2000年ローマ人への手紙第2講
人間の罪と神の怒り
御言葉:ローマ人への手紙1:18?32
要 節:ローマ人への手紙1:18
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、
神の怒りが天から啓示されているからです。」
ローマ1:18-3:20までは人間の罪に関する内容です。ここでパウロは異邦人、ユダヤ人、道徳主義者などすべての人が罪人であると言っています。なぜ彼は人間の罪についてそれほど詳しく説明しているでしょうか。それは人が罪人であることを深く悟る時に福音を必要とするからです。それはまるで自分が病気にかかっていることを知る時に医者を必要とすることと同じです。病気は病気ですが、症状がすぐ現れない恐ろしい病気もあります。たとえば癌のように自分が知らないうちに体のどこかで癌細胞が広がり、症状が現れて病院に行った時にはもう遅いと言われる病気もあるのです。同じく霊的な病気である罪もなかなか悟りにくい病気です。それでパウロは人間がどんな面で罪人であるかを詳しく説明しているのです。それは人々に自分が罪人であることを悟らせ、また、認めさせるためです。そして、その罪という病気はどんなに優れた医者も治せない不治の病であることを悟らせ、ただイエス・キリストだけがその罪の問題を解決してくださることができるという福音を知らせるためです。
きょうの御言葉は異邦人の罪と神様の裁きに関する内容です。神様なしに生きている異邦人は自由があり、幸せそうに見えます。しかし、彼らの内面を探って見ると、あらゆる偶像崇拝と淫乱で深く病んでいることがわかります。きょうの御言葉を通して神様なしの人間がどんな面で罪人であり、彼らに下られる神様の裁きは何かを学びたいと思います。それによって、私達の罪を悟り、悔い改めて福音を受け入れることができるように祈ります。
?.罪の根(1:18-23)
18節をご覧下さい。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」1:17節でパウロは「福音のうちには神の義が啓示されている」と言いました。ところが、18節では神の怒りが啓示されていると言っています。これは現在形で今も続けて啓示されていることを意味しています。福音のうちに啓示されている神の義は信じる人には救いとして、信じない人には神の怒りとして臨みます。不義をもって真理をはばんでいる人々はわざとそのようにしている人々です。彼らが犯す罪には不敬虔と不正があります。不敬虔は神様に対する罪として信仰的な罪です。代表的な罪は偶像崇拝です。不正は人間に対する道徳的な罪です。代表的な罪は情欲です。このような人々に対して神様の怒りが天から降っています。聖書は怒りの神様、さばきの神様について証ししています。特に選民イスラエル人の罪に対する怒りとさばきに対する内容が多く出ています。神様から離れて偶像崇拝をし、淫乱な罪を犯したイスラエル人を神様は戦争、疫病、自然災害、事故などを通して裁かれました。このような神様の怒りと裁きは聖なる神様、義である神様にとって不可欠なことです。また、これは人間に対する愛の表現でもあります。すなわち、懲らしめてでも立ち返らせようとする神様の愛の表現なのです。それでは人々は具体的にどのようにして真理をはばんでいますか。
19-23節は不敬虔の罪に関する内容です。人々は、神の怒りに対して、神様を知ることができなかったので偶像崇拝をするしかなかったと反論することができません。なぜなら、人間に神様について知りうることは、明らかであるからです。19節をご覧下さい。「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」人間は生まれながら神様に対して知りうる知識を持っています。人間には宗教性と理性と良心があります。人間は宗教的な動物と言われるほど人々が住んでいるところにはどこにも宗教が存在しています。それは人間が動物と違うところです。犬や猫は宗教を持っていません。犬や猫が神様を賛美したり、祈ったり、礼拝を捧げたりするのを見たことがありますか。しかし、人間が存在するところには宗教があります。それは人間が神様のかたちに似せて造られたからです。すなわち、人間はたましいを持っている霊的な存在だからです。ですから、人は瞬間に満足できず、永遠を慕い求める心があります。また、人間が神様を知りうるために理性があります。人間は神様が与えて下さった理性によって、神様を探し求めるなら、神様を見いだすことができます(使徒17:27)。しかし、堕落した人間は理性を神様がいないことを証明するために用いました。それで進化論、人本主義、共産主義が出て来ました。何よりも良心は神様を知りうる人間に与えられた力です。人間の良心は最小限の善悪を見分ける力があって、罪を犯すと呵責を感じるようになります。罪によって汚れた良心もありますが、人間のうちに良心が存在することは確かなことです。このように人のうちにあるものによって、神様を知ることができるのです。
20節をご覧下さい。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」これは自然の啓示について言っています。神様は人間の内面に神様について知りうることを与えてくださっただけではなく、自然の世界を通しても神様を知ることができるようにして下さいました。詩篇19:1節は次のように言っています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」宇宙万物は神様が造られた作品であり、その中には神の永遠の力と神性が現れています。スキンダイビングをする人々は神様が造られた神秘の世界に憧れて海の中に飛び込んでいます。また、登山家達は神様が造られた山の神秘を味わうために危険を冒して山に登ります。先週出勤の時でした。偶然に空を見ると青空に太陽が輝いていました。私は太陽を造られた神様のことを考えながらまぶしい太陽を何回も仰ぎ見ました。一億四九六〇万キロメートルも離れているところから私を暖かく照らしている太陽のことを考えると、神様の創造の智恵と力に驚くばかりでした。
ですから、人は神様を知ろうとすればいくらでも知ることができます。人が神様を信じないのは、知らないからではなく神様なしに生きたがっているからです。また、神様を知ろうとしないからです。ですから、それは知識の問題ではなく、心の問題です。誰でも心を改めて神様を捜し求めるなら、神様に会うことができるのです(エレミヤ29:13)。
21節をご覧下さい。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」この御言葉は人間の罪の根について教えています。
第一に、神を知っていながら、その神を神としてあがめないことです。被造物の第一の存在目的は、神様の栄光のために生きることです。それでパウロも?コリント10:31節で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と言いました。人が神様をあがめないことは、自慢する心と高慢から来た罪です。私たちは何をするにも神様の栄光を現わすためにしなければなりません。
第二に、神を知っていながら、感謝しないことです。私達にどれほど多くの感謝題目がありますか。神様は人間を愛し、生活に必要なすべての環境を備えてくださいました。いのちと働ける力を与えてくださいました。生きるために必要な空気と太陽の光を与えてくださいました。種を蒔くと実がなる土を与えてくださいました。人は空手で生まれますが、神様は必要なすべてのものを与えてくださいます。ですから、神様が施されたすべての恵みを考える時、感謝せざるを得ません。ところが、神様を知っていながら感謝しないことは確かに罪です。奴隷の民、イスラエル人が解放されて荒野に導かれた時、犯した罪の中に神様に対するつぶやきがあります。彼らは水がないとつぶやき、肉が食べたいとつぶやきました。彼らは昼も夜もつぶやきました。そして、奴隷の生活をなつかしく思いました。このような彼らは約束の地に入ることができず、皆荒野で死にました。私たちはすべてのことについて感謝しなければなりません(?テサ5:18)。いのちを与えてくださった神様に感謝し、空気や光や水を与えてくださった神様に感謝し、一人子イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝しなければなりません。それが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです。
しかし、このようなことが与えられたことを当たり前だと思い、感謝しないことから罪が生まれ、罪が始まります。感謝の代わりに不平不満、つぶやき、いらだち、血気が始まります。すると、個人や家庭の幸せは鳥のように飛んで行ってしまいます。ですから、私たちは積極的に感謝する生活をしなければなりません。深く考えて見ると、きょうまで守られて来たのも主の恵みです。
そのように神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もしなかった結果人はどうなりましたか。21節をご覧下さい。第一に、思いがむなしくなります。無駄な考え、無益な考えをするようになります。人が毎日考えるのが、むなしいことばかりだったら、どれほどその人の人生はむなしいものでしょうか。第二に、無知な心は暗くなります。無知な心は分別力のない心です。人が神様を離れると善悪と真理を見分けることができなくなります。心が暗くなり、顔も、生活も暗くなります。クリスチャンも同じです。積極的に神様をあがめず、感謝もしないと心が暗くなります。信仰生活が無意味に思われます。第三に、自分では知者であると言いながら、愚かな者となります。それで詩篇14:1節は「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」と言いました。
このような人々の終点はどこですか。それは偶像崇拝者となることです。23節をご覧下さい。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人が神様に仕えなければその代わりに偶像に仕えるようになります。人間や、獣、はうものに仕えます。それはどんなに愚かなことでしょうか。経済大国であり、最先端の技術を誇るこの国の人々が世界で一番多くの偶像崇拝をしていることはどれほど愚かなことでしょうか。お正月になると、ほとんどの人々が初詣のために神社に出かけます。インドでは牛に仕えます。鷲、龍、蛇、ワニなどに仕える所もあります。このように人間は不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。すなわち、人間は動物以下の者に転落してしまいました。人は神様の栄光を現わすために生きる時、人間として一番貴く尊厳な人生を生きることができます。
?.神様の罰(24-32)
24-32節までは罪に対する神様の罰です。神様は、造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えた人々をどのように罰せられましたか。24,26、28節には「神は、彼らを何々に引き渡された」という言葉が繰り返されています。これは神様の現在的な裁きの性格を言ってくれます。神様の裁きには終末論的な裁きと現在的な裁きがあります。人々は裁きといえば、失敗したり、病気にかかったり、事故に会ったり、死ぬことなどを考えます。しかし、このようなことも神様の裁きとして考えられることですが、本文ではこのような裁き以外に神様から引き渡されるさばきがあることを言っています。神様が放っておくこと、無関心であることは大きな裁きです。ところが、引き渡された人々はそれが裁きであることがよくわかりません。むしろ、自由で良いのではないかと思います。神様は愛する人々を懲らしめられます。それでヘブル12:8節を見ると、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と言っています。ですから、私たちは人生の道が塞がれてどうすればいいか分からない時、仕事がうまく行かない時、苦しみがある時、むしろ神様の御旨があると思い、感謝しなければなりません。罪人としての成功は決して祝福ではありません。その成功によって滅びるからです。
信仰が薄い兄弟姉妹達は牧者に次のように言います。「私にかまわないでください。私をこのまま放っておいてください。電話もかけないでください。そんなに押し付けないでください。」しかし、それもその兄弟を愛する牧者の恵みの手であり、干渉であることを知るべきです。どうしても助けることができないと思ったら牧者も諦めてしまいます。願う通りにそのまま放っておきます。何よりもかわいそうなことは神様から見捨てられることです。人に見捨てられることは救われる余地がありますが、神様から見捨てられると終わりです。イスラエルの初代王であるサウルは謙遜だった時、神様は彼を高くあげて王としてくださいました。しかし、彼が高慢になって神様の御言葉に聞き従わなかった時、神様から見捨てられました。彼は悪い霊によって苦しみ、最後には自殺することで人生を終えました。
24節からは神様から見捨てられた具体的な内容が出ています。24節をご覧下さい。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」心の欲望のままに生きることは、堕落した人間の本性のままに生きることです。これは快楽を求める性的な堕落を意味します。人々は神様を恐れないために心の欲望のままに罪を犯し、それを美化します。最近はインターネットによる淫乱物が流行っています。段々コンピュータ教育が大切にされていて小学生もコンピュータを学び、世界の情報を簡単に手に入れることができる時代になりました。同時に簡単に淫乱サイトに入ることもできるので小学生までも淫乱物の影響の下にいます。もし、このような淫乱物に中毒されてしまうと昼も夜も情欲的な考えにさいなまれるようになります。もし、このような淫乱物に手を出している人がいるなら、早めに悔い改めましょう。
25節は情欲が偶像崇拝と密接な関係があることを言ってくれます。歴史的に見ると、偶像崇拝が行なわれているところには淫乱が発達しました。ソドムとゴモラも性的な堕落のために滅びました。26、27節は性的堕落の極致である同性愛について言っています。二千年前に書かれた聖書の中に顔が熱くなるほど同性愛について赤裸々に記されています。26,27節をご覧下さい。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」同性愛は今日だけにある罪ではありません。記録によると、ローマ皇帝15名の中で14名が同性愛者でした。今日は男性の同性愛者をホモ、あるいは、ゲイと言います。女性同士の同性愛者はレスビアンとか簡単にレズと言います。最近はこのような同性愛を公に行なっています。また、同性愛者達が自分達の権利を主張しています。聖書はこのような人々に対して当然の報いを自分の身に受けていると言っています。多くの人々が性病にかかり、天罰と言われているエイズにかかっています。2年前の世界人口白書によると、世界では、毎日1万6000人ずつエイズ感染者が出ており、感染者総数は3000万人を超えているそうです。エイズで死亡率が大幅に増加し、2010年までに平均寿命が40歳以下になる国が、9カ国もあると予測されています。
28節をご覧下さい。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」良くない思いに引き渡されることが神様のさばきです。良くない思いとは、悪い本性、堕落した本性だけが残った心の状態です。ですから、考えることや感じることや行いがすべて正常ではありません。船で言えば舵がありません。羅針盤もありません。車で言えば、ハンドルもブレーキもありません。わがままの人生です。このような彼らはどんな人になりますか。29-31節をご覧下さい。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」32節をご覧下さい。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」彼らは死罪に当たるという神様の定めを知っていながらも悔い改めず、それを行なう者に心から同意しています。彼らは罪を犯すことを合理化する罪を加えているのです。
以上から見ると、人が神様なしに生きるからといって自由になることができないことを学びます。そのような人生の結果は、むしろ偶像崇拝と情欲の罪の奴隷となり、結局神様のさばきを受けるしかありません。本当の自由がある人生は、真理の中での人生であり、神様の中での人生です。人間の罪は神様から離れたことから来ます。神様から離れる時、罪を犯す人生になるしかありません。むなしい人生を送るしかありません。そして、神様のさばきを受けて滅びるしかありません。それでは私たちはどんな人生を生きるべきでしょうか。悔い改めてイエス・キリストを受け入れなければなりません。そして、神様を神様としてあがめ、感謝する生活をしなければなりません。私たちは希望の二千年を迎えながら希望に満ちた祈り題目を決めました。ところが、二ヶ月も経ってないうちに、段々それが崩れ始めています。Fellowshipの夜明けの祈りの集まりを決断したのにFellowship牧者一人だけ参加しています。私も二月に入ってから夜明けの祈りができなくなっています。このように霊的な生活がなければ本文で学んだように心の欲望のままに生きるようになります。私達がもう一度ネヘミヤの悔い改めと涙の祈りを思い出しましょう。そして、悔い改めて神様の栄光を現わす人生、いのちを生かす人生を過ごすことができるように祈ります。私が怠けたことを悔い改めて、明日から夜明けの祈りを再び始めることを決断します。