2001年クリスマス特集(1)

救いの角・日の出のイエス様

 

御言葉:ルカの福音書1:57ー80

要 節:ルカの福音書1:69

「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」

 

  ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。先週から毎日クリスマス礼拝のために祈り、賛美と演劇を準備して来ました。明日からは祈り会の時、所感発表もありますがイエス様が生まれた良き日を心から楽しみたいと思います。今週の土曜日はもっとすばらしいクリスマス礼拝のために遅くまで準備しますので、次の日曜日に行われる聖誕礼拝は午後二時から始めます。ですから、期待をもってご家族やお友だちと一緒に礼拝に参加してください。

去年のことですが、ラジオで、「イエス・キリストは運の良い男だ」とやっていたそうです。「イエス・キリストは十二月二十五日に生まれて、クリスマスと一緒に誕生日が祝われて運の良い男だ」と言っていたのです。しかし、イエス様は十二月二十五日に運よく生まれたわけではありません。イエス様の誕生日がクリスマスです。イエス様のお生まれを世界中が喜び楽しんでいます。一人の人物のために、こんなに多くの人々が祝っています。世界中がクリスマスに沸き立っています。

このイエス様の誕生はいろいろな人々にいろんな姿で現われました。寂しい人生だった収税人マタイにとってイエス様の誕生はインマヌエルでした。彼にとって神様が人となり、人間とともにいてくださったことは生涯忘れられない出来事でした。田舎のおとめマリヤにはメシヤを出産する聖母の恵みとして臨まれました。

では祭司として罪の下で苦しんでいる惨めな人間の状態を誰よりもよく知っていたザカリヤにはどんな方として臨まれましたか。一言で言うなら「救いの角・日の出」として臨まれたキリストです。この時間、ザカリヤの心に臨まれた「救いの角・日の出」であるイエス様が私たちの心にも臨まれますように祈ります。 

?。救いの角・イエス様(57ー75)

 57節をご覧ください。老祭司ザカリヤの妻エリサベツは、月が満ちて男の子を産みました。新しい命の誕生はいつも人々に喜びとなります。先週、金ハンギョル宣教師は韓国で生まれたかわいいミカちゃんを連れてきて見せてくれましたが、元気な赤ちゃんを見た方たちはみんなが喜んでいました。ミカちゃんのためにこのホールは本当に明るくなりました。エリサベツの家もご出産を祝う近所の人々や親族のためににぎやかで喜びに満ちていました。特に彼らは、主がエリサベツに大きな哀れみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜びました。エリサベツは不妊の女だったのに、神様のあわれみによって男の子が生まれたからです。

この間、皇太子妃雅子さまは結婚して8年目になってやっと女児を産みましたが、日本中が喜びました。もし男の子が生まれたら、その日は祝日になったかも知らないという人もいました。パレスチナでも子どもが生まれると、男の子であればなおさら、それはたいへん喜ばしいこととされました。出産の時が近づくと、友人や地域の音楽師たちが大勢家の周りに集まって来ましたが、男の子が生まれた場合には楽師たちは音楽や歌を演奏し、祝福のどよめきがどっとあがりました。しかし、女の子の場合には、楽師たちは残念そうに立ち去りました。「男の子の誕生は全世界の喜び、女の子の誕生は全世界の悲しみ」という言い回しさえあるほどだったのです。ところが、エリサベツはついに子どもをさずかりました。しかもそれは男の子でした。男の子は、八日目に割礼を受け、その日に名前を与えられました。それで、八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を祭司である父の誇らしい名前にちなんでザカリヤと名づけようとしました。

「ザカリヤ」これはザカリヤ夫婦がどんなに待ち望んでいた名前だったのでしょうか。名門ザカリヤ家の家柄を重んじている親族たちも「ザカリヤ」と名づけるのは、当然なこととして思っていたでしょう。しかし、母エリサベツは答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言いました。瞬間、喜びに満ち、祝福の言葉で熱くなっていた家の雰囲気は冷たくなり、凍ってしまいました。人々はエリサベツに、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と言いました。「ザカリヤ」と名づけることを主張しつづけたのです。それでもエリサベツは曲げなかったので結局、彼らは身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。当然、ザカリヤは伝統に従って「ザカリヤ二世」と書くと思ったでしょう。しかし、ザカリヤは書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。(His name is John)」と書きました。人々はみな驚きました。エリサベツだけではなく、祭司ザカリヤまでも子どもの名前を「ヨハネ」と名づけるように言ったからです。

事実、ザカリヤとエリサベツが子どもの名前を「ヨハネ」名づけることはやさしいことではありませんでした。伝統と家柄を重んじるユダヤ社会においてそれに逆らうことは私たちの想像を超える痛みが伴うものです。また、「ヨハネ」と名づけることはメシヤの先駆者として荒野で叫ぶ声として寂しい苦難の人生、先駆者として若い時に殉教する人生を意味しました。自分の子どもが苦難の人生を過ごし、殉教するように神様にささげることになるのです。しかし、ザカリヤ夫婦は神様の御旨に従いました。1:13b節を見ると神様は御使いを通して「?あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」言われたからです。ザカリヤ夫婦はこの神様の御言葉に従ったのです。

私たちには自分の子どもだけは苦労させないで、自分の夢どおりに育てたいという願いがあり、自分の将来の計画と夢だけは自分の願いのとおりにやりたい心があります。また、自分の人生においても両親の期待に答えてあげたい、この世の伝統も家柄も大切にしたい心があるのです。これらは良いことです。しかし、自分の願いと意志だけを主張し、神様のみこころに逆らう時、神様のみわざに用いられることはできません。神様のみわざは従順の歴史です。神様のみわざは神様に服従した者たちによって起こります。自分の夢が壊れる痛みと犠牲が伴っても神様のみこころを第一にして従う者たちによって神様のみわざが起こるのです。そして神様への従順は神様の働きと神様の奇跡を体験して信仰の成長をもたらすものでもあります。

64節をご覧ください。「すると、たちどころに、ザカリヤの口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」とあります。おしになっていたザカリヤの口が開け、舌は解け、ものが言えるようになりました。そして、彼はものが言えるようになると神様をほめたたえました。さらに彼は聖霊に満たされて預言しました。

67節をご覧ください。彼はヨハネの誕生を通して神様の恵みと愛、あわれみと力を深く体験しました。何よりも彼はヨハネの誕生を通してメシヤの誕生が近づいていることを悟り、神様を賛美しました。彼が神様を賛美した内容は何ですか。

 第一に、神様がその民を顧みて贖いをなしてくださったことです。68節をご覧ください。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、」とあります。「顧みる」とは「助けてあげるために様子を探ってみる」、「訪ねて来られた」などの意味が含まれています。すなわち、深い関心と愛を持って仕えてくださったことを意味しています。人には多くの悲しみがありますが、人に捨てられ、誰にも相手にされないことほど悲しいことはありません。小学生たちさえもクラスの中でいじめられることを一番恐がるそうです。私も自分のクラスの学生や父兄たちが仲間はずれになることを一番恐れていることをしばしば感じています。それは本当につらいことでしょう。

出エジプト3章を見ると、イスラエルは430年間、エジプトに捕えられ、奴隷にされていました。労役にうめき、万物の排泄物のように蔑視されていました。神様は彼らの嘆きを聞かれ、彼らの痛みを知られました。そして彼らの所に訪ねて来られ、彼らを乳ち蜜の流れるカナンの地に導かれました。

ザカリヤの時も、イスラエルの状況もエジプトに捕えられ、奴隷にされている状態と同じでした。イスラエルは絶えず罪を犯して去る400年間、神様の御言葉もなく、神の霊も彼らから離れていました。彼らは神様に対する信仰も捨て、御言葉も捨てて自分たち自らも希望を持つことができない暗闇の状態に置かれていました。彼らの霊的な状態はらい病の患者のようになって、だれも近づきたくない民、顧みたくない民になっていました。罪のために汚れている民になっていました。しかし、神様はその民イスラエルに対する愛と希望を捨てませんでした。彼らを顧み、彼らに近づき、彼らに訪ねて来てくださいました。神様が彼らを顧みられたのは彼らを贖うためです。「贖う」とは「救い」「解放」「自由」などの意味で、奴隷の状態にいる者のために代価を払って解放し、自由にしてあげることを意味しています。ザカリヤはイスラエルの民と人々を捕えている罪と死の勢力がいかに恐ろしいものであるかをよく知っていました。彼は祭司としてイスラエルの罪のためのいけにえになった動物を見て来ました。数え切れない羊の血と贖いの供え物を見ました。しかし、どんなにいけにえをささげてもそれらは彼らを罪と死の陰から救い出すことができませんでした。人々はなおも、罪のために苦しみ、うめきながら惨めに生きるしかありませんでした。人間の根本問題で罪の問題が根本的に解決されない限り、その罪の代価を払って贖わない限り、罪は人間を不幸にさせるばかりでした。ところが、ザカリヤはヨハネの誕生を通して、この罪の問題を根本的に解決してくださる神様の哀れみを見ました。神様がその民を哀れんでくださり、イエス・キリストを送って贖ってくださることを見たのです。実際に神様はこんな罪人のためにキリストを送られ、その血によって私たちを贖い、罪と死の問題を解決するようにしてくださいました。

神様は人々がどんなに凶悪な罪に陥って絶望の中にいても彼らを顧み、贖ってくださいます。私たちは神様の顧みと贖いがなかったら罪の勢力から解放される者は一人もいません。ローマ5:8節は言います。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」罪のために醜くなり、苦しんでいた私たちを顧み、キリストの血によって贖ってくださったことは私たちが永遠に賛美すべきことです。

 第二に、神様が私達のために救いの角を立てられたからです。69節をご一緒に読んで見ましょう。「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」神様はダビデに約束してくださった通りに彼の子孫の中から救いの角を立てられました(?サムエル7:13、使徒13:22、23)。なぜ、イエス様を救いの角と言うのでしょうか。角は動物の世界で力と権能のシンボルです。私は小学生の時、牛を飼っていましたが、学校が終わったら牛を連れて野原に行き、草を食べさせることが私の仕事でした。その時、しばしば牛と牛を戦わせましたが、角がよく出来ている牛でした。また、テレビやビデオを通して動物の世界を見ると、動物の王者ライオンであってもサイの力ある角にかかると、胸に穴ができて血を流し、死んでしまうことがわかります。角の力によって勝者、敗者が決まるのです。

これは動物の世界だけではなく、人間の世界も力の論理が支配しています。当時、ローマ帝国は強力な軍事力の角によって全世界を支配していました。その角の力があまりにも大きかったので、ローマの角の前ですべての国は倒れ、ローマに服従しなければなりませんでした。イスラエルもローマの角には何も出来ませんでした。アフガニスタンのタリバン政権はアメリカに対して聖戦(ジハード)を宣布し、戦ってみましたが、アメリカが力によって押し付け、無差別爆弾攻撃を続けると、アメリカの強力な角の前で降伏しました。

しかし、本当に力の論理が支配する世界は霊的な世界です。イエス様が来られる前、この世は強力な力を持つサタンの攻撃によって死んでいきました。サタンの角はどれよりも強力な力を持っています。黙12:3を見るとサタンは七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっています。サタンは七つの頭を持っているので、頭一つの人間の知恵によってはサタンに勝つことができません。何よりもサタンは十本の角を持っています。サタンは十本の角のような強力な力によって人間の弱点を突き刺します。サタンは情欲の角で情欲に弱い人を突き刺します。時には病を持って人を倒します。人を怠け者にして人生に失敗するように導きます。多くの若者達が雑誌やビデオ、インターネットなどを通して攻撃するサタンの角に突き刺されています。また、サタンは憎しみや虚しい考えの角で突き刺します。その他にもサタンは高慢、恐れ、安逸、眠り、不信など多くの角を持ってその人の弱いところを突き刺します。サタンの角は強くて誰もその角から逃れることができません。アメリカと戦っているビンラーディンも倒されます。サタンの角の前で人間は本当に無力で希望のない存在です。

 しかし、神様は救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられました。救いの角イエス様はサタンのすべての罪と死の角を打ち破り、私たちを救う力の角です。イエス様はそのために神の座を捨てて人類の中に来てくださいました。七十四節に、「我らを敵の手から救い出し・・。」と書かれています。敵の手から救い出されるということが救いです。さて、今、私たちは奴隷でも何でもないし、なぜ、敵の手から救い出されなくてはならないのだろうか、と言われるかも知れません。しかしそれは、霊的な意味合いを持った救いということです。これは霊的な敵であるサタンの手からの解放です。それがクリスマスの一番大きな意味です。
 目に見える世界での救い、それは出エジプトでした。エジプトのパロ王からの救いでした。しかし、目に見えない世界での解放、それがサタンの手に捕らわれている人々がイエスキリストによって救い、解放されるのです。では神様が、この救いを施して下さった目的は、何でしょうか。

74、75節をご覧ください。「我々を敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」この御言葉は神様が私たちを罪とサタンの力から救ってくださった目的が何かを教えてくれます。

 過去、私達は神様に仕えたくても罪と恐れのために聖なる神様の御前に出て行くことができませんでした。旧約の時代には祭司が聖なる神様の御前に出て行く時にはそのたびに動物の血を流して清められなければなりませんでした。ところが動物の血はその時しか効果がなかったので神様の御前に出て行くたびに動物の血を注がなければなりませんでした。しかし神様の御子イエス様が神の小羊として尊い血を流してくださったので毎度血を流す必要がなくなりました。私達はイエス・キリストの贖いのゆえにいつでも神様の御前に出て行くことができるようになりました。生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることが許されました。生涯のすべての日に、「きよく、正しく、恐れなく」、神様に仕えることができるのは、何と大きな祝福でしょうか。人は年をとればとるほどますます罪の汚染されて汚れた人生を過ごしやすいです。私はまだ若いと思っていますが、それでも年を重ねるたびに人は汚染されて行くことをよく感じています。しかし、私たちが生涯のすべての日、御言葉を研究し、教えながらザカリヤのようにキャンパスの祭司として清く正しく生きられることが許されているのです。これは本当に大きな祝福です。年をとればとるほど私たちの魂はきよくなり、正しくなっていく高潔な祝福があります。私たちがこのような祝福を受けるのは救いの角であるイエス様が私たちの救い主であり、牧者になってくださるからです。私たちのために救いの角イエス様を立てられた神様に感謝と賛美をささげます。

?。日の出のイエス様(76ー80)

  76、77節はバプテスマのヨハネの歴史的な位置と使命について言っています。彼はメシヤの先駆者として主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えます。今日の人々は情報の洪水の中で多くの知識を得ていますが、罪の赦しによる救いの知識には無知です。それは神様の御言葉である聖書を知らないからです。聖書は私達に知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて、神の御霊によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です(?テモテ3:15、16)。私達はこの聖書の御言葉をどうしても人々に宣べ伝えなければなりません。そのようにする時、救いのみわざが起こります。

 78、79節をご覧ください。「これはわれらの神の深い哀れみによる。その哀れみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者達を照らし、われらの足を平和の道に導く。」この御言葉は日の出が訪れる前の人々の霊的な状態と日の出が上り、人々を照らした時の状態がどうであるかを教えてくれます。日の出のイエス様が私達を訪れる前には暗黒と死の陰に座っていました。座っているとは完全に希望を失って疲れ果てている絶望的な状態を意味します。立ち上がる力もない無気力な状態を意味します。人々は罪と死の力に圧倒されて苦しんでいました。イエス様はこのような人々に日の出として訪れました。日の出のイエス様は罪の奴隷となっている人々を罪から解放してくださいます。日の出のイエス様は暗闇と死の陰にすわっている人々にいのちの光を照らして下さいます。すると、暗黒と死の陰は消え去り、平安と希望に満たされます。マラキ4:2節は言います。「 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」牛舎の子牛が外に出てはね回る姿を見たことがありますか。自由と生命力と喜びに満ちている動物の踊りがまさに子牛の踊りです。日の出であるイエス様は私たちの罪の病を癒して子牛のように喜びと自由に満ちた人生に導いてくださいます。

ですから、イエス様こそ私たちの希望、この国の希望、人類の希望です。日いずる国であるこの国に日の出のイエス様が訪れ、暗黒と死の陰にすわる者達を照らしてくださることを感謝します。日の出のイエス様が訪れたにもかかわらず、今もなお暗黒の死の陰に座っている人々がこのイエス様のところに来るクリスマスとなるように祈ります。救いの角、日の出のイエス様をほめたたえます。

結論的に、幼子イエス様は神様が人間を罪から救うために備えられた救いの角・日の出です。救いの角・日の出であるイエス様こそ私たちを救い、まことに幸せな人生、勝利の人生を生きるようにしてくださいます。今年のクリスマスに救いの角、日の出であられるイエス様が私たちの心に臨まれるように切に祈ります。