ではありません。ですから弟子達の答えは自分達はパンを買って群衆を食べさせることができないということです。彼らは持ってない二百デナリを考えつつ否定的になりました。弟子達のように私達も持ってない二百デナリを考えながら否定的な考えに捕われがちです。忙しくて時間がないから羊を養う事ができないと思います。ある人は子供がいるからある人は体が弱くてできないと思います。ある方は気に入った同労者が自分のFellowshipにいないから出来ないと思います。それだけあれば1:1も弟子養成もできるのにそれがないからできないと思います。しかし実はそれらのものがないから出来ないのではなく、牧者の心と信仰がないから出来ないのです。牧者の心と信仰があれば時間、健康、お金、日本語などの限界を乗り越えてキャンパスの羊達に食べるものを上げることができます。なぜなら私達が信じているイエス様は創造主であり、無限な力と知恵を持っておられるからです。

 それではイエス様は二百デナリだけを考えながら絶望している弟子達にどんな方向を与えられましたか。38節をご覧ください。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」このみ言葉を通してイエス様が弟子達に教えようとされることは何でしょうか。

 第一に、諦めず信仰によって挑戦するように教えられます。弟子達は頭で計算してみて出来ないと諦めていました。彼らは否定的な考えをするのになれていました。すると彼らはイエス様がなさる可能性を探すより自分達にない200デナリだけを考えてあきらめていました。このような彼らにイエス様は「パンはどれぐらいありますか。」と言われることによって「ない」という考え方を「ある」という考え方に変えてくださいました。出来ないと諦めることと不可能な状況の中でも諦めず挑戦することは大きな差があります。羊を飼う事が難しいと思い諦める人は一生涯羊を飼う事が出来ません。しかし難しくても信仰によって続けて挑戦する人を神様は祝福して下さいます。

 第二に、信仰の行動を要求する御言葉です。イエス様は弟子達に「行って見て来なさい。」と言われました。弟子達は持ってない二百デナリだけ考えて何もしませんでした。頭でできないと考えて何もしないことと出来る可能性を捜して行動することとは全然違います。信仰は理論ではありません。私達が1:1羊を得ようとしますが、そのためには現場であるキャンパスに行って見なければなりません。ヤコブ2:14はこのように言っています。「私の兄弟達。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救う事が出来るでしょうか。」

 第三に、信仰によってイエス様の所に持って来るようにされました。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」という言葉は「パンを捜してひとりで食べなさい。」という意味ではありません。それをイエス様の所に持って来なさいという意味です。弟子達は行って五つのパンと二匹の魚を持って来ました。これは一人前の食事に過ぎないものです。しかしみすぼらしいものでも主に持って来ると驚くべき奇蹟が起こります。五つのパンと二匹の魚ぐらいは誰でも持っているものです。ところが問題はこれを主に持って来るかどうかの問題です。足りなくてみすぼらしいものでも自分の祈りと真心、時間を主に捧げる時、主はそれを大きく祝福して下さいます。

 弟子達が五つのパンと二匹の魚を見つけて主に捧げた時、イエス様はそれを取り、天を見上げて祝福を求められました。これは神様への感謝の祈りです。そしてパンを裂き、人々に配るように弟子達に与えられました。また、二匹の魚もみなに分けられました。その結果、どんな大きな御業が起こりましたか。42節をご覧ください。人々はみな、「お替り、お替り」としながら食べて満腹しました。食べた残りが「十二かごにいっぱい取り集め」たことは神様がどんなに豊かに祝福してくださったかがわかります。男だけで五千人である群集だから女と子供を入れると一万人を越えると思われる多くの人々をイエス様は五つのパンと二匹の魚を持って食べさせられました。このイエス様は天と地を創造された全能なる神様です。この神様は私達のささげる小さな祈りや信仰も祝福して下さり、この国のキャンパスの兄弟姉妹達を満腹させることが出来る方です。

 結論的に羊飼いのいない羊のようにさまよっていた私達を憐れんで下さり、私達のよい牧者となられたイエス様の愛を感謝致します。また足りませんが、私達をこの時代の人々をイエス様に導く牧者として立ててくださったことを感謝致します。イエス様は私達に言われます。「あなたがたで、この国の600キャンパスの学生達に、食べるものを上げなさい。」私達が五つの1:1のパンと二匹の祈りの魚を主に捧げることができるように祈ります。神様がこれを祝福して下さり、1:1と弟子養成の御業が盛んになりますように祈ります。また、私達の捧げる小さな五つパンと二匹の魚を祝福して下さり、この国が祭司の国となりますように祈ります。