2001年マタイの福音書第13講

十二弟子を遣わされたイエス様

御言葉:マタイの福音書10:1?42

要 節:マタイの福音書10:1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」

今日の御言葉はイエス様が十二弟子を遣わされる出来事です。イエス様は羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている人々をかわいそうに思われました。彼らは色づいて刈り入れるばかりになっていましたが、彼らを助ける牧者が少ないことでイエス様は心を痛められました。それで弟子達に「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と祈りを頼まれました。そして、まだ霊的に幼い彼らを遣わして福音を宣べ伝えようとされました。イエス様は彼らを遣わしながら弟子の使命と姿勢について教えてくださいました。本文の御言葉を通して私達もイエス様の弟子としての使命と姿勢について学ぶことができるように祈ります。

?.弟子の使命(1-15)

1節をご覧ください。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」収穫の働き手のために祈るように言われた弟子達は、その収穫のために出て行く者たちとされます。イエス様は彼らを遣わす前に汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。なぜなら、彼らの使命は人々の背後に働く汚れた霊どもとの戦いだからです。彼らには何よりも霊的な権威が必要でした。

それではイエス様が遣わされる十二使徒はどんな人々ですか。2-4節をご覧ください。まず、ペテロと呼ばれるシモンです。「まず」は「最初にあげられるべき者として」の意味で、ペテロが使徒たちの間で指導者であったことを表わします。ペテロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネはガリラヤ湖の漁師出身です。ピリポは計算が速い人です。バルトロマイとアルパヨの子ヤコブとタダイはここにしか名前が出ていないのでどんな役割をしたのかわかりませんが、十二弟子として聖霊の器を作るのに必要な人々でした。トマスは疑いの多い人でした。マタイはわざわざ自分の名前の前に取税人と書いていますが、それはこの福音書だけです。これはマタイ自身がこの福音書を書いていることを表わしています。かつて、売国奴とのけ者にされていた取税人が使徒になったのは、マタイにとって忘れられないことだったでしょう。熱心党員シモンは祖国のためには必要とあれば死をもいとわない熱狂的な国粋主義者でした。イエス様がこのシモンと、全く反対側にある取税人マタイを選んで弟子とされたことは、驚くべきことです。最後にイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダです。イスカリオテ・ユダを除く十一弟子達は皆ユダヤ人から蔑視されているガリラヤ出身でした。彼らの中には当時の宗教指導者達や政治家達は一人もいません。彼らは皆平凡な人々であり、足りない人々です。ただ一つ共通することは、彼らは皆謙遜な人々であり、イエス様を信じて従う人々であったことです。ところが、イエス様は彼らをその時代の霊的な指導者として呼び寄せられました。それを考えるとイエス様に呼び寄せられた人は誰でも偉大な霊的な指導者になれるという確信を持つことができます。イエス様は羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている人々を救うために少数の弟子達を選ばれました。そして、最後まで彼らとともにおられ、彼らを育てられました。

5,6節をご覧ください。イエス様は、十二人を遣わし、「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と命じられました。使徒達はまずイスラエルに遣わされました。サマリヤ人はユダヤ人から異邦人と同じように侮辱され、宗教的に敵視されていました。したがって、「サマリヤ人の町にはいってはいけません」は、ユダヤ人の常識でした。「イスラエルの家の滅びた羊」はマタイの福音書9:36「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」状態にある人々の姿を指します。それでは弟子たちが行って宣べ伝えるメッセージは何ですか。イエス様は彼らを遣わしながらどんな方向を与えてくださいましたか。

第一に、「天の御国が近づいた。」と宣べ伝えなさい(7,8)。

7、8節をご覧ください。「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」使徒達に与えられた使命は、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えることでした。バプテスマのヨハネもイエス様も同じメッセージを宣べ伝えました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」ここで「近づいた」は完了形で、「臨んでいる」「到来した」と同じ意味です。御国の王はすでに彼らの上に臨んでいます。御国は神の支配を意味するゆえ、聞く者たちのしなければならないことは、心を神の支配に明け渡すことでした。弟子達の使命は悪霊に支配されて苦しんでいる人々を解放し、神の国を所有させることです。人々が悪霊につかれ、病気をわずらい、結局は死ぬのは神の国を失ってサタンに支配されているからです。釈迦は人間には108の煩悩があると言いました。そのすべての煩悩はイエス様が言われた三つのこと、すなわち精神的に苦しむこと、病気をわずらうこと、死ぬことに要約することができます。それらは神様を離れた人々に与えられたものです。人間は神様を離れたゆえ、絶対的な人生の意味や目的を失いました。それで忙しい生活をしていますが、根本的に不安な日々を過ごしています。豊かに暮らしている人々も内面は暗く不安です。人間の不幸の根本原因は罪を犯したゆえに天の御国を失ったことです。天の御国は悔い改めて心を神様の支配に明け渡す時に所有することができます。神の国を所有した人の心には平安があります。憎しみが消え去り、愛が芽生えます。争いがなくなり、平和が訪れます。罪意識と恐れが消え去り、天からの慰めと恵みが与えられます。このような神の国を所有するためには悔い改めてイエス・キリストを迎え入れなければなりません。私達は今年の日本SBCのタイトルを「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」にしました。SBCに参加した人々が皆悔い改めて天の御国を所有することができるように祈ります。

第二に、イエス様は、弟子たちに伝道旅行のために、お金や衣服を準備しないように言われました(9-10)。

9、10節をご覧ください。「胴巻きに金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」ここで胴巻きはユダヤ人の男性が用いた腰帯で、その間にお金を入れ、財布を兼ねました。袋は生活用品や食物を入れておく袋です。イエス様はなぜこのようなものを持っていかないように言われたのでしょうか。その理由は働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。また、生活に心を奪われてはならないからです。財布に心が奪われている人は財布にお金がなくなると無力になります。人に頼る人もその人がいなくなると力を失います。しかし、イエス様は弟子達が神様だけに頼って伝道旅行に行くことを願われました。すると、彼らは神様から力をいただき、力強く働くことができます。

第三に、足のちりを払い落としなさい(11-15)

使徒の使命、伝道の準備についての注意を与えたイエス様は、ここにその実践方法を順序立てて教えられます。まず、使徒達はとどまるのにふさわしい人の家を調べ出すことをしなければなりません。次に、一度その家に入ったら、そこを立ち去るまで、心を移さず、その家を根拠地とします。そして、その家に入る時には、「平安を祈るあいさつ」すなわち、「平安がありますように」(シャロム)とあいさつします。これは単なるあいさつではなく、祈りです。その家がそれを受けるのにふさわしい家なら、すなわち、使徒達とそのメッセージを喜んで受け入れるなら、その家に平安の祝福がもたらされます。反対の場合には、その平安は使徒達に戻されます。

イエス様は、弟子達を受け入れず、弟子達のことばに耳を傾けない家や町を出て行くときには、「足のちりを払い落としなさい」と言われました。「足のちりを払い落としなさい。」これは、拒否する者に対する証言です。使徒たちが足のちりを払い落とす時、それは絶縁の証明であると同時に、さばきのあかしでもありました。御国の福音を拒否することは、実にソドムとゴモラの地よりもきびしいさばきに会うことを意味します。この二つの町は、住民の罪のゆえに神様が硫黄の火を降らせて滅ぼされました(創19:24,25)。この二つの町は、滅ぼされる前に、ふたりの御使いを退けました。御国の福音を宣べ伝える使徒たちを退けることは、さらに重いさばきをもたらします。

?.弟子の姿勢(16-42)

16-23節までは、使徒がその使命に生きる時直面する国家権力、宗教権力、また家族からの迫害による苦難について語っています。また、彼らが迫害を受ける時にどんな姿勢を持たなければならないかを語っています。

第一に、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい(16-25)

16節をご覧ください。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」弟子たちを世の中に遣わされるイエス様の心情は狼の中に羊を送り出すようなものでした。不信仰の世はサタンが支配しています。それで貪欲、偽り、淫乱、暴力などの狼が獲物をねらっています。しかし、イエス様はこのような世界に弟子達を送り出し、人々を狼から救おうとしました。それだけではなく弟子達を狼の中に送り出すことによって彼らを霊的な指導者として育てようとされました。勇士は激しい戦いと訓練の中で生まれます。指導者には何よりも征服精神と戦う精神が必要です。死ぬ覚悟で戦う時にサタンの捕虜になった人々を救うことができます。イエス様は弟子達が福音の勇士になることを願われました。神様に頼り、狼の中に入り、羊達を救い出す信仰の勇士になることを願われました。

羊のような弟子達を狼のようなこの世に送り出しながらイエス様は弟子達に「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」という作戦を指示されました。蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであるためには祈る中で聖霊から知恵をいただける必要があります。17節をご覧ください。「人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。」ここで「議会」はエルサレムの大サンヘドリンをはじめ各町村のユダヤ教会堂の議会のことです。そこで裁判にかけられ、有罪の判決が下されると、その会堂内で直ちにむち打たれました。使徒達はユダヤ教指導者には異端者扱いされ、国家権力には政治犯とされます。しかし、彼らの裁判は宣教の機会となります。というのは、神ご自身が語ることばを与えられるからです。実際に使徒の働きを見ると、使徒達が裁判を受ける場所が宣教の場所と変りました。こうして福音はローマ帝国のふところにさえも深く切り込んで行きました。

21、22節をご覧ください。「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」迫害の時には家族関係すら破壊されます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。最後まで耐え忍ぶことは「死に至るまで忠実である」(黙2:10)ことです。このことは具体的には、「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのばれなさい」ということを意味しました。信仰の逃亡は勇気のいることです。エルサレム教会に対する迫害は、信徒たちの勇気ある信仰の逃亡のゆえに、伝道の火を撒き散らす結果になりました。ですから、信仰の逃亡は伝道の前進でもあります。24、25節をご覧ください。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」ここで「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」は当時のことわざでした。イエス様はそれを用いて、弟子達はその主人であるイエス様ほどには憎まれないことを言われます。またイエス様以上に苦しむことはないと言われます。イエス様が苦しみを受けられたので私達に罪の赦しと救いが与えられました。

第二に、恐れないで神様に頼りなさい(26-33)

26節をご覧ください。「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」生きておられる神様は迫害する人々の行ないを見ておられます。神様は彼らの行ないに従って裁かれます。そして弟子達が迫害を受けながら行なうすべての労苦を見ておられ、必ずそれに報いてくださいます。真理は必ず明らかにされます。真理は必ず勝利します。ですから、恐れないで大胆に福音を宣べ伝えなければなりません。28節をご覧ください。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」迫害の苦難がいかに恐ろしいものであっても、それは人のたましいを殺すことはできません。だからそのようなものを恐れてはなりません。人が真に恐れるべき方は、からだもたましいも共に地獄で滅ぼす力を持っておられる神様です。また、恐れる必要のない理由は、神様がこまやかな配慮を持って見守ってくださるからです。29節をご覧ください。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」ここで「アサリオン」は一デナリの十六分の一に相当するもので、五百円くらいです。二羽一組にされてようやく一アサリオンという値のつくような価値のない雀でさえ、神の許しなしには地に落ちません。それなら、雀よりはるかに尊い価値のある人間はなおさらです。しかも、神様は人間を、その頭の毛さえも数えておられるほど、この上なくこまやかに顧みてくださいます。このような愛と配慮を持たれる神様が味方であるなら、使徒たちは迫害を恐れる必要がありません。迫害を受けてもイエス様を人の前で認める者はみな、イエス様も、天におられる神様の前でその人を認めてくださいます。しかし、人の前でイエス様を知らないと言う人はイエス様も神様の前で、そんな者は知らないと言います。

第三に、自分のいのちを失う者になりなさい(34-39)

34節をご覧ください。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」と言われるイエス様は矛盾しているように見えます。ここに「ために来た」と訳されているのは、意図・目的を表わす意味ではなく、来た結果としてそのようになったことを言います。剣は神のことばが人間の内部を刺し通すように、イエス様のことばも人間社会の内部、家族関係を刺し通す結果となります。イエス様の前には中立状態は存在しえないので、「平和の君」として来られた方は、受け入れられない時、受け入れる者との間をさく剣となります。したがって、イエス様の言われることは矛盾していません。38、39節をご一緒に読んでみましょう。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」使徒となる条件は十字架によって表わされます。十字架を避けて、「自分のいのちを自分のものとした者」、すなわち「迫害に屈して信仰を否み、あるいはこの世に妥協して自分のいのちを救った者」は真の永遠のいのちを失います。その反対にキリストへの忠誠のゆえに自分のいのちを失った者は真のいのちを自分のものとします。これは信仰の奥義であり、信仰生活の原理です。実際生活でも自己を捨てる人が人間関係の中でも相手の愛と信頼を得ることができます。

イエス様は結論的に福音を宣べ伝える弟子達がどれほど尊い存在であるかを言われます。40-42節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」ユダヤ人にとって使者を受け入れることは、その使者の主人を受け入れることでした。同じ理由で、イエス様を受け入れる者は、父なる神様を受け入れるのです。使徒たちへのもてなしは、それ自体使徒達への報いとなり、そして、もてなす者を神様は報いてくださいます。イエス様の弟子達は天の御国の福音を持っている者であり、救いの鍵を持っている者です。神様から遣わされた全権大使であり、平和の使者です。弟子達がこの世で受ける苦しみは将来彼らに与えられる栄光に比べれば取るに足りないものです。私達がイエス様の弟子としての使命を忠実に果たすことができるように祈ります。蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであるように、恐れないで神様に頼るように、自分のいのちを失う者になるように祈ります。