2000年マルコの福音書第6講

手を伸ばしなさい

 

御言葉:マルコの福音書2:23?3:12  

要 節:マルコの福音書3:5

「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」

 

今日の御言葉では、安息日の問題でイエス様とパリサイ人たちが衝突する出来事が記されてます。イエス様は安息日の真の意味は何であるのかを教えてくださいます。今日の御言葉を通して安息日の主であるイエス様について学ぶことができるように祈ります。また、イエス様は安息日に手のなえた人を癒されました。この時間、「手を伸ばしなさい」と言われるイエス様の御言葉に従い、私達の病んでいる手を伸ばして癒されますように祈ります。

 

?.安息日の主イエス様(2:23-28)

 

23節をご覧ください。ある安息日にイエス様は麦畑の中を通って行かれました。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めました。なぜ彼らは麦の穂を摘んで食べていたでしょうか。とてもお腹が空いていたかも知れません。彼らは、人々の出入りが多かったので、ゆっくり食事する時間さえありませんでした(6:31)。お腹が空いていた時、食べる麦の穂はとても美味しかったでしょう。弟子達が美味しく食べていると、パリサイ人たちがイエス様に言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」彼らはまるで現行犯を捕まえたかのように非難しました。普通の日であれば弟子達がしたことは、自由に許されていました。旅人は、かまを畑に入れない限り、麦を摘むことを許されていました。しかし、これが安息日に行われたことで問題になりました。彼らは安息日をよく守るために1261条の厳しくて細かい規則を作りました。たとえば安息日に病気を直すことは禁じられていました。けがをして血が出ると包帯することは許されていましたが、薬を塗ることは禁じられていました。また安息日には刈り取り、もみがらの吹き分け、脱穀は勿論食べ物を用意してはいけませんでした。パリサイ人たちの目から見れば、弟子達はこれら四つの規則を破りました。パリサイ人たちは、ただちに弟子達を非難し始め、彼らが律法を破っていたと指摘しました。

イエス様は弟子達のゆえにパリサイ人たちから非難されるようになりました。パリサイ人たちは、イエス様が弟子達をとがめることを期待していたでしょう。それでイエス様は弟子達がお腹が空いていることで我慢できず、パリサイ人たちから非難されるようになったことに腹が立って、弟子達を咎められましたか。いいえ。25,26節をご覧ください。イエス様は彼らに言われました。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」イエス様は弟子達が飢えていることを理解しておられたので、ダビデの例を上げて弟子達を弁護してくださいました。ダビデは、紀元前9世紀頃のイスラエルの戦争の英雄でした。ところが、当時イスラエルの王であったサウルは彼を妬んで殺そうとしました。それでダビデは、サウルから逃げて、ノブにある幕屋に来ました。彼はパンを求めましたが、そこには供えのパンしかありませんでした。このパンは神様への供え物の一つであって、一週間に一度取り替えられました。それが取り替えられたときには、そのパンは祭司たちのものとなりました。それは祭司達だけのもので、他の誰も食べてはならないものでした(レビ24:9)。しかし、ダビデは必要な時にそのパンを食べ律法を破りました。祭司アヒメレクは神様の心を持っている人でした。ダビデやアヒメレクは神様の律法を守りませんでしたが、神様は罪に定められませんでした。なぜでしょうか。神様はダビデの心をご覧になったからです。彼は神様を愛し、神様の御前に恥じることのない者として、生活していました。神様は三日も何も食べなかったダビデが供えのパンを食べたことを罪に定められませんでした。法律には例外があります。普通の車が車線を無視して走ると交通違反になります。しかし、救急車は信号も車線も無視して走っても交通違反にはなりません。なぜなら人の命が最も大切だからです。神様は律法より人のいのちをもっと大切にする方です。

イエス様は弟子達をダビデのように尊く扱われました。供えのパンを、飢えた人に食べさせるのに用いられる時ほど聖なることはありません。安息日を助けが必要とする人々を助けるために用いた時ほど聖なることはありません。イエス様は律法より人のいのちを尊く思われました。

さらにイエス様はパリサイ人たちに安息日に対する正しい真理を教えてくださいました。27節をご覧ください。イエス様はまた言われました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」安息日は人に与えられた神様のプレゼントです。この日は、仕事を休んで静かに休む日です。神様はこの世の生活で疲れるしかない人々に週一回安息するように安息日を作ってくださいました。人は安息日の規則の犠牲となり、奴隷となるために創造されたのではありません。安息日は人の生活をよりよいものにするために存在するのです。神様が安息日を設けられたのは人間の幸福のためでした。もし人間に安息日がなければ安らぎがなく疲れが続きます。人間には肉体と精神の安定と魂の安息が必要です。真の安息は私達を造られた創造主である神様との深い霊的な交わりから来ます。私達が心と体を用意して生きておられる神様を心から賛美し、祈り、神様に喜ばれる、生きた供え物として礼拝を捧げる時、真の安息を得ることができます。

28節をご覧ください。「人の子は安息日にも主です。」この御言葉はイエス様が安息日を作られた創造主であることを宣布する御言葉です。イエス様が安息日の主ですから、新約の時代には安息日をイエス様が復活された日、すなわち主の日として定めて守っています。私達はこの主の日に礼拝を捧げています。この礼拝は一週間の生活の中で最も大切な時間です。ですから、礼拝を通して真の安息を得るためには心の用意をしなければなりません。そのために私達は安息日の朝早く夜明けの祈り会を設けています。私達が何よりも祈りを持って安息日の礼拝を用意しなければなりません。そして、礼拝の時間にぎりぎりに参加したり、遅くなったりしないで、余裕を持って来て賛美し、切なる祈りを捧げなければなりません。そして、神様の御言葉を聞いて受け入れなければなりません。礼拝が終わってからは互いに愛の交わりをすることも大切なことです。そして、その日礼拝に参加できなかった人を訪問して祈ってあげることも必要です。イエス様だけが私達に真の安息を与えることができます。ですから、イエス様とともにいる弟子達こそ安息日をよく守っている人々でした。

 

?.安息日に片手のなえた人をいやされたイエス様(3:1-12)

 

3:1節をご覧ください。イエス様はまた会堂に入られました。そこに片手のなえた人がいました。彼が片手がなえたことで受けた外的、内的な痛みはどうだったのでしょうか。神様は人間を創造される時、効果的に働くことができるように両手を造ってくださいました。私達に両手があることは何とすばらしいことでしょうか。コンピュータも両手を使って打つ時、早く打つことができます。ピアノやバイオリンも両手を使う時こそ、すばらしい演奏ができます。ところが、この人は片手がなえていました。ルカの福音書を見ると右手のなえた人でした(ルカ6:6)。私達の日常生活においてほとんど両手を使います。ところが、片手がなえているとどれだけ不便でしょうか。服を着ることも、髪の毛を洗うこともとても不便だったでしょう。子供の時には喧嘩をしても殴られるばかりでした。青年になって就職しようとしても面接で落ちてしまったでしょう。その時、彼の心の苦しみはどうだったのでしょうか。どんなに傷つけられたのでしょうか。彼のなえた手のように彼の心もなえてしまったのでしょう。彼は人々から疎外され、いじめられた時には自殺を考えたかも知れません。彼には劣等感と自意識がありました。彼は片手がなえたために、心も、感情も、考えもなえてしまいました。彼はなえた手をポケットの中に隠して会堂に座っていました。片手のなえた人には彼を哀れんで助ける牧者が必要でした。

しかし、彼を助けるべきだった当時のパリサイ人たちはどうでしたか。2節をご覧ください。彼らは、イエス様が安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていました。彼らがそこにいたのは、決して礼拝し、学ぶためではありまんでした。彼らがそこにいたのは、イエス様のすべての行ないを詳しく調べてイエス様を訴えるためでした。彼らは当然安息日に神の御言葉を教え、助けが必要な人々の面倒を見て上げなければなりませんでした。しかし彼らには神様に対する愛も人々に対する愛もありませんでした。彼らは片手のなえた人を利用してイエス様を訴えようとしました。

もしイエス様が用心深く、慎重な方であったなら、その場でその人を癒すことはなされなかったでしょう。その人を癒すことは、問題を引き起こすことになるのを、イエス様は知っておられたからです。その日は安息日であり、安息日にはすべての働きが禁止されていたのです。そして、癒すことは働くことでした。イエス様がその人をその安息日に癒さなくても、その人の片手がもっと悪くなることもなかったのです。それではイエス様は片手のなえた人をどのようにされましたか。3,4節をご覧ください。イエス様は手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われました。おそらくイエス様は、すべての人に、特にパリサイ人たちに、その人のみじめさを見せることによって、手のなえた人に対する同情を目覚めさせるためにこのようにされたのでしょう。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われました。イエス様は心がなえたパリサイ人達にもいのちを与えるために挑戦されました。当時パリサイ人達はその社会を代表する指導者達でした。ですから彼らの心がなえているのはその社会全体がなえていることを言います。イエス様は病んでいるその社会を癒すために挑戦されました。それでは安息日に何をするのがよいことでしょうか。安息日の根本精神は神様を恐れ敬い、積極的に善を行なうことです。しかし彼らは善悪の分別力を失い、生命に対する尊厳性を失ってしまいました。イエス様はこのような彼らをあわれまれ、それを悟らせようとされました。

イエス様の質問を聞いたパリサイ人たちはジレンマに追い込まれました。彼らは善を行なうことがよいと認めなければなりませんでした。しかし彼らはイエス様を殺す方法を考えていました。ですから、彼らはそれを悔い改めていのちを救うことがよいと認めなければなりませんでした。それでは彼らの反応はどうだったのでしょうか。4b節をご覧ください。彼らは黙っていました。自分達が間違っていることを知っていながらも悔い改めませんでした。使徒パウロは、ローマ人への手紙2:5節でユダヤ人の心についてこう言いました。「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」そうです。神様の御言葉を聞いて悔い改めなければ、主の御怒りから逃れる道はありません。福音を聞くと聖霊の働きによって自分が罪人であることを悟るようになります。その時に二つの反応が現われます。悔い改めることと心がかたくなになることです。かたくなな心を持つ人はすでに神様のいのちの世界から離れた人たちです。エペソ4:18節は次のように言っています。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」そうです。かたくなな心は神様のいのちから離れさせます。その心は滅亡の兆しなのです。ですから、私達は神様の御言葉を聞く時にかたくなな心を持っていてはいけません。謙遜な心を持って謙遜に受け入れる姿勢を持たなければなりません。神様の御言葉を自分にくださる御言葉として受け入れて悔い改める時に神様のいのちが与えられます。

彼らをご覧になるイエス様の心情はどうでしたか。5節をご覧ください。イエス様は怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆かれました。それは彼らの心のかたくななことによって滅びることを憐れまれたからです。また彼らだけ滅びるのではなく社会に悪い影響を及ぼし、他の人も滅びるようにするからです。

イエス様は彼らの心のかたくななのを嘆きながら、片手のなえた人に命じられました。「手を伸ばしなさい。」彼がイエス様の御言葉に聞き従うことはやさしいことではありませんでした。彼が自分の手を伸ばすためには自意識と羞恥心を捨てて自分の恥ずかしい部分を現わす痛みを克服しなければなりませんでした。また手を伸ばすことによってパリサイ人から憎まれて追放されるかも知れない恐れを克服しなければなりませんでした。しかし、彼はイエス様を絶対的に信頼して信仰によって手を伸ばしました。彼は信仰の手、従順の手、悔い改めの手を伸ばしました。すると、どんな驚くべきことが起こりましたか。彼が手を伸ばすとその手が元どおりになりました。回復の御業、癒しの御業、救いの御業が起こったのです。彼のなえた手に血が流れ、新しい力が生じました。何よりも彼のなえた心が癒されました。イエス様の御言葉は彼のなえた手と心を癒してくださいました。

人々の中には体は丈夫な人でも、心は片手のなえた人のようになっている場合が多くあります。ある人は背が低いことのために、ある人は太っているために心がなえています。貧しい家庭、親の離婚、家族の死の問題のために心がなえている人もいます。特に多くの人々が冷たい都市生活のために心がなえています。対人恐怖症を持っている人もいます。最近青少年の凶悪犯罪が世間を驚かせていますが、彼らは心がなえている人々です。特に家庭の問題、学校でのいじめの問題で心がなえている場合が多くあります。このようななえた心はなかなか癒すことができません。しかし、イエス様はどんななえた心も癒すことができる方です。私達がこのような人生の問題を解決してもらうためには信仰の手、従順の手、祈りの手、悔い改めの手を主に伸ばさなければなりません。主の御前に手を伸ばさず、隠して置けば問題を解決していただくことができません。私達が真実になえている手を主に伸ばす時、主は必ず私達の人生の問題を解決してくださいます。そして、その人は水路の傍に植わった木のように豊かな実を結ぶようになります。生命力にあふれた人生を過ごすようになります。私達が「手を伸ばしなさい。」と言われる主の御言葉に従い、手を伸ばし、癒していただくことができるように祈ります。そして、回復された手で助けが必要な人々に愛の手、助けの手を伸ばすことができるように祈ります。積極的に手を伸ばして使命を担う時に神様の恵みといのちが満ち溢れるようになります。

それではイエス様が片手のなえた人を癒された時、パリサイ人たちはどんな相談をしましたか。6節をご覧ください。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエス様をどうして葬り去ろうかと相談を始めました。彼らの心の中には憎しみがありました。しかし、イエス様は一人の病んでいる人を癒すために自分の命さえ惜しみませんでした。イエス様は羊のためにご自分のいのちを捨てる良い牧者でした。

イエス様は片手のなえた人を癒してから、弟子たちとともに湖のほうに退かれました。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行きました。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来ました。イエス様を見、イエス様の話を聞くために多くの人々が、ユダヤのエルサレムから160キロを超える旅をしてやって来ました。また外国からもやって来ました。その理由はイエス様が行っておられることを聞いたからです。人々は一人の羊を助けるために自分のいのちを惜しまないイエス様のうわさを聞いた時、必ず自分達も直してくださると確信するようになりました。犠牲的な牧者、自分の命をも惜しまない良い牧者イエス様のところには多くの人々が集まって来ました。イエス様はこの時間、私達に言われます。「手を伸ばしなさい。」私達が自分のなえた手をイエス様に伸ばすことによって癒され、健全な信仰生活を送ることができるように祈ります。