2000年マルコの福音書第25講

契約の血

御言葉:マルコの福音書14:1-26

要 節:マルコの福音書14:24

イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。

多くの人のために流されるものです。」

 マルコの福音書14章から15章は、いよいよイエス様の逮捕、裁判、十字架、死が書かれているところです。今日の御言葉には二つの事件が出ています。一つは一人の女性がイエス様に香油を注いだ事件であり、もう一つはイエス様が弟子達とともに最後の晩餐をする事件です。この二つの事件はイエス様の十字架の死と関連しています。特にイエス様は弟子達に最後の晩餐を通して十字架につけられ死なれる意味が何かを教えてくださいました。今日の御言葉を通してイエス様に香油を注いだ女性のイエス様に対する姿勢について学ぶことができるように祈ります。また最後の晩餐を通して十字架の死の意味を学ぶことができるように祈ります。

?。香油を注いだ女(1-11)

 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていました。過越の祭りは4月14日頃に守られ、種なしパンの祝いは過越の祭りにつづく15日から21日まで一週間守られました。過越の祭りには、すべてのユダヤの成年男子でエルサレムから24キロ以内に住んでいる者は、参加しなければなりませんでした。過越の祭りは430年間エジプトの奴隷であったイスラエル人が神様の大きな力によって解放された日を記念する日です。当時イスラエルはローマの植民地であったので彼らにとって過越の祭りは特別な意味があったでしょう。彼らはローマから独立する第二の過越の祭りを望んでいたことでしょう。その時、宗教指導者達は何をしていましたか。彼らは絶望している民のために希望と信仰を与える過越の祭りのメッセージを準備しなければなりませんでした。ところが彼らは、どうしたらイエス様をだまして捕え、殺すことが出来るだろうか、とけんめいでした。彼らには神様の救いに対する恵みと感謝の心の代わりに殺意とねたみに満ちていました。彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していました。

 3節をご覧ください。イエス様がベタニヤで、らい病人シモンの家で食事をしておられる時でした。ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエス様の頭に注ぎました。すると芳しい香りが家中を漂いました。当時尊い客が家に到着した時や食事の席についた時には数滴の香油をかける習慣がありました。ところがこの女は、純粋で非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを割り、イエス様の頭に全部注ぎました。この香油は非常に高価なもので300デナリ以上のものでした。それは当時労働者の一年分の賃金に相当するものでした。彼女はそれほど高価なものを少しも惜しむことなくイエス様に注ぎました。それは彼女のイエス様に対する献身と犠牲を現わしています。彼女がそのようにできたのはイエス様を自分のいのちの主であり、王であり、拝む対象として考えていたからです。またイエス様から受けた救いの恵みがあまりにも大きくてイエス様に対する愛と感謝する心をそのように表現したのです。

 ではこれを見た人々の反応はどうでしたか。4,5節をご覧ください。何人かの者が憤慨して互いに言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人達に施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めました。マタイはそのように言ったのは弟子達だと言い、ヨハネはイスカリオテ・ユダだと言いました。たぶんイスカリオテ・ユダが先頭に立って責めると他の弟子達もそれに同意したでしょうか。彼らはその女が香油をむだにしてしまったと思いました。しかし彼らはその女の真心や犠牲的な愛やイエス様に対する感謝の心を見ることができませんでした。彼らは貧しい人々に関心があるように見えますが、実はお金にもっと関心がありました。

 ノンクリスチャンはクリスチャンがキリストのために捧げる時間、お金、愛情、情熱、すべての真心を無駄なことだと思います。それはキリストがどんな方であるかを知らないからです。しかし私達が主と福音のために捧げるものは決してむだではありません。

 イエス様はこの女のしたことをどのように思われましたか。6節をご覧ください。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」イエス様は彼女がりっぱなことをしてくれたと誉められました。弟子達は彼女を責めましたがイエス様は彼女の真心と献身を喜んで受け取ってくださいました。イエス様は私達のすべての真心と献身を喜んで受け取ってくださる方です。パウロは言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分達の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(?コリント15:58)。

 それではこの女のしたことはどんな点でりっぱなことですか。

 第一に、彼女はふさわしい時にイエス様に仕えました。7節をご覧ください。「貧しい人達は、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」私達がイエス様に仕える機会はいつまであるのではありません。私達は自分のいのちがある時、機会が与えられている時、自分の持ち物を持って主と福音のために励むべきです。なぜなら私達には働きたくても働けない夜が来るからです。

 第二に、彼女は自分にできる精一杯のことをしました(8)。神様に対して私達のなすべきことも、自分のできる精一杯のことであれば、どんなに小さなことでも神様は喜んでくださいます。私達は仕事や勉強をしながら主のみわざに仕えています。このように仕事や勉強をしながらキャンパスの学生達に福音を宣べ伝え、彼らと1:1聖書勉強をすることはやさしいことではありません。時には仕事が終わると疲れて休みたい心が生じます。しかし神様は私達が自分にできる精一杯のことをして主と福音のみわざに仕えることを喜ばれます。それは神様がご覧になるとりっぱなことです。私達の周りには忙しい生活の中でも自分にできる精一杯のことをして主と福音の御業に仕えている人々がいます。貧しい生活をしながらも同労者達や兄弟姉妹達を食事に招く方もいます。仕事で疲れた体を持って夜遅くまで聖書を教える方もいます。李ヨシュア宣教師はSBCが終わってから富士山に登って来ました。前日彼はパウロチームで夜中一時まで聖書勉強をしたので疲れていたと思います。私は富士山に登った経験があったので、大丈夫かなと思いました。しかし、彼は藤平兄弟との約束を守るために次の朝富士山に登りました。そして藤平兄弟とよい関係性を結びました。私は彼が自分にできる精一杯のことをして兄弟に仕える姿を見て恵みを受けました。主は私達が自分にできる精一杯のことをして主に仕える時にりっぱなことをしたと誉めてくださいます。

人々にはだれでも自分が一番尊く思っている石膏のつぼのようなものがあります。それはその人のいのちかも知れません。才能や財産、若さかも知れません。ところがその石膏のつぼを誰のために使うかが大切です。ある人は愛する人のためにそれを使います。ある人は世の名誉と権力を得るために使います。ある人は貧しい人々のために使います。ある人は学問や芸術のために使います。イエス様は私達が石膏のつぼを割って、捧げるのにふさわしい方です。なぜなら、イエス様は天地万物と人間を造られた創造主であり、御旨に従ってこの世を治めておられる王の王であり、私達を罪と死から救うために御自分の尊いいのちを与えてくださった救い主だからです。私達が香油を注いだ女のように自分にできる精一杯のことをして主に仕えることができるように祈ります。

 イエス様はこの女のしたことにどんな意味を付け加えましたか。9節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」このイエス様のことばは、今日事実となり、世界中でこの物語が語られています。

 香油を注いだ女とは対照的にイスカリオテのユダは、何をしていましたか。10,11節を見ると彼は、イエス様を売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行きました。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束しました。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエス様を引き渡せるかと、ねらっていました。彼はお金を愛していたので結局イエス様を裏切り、信仰から離れました。

?。最後の晩餐(12-26)

 12-16節をご覧ください。種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子達はイエス様に言いました。「過越の食事をなさるのに、私達は、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエス様は、弟子のうちふたりを送って、こう言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子達といっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」このように正確な位置を知らせなかったのはイスカリオテ・ユダのゆえです。イエス様は過越の食事を誰にも邪魔されず弟子達と一緒にすることを願われました(ルカ22:15)。それは彼らに過越の食事を通してご自身の十字架の死の意味を教えてくださるためでした。弟子達が出かけて行って、都にはいると、まさしくイエス様の言われたとおりでした。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をしました。

 イエス様は12弟子と一緒に過越の食事をしながら、どんな衝撃的な事を言われましたか。18節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」「わたしといっしょに食事をしている者」は、最も親しい者という意味です。イエス様は自分の最も親しい弟子達であった十二人のうちの一人によって裏切られると言われました。それを聞いた弟子達は悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエス様に言い出しました。「まさか私ではないでしょう。」という彼らの質問は誰でもイエス様を裏切る可能性があることを現わしています。イエス様は十二人の中のひとりで、イエス様といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者だと言われました。そして彼に警告の御言葉を言われました。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」イエス様はご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられました。ですから、一日も早く処罰しなければなりませんでした。しかしイエス様はそのようにされず、裏切る者を過越の食事に招かれました。イエス様はなぜご自分が裏切られるのを弟子達に公開されたのでしょうか。

 第一に、イスカリオテ・ユダを助けるためでした。イエス様はイスカリオテ・ユダを最後まで愛してくださいました。彼はイエス様を裏切りましたがイエス様は彼を裏切りませんでした。イエス様は彼を哀れみ悔い改める機会を与えてくださいました。自分を裏切る者さえこのように最後まで愛するイエス様の愛は何とすばらしい愛でしょうか。

 第二に、弟子達の心を用意させるためでした。イエス様がイスカリオテ・ユダの裏切りによって死なれたとすれば、イエス様の死は何の意味があるでしょうか。しかしイエス様の死は聖書に書いてあるとおりになることです。イエス様はそれを弟子達に教えてくださることによって弟子達の心を用意させられました。

 イスカリオテ・ユダはイエス様の警告にも関らず最後まで悔い改めませんでした。彼はイエス様からパン切れを受けるとすぐ、外に出て行きました(ヨハネ13:30)。食事をする時イエス様はご自分の十字架の死の意味を言われました。22節をご覧ください。「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」イエス様はパンをご自分のからだと言われました。それはイエス様が私達の罪のために十字架につけられ体が裂かれることを言ってくれます。イエス様は、また杯に対しては何と言われましたか。23,24節をご一緒に読んで見ましょう。「また、杯を取り、感謝を捧げて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」マタイの福音書26:28では罪を赦すために多くの人のために流されるものだと言われました。それではイエス様はなぜ血を流しながら死ななければならなかったのでしょうか。イエス様の血はどんな役割をし、その力はどうでしょうか。

 罪はひどいもので罪を犯した者にその代価として死を要求します(ロマ6:23a)。死は肉体の死だけではなく魂の死も意味します。人間には一度死ぬことと死後には裁きを受けることが定まっています。罪を犯した人間には死んだ後に火と硫黄との燃える池の中に入る第二の死が待っています(黙21:8)。それは非常に深刻な問題であり、恐ろしい問題です。人間はこの罪の問題が解決できない限り決して幸せになりません。ところが人間は罪の問題を解決するためには血を流して死ななければなりません。レビ記17:11を見ると肉体のいのちは血にあるからです。しかし神様はこのような人間を哀れみ、救いの道を開いてくださいました。旧約の時代には人間の代わりに動物の血を流し贖うようにされました。しかし動物の血は根本的に人間の罪の問題を解決することができず、その効果も一時的なものです。それは応急処置に過ぎませんでした。

 イエス様は神の小羊としてこの世に来られ人類の罪を背負って十字架につけられました。バプテスマのヨハネはこのイエス様を見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)。イエス様は何の罪もない方ですが私達の罪のために十字架につけられ私達の代わりに死んでくださったのです。そして私達の罪の問題を解決してくださいました。ここで私達はイエス様の血に対して二つのことを学ぶことができます。

 第一に、イエス様の血の恵みです。私達の罪が赦され永遠の破滅から救われたのは、私達の行ないや自己義によってではありません。ただイエス・キリストの血の恵みのゆえです。ローマ人への手紙3:25には次のように書いてあります。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」血による新しい契約は私達の行ないを要求するのではなく信仰を要求します。新しい契約はイエス様が私の罪のために死なれたことを認めてイエス様を心の中に救い主として受け入れることだけで成立するものです。するとイエス様の血は私達のすべての罪を赦し、私達を永遠の破滅から救ってくださいます。

 第二に、イエス様の血の力です。ある人は自分のような罪人は救われる見込みがないと言います。またある人は繰り返して罪を犯すと主は赦してくださらないかも知れないと思います。しかしそれはイエス様の血の力を知らないからです。ヘブル人への手紙9:13,14は言います。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私達の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」イエス様の血は十字架の強盗を新しく生まれさせる力がありました。サマリヤの女を新しく変える力がありました。取税人レビを聖マタイに変える力がありました。誰でもキリスト・イエスの血の力によって新しく造られた者になります。それで聖歌425番は次のように歌っています。「力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ今受けよ。」

 25節を見るとイエス様は弟子達に神の国に対する望みを植えられました。イエス様は十字架の死が終わりではなくその後よみがえられ神の国に入り過越の祭りをすると言われました。そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行きました。

 結論、イエス様は過越の小羊として私達の罪のために十字架につけられました。イエス様は十字架につけられ体が裂かれ、血を流してくださいました。イエス様は私達と新しい契約を結ぶために尊い血を流されました。誰でもイエス様が自分のために十字架につけられ死なれたことを信じると、その契約は成立します。それは私達のすべての罪をイエス・キリストの血によってきよめてくださるという新しい契約です。私達がイエス様の御前に出て行き、自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架の血の力によって罪の赦しを受けることができるように祈ります。私達をあの恐ろしい罪と死から救ってくださった主に感謝します。